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                 覚 醒

 背中を地面に叩きつけられた衝撃で、息が詰まる。全身を走る痺れも省みず、覚瑜はうつ伏せになって思わず咳き込んだ。

 吐き出される稀少な空気と自分の血。足りなくなった物の片方を咳の合間に取り込んで少しづつ呼吸の回復に努める。上下する横隔膜が活動限界を超えて痙攣を始めた。不規則な活動を余儀無くされたそれらは、覚瑜の生命活動に猛烈な抗議をし始めている。

 だが覚瑜の思考は既に別の次元へと跳んでいる。この状況に到る一瞬前の光景が脳裏を駆ける。あれは確かに人面疽だった。上人様の術中に在って決して動かない筈のそれが、何故自分の前にいた?

 感覚が痺れている事をいい事に、覚瑜は何事も無かったかの様にその体を起こして左手の太刀を構えた。無論肉体の機能と神経の水面下では中止と続行のせめぎ合いが続いている。だが、中止は有り得ない。頭痛を伴って鳴り響く警報を捻じ切る様に無視して覚瑜は、太刀を構えた先の暗闇を凝視した。

 眩む視界でも其れの存在ははっきりと解る。その場に満ちた瘴気を掻き乱して暴れる、覚瑜を幾度も窮地に陥れた人の顔を貼り付けた大蛇。覚瑜の進攻を阻止したその一本だけが拘束から解き放たれて、月明かりにその威容を浮べている。

 だが其れが完全な状態に無い事はその動きで解る。法力の匂いを嗅ぎ分けて対象を見つける事が出来ないのだ。確かな手ごたえを感じながらもその行く先を見失った双眸を闇に振り翳しながら、大蛇は虚空を彷徨っていた。しかし。

「術が、解けかけている。」

 不用意に漏らしてしまったその呟きに反応する大蛇。不規則に動き回っていたその頭がピタリと空中で静止し、次いでその顔を声の主に向ける。両目に光る鬼火が、刀を構えたままでひざまずく覚瑜の姿をめ下ろす。

 何のモーションも無く覚瑜目掛けて振り下ろされる大蛇の頸。摩疽の塊と言うあやふやな存在でありながら圧倒的な質量を誇る其れが、直下の覚瑜を叩き潰そうと有りっ丈の力を振り絞って、巨大なワイヤーの様に覚瑜に襲い掛かった。

 地響きと共に地面に接触する。濛々たる土煙を上げて横たわる膨大な肉の柱。その攻撃を辛うじて躱した覚瑜の姿がその中から現れた。空振りの一瞬の隙を突いて再度の跳躍を試みる。

「哈ァァァッッ!! 」

 気勢と共に跳ぶ体。投げ出されたままの大蛇の首の上で次の一歩を借りて、頸元目掛けて一気に飛び込む。辿り付くのももどかしく、手にした四尺の刀を全力で突き出す。それは突進の勢いを乗せたまま何の抵抗も無く、手首まで突き刺さった。その切っ先は間違い無く『印』に届いている。

 肉の中にめり込んだ左手に意識を集中する。戦闘機動の為に全身に分散させていた法力を掻き集め、血管、神経、リンパ腺、体を隈なく這い回る全ての伝達経路を駆使して左手に集める。輝きが肉を透かして外部に漏れ出して、周囲を白く染め上げた。

「 ! 昇 ―― 」

 撃鉄を起こす。集められた法力は刀の切っ先によってその照準を固定した。裂帛の気合が覚瑜の口から放たれようとした、その時。

 グリン、と。合気道の小手返しを掛けられた様に覚瑜の体の平衡へいこうが崩れた。首の上で踏ん張っていた筈の両足が宙に投げ出され、今まさに法力を放とうとした左手がその弾みで肉塊から、抜けた。

 手掛かりを失って再び地面に強かに叩き付けられる覚瑜。止まる呼吸と、代わって吐き出す苦痛の呻き。そこへ追い討ちを掛ける様に人面疽の顔が頭上から勢い良く迫る。

 掃き飛ばされた。転がる(タンブル)雑草ウィードの様に、何処までも転がって行く覚瑜の体。三半規管を伝わって脳までが縦横無尽に揺さぶられる。

 地と空を代わる代わるに掴む左手が何かの布に引っかかった。手にしたその感覚を頼りに、独鈷杵を力任せに突き立てる。尖った柄が地面を掻き毟って体は転回を止め、うつ伏せのままで地面を滑る。あくたの如き扱いを受けた覚瑜の体は自らが起こした土煙の中でようやく止まった。

 無防備な体に与えられたダメージは深刻だった。左手に集中したままの法力を再び全身へと戻す。だがそれでも痛みは止まらない。再三の警告に耳を貸そうとしなかった主に見切りをつけて、覚瑜の全身の機能は其処そこ彼処かしこでサボタ−ジュを始めている。

「くそっ! 此処まで来て …… 」

 廻る世界の中で覚瑜は呟く。まだ動けるのか、と全身に力を込める。幸いな事に両足と左手の末梢は辛うじて反応している。折れてはいない。内側はどうなっているのか解らない。知る事こそ恐ろしい。

 体を起こそうとする度にさっきとは違う痛みが覚瑜を襲った。その現実に愕然とする覚瑜。あばらがどうやら全損したらしい。呼吸の度に起こる胸の痛み。それが唯一無二の危惧材料となった。


 法力を練りこむ際に必要な事、其れは真言を唱える事ともう一つ。『調息』だ。

 安定した呼吸によって真言を唱える事によってその法力は安定した波動を保ち、自らの思いのままに使役する事が始めて可能になる。集中、分散、放射。攻防の為に費やされる法力を自分の意思で自由自在に使う事が出来なければ、直面する圧倒的な力に対抗する事は出来ないだろう。

 勿論厳しい修行によって、覚瑜ら『退魔行』をその任の一つに据える退魔師達は、全て無自覚無意識の内に普段の生活の中でも常に『調息』を行っている。だが、今は其れが難点だった。

 普段通りの呼吸が出来ないという事は、法力の練成に支障を来たすと言う事。痛みを抱えても其れが出来ない訳ではない。ただ、限られた時間の中で全身の法力を一点に集中させて放つという、煩雑且つ高度な技術を乱れた息のままで普段通りに行えるかどうか。

 だから、ぎりぎりまで防御用の法力だけは残してあったのだ。どんなにに傷ついても、どれだけ法力を費やしても、其れさえ出来れば残り少ない物でも遣り繰りして使う事が出来た。しかし如何に大量の法力を有していた所で『調息』が出来なくなれば、それは枯渇したも同然だ。小出しにしか出来ない力など修行僧のそれにも及ばない。

 一撃で決め切れなかった自分の愚かさにギリと歯を噛み鳴らしながら、震える思考で考えを巡らせる。治療に回す法力の余裕などある筈が無い。時間の猶予も無い。だとすればこの痛みを和らげるにはどうすればいい?。 肋骨が折れた時の応急処置。確かその方法は ―― 。

 その時、左手に纏わり付いたままの布に気が付いた。独鈷杵で地面ごと貫かれたままで投げ出された布。脳裏に閃く光と記憶。

「そうだ、これで。 」

 晒しの様に胴体を締め付けて、肋骨を固定すればいい。吸気によって拡張する腹膜が折れた患部を刺激して激痛を生むのだ。外的な圧迫によってその動きを抑制してやれば、少なくとも呼吸による痛みは軽減される筈。

 地面に突き立てられた刀を支点に、左腕に力を込めて這い擦り寄る。地面と同じ高さに広がる視界に、其処の物ではない純白が飛び込んできた。覚瑜の手がそれを刀の柄ごと握り締める。

 片足ずつ体の下を通して胸までゆっくりと引き付ける。それで少し呼吸が楽になった。胸に押し当てられた太股が肋骨を圧迫する事で患部が固定されたのだ。そのまま浅い呼吸を保ちながら少しずつ上体を起こした。それ以上折れた肋骨の位置を変えない様に、慎重に。

 正座の姿勢。痛む関節を駆使して上半身を肌蹴る。月の光に朧に浮かぶ覚瑜の肉体。日に当たらぬ為に色白な素肌に刻み付けられた無数の傷と痣、そしてどす黒く広がる内出血の痕。未だに止まらぬ出血と筋肉の痙攣。

 視野の回復に手間取る覚瑜の左手が地面に突き立てられた独鈷杵を手放して、其処に縫い付けられた白い布を掴んだ。その感触の滑らかさに驚く。絹だ。

 端を咥えて右手の脇から背中に回す。広い範囲で腹部を覆うその布は覚瑜の体をニ回転した後に、丁度覚瑜の臍の位置でその終端を迎えた。そのまま痛みを探りながら静かに力を加える。起毛の細かい絹糸で編まれた布が滑る様に覚瑜の胸部を締め上げた。

 しっかりと結んだ事を確認して、ゆっくりと深呼吸を試みる。押し当てた左の掌の下でゆっくりと動く腹筋。伸縮の少ない絹の布が、呼吸による肋骨の開放と痛みを見事に押さえ込んでいた。溜めた息をゆっくりと吐き出しながら目の前に突き立てられた独鈷杵に手を伸ばす。

 

 何故こんな物が此処に落ちている?

 呼吸と共に落ち着きを取り戻した覚瑜の心にある疑問が浮かんだ。独鈷杵を握る事を止め、再び胸から巻かれた白い布へと手を伸ばす。蒼い月の光に照らされたその布の光沢が、其れが上物の仕立てである事を思わせる。だが何故こんな物が此処にある。何故俺はこれを手にする事が出来たのだ?

 手触りを確かめながらゆっくりと立ち上がる。広範囲に加圧された腹部が下半身に力を与える。覚瑜が思っていたほどその行為には時間が掛からなかった。踏ん張る足にも力が入る。

 目の前に投げ出されたままの独鈷杵を拾い上げながら ―― 刃は手放した時に消えている ―― 一歩、二歩と。体中の挫滅した筋細胞から流れ込む『危ない物』を濾過ろかする為に全力運転を続ける腎臓。其れが発生させる大量の熱が、遂に覚瑜の体と意識を火照らせている。だが感覚は寒気に近い。カタカタと震えながら拾った独鈷杵から目を離して前を向く。

 幸か不幸か。覚瑜の視界に映るその光景は左程変わりが無い。薙ぎ倒された木々の隙間を縫って差し込む月の光が僅かに先程と違うのか。照らされる巨大な彫像と、敵の姿を求めて宙を彷徨う大蛇。振り出しに戻ってしまった自分の不遇に侮蔑の言葉を独りごちながら、再戦を果たすべくもう一歩を踏み出した。

 蒼白く、降る様に光が差し込むその場所。覚瑜が感じた僅かな違和感は光だけではなかった。揺れる視界がやっとの事でその焦点を取り戻して、輪郭をはっきり捉えたその場所。自分が大蛇の頸に叩き飛ばされて、滑りながら通り過ぎたその場所。

 綺羅らかに照らされて広がる白い砂。その上を守る様に広げられた白い法衣。覚瑜の見知った物。

 足が止まる。瞳孔が、口が開く。左手が思わず胸に伸びる。その布の感触。忘れていた、いや。何故思い出せなかったのか? これは去年の正御影供(しょうみえく)の法要の日に自分が上人様に着せた物ではなかったか!

 叫ぶ言葉を飲み込んで、体が駆けた。跪いて滑り込む覚瑜の眼下にある、砂と呼ぶには余りにも大粒な骨の欠片。動かす事の出来ない右手が勢いに釣られてその中に投げ出される。白の中に置かれた、黒く染まった自分の右手。それが『再び助ける事の出来なかった』自分の罪を象徴している様に感じてしまう。

 うな垂れて、無念の想いに飲み込まれながら自分の右手を見下ろす覚瑜の視界の端に、其れは飛び込んできた。敷石の如き骨の山。其処から僅かに離れて転がる、瘤の様な枝。

 求めて、地面を掻き荒らして這い寄る覚瑜の目に映る物、其れは両手の骨。幾つかの骨が欠落しながらも硬く組まれた、紛う事無き虚空蔵印。それが彼の奉戴し続けた開祖の、『覚鑁』という無双の僧侶が放った此の世で最期の術の証。

 震える手で触る、持ち上げる。だがそれはそんな僅かな力にも耐えかねてポロポロと、覚瑜の手の中から零れ堕ちていった。

 自分の信じていた者と『物』を喪なってしまったという虚無感が覚瑜の心を染め上げて、其れは形を変えて覚瑜の体から流れ出た。手の下でうずたかくなっていく白い瓦礫の小山。降り注ぐ水滴がその色を灰に変えていく。

「上人様ァァッッ!! 」

 全身を貫く痛みにも構わずに放たれる慟哭。湧き上がる怒り。詠唱を破棄して伸ばす四尺の光。気配を感じて振り上げる顔、失った舌を染める泥を迸らせて迫る怨嗟の顔。歓喜と報復の絶叫。喪なわれる視野。

  蘇る、狂気。


 常軌を逸した体の感覚を推し止める者が、無い。意識は『覚瑜』。だが其れを動かしている者が、見ている者が違う。覚瑜に向かって必殺の突撃を敢行してきた筈の人面疽が目前で停止している。違う、そう見えるだけだ。唯、自分の体内時計の秒針がおかしくなっているだけ。

 正座のまま其れに正対した覚瑜の体が動いた。骨盤の継ぎ目が締まって大腿骨の稼働域が広がる。右膝に力を込める、持ち上がる上半身、『きょ』から『発剣はっけん』への速やかな移行。体の動きに伴って持ち上げられる、右体側に置かれた左腕。四尺の刃が正確に大蛇の顎の下に置かれる。其れを支える為に下からかち上げられる右の肩。


 軌道が変わった。一瞬前まで目の前にあった獲物は姿を消した。替りに浮き上がる自分の体。想定した結果とは違う状況に陥った人面疽が、地面を滑りながらとぐろを巻いてその特異の根拠を探る。

 振り向いたその先に、立て膝で刀を支える人の姿。動きを止めた頸の下からゆっくりと離れると何の予備動作も声も上げずに、すっと立ち上がった。振り向かずに動く左手の刀の切っ先が、男の背後で突進の機会を図る人面疽の眉間目掛けて正確に突きつけられた。

 首が軋む様に動いて、その両目が人面疽の鬼火を射抜く。

 其処に佇む男の瞳の色。虹彩の黒と、新たに浮かび上がった緋が目まぐるしく入れ替わる。


 青眼に構えた刀の切っ先を中心に、大蛇の顔が大写しになる。だが今までの『覚瑜』の心境とは違う。其れを目の当たりにしても、恐怖が ―― 恐ろしい事に ―― 無い。

 そう、無いのだ、さっきから。全ての感情が無い。死の恐怖も、生への渇望も、後悔も恨みも。

 いや、ある。それは目の前に居る『これ』を斬りたいという、押さえ切れない欲望。それを止める自分が、そこには無い。

 標的が怠惰な動きを ―― 其れは現実には覚瑜に襲い掛かっている ―― 見せる。

 軌道が見える。その一瞬を境にして広がるあらゆる未来への到達点。白い光の祠が幾本も時間をなぞって覚瑜の体を、傍を通り抜ける。その一本を選んで通り抜ける為に、遅れて続く大蛇の姿。

 滑稽だ。刀の位置を左脇下段に置き換えて右開き足で躱す。交差する瞬間に大きく開かれた間抜けなその顎に刀を振り出す。

 何の抵抗も無く、刃が斬り進む感覚。手応えの無い手応えが覚瑜の脳を快感の海に誘う。


 ざっくりとその口を大きく切り開かれた大蛇が、砂塵の中を滑りながら悶える。二度とも指呼の間に獲物を捉えて置きながら、為す術も無く失敗した。自分が見ている者は幻なのか、陽炎なのか? 猜疑に塗れるその心を体の傷が否定する。

 釣り糸が巻き戻される様な勢いで、伸びに伸び切ったその首を慌てて縮める人面疽。濛々と立ち込める土埃が、辺りの景色をその中へと包み込む。その状況を好機と見て『その者』の遥か高みから狙いを定める。

 顎骨ごと切り裂かれた口は武器としての機能を果たさなくなっていた。だらしなく開いた口から滴る血液代わりの泥の匂いが自身の鼻をくすぐる。

 その眼下に存在する黒い影。白い煙の中に浮かぶ男の後姿。確認と始動はほぼ同時、躊躇無く襲い掛かる人面疽。

 今度こそ。


 背後から照らされる光は一本。その光に映し出される自分の影が、林の暗闇の中に長く伸びて行くのが見えるほどはっきりと。

 剥き出しになった聴覚が、外耳が、内耳が呼吸を捉える。空気の振動を鼓膜が、蝸牛かぎゅうが感知する。見ずとも解る、『其れ』との距離。六尺、五尺、四尺。

 今。

 動く両足。送り足から再び右開き。光の祠を僅かに外しながら左手の刀を逆手に持ち換える。導かれる様に差し出された刃に、間髪いれず到達する人面疽の無傷な顎。触った瞬間に大きく下がる左足、四股を割って旋回する腰骨。遅れて続く上半身。

 逆手に握った刀の柄を掴む左手が斬撃の衝撃で緩む。その刀を支える様に叩き付けられる、覚瑜の遅れて来た肉体。力を堰き止めた其れが一気にその顎を切り開く。

 大蛇の首が覚瑜を掠めて真っ直ぐに地面を滑る。其処から遂に分かたれた顎が、泥の飛沫が舞う地獄の中を転がり去ってゆく。


 自分の誇るべき物全てを奪い去られても、尚。大勢の人間の息の根を止めた槍代わりの舌は切り取られたまま取り戻せず、息絶えた人間を咀嚼したその顎はたった二回の攻撃で斬り飛ばされて失った。

 だが、それでも。

 その地に怨嗟を残して封じられた闇の集合体である大蛇。その攻撃衝動は彼らの心根深くで、DNAに書き込まれた本能の様に囁き続ける。『殺せ』と。

 手段は問わないが手筈が無い。だがそれでも奴を殺せ、と。その声は行動を決定付ける彼らの叫び。痛みを感じない筈の胴体を身震いさせて、残心の姿勢を採った覚瑜の側を、大蛇の首が最期の戦いを挑む為に戻ってゆく。

 それをただ何もせず、見送る『覚瑜の姿をした』者。巻かれた晒しを押さえる様に胴体に置かれた左腕を再び解いて、その刀を肩に担ぐ。恐らく其処に置かれるであろう大蛇の穢れた顔の位置。其処を見上げて。

 その位置に寸分違わず擡げられて納められる人面疽の頭部。永遠に無くした下顎から魔疽の滴を滴らせて見下ろす。鬼火が輝きを増して、蒼炎が目尻に溢れる。

「つまらんな。実につまらん、貴様は。」

 覚瑜の顔形をした、『覚瑜では無い者』が覚瑜の声で言った。肩に担いだ刀が緩慢に動いて、再び宙に浮かぶ人面の眉間へと切っ先を向ける。挑発する言葉と其の行為を受けて、大蛇の胴体に次の放出されるべき力が蓄えられていくのが解る。

 その事には意にも介せず、寧ろ楽しげに一連の動きを見詰める其の瞳。点滅する緋色が傾きかけた月より与えられる蒼光を弾いて、怪しげに其処に浮かび上がる。

「獲物を仕留めるのに何の工夫も、何の知恵も施そうとはしない貴様と死合うのは、もう飽きた。 …… 殺してやるから、掛かって来い。」

 覚瑜の顎がクイッと上がって、挑発する。

 それが最期の戦いの合図。全身に蓄えられた力を唯一点に、唯一つの目的の為に爆発させる大蛇。今までとは比較にならない程の神速で覚瑜目掛けて一直線に放たれる、断末魔の貌。

 

 それでこの程度か、と思う。少しは早く見えるがそれは歩みを覚えた赤子が母の姿を求めて、一刻も早く其処に辿り付こうとぎこちなく動く其の足を早めた、其の程度の差。

 

 人面疽の両の瞳にあっという間に広がる男の姿。一秒にも満たない刹那の時の流れを、永遠に感じるこの感覚は何故。殺戮さつりくに塗られた心の壁に広がる滲みの様な疑い。其の疑いは男の顔にある。

 哂っている。


 激突は必至、回避不可能な距離と時間が迫る。そこで始めて覚瑜の体が動いた。右足が前に踏み出されて猶予の無い時間を更に縮める。下半身の力が体を支える最小限の力を残して全て抜かれる。上半身と重力によって沈む姿勢。下腹部の奥に位置する深層筋『大腰筋』に力を加えて脊椎の末端にある『仙骨』を振り上げる。勢い良く倒れる上半身と沈む腰。

 驚異的な速さで展開する古武道の基本による肉体の連動。『立合たちあい』から『居』への姿勢変化は常人には見えない。霞の様な覚瑜の残像を大蛇の頭が捉えて通り過ぎる。

 体を支える両足に送り込まれた力は、体のバランスを崩さない程度の最小限に止められた。残りは全て『大腰筋』の伸縮に費やされている。その力を使って今度は胸骨を持ち上げる。其れは胸を張って天を付くような感覚に似ている。上向きに発生したベクトルが覚瑜の下半身を持ち上げる。

 後ろに置かれた左足の股関節を体幹へと寄せる。右肩が下がり、左肩が上がる。上体の向きは大蛇の軌道を交差して僅かに右を目指す。

 上体の立ち上がりと関節の駆動位置と重心の変化によって形成された姿勢を利用して、左手の刀を振り上げる。力は殆ど加えない。空間を滑らせる様な気持ちで。

 月光の中に白い光が滲む。一本の線であった刀の光がその瞬間、半月の形を空間に残して煌いた。


 刃の長さは四尺。その長さを遥かに超える大蛇の胴体の中に白の半月が吸い込まれて消えた。通過を印す白い線を其処に残したまま覚瑜の側を通り過ぎるそれが、自分の肉体に異変を感じたのはその直後だった。

 攻撃意欲も意思もまだ十分に残っている。渾身の一撃が外された事は手応えの無さから十分に理解した。またしても躱されたか、と思う。だがそれで萎えてしまうほど、大蛇の攻撃衝動は少なくは無かった。何故ならそれは本能に近い物であったから。

 方向を変えて再びの攻撃に移る事を決意する。その男を仕留めるまでは何度でも続ける。自分が繰り出す波状攻撃の間に一度でも隙が出来たなら、其の時こそが千載一遇のチャンス。後は叩き潰すのみ。不退転の決意を抱きしめて、自らの軌道を変える為に力を込める。

 しかし、大蛇の意に反してその軌道が変る事は無かった。ただ只管に、何処までも林の中を真直ぐに突き進もうとする自分の体。そうじゃない、俺が行きたいのはこっちではない。

 再びの命令を大蛇の胴体は無視した。焦燥が意識に芽生える。さっき潰した木乃伊ミイラにかけられた術を、再び何らかの形でこの男に決められたのか、とも思う。だがさっきとは何かが違う。

 あの術が決まった時は全く動く事が出来なかった。自分の意識が乗っ取られた様に自由を奪われた筈だ。そんな中で『自分』だけが行動の自由を得ているのは、ただ単に自分の直ぐ傍に『弱点』があったからに過ぎない。生存に対する本能と要求によってその部分だけが術の支配を抜け出して、敵に対する致命的な攻撃に備えていた。そしてその備えは現実的に有効な手段だった。

 相対してきた男は、如何なる手段を用いてか明らかにその弱点を知っていた。対処法まで。故に必ず殺さなければならない。秘密を知った者を此の侭生かして置く訳には行かない。

 だが、今自分の体は猛スピードで宙を飛んでいる。目の中に頂点を為して流れる周りの景色。これは一体どういう事なのだ?

 僅かな俯角で打ち出された大蛇の首。剥き出しになった地面に触れて、大蛇は自分の体に起こった変化を理解した。其処に残された五感の全てが薄れる。目も、耳も、間近に迫る地面を捉える肌の感覚も、全てが暗闇の中に吸い込まれていく。この感じは遥か以前に出会った事がある。

 それは自分達が逃げ惑いながら斬られた時に味わった、もう二度と受け入れる事の出来ない、その感じ。

 …… 大地の存在を途切れ途切れの五感の中で捉えた瞬間に、『彼ら』の意識は現世から断絶した。


 列車事故の様だった。大地を滑る大蛇の首に残る光の筋。そこから首の連結が解かれた。別パーツとなった前と後ろが折り重なり、行く手を阻む立木を薙ぎ倒して砂塵を上げて転がる。 其の惨状を振り返りもしない覚瑜の背後で、斬り飛ばされた大蛇の前半分が見る間に萎み始めて、その巨体を縮めてゆく。

 沈黙を取り戻した林の中で、残心の構えを解いた覚瑜が側に横たわったままの大蛇の首を一瞥した。口の中に溜まったアドレナリンをつばもろとも吐き出して、一足飛びに其の上へと飛び上がる。体の重みを感じさせない着地を終えて、瞳に浮かんでいた黒と緋の点滅のサイクルが長くなりつつある両の目を細め、其の先に静かに暝る肉の彫像を見上げた。

 刀を担いで其の上を首の根元に向かって歩き始める。無関心に、ぞんざいに。裏山の麓を上るかの様にすたすたと上っていく。あっという間に其の場所に到達してしまう。今までの事などまるで夢物語であったかの如く、あっけなく。

 足元にある穴を凝視する。そしておもむろに手にした刀を大上段に振り上げて、沈む体もろともそれを左の肘まで力任せに突き立てる。

 “俺は、斬る事にしか興味が無い。”

 成り行きをただ見詰める事しか出来なかった、傍観者である覚瑜の意識に『覚瑜でない者』はそう言い残して、緋色の瞳と共に消えた。


 体の自由を取り戻して、其の場所にただ独り。残された物は目指した場所に肘まで埋め込まれた自分の体。これは自分がやった事ではない。しかし、現に自分は此処にいる。

 考える時間が欲しかった。自分の代わりに大蛇と戦った『自分ではない者』と話がしたかった。そして知りたかった。それが一体何者であるかと言う事を。だが『覚瑜で無い者』は覚瑜に詰問の暇を与える事無く、自分の中の何処かへと消え失せてしまった。

 奥の院の手前の林の中で、無意識の内に何人もの仲間を ―― 既に人では無くなってはいたが ―― 切り伏せた後と同じ恐怖が覚瑜の心に蘇った。あの時は意識を失っていて、果たして自分が斬ったのかどうかを確認する事は出来なかった。だが今度は違う。自分の目の前で『自分ではない者』は鮮やかに刀を振るって見せたのだ。それも自分よりも遥かに上手く、見た事も習った事も無い技を使って。

 恐怖で起こる浅い呼吸が『調息』を乱しているのが分かる。法力を左手に集められない。肋骨に起こるであろう激痛も省みず、大きく深呼吸をする。目の奥で弾ける火花で脳まで焼き尽くされそうになって意識が遠ざかる。

 消えそうになる意識を触覚が引き戻す。深々と埋められた左手を締め付ける筋肉。其処から微塵も動かなくなった左腕に突き刺された侭、只管に『消滅』を待ち続ける者の意思を感じる。「二度と離すな」という。

 そうだ、

「二度と手離さない。そうだな、修平。」

 呟く言葉と共に収束していく法力。全身に振り分けられていた其れが再び左腕に。全身の血管とリンパ腺が力の通過に伴って光を放つ。服を肌蹴たままの上半身に浮かび上がる光の筋。其れが肩に集まり、肘を通って掌に満たされる。腕と肉の隙間から漏れる光が、血に汚れた覚瑜の顔を初めて薄闇の中に浮かび上がらせた。

「 …… 昇華。」

 其の呟きと共に顔を染めた光が消える。放たれた法力が刀身を通って黒き肉塊の中にある『印』を直撃した。砕ける『覚慈』の形をした金の像。クリスタルが壊れる様に輝きを放ちながら粉々になる。

 それはとうの昔に決定付けられた、ただ迎える事しか出来なかった、友との別れでもあった。

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