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                 覚 慈

 月闇の帳に浮かぶ肉塊の体表に走る無数のひび割れが一斉に殻となって剥がれ落ちた。破片の落ちた中から現れる、姿の大半を構成していた『魔』と言う名の泥。覚瑜の放った法力によって結合のことごとくを解かれたそれは刀を突き立てた姿のまま、其の一部始終を見守る覚瑜の目の前で見る間に形を失おうとしていた。

 覚瑜の足場が融けて体が泥の中に沈んでいく。だがそれでも覚瑜は其の刀を抜こうとはしなかった。刀の先にある者を確かめる為に、そこに留まろうと決意する。

 まなじりを見開いたまま、泥に埋もれる事を歯牙にも掛けずに飲み込まれる覚瑜。彼には分かっていた。この泥が二度と現世で凄惨な物に変わる事は無いであろう事を。そして、この戦いが終わった事を。

 泥の沼を沈み続けて足が地面を捉える。体の周囲を取り巻く泥が流れ落ちていくのが分かる。そうして覚瑜は泥で塞がれた視界の先に目を凝らした。手にした刃の光も映さぬ濃密な闇の中で、この後に確かに現れるであろうかつての友の姿を求める。

 大地に遅滞無く吸い込まれる泥が見る見る内に肉塊の嵩を減らし続けて、覚瑜の頭部が再び月光の中に浮かび上がった。連られて両肩が、晒しを巻いた胸が、両の二の腕が。地面を縫い付ける左手と独鈷杵と伸びる刃が、一滴の泥も纏わずに現れる。

 やがて数多の命を喰らい続けた黒い肉塊は、其の体の全てを失って大地の中へと消えていった。後には覚瑜と、刀の刃に胸を貫かれて横たわる、ずたずたの僧衣を身に纏った男だけが残される。

 光の刃が音も無く其の男の胸から消えた。

「修平 …… 」

 側に支えの力を失って跪く。うな垂れて、重心を失って傾く上半身を辛うじて地面を叩きつける拳が支えた。胸に迫る万感の思いを口にする事も出来ず、震える歯と腕が其れに取って代わる。それは過酷な試練に耐え続けて此処に到った自分の体内から発せられる熱のせいでは、確実に無かった。

 上体を支える左の手首がひやりとしたのは茫漠ぼうばくの時を過ごした後だった。横たわる覚慈の体を見下ろしていた視線が其処へと移る。それは今確かに自分が止めを刺した筈の覚慈の手だった。

「 …… 修、平 ……? 」

 気のせいだと思った。だが其の手に僅かな力が篭った時、覚瑜の心は無念の淵から引き戻された。慌てて手の中の独鈷杵を手放し、其の手を確かめる様に握り締める。

「修平、おいっ、修平っ! 」

 顔を見下ろして叫ぶ覚瑜の声に、僅かに両の瞼が反応する。やがて薄闇の中を照らす蒼光を跳ね返して、覚慈の両目がまどろむ様に開かれた。水晶体を侵食しつつある瞳孔が微かに動いて、自分の死を看取ろうとする者の顔を見上げて、発声の為の全ての器官を失くした喉が吐息の強弱だけの掠れた声で言った。

「馬鹿野郎。自分を殺そうとする奴を助けようなどと、お前はやっぱり『甘ちゃん』だな …… 」

 弱弱しいが、確かに以前に聞いた事のある懐かしい物言いを聞いて破顔する。差し込む一筋の希望が覚慈の手に力を与える。莫逆の友と共に此処に帰還できた事を覚瑜は自分の信仰と、この戦いに力を貸して此の世を去った覚鑁に感謝した。

「それ以上喋るな、今手当てをするから。まだ、血を止める位の力は残っている。」

 覚慈の手を振り解いて薬師印を結ぼうとする。間髪をいれず、胸の前に翳された覚瑜の手首を覚慈の手が驚くほどの素早さで掴んだ。驚く覚瑜の顔を仰いで、覚慈はふるふると頭を振る。

「駄目だ、其の力は取って置け。それに …… 俺はもう助からん。」

「何を言っている!? 諦めるな、お前も一角ひとかどの法力僧だろう。出血さえ止める事が出来ればきっと助かる。だから大人しく ―― 」

 懇願する様に語る覚瑜の言葉を、手の中に組まれた薬師印を握り潰す事で遮る。再び其れを振り解こうとする覚瑜の力に十分に抗える程、その手には強い力が篭っていた。

「修平っ! 頼む、俺にお前を助けさせろっ! でないと、俺は。」

「無理、だったんだよ、『浩介』。俺が闇の力に飲み込まれてしまった時に、全ては決まった。俺はお前に討たれる事でしか、きっと此処から逃れる事が出来なかったんだ。だから、お前に討たれて、本望だ。」

「そんなっ! …… 」

「それにな。」そう言うと覚慈は僅かに微笑んで、胸の真ん中に開いた傷口に覚瑜の掌を押し当てた。

「お前は、確実に『決めた』んだろう? …… なら、間違い無い。それは俺が …… 相棒の俺が誰よりも一番良く知っている。それで、いい。」

 言葉を失う。心の中に『あの時』の光景が蘇る。だからお前は左手を俺に差し出したのか。自分がそこから抜け出せないと分かって、俺と言う存在に最期の望みを掛けたのか。差し出された手を拒んでまで。

 傷口から流れる物。覚慈の命が着実に流れ出ている事を感じる。それは冷たくて、どろどろとしていて。気付いた覚瑜がその変異にはっとして、覚慈の顔を見下ろした。その顔を穏やかに見詰める、覚慈の瞳。

「分かるか、これが …… 」

「こ、これは。」覚瑜の手が其処から静かに離れて、掌を月の光に翳す。人間の物とは違う、明らかに今しがた地面に吸い込まれて行ったのと同じ物がそこに張り付いていた。それはやはり他の物と同じ様に覚瑜の掌を跡形も無く滑り落ちて、足元の地面へと吸い込まれていく。

「そうだ、助けてくれようとしたお前には悪いが、俺はもう『法力僧』でも『人』でも無くなっているんだ。だから、お前の決めた術は俺にも有効に作用する。そして、多分 ―― 」

 覚慈の顔から穏やかな笑みが消えた。

「 ―― 座主様にも。」 

 ぽつりと言ったその言葉。聞き間違いかと我が耳を疑う覚瑜の耳朶じだに、覚慈の声が尚も流れ込んできた。其れはさっきよりも弱弱しく、次第にか細く。

「『退魔師 覚瑜』。時間が無いから良く聞け。 …… 俺に『傀儡の呪法』を施したのは、新義真言宗座主、赤塚明信。その人だ。」

 自分の五感を疑う気持ちごと耳の奥に捻じ込まれる覚慈の言葉。

「そして、お前を此処で殺す様に俺に命じたのも、座主様だ。」

「何故だ …… 何故、座主様が、俺を ……? 」

 覚瑜のその問い掛けには、応えない。覚瑜の顔を捉えている筈のその瞳も大方の光を失っていた。硝子玉の様な両目を覚瑜に向けて、覚慈は言った。

「それはお前が確かめるんだ、浩介。俺の代わりに。…… そして座主様を止めろ。それはお前にしか出来ない、お前の手でやらなければならない事だ。」

「俺、が ……? 」

 覚瑜の呟きに、無言で肯定の頷きを返す覚慈。

「無理だ。…… 修平、無理だよ。もう俺には何の力も無い。体も思う様には動かない。こんな俺が座主様に立ち向かった所でどうなると言うんだ? 例え俺を殺そうという理由を座主様に聞けたとしても、それから俺はどうすればいい? 」

「それでも、お前は行かなければならない。」

“守る、と決めたのじゃろう? ”

 覚慈の声に被せられて覚瑜に届く、その声。思わず天を仰いで叫ぶ。

「上人様っ!? 」

 その声が覚慈にも届いたのか。力の無い微笑で口の端が微妙に上がる。

「さあ、もう行け。俺にも『巫女』様にも、それほど時間は残って無い筈。…… お前なら、きっと …… 」

 苦しげな呼吸と重なって、その先を何と言ったのか聞こえない。覚慈の声が途絶えたのがその切っ掛けだった。体の輪郭が失われて融け始める。形を失ったその手に触れた覚瑜には掬う事すら許されなかった。自分が葬った肉塊の肉体と同じ様に、覚慈の体が全てを掏り抜けて地面へと吸い込まれていく。

 目の前で無くなる覚慈の傍でその光景をじっと見下ろす、覚瑜。離別わかれの言葉を懸命に捜す心はそこから解き放たれる事無く、時間だけが無為に流れる。

「先に行っててくれ、修平。…… 俺も直ぐ行く。」

 やっとの思いで探し当てた、余りにも陳腐な言葉。吐露とろした覚瑜の声に、ほんの一拍の間を置いて、覚慈が応えた。

「 …… しばらく、来るんじゃねえ、馬鹿野郎。お前のお守りは、もう、飽き …… た。」

 悪態を吐かれて思わず笑う。其処にある者は既にその面に月の姿を映し出す、泥溜まりと化していた。其れすらもが綿に吸い込まれる水の勢いでその面積を縮めてゆく。

 最期の泥が地面へと消え去る瞬間に、覚瑜は確かに耳にした。覚慈の最期の言葉。

“ …… ああ、一回でいいから、お前に、勝ちたかったな …… ”

 

 何事も無かったかの様にその姿を月明かりに浮かび上がらせる、友が今まで横たわっていた筈の地面。跪いたまま動かない影が、突如としてその手を地面に叩きつける。衝撃音が彼以外、誰もいなくなってしまった林の中に木霊した。

 緩やかな動作で立ち上がるその影。それは蒼い世界の中をよろめきながら、だが確かな足取りで歩き出した。


 血塗れた白の法衣の一角が突如として炎を上げて燃え上がった。渦を巻いて吹き荒れる黒い霧に混じって、肉の焼ける嫌な匂いが大師堂に立ち篭る。その異変に松長と峰英は、はっと目を見開いてお互いに顔を見合わせ、当の赤塚は其れの意味する事を知って驚愕の表情を浮べた。自分の体に纏わり付くその炎を見下ろす。

「何と言う事だ。 …… 覚慈が、敗れるとは。」

『傀儡の呪法』の為に覚慈の体から抜き取った舌と声帯。他の八個とは異なった真言を唱えていた其れは、拘束の為に施された不動明王真言火炎呪によって炎上した。即ちそれはその傀儡の消滅を意味している。

 赤塚が呟いた言葉と僅かに見せた動揺。その隙を、対峙した峰英が見逃す筈が無かった。音も無く床を滑るその体が赤塚の周囲で渦巻く霧を突き破り、一瞬にして間合いを取る。

ったっ! 」

 叫びと共に繰り出された刀が炎の光に煌いて、驚愕の表情を浮べたままの赤塚。剥き出しのその首に迫る。ざくりと食い込む刃。手応えを感じた峰英の右手がそのまま大きく薙ぎ払われた。

 切断される赤塚の頭部。迸る返り血を浴びる事無くその場を駆け抜ける峰英。斬撃の勢いで弾け飛んだ生首が弧を描いた後にどん、と音を立てて大師堂の白木の床に転がった。

「殺ったかっ!? 」

 黒い霧の先、定かではない視界の中に見え隠れするその光景に思わず声を上げる松長。だが、その自分の判断がすぐさま間違いである事に気付く。気付かされてしまう。

 命脈を絶てば消え去るであろう黒い霧が。根来寺の周りに満たされた黒い海が変らぬ存在を誇示する。いや、何より首を落とされた筈の赤塚の胴体が、力を失う事無く霧の向こうで立ち尽くしている。

「勝ったつもりか、それで。」

 不気味に響くその声は、床に転がる生首から。身構える峰英を尻目に徐に動き出した胴体が其処に歩み寄り、床に転がる『首の形をした物』を取り上げる。小脇に抱えて、振り向く。

 その光景は峰英が今迄に経験したどの退魔行よりも凄惨かつ信じられない光景だ。首が、嘲っている。緊張と恐怖と、無力感が峰英を襲う。それはどんな物理的な攻撃よりも確実で効果のある、赤塚が繰り出し続ける攻撃だった。峰英の精神に着実に刻まれるダメージ。

 其れを見て取った赤塚が、勝ち誇った様に峰英に言った。

「無駄だ、と言っておるのが分からんか、峰英。主の攻撃はこの儂には通じん。儂だけに及ばず、主らの攻撃は闇に組する全ての存在に無効なのじゃ。例え御山全部が掛かって来た所で儂らを滅するのは容易ではないぞ? 主らご自慢の退魔師どもも相当の被害を受ける筈。」

 両手が動いて抱えた首を元の位置へと据え置く。途端に二つの切り口から触手が伸び出して絡み付き、切断された筈の赤塚の二つのパーツを元通りの形へと復元した。其の据わりを確かめる様に一、二度頭を左右に振って、再び目の前で盾を構える峰英を睨む。

 目の前で起こっている事、それ全てが真実。敗北と言う二文字が死のあぎとを伴って背後から迫る。だが、峰英は赤塚の嘘を一つだけ見抜いていた。其れはか細く垂らされた蜘蛛の糸にしか過ぎないが。

「しかし、覚慈は敗れたっ! 貴様が用意周到に準備し、封じ込めた死地の中で覚瑜は勝ったのだ。 ―― と言う事はっ! 」

 蜘蛛の糸でも掴んでみせると。例え其れを手にするのが自分ではなくても。構えに力が篭る。

「貴様を滅する事ができると言う事! 貴様らに対抗する事が我らの力でも出来ると言う事だ! 妄言ねいげんにて我らをたぶらかそうとしてもそうはいかん! 」

「そうだな、確かに覚慈は敗れた様だ。認めよう。だが ―― 」

 空洞に見える赤塚の両目の奥に明らかに何かが棲み付いた。吸い込まれる様に深く、果てし無い。それは闇へと通じる洞。

「覚慈を斃した其の力が『人』の力だと、何故分かる? 奴は既に其の力を解放してしまったのかも知れんぞ。儂の封印を何らかの形で破って。」

 赤塚に指摘されるまでも無く、其の危惧が二人にはある。串刺しにされても、腹を割かれても、首を落とされても尚存在し続ける、化け物と化した赤塚。図る材料が其れしかないとしても、今まで大勢の同胞を無残に屠ってきた覚慈が彼の者より劣るとは思えない。立たされた窮地は双方共に同様の筈。

 だが覚瑜はその窮地を脱している。例えそれが、赤塚の言う様に『覚瑜の心に潜む者』が為しえた事だとしても ――

「だとしても、貴様らは不死身ではない。其の事を奴は証明して見せたのだ。それはつまり、貴様にも当てはまると言う事。」

「ふむ。流石は老いても退魔師と言う所か。お主の言う通り、儂らとて不死身ではない。偶然にしてもあの男は其れを見破ったと言う事じゃ。…… じゃがな。」

 其の顔に張り付く悪鬼の表情。赤塚の足元の泥がその動きを活性化した。

「それと奴の生存とは別問題じゃ。恐らくは覚慈と刺し違えておるに違いない。…… お主の言葉をそのまま返してやろう。『それは貴様にも当てはまると言う事』じゃ。」

 赤塚の足元から再び黒い槍が繰り出される。


 その会話の時間が峰英には必要だった。作戦を考える時間が。確かに覚瑜は、不可能とも思えた闇の物を屠る事に成功した。だがその手段を知る事は出来ない。と言う事は、今赤塚と対峙している峰英自身がその偶然を探り当てなければならないと言う事。

 論外だ。偶然を探り当てる偶然など、確率は奇跡以下の小数点になるだろう。そんな物に頼っている暇は無い。

 その事実に希望を見出す振りをして、赤塚を挑発して時間を稼ぐ。

 切り口を変えよう。何故奴は根来寺を壊滅する様な真似をした? 何故、覚瑜と覚慈を閉じ込めた? それはこの法要に参加した全ての者を外部に逃げ出さない様にする為。抵抗される事を恐れた為。

 逃がしたり、抵抗されると何が困る? これだけの力の持ち主だ。認めたくは無いが、逃亡した関係者の知らせで駆け付けた御山の法力僧が総出で掛かっても、討ち取る事は至難の業だろう。仮に討ち取れたとしても ―― 現に覚瑜はそれを為す事が出来た ―― 奴の言う『弱点』を見出すまでには相当の時間が ――

 一つの単語が峰英の思考の淵に引っかかった。

 ―― 待てよ、『時間』…… そうか、『時間』か!

 目前に迫る黒い槍。盾に触れた途端に発動する纏絲勁。リプレイの景色の中を跳ぶ峰英の体。間合いに飛び込んだ刀が瞬時に赤塚の左腕を根元から切り飛ばした。その光景を表情も変えずに見送る赤塚の眼窩。

「諦めの悪い奴じゃ。無駄だと何度言ったら ―― 」

 だが其処に映った峰英の体勢が今までと違っていた。残心では無く蜻蛉を切る峰英の体。宙を飛ぶ赤塚の左腕をその踵に引っ掛けて着地する。床に投げ出されたその腕を着地の足で踏みつけて、傍に転がっている錫杖の先でその場に縫い付ける。

 床に縫い付けられて碗く、自分の左腕を見た赤塚の表情が僅かに曇りを見せた。

「やはり、そうか。赤塚。」

 その表情を見て哂う峰英。左手の盾が消滅する。替わって手の中に具現化する物。十二本の鋭い棘を周囲に巡らした車輪、『輪宝りんぽう』。

「『摩利支の巫女』が現れたのが遅かった事が仇になった様だな、赤塚。…… 貴様が法力を唱えられる様に体を保ち、その能力を維持していられるのは日の出までと言う事だ。日の光を浴びればこの根来寺を襲っている『魔の海』も、そして貴様も含めて全ての『闇』が消え去ってしまう。だから貴様は此処で一気に片を付けようとしている。そうだな? 」

「 …… 貴様を侮っていた様だな。儂とした事が、お主との会話に気を取られておったわ。そうじゃ、峰英。お主の言う通り、一旦姿を晒してしまった儂らが活動できるのは夜の間だけ。日の光を浴びてしまえば、存在もろとも藻屑と化す。」

 峰英を睨む赤塚。余裕の無くなった表情と膨れ上がる闇のオーラ。足元の泥がパチパチと赤い電撃を放つ。

「それを知られたからには、遊びは終わりじゃ。 …… 日の出まで後二時間ほど。お主らを殺した後にもやる事が山ほどあるのでな。ここいらでけりをつけさせて貰うとしようか。」

「奇遇だな。俺もそう考えていた。」

 峰英が視界の端で松長に目配せする。其れを受けて小さく頷く松長を確認して。

 輪宝の軸受けに手を通す。法力を受けて最初は緩やかに、次第に回転を早める。金色の光の輪となった其れを体の脇に構えて、峰英の体が沈んだ。

 再び繰り出された黒い槍。盾を輪宝に持ち替えた今の峰英に其れを受ける術は無い。高速で回転する輪のスポークを掻い潜れる様に細く寄り合わされた黒い槍が ―― とげと言ってもいい ―― 無数に伸びていく。其れを放った赤塚は峰英が輪宝で攻撃を受けるものだと信じて。

 その油断と隙。黒い槍と同時に峰英の左手から放たれた輪宝。二人の攻撃は互いの距離を一瞬に縮め、火花を散してすれ違う。虚を衝かれた赤塚の反応がその分遅れた。下半身を目掛けて跳んできた輪宝は、一瞬にして赤塚の両足をその接触面から切断した。もんどりうって倒れる赤塚の体。

 同時に黒い槍は峰英の体を蜂の巣にしようと直近にまで迫る、その瞬間。峰英の刀が一閃して体の中央に迫り来る槍だけを斬り飛ばした。

 残った槍が峰英の手足に突き刺さる。峰英の右手の刀が休む事無く、再び闇に煌く。突進の勢いを止める事の出来なかった数十本の棘を体に残しつつ、峰英はその向こうに横たわる目標へと駆け寄った。

 鳩尾みぞおちに刀を突き立てる。衝撃で跳ねる赤塚の体。自らの体に突き立てられた棘と同様に、突進の勢いを殺せないのは峰英の足も同じだった。赤塚の体の切り口から振り撒かれた泥に足を滑らせて、虚空に向けて叫ぶ。

「猊下っ!! 」

 声と同時に大師堂に蒼白い電撃が走り、赤塚を直撃した。堂の対角、密やかな暗がりの中で雷帝印を結ぶ松長の姿。仕掛けた術は、雷帝縛鎖。


 そこで、覚瑜の足が止まった。足元に転がる髑髏しゃれこうべ。地に砕けて歪になった其れを静かに拾い上げて手の中に収める。覚瑜の頭の中に、聞き慣れたあの声が響いた。

“なんじゃ、気付いておったのか。”

 それは紛れも無く、失ったと思った開祖・覚鑁の声だった。そのぶっきら棒な口調を耳にして、思わず笑みを零す覚瑜。眼下の髑髏に話し掛ける。

「お手数をお掛け致しました。上人様。…… 何とか怨敵を昇華せしめる事が出来ました。お力をお貸し戴き、ありがとう御座います。」

“怨敵、か。友をその様に表現せねばならぬとは、悲しい事じゃな。”

 失った悲しみを言葉で誤魔化そうとする覚瑜を諭す様に、覚鑁は言った。覚鑁の言葉で抉られた傷は深く、大きい。だが自分は其れと向き合わねばならないのだとも思う。覚慈が、『修平』が残していった言葉。痛みと共に置いて逝ったその願い。

“で、この後、お主はどうするつもりじゃ? ”

 覚鑁に尋ねられた覚瑜は、決意に満ちた表情で西の空に傾きかけた月を見上げた。

「 …… 上人様を御廟に納めた後、『巫女』の元に向かおうと思います。」

“自殺行為じゃな。意味を分かって言っておるのか? ”

 再びの覚鑁の問い。だが覚瑜には答えられない。観自在菩薩十五尊絶界陣の構築に最初から携わっていた覚瑜には、『絶対防御』がどういう物かを十分に承知している。結界を構成する『傀儡』は全てその内側に配置されていて、外部からの如何なる攻撃も寄せ付けない。だからこそ『絶対』。それを破ろうとするには、冗談ではなく真に『神』の力が必要だ。

 八人の、その結界術のみにに特化した『人』である事を否定された法力僧が構築したそれを、力を殆ど失った自分がどうして破る事が出来よう?

 破れるとしたら、それは ―― 八体の傀儡の内の一体でも無効化 ―― 方法など知らない ―― 出来れば結界は崩壊する。生き残った左手を犠牲にして、観自在菩薩よりも上位に位置する神仏の真言を結界の中に手を差し込んで傀儡に流し込めれば、結界の構成自体を潰す事が出来るかも知れない。

 だが、それが出来たとしてその後は? 結界障壁に破壊された左腕と、動かぬ右手一本でどうやって座主様に立ち向かうと言うのだ?

 その迷いは否定できる。何故なら今日、此処で起こった悲劇。その中で何度も直面した危機。そして何度も繰り返した自問自答。

 答えの出ぬままに飛び込んだ絶望的な戦いの末、自分は此処で今も生きている。其れが事実であり、根拠。

『お前は行かなければならない』と。息を引き取る間際に残した我が半身の言葉。躊躇う自分の背中を押す遺言が、事実であり、根拠。

 魔に堕落した座主様を止めなければならない。恐らく今も戦い続けている自分の仲間を助けなければならない。そして、

 『摩利支の巫女』を守らなければならない。

 それが、自分の辿り付いた答え。それは確かに自分の残した『言霊』。命有る限り『摩利支の巫女』を守るという。


「恐れていても、何も始まりません。それに自分が為さねばならない事があるのなら、きっと其処に辿り付く様に運命は導かれている。 …… 今はそんな気がするのです。」

 覚瑜の言葉を受けて、暫くの沈黙の後に吐かれる溜息。呆れたと、予想通りだと言う様な声音で覚鑁が言った。

“お主の妄想も相当なもんじゃな、全く。 …… こんな馬鹿の何処が御気に召したのやら。儂にはさっぱりじゃ。”

 毒づく覚鑁の声に、申し訳ないと言わんばかりに苦笑する覚瑜。歩みは奥の院へ。だがその足は覚鑁の言葉によって止められた。

“待て。そっちではない。”

 自分が地形を見失ったのかと思い、思わず辺りを見回す。覚慈との戦いで荒廃した林の真っ只中に立つ覚瑜ではあったが、そのせいで前よりは遥かに遠くを見通せる。視線の先に奥の院の ―― あばら屋と化していたが ―― 姿を認めて、体は確かに其処に正対している。

「上人様、間違ってはおりません。この先に御廟が ―― 」

 頭の中に、チッという舌打ちが聞こえた。

“戯け。主の妄想に今暫く付き合ってやろうと言うておる。物分りが悪いのも大概にせい。”

「そ、そんなっ!」

 覚鑁のその提案は覚瑜を動揺させるのには十分だった。思わず手の中の髑髏を取り落としそうになる。手の中で踊る其れを収めて目の前の地面にそっと置く。

“主、手荒く扱うな。これ以上壊れたら如何にするつもりぞ? ”

 思わず平伏ひれふす。傍から見れば危険な宗教儀式の様だ、と思いながらも覚瑜はその申し出を全力で断った。

「今迄の上人様のお力添え、この覚瑜誠に持って身に余る光栄と存じております。しかし、我が開祖の御神体をこの様な無残な物にしてしまった咎は甘んじて受ける所存。ましてやこれ以上上人様のお力やお知恵を拝借する訳には参りません。上人様に置かれましては速やかに御廟へとお戻り戴いて、後々の我らの後達の為にお力を蓄えて頂きとう御座います。」

“ふん。その、端から自分の命を諦めている物言いが気に食わん、何を戯けた事を。儂の体をこの様に傷物にしておいて自分は知らぬ振りか? 甘えた事を申すでない。責任を取れ、責任を。”

「せ、責任 ……? 」

“そうじゃ、阿呆。”

 憤懣ふんまんる方無いといった風情が、その口調からも聞き取れる。尚もまくし立てる覚鑁。

“ええか? 良く考えてみよ。この地の闇は儂と主の力で浄化する事が出来た。―― 勘違いするでないぞ? 『儂』、と主じゃ。封印の必要の無くなったこの場所に、主は儂をポツンと置き去りにしようとしておる。主の言い方を借りれば『お力添えをして頂いた』命の恩人とも言うべき者が、ましてや開祖が『同行させてくれ』と懇願しておるのに、そんなか弱き年寄りのささやかな願いすら聞き届けぬ主の、その態度はどうよ? 一丁前の僧侶たる前に、人としてその行いは如何な物か、と尋ねておるんじゃ。”

『か弱き年寄り』と自分を揶揄やゆする、覚瑜が敬愛して止まない開祖の怒鳴り声。返答に窮して唖然と髑髏を見詰める。

“全く、暫く見ん内に世知辛い世の中になったもんじゃ。人の腹の中は掻き回す、寝ている所を叩き起こす。起き抜けに喧嘩はさせる、挙句に要らなくなったら、ポイか? おお、何と無常な世の中になったものよ。そういえばあの時、幼い稚児ややこを抱えて寺に相談に来た女子が言っておったが、男という者は犯ってしまったら興味が失せる者なのか? まっこと目から鱗が落ちる思いじゃわ。九百年たってやっとあの女子の心境が理解出来た。ぬ・し・のおかげでな。”

「い、いや、あの。上人様 …… 決してその様な ―― 」

“やっかましいっっ! 儂が連れて行けと言うとるんじゃ、素直に連れて行かんかっ! この唐変木とうへんぼく朴念仁(ぼくねんじん)がっ! ”

 『気が利かない』と言う意味の言葉を二つ重ねての一喝。その声に弾かれて上体を起こす覚瑜。再び平伏すると自らの怒りでカタカタと動き出しかねないその髑髏を静かに手に取り、立ち上がった。

“全く。此処まで怒ったのは久しぶりじゃ。顎があったら外れとるわい。”

 永遠に失われてしまった顎を惜しんでか、否か。恐縮して掛ける言葉も無い覚瑜の脳裏に、

“それにの。”

 今までとは打って変った寂寥とした覚鑁の声が響いた。

“ …… 此処ももうじき寂びしゅうなる。木々のしとねを枕に、小鳥のさえずりを子守唄に聞く事も、もうあるまい。この地で儂に出来る事は、もう無いんじゃ。”

「 …… 申し訳有りません。拙僧の力が今少し及んでいれば、こんな事には ―― 」

“いや、主はよくやった。それだけは褒めてやろう。”

 覚瑜の自省の言葉を遮る、覚鑁の声。無念と、慈愛と、憐憫に満ちた開祖の声。

“良いか、覚瑜。今此処にこうして主が立っている事。それは主が思っている様な曖昧模糊とした物ではない。れっきとした主の『力』に相違無いのじゃ。”

「拙僧の、力 …… 」

 覚鑁の言葉に、自分の声が翳るのが分かる。自分の力。それは窮地の際に二度に渡って自分の中から這い出して来た『自分では無い者』の力も含めて?

“そうじゃ。”

 その言葉が自分の声に対しての答なのか、自分の思い ―― 恐怖に近い ―― に対しての答えなのかは図りかねた。

“『力』とは運命等といった総ての物をひっくるめた総称じゃ。単純に分けて考えられる物では無い。主がこの先如何なる苦境に陥ろうとも、主が求めるその先に辿り付く事が出来たとしたら、それは総て必然。其処に起こる偶然も奇跡も、それは主の持つ『力』なのじゃ。”

「では、拙僧がもし『摩利支の巫女』の元へと辿り着けるとしたら、それも拙僧の『力』の為せる業だと? 」

“運命等に身を委ねるな。その様な考えでは到底あそこには届かんぞ? 自分を信じる事。これ即ち『信心』じゃ。主が今立っている所は絶望の門への道行きでは無い。そういう入り口の前に身を置いていると言う事を忘れるな。”

 覚鑁のその言葉は、色々な意味で覚瑜の心の中にずっしりとした重みを持って圧し掛かった。

 此処に生きて立っている事を自分の力だと評価してくれた事には、素直に嬉しいと思う。だが、アレは? 二度に渡って自分の中から這い出して、自分の体を使って躊躇いも無く殺生を繰り返した『覚瑜でない者』。あの存在をも自分は認めなくてはならないという事なのか?

 無慈悲で容赦の無い剣舞を目の当たりにして襲ってきた、快感の波。心の中に今も潜む其れを認める事の恐怖。呑まれてしまえば再び戻る事の出来ない世界と同調してしまったら、此処にいる『覚瑜』という者はどうなってしまうのだろう? それでも尚、『神仏』に向かい合う事が出来るのだろうか。心に何の曇りも無く。

“何をぐずぐずしておる。 さっさと行くぞ? その前に、その形では寒かろう。儂の袈裟でも羽織って行くが良い。”

 覚鑁の声が深い思考の淀みから覚瑜の意識を引き摺り挙げた。足元に残された、宗派最高位に位置する『座主』のみに着用を許された白い大袈裟を拾い上げて、剥き出しになった肩に羽織った。ざっと土を掻いて踵が変わる。向かう先は大師堂に続く参道、結界障壁の手前。

 林全体に立ち込めていた魔疽の霧が消滅してすっかり静けさを取り戻した奥の院の林。其処にある生者は覚瑜ただ独り。月の光にモザイクを織り成すその影が、その不安を振り払おうとする覚瑜の心を蜘蛛の巣に張られた糸で絡め採ろうとしている様に見えた。

 そして、それは月の力を借りて天空に刻まれたひびから漏れ出した、神々の『予言』。

 

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