正 体
「 …… 彼の預言は全て的中した。寸分の違いも無く、だ。そして、」
赤塚の両膝が遂に立った。力を込めて踏ん張る毎に一本、また一本と床より解き放たれる錫杖と赤塚の体。血溜まりの中にぽっかりと空いた座面の後を新たな鮮血が満たして行く。
「儂が『日ノ本』の民の為に使われる事を願って作り上げた『観自在菩薩十五尊絶界陣』は、計り知れないほどの大勢の命を奪い、その命を取り巻く人々の絶望を此の世に生み出す存在を守る事に費やされる事となった。」
峰英と松長の前、立ったままで絶命した十二神将の彫像の柱の中で赤塚は立ち上がった。純白の法衣を朱に染める自らの血。それを覆い隠す様に赤塚の全身から黒い靄が立ち上る。途端に赤塚の体を今だ貫通したままの残りの錫杖が木っ端微塵に砕け散り、ばらばらと床に散らばった。
「儂の信仰は、あの日、あの時に終わったのじゃ。」
「では、お前はあの時から今日此処に至るまで、ずっと我らを謀って来たのかっ!? 何食わぬ顔をして座主の座に着き、自ら育て上げた覚慈を魔物に仕立て上げて長谷寺を襲わせ、僧侶達を弑虐し、そして。」
その後に続く言葉に秘められた純粋な怒りが松長の全身を駆け巡り、彼の体をわなわなと震わせる。
「 ―― よくも、よくも、紗絵を! 」
「此処に至らない道など、そう。機会など幾らでもあったのだ、松長。お前があの時、その子を手に掛けてさえいれば。」
何気無く放った赤塚の言葉が復讐の狂気に駆られる松長の心を抉った。沸き立つ血液がたちまち凍る程。
「先程言った筈だ。お前や月読が人の情などに囚われず、その子を『悪』として葬り去る事が出来たなら、ここに至る事は無かったのだ。『預言』は『予言』とは違う。神の代理がこの地上に下ろした言葉はあくまで『預ける』物だ。それに基づいて身の振り方を如何にするかは『預けられた』人の意思。つまり『天魔波旬』。彼が残した言葉も、月読が残した言葉も、その終着点を変える事は可能だったのだ。 …… お前が、月読がその運命に抗ってさえいれば。」
赤塚がふらりと動いた。生前の赤塚の喉を突き通したまま絶命した、眼前に立つ十二神将の一人の体を煩わしげに押し退ける。力無く崩れ落ちるその体が、赤塚と二人を隔てていた空間を開放して、その姿を大師堂の出口を背にした峰英と松長に晒した。
血塗れた白の法衣はその重みで自らの体に張り付いて、その内側に隠された九個の舌の在り処を露にしている。今だ真言を唱え続けるその舌が、まるで赤塚の血を求めて這い回る蛭の様に朱の法衣の下で蠢いていた。
「抗ってさえいれば。いや、違うな。抗ってくれと願った。お前達が抗ってくれたならば運命は変わった。彼が、月読が見た世界がその表情を変え、色を変えて違った道を歩み始めた筈だ。我らが守ろうとした、我らの先達が守り続けたこの『日ノ本』と言う国と民族が今と変わらぬ姿で存在し続け、世界は守られた。それがどんな形で、あっても、じゃ。」
「ただ一人の独裁者に支配された世界などに何の価値がある? 自由を奪われ、思想を奪われ、挙句に国を奪われ。貴様は日本の、世界の存続を願うと言う。だがそんな世界に国という独自性が有ると思うか? そんな物が存在する事を独裁者と人々から恐れられた者が、許すとでも思っているのか!? 」
「例え国が消滅したとて、人は残る。『天魔波旬』とて永遠ではない。人が恐怖するのは彼の存在ではなく、彼の持つ『神』に等しきその力。彼が此の世から解脱を果たす迄の百年足らずを耐え忍んで生き延びさえすれば、『日本人』としての復活は必ず果たせる。松長、『国』とは『其処に存在する』事ではなく『何処に存在するか』じゃ。どんなに虐げられたとしても同じ思想を共有する者が存在する限り、『人』は集まり、『集落』を為し、『国家』を形成する。それはこの地上のどんな場所でも良い。『日ノ本』の将来の幸せを我らが守らねばならんと言うのであれば、その責務を背負った我らがその可能性を摘み取ってしまう訳にはいかんのじゃ。」
「その様に飼い慣らされて得た人としての自由など、本当の自由ではないっ! それでは唯、喰らわれる為に生かされている家畜と同じではないか! 」
峰英が吼えた。踏み出した右足が大師堂の床を踏み抜かんばかりに叩きつけられ、其処から蒼白い魔方陣が展開する。
「貴様っ! 今の我らが如何なる道を歩んで此処にこうしている事を、魔道に身を堕として失念したかっ! 我らの先達とて過去にはかの『第六天魔』を名乗る織田信長に責められ、その後継者たる豊臣秀吉に危うく滅ぼされる間際まで追い込まれた。だが先達達は決してその様な横暴に屈する事無く戦い続けたのだ。『飼い慣らされる事』を選ばず、自分達の存在する価値を証明する為だけにその命を賭けた。そうする事によって自分達の信仰が人々の心の中に強く根付くであろう事を信じたのだ。自分達の後に道を繋いでくれる事を願ったのだ。そうして命を落として逝った先達が暝る場所が、」
言うなり右手に握った刀を魔方陣に突き立てた。蒼白く光を放っていたそれが突然炎を上げ、峰英の右手に纏わり付く。
「貴様が座主として治めていた、此処だっ! 」
力任せに魔方陣に突き立てた刀を引き抜く。炎が消えた後、峰英の右手と刀は一体と化した。それを一振りすると眼前の赤塚目掛けて突き出した。
「それを忘れたとは言わさんぞ! 斃れた僧侶達の御霊をその尻に敷きながら貴様は何を願ったっ!? 彼らの無念を引き継いで、彼等と同じ夢を描いていたのでは無かったのか!貴様が求めるその世界に、民草の心からの笑いが存在するとでも思っているのかっ!? 」
「 …… 忘れてはおらんさ。寧ろその逆じゃ。儂は彼らの願いをよう知っておる。この身を、」
ゴオンという地鳴りが大師堂全体を揺るがせた。その音源の中心に立つ赤塚の足元からどす黒い泥が染み出して白木の床を埋め尽くしてゆく。峰英が赤塚の攻撃に備えて盾を翳した瞬間、唐突に大師堂の周囲の壁全てが大音響と共に砕け散った。周囲から吹き込む風が生臭い瘴気を纏って堂内へと吹き込み、其処に立つ者達を包み込む。
瘴気は黒い靄となって峰英と松長の視界を柄の間奪った。それが晴れた時、二人はその瞳に飛び込んで来た景色の意味を知り、愕然とした。
根来寺はその全てが黒い海の中に浮かんでいた。徐々に嵩を増してゆく水面を逃れて、結界を結んでいた筈の僧侶達が逃げ惑う。目掛けて黒い海は突然その波頭を擡げて建物の中へと流れ込んだ。引き波が彼らを捉えて再び海の中へと引きずり込んで、峰英と松長の目の前で為す術も無く彼らは沈んでゆく。
その全ての元凶は二人の目の前に立つ魔物が引き起こした物。救えぬ命が求める救済の叫びを背後に浴びて、二人は赤塚にその怒りを向けた。
「貴様ァッ!! 」
「 ―― 闇に沈めた時からな。自分達に都合のいい様に書き換えられた歴史に盲いたその目でよく見るがいい。…… この地に果てた多くの御霊が求めた物が何であるかと言う事をな。」
「この、化け物があぁぁっっ!! 」
叫びと共に峰英が、赤塚との間合い三間を一気に飛び越えて刀を突き込む。その刀が触れる寸前、ほんの一寸の間合いを保った赤塚の体が後方へと下がる。『避ける』と言うよりは『ずれる』感覚に近い。光を放って尚も伸びる刀身を嘲笑うかの様に。討ち漏らしたと感じた峰英が再びその間合いを空けるべく、松長の傍へと後ずさった。
「 …… 猊下。誠に申し訳御座いません。拙僧の見立てがどうやら誤っていた様です。残念ながら。どうやらこの化け物を倒す以外に此処から抜け出す事は叶わない様です。」
遠く間合いを外したままでゆらゆらと揺らめく赤塚の姿を睨みつけながら、背後の松長に向かって囁く峰英。
「拙僧が先陣を切ります。例え相打ちと化しても彼奴だけは討ち取る所存には御座いますが、」溢れ出るアドレナリンで乾く唇を軽く嘗めて、峰英は再び突貫の体勢を取る。
「 …… 万が一の時には、拙僧を、お使い下さい。」
一言ずつ切って囁く ―― 赤塚に聞かれない様に ―― その言葉の意味を松長は知っている。空いた右手が知らずの内に峰英の左肩に置かれた。力を込めて握るその掌に、別れの意味を込めて。
「忝し。」
峰英の別れの言葉はそれだけ。構えを解いた峰英が松長の前を離れて一歩を踏み出す。
「赤塚ぁぁつっっ!! 」
その声は大師堂の剥き出しになった柱を震わせ、取り囲む穢れの水面をさざめかせる程の大音響だ。その場に仁王立ちとなり、振りかざした刀を青眼の位置に構えて峰英が叫んだ。
「貴様の考え、相分かった! だが猊下のお考えは兎も角、俺は貴様の考えに賛同できん! ましてや我が弟子の愛娘をむざむざと怨敵の手中に譲り渡す事など考えも及ばん! 故にだ。」
右足が後方に下がり、左手に盾が峰英の前面に押し出される。体勢がぐっと低くなり、右手の刀はその肘と共に肩口まで引かれた。光る刀身が間近に迫ったその横顔を灼く。
「我が同門の僧侶達、十二神将、そして月読様の仇っ!! 彼らに成り代わり、真言宗宗門の総代としてこの峰英が取らせてもらう! 勝負だ、赤塚ぁっ! 」
言うなり峰英の右足がドンと床を踏み鳴らした。無拍子の跳躍はその姿勢を変える事無く対峙する赤塚との間合いを一瞬で詰める。
ぽっかりと口を空けた赤塚の咽喉元の槍傷目掛けて繰り出される右手。その切っ先を掠めて赤塚の体が峰英の左側に移動した。盾が邪魔をして刃が届かない事を計算しての回避運動。
その移動した体に突貫した勢いのままで盾を押し付け、宙に浮いたままの左足が相手に壁を作る様に床に叩きつけられた。
「哈ァッ! 」両足が、腿が、腰が、脇腹が、胸が、肩が、そして二の腕が。ゼロコンマ何秒かの捩れの連動が盾に伝わり、その回転モーメントは貫通力となって赤塚の体を直撃した。陳式太極拳肘法 、纏絲勁の技。
文字通り吹き飛ぶ赤塚の体。背後の剥き出しの柱に叩きつけられて、ごきっと言う背骨が圧し折れる音が堂内に響いた。有り得ない角度で海老反ったまま床に落ちて横たわる。
黒い海を背にして微塵も動かない赤塚。だが峰英は再び盾と刀を構えて間合いを保ったまま睨み付ける。
「ふ、ふ。流石は元筆頭。この様な手には引っかからぬか。配下の十二神将とは一味違う様じゃな。」
柱に巻付く様に折れ曲がった赤塚の口から響く、不気味な声。声の発生と共にその体はゆっくりと元に戻ってぞろりと起き上がる。背骨と言う支えを失ってゆらりと揺れる赤塚に向かって再び構える峰英。
「そう言えばお主は中国拳法の使い手でも有ったな。失念しておったわ。じゃが、」
赤塚の足元を黒い泥が波動を纏って取り巻く。フレアの様に立ち上がって無数の棘を生成する。それは今だ峰英と松長が目にした事の無い ―― 覚瑜や碧ならば一目見れば直ぐに分かる ―― 黒の槍の束であった。
「人であるお主が、『神』に等しき力を纏ったこの儂に勝てるとでも、本気で思っているのかっ! 」
恫喝と共に足元の棘はその先端を峰英へと向けた。そうして、峰英が放った突きと変わらぬ速度で殺到する致死の槍。
だが峰英はそれを盾の前面で受けると再び纏絲勁を発動させた。バアンと言う炸裂音と共に砕け散るその全て。ぱらぱらとばら撒かれる破片が空中に漂う中を再び一足飛びに間合いを詰める。それを見て、今度は右に回避しようとする赤塚。
峰英の計算通りだった。纏絲勁の威力を思い知った赤塚が先程と同じ方向に回避する事は出来ない。故に今度の突貫に際しては、右手の刀を盾に隠して八双の位置に置いていた。
右に動いたその体を撫で斬る為に。
動いた瞬間に峰英の右腕は水平に薙ぎ出される。その切っ先は確かに赤塚の腹部を捉えて大きく切り裂いた。斬撃の勢いを受け止めて赤塚の体が独楽の様に回転して、そのまま峰英との間合いを遠ざける。腹圧に負けて飛び出した赤塚の臓腑をその目に捉えて、峰英が言った。
「人の力を見くびったな、赤塚。手にした力に驕り高ぶった貴様などこの程度だ。例え我らの力が『神』に遠く及ばないとしても、其処に少しでも近づこうとする人間の英知は、組み合わせる事でそれに拮抗する事が出来るのだ。いや、貴様の様に端から負けを認めて、敵対する陣営に轡を結び直した臆病者には分かるまい。」
今度は刀を青眼に構えて峰英は言った。
「それは俺だけではない。あの男もだ。…… 貴様は闇に魂を売り渡した存在でありながら、人の力で『魔』に立ち向かおうとする者を育て上げた。あの男の戦いが、心が。我ら人間という種が変わらず持ち続ける『尊厳』なのだ。貴様は幼き頃の二人を引き取り、立派に育て上げた。『父』とも呼べるその存在が、その背中を覚瑜に見せる事が出来るのか? 貴様の術中に陥れられても今だ尚、かつての同胞と戦い続けているあの男に向かって。」
返って来る言葉は、無い。
泥の様な沈黙の後に赤塚が発した物は、気が触れた様な嘲い声だった。隙が出来る事も構わずにその上体を反らし高らかに嘲うその姿は、其処に居る二人に猜疑心を齎した。
「貴様っ、何がそんなに可笑しい!? 」
止まらぬ嘲いを押さえ込もうと峰英の渇が轟く。それに呼応して赤塚の嘲い声は止んだ。ハアッと大きく息を吐き出して、虹彩の色が変わったその瞳を峰英に向けた。それは、鬼火。
「『人』……『人』じゃと? あの男が。あの禍々しき魂を持つ、あの男が。」
呟く赤塚。その言葉が赤塚の口から漏れたとき、松長の腕の中に抱かれた澪の顔がゆっくりと傾き、立ち尽くす赤塚の姿を瞬きもせずに見詰めていた。両の瞳に確かな焦点を合わせて。
「主らは勘違いをしておる。それも、大きな。」
言葉と共に赤塚の足元の波動が膨れ上がる。いや、それは根来寺全ての闇と同調している。床下からの闇の棘に体を串刺しにされて絶命した十二神将の肉体が大きく揺らいだ。差し込まれた棘の脈動は見る間に大きくなって、やがてその体を尻から縦裂きにし始めた。
ぶちぶちという肉を引き千切る音と床にぶちまけられる体液と臓腑の滴りが大師堂全体を覆い尽くす。やがてその中に倒れこむ、二つに引き裂かれた『人』であった肉の塊。
充満する死の匂いに目を眩ませながらも、松長は赤塚から視線が逸らせない。赤塚から耳が離せない。奴は何を言っているのだ?
自分の師と友の名誉を守る為に一人死地に居残った『覚瑜』。あの時見せた背中とその言葉が、自分達がこれから『摩利支の巫女』と共に歩もうとする道を指し示してくれた。
その男の事を、今奴は、何と言った?
「どういう意味だ!? 」松長の疑問を、峰英が代わりに尋ねる。尋ねられた主の瞳に宿る鬼火が蒼白く燃え上がった。
「儂が何故覚慈を此処に呼んで置いたか分かるか?そうすれば、奴は必ず一人でそれに立ち向かうと言う事が分かっていたからじゃ。その『紛い物』の人の心と感情に囚われて、な。」
「『紛い物の人の心』? 」
「そうじゃ。観自在菩薩十五尊絶界陣の候補者を探す過程で、儂は奴と出会った。その心の奥底に潜む『者』の存在を知ってな。気が付いた儂は奴を候補者の中からすぐさま外し、其処に封印を施した。覚慈と同じ時期に拾われた等と言う嘘の記憶まで塗り込んで。」
侮蔑を込めた瞳が宙を彷徨う。尚も告白を続ける赤塚の言葉を二人は耳を欹てて聞く事しか出来ない。
「その奴が、『できるだけ人を殺さぬ方法を考えたい』だと? …… 笑わせる。その身に潜めた己が宿業を棚上げしてどの口がほざくのか。奴が、奴の存在こそが此の世に災いを齎すというのに。」
言葉の終わりに、赤塚の顔が松長に向けられた。だがその視線の先に松長の姿は無い。赤塚の視線は松長の腕に抱かれたままで赤塚を見詰める澪に注がれていた。
「儂は自分の手元に奴を置きながら、抹殺する機会を待っておった。それは別に今日という日で無くとも良い。例え『創生の法要』が行われなかったとしても、何時かは奴を手に掛けねばならんと考えておった。たまたまその機会が今日訪れただけの事じゃ。」
「抹殺、だと……? 」その問い掛けが松長にはやっとだった。言葉の矛先は既に松長と澪に向けられている。
「そう、『抹殺』じゃ。儂は覚慈に『例え刺し違えてでも、奴を討ち取れ』と命じた。そうとも知らずに奴は己が戒名を記しに墓所へと出かけていったと言う訳じゃ。自分が切り札とする『興教大師』の肝という、餌に釣られてな。」
そう言って赤塚は握り締めた右の掌を松長に向かって差し出す。ゆっくりと開かれたその中にある、黒い小さな塊。
「それは、此処にある。」
自分が今何処にいるのか分からない。瞼を開いた覚瑜の視界はやはり闇の中だった。穏行印を結んでいた筈の両腕は地面に投げ出され、ひんやりとした土の感触は覚瑜の体温を奪い続けている。そこで覚瑜は初めて自分が術の最中に倒れ臥してしまった事を知った。
「 …… 何という不覚、この大事な時に。」
全身を襲う痛みの理由を理解する前に、起き上がろうとする覚瑜。だが覚瑜の持ち物で有る筈のその体は命令に異議を唱え続けている。何処かを一ミリ動かす毎に、その役割を担った機能全てが悲鳴を上げる。体を繋ぐ全ての関節の隙間には砂が挟まっている様だ。
居場所を知られない様に硬く食い縛った歯の間から、苦痛の呻きと口腔内を満たしている自分の血が漏れ出た。
口の中の全てを一気に飲み込んで、再び立ち上がろうと試みる。激痛も、苦痛も、今から自分が為さねばならぬ事には全て邪魔な物。脊髄の中を駆け巡る全てを意志の力で封殺して、投げ出されたままの左腕で地面を捉え、上体を起こす。
生気を抜かれて白く枯れ果てた立木が立ち並ぶその場所。ぼやけた視界でその景色を捉えながら、覚瑜は再び戦場に還って来た事を知った。選択の余地の無くなった、現実に。
立ち上がろうとして膝が砕ける。それを支える左手 ―― 右手は未だに動かないままだ ―― にも力が入らない。堪り兼ねて倒れる上体、頭が地面に叩きつけられる。遠ざかる意識と、懐から転がり出る独鈷杵。
がたがたと震える手で、覚瑜はそれを掴んだ。播磨の鉄で作りこまれた唯一の武器の持つ冷たさが覚瑜の意識を呼び戻した。握り締め、その拳を地面に叩きつけて上体を再び持ち上げる。片膝を立て、手で支える。もう片膝も。哂う膝と全身の瘧を動かせる左腕のみで押さえ込む。
地を踏みしめる両の足が心許無い。だが覚瑜は足を出した。踏みしめるその一歩にぐら付きながらも、自分が行かねばならない場所を求めて。やらねばならない事を求めて。
死滅した林、その闇を透かして覚瑜はその先に姿を捉えた。闇の中にぼやけた輪郭で浮かぶ黒い肉塊は彫像。唯一且つ無敵を誇った大蛇の全てを一方向に差し向けたまま、微塵も動く事は無い。
覚瑜が其処に近づくにつれて、彼らの瞳だけが暗闇にギラリと輝く。彼らに『死』を与える者の来訪。その脅威が彼らを支配する術に対しての抵抗を強めているのか。
そう、その『術』。術者は、何処にいる? 貌は既に見上げる位置にまで近づいた大蛇の群れに向けたままで、視線だけを忙しく動き回らせる。
自分の力では為し得なかった此れだけの術式を相手に決めたのだ。遠い間合いから出来る事ではない。恐らく相手の至近距離で放ったか、直接触れたか。だとすればきっとこの近くにいる筈だ。
何処かの木陰に身を潜めながら、老婆の様な歩みしか出来ない自分のこの体たらくを笑っているに違いない。朽ち折れる自分の心を励まし、叱責し、そして褒めてくれたあの声を忍ばせて。
「オン シュチリ キャラロハ ウンケン ソワカ …… 」
今日何度この真言を唱えた事だろう?握り締められた独鈷杵に光が宿り、長大な刃が再び姿を現す。肩に担ぐ力など残ってはいない。引き摺る切っ先で地面に筋を描きながら、決殺の間合いへと一歩一歩近づいて行く覚瑜。
彼の瞳は確かにそれを捉えている。長く吐き出されて戻る事の出来ない大蛇達のとある一体のその根元。亀の頸元の様に剥き出しになった肉の奥。その先に輝くのは金の光。暗闇の中で輝く光は全て自分に敵意を向ける存在から放たれている物。だがその中に於いてそれだけが唯一、覚瑜の味方であるかの様に、穏やかに輝き続ける。それは永劫に砂漠を渡り歩くベドウィンが天空を仰いで求める天狼星にも似て。
左腕がゆっくりと引き上げられ、切っ先が彼方の金光を指し示す。両の膝がゆっくりと沈み、来るべき跳躍に備える。相手の懐を取った覚瑜の準備は整った。後は。
「新義真言宗退魔師の一、覚瑜。推して参る。」
両足に意識を集中して残った法力の全てを跳躍の為に使われる全ての筋肉に伝達する。普段ならば彼我に感じる距離も今の自分には遥か遠くに感じる。
だが不安も迷いも今は唱えている暇は無い。この足が届かなければこの手で、この手が届かなければ歯で。その体に攀じ登ってでも喰らい付いて、この刀を必ず其処に ―― 。
「 ―――― 殺してやる ―――― 」
目の輝きが変る。それは誇り高き僧侶の物ではなく、その口は般若の如く吊り上り、例えるならば、鬼。
「貴様、まさか …… 」小さな、炭にも似た塊。愕然とそれを見詰める二人を尻目に赤塚の掌が握り締められた。小さな音を立てて手の中で砕ける。
「そうじゃ。奥の院の結界を解いたのはこの儂じゃ。此れを手に入れる為にな。『創生の法要』の間際にその様な事が起こったと知れば、貴様は必ず自らの手で真偽を確かめに行くじゃろう? その機会を見計らって奥の院の林に潜んでおった覚慈にもう一つの結界、『入定結界』を破壊させたのじゃ。」
「我らをそこで仕留めるためにか!? 」
「違う。お主らを其処で仕留めるのは簡単じゃ。じゃが『創生の法要』を行わねば、真にその子が『摩利支の巫女』かどうかを確認する事も出来ず、儂が観自在菩薩十五尊絶界陣を発動させる理由も無くなる。儂がそんな回りくどい事をした理由はな、そうすれば奴が一人で其処に残るじゃろうと踏んでいたからじゃ。」
「奴が、一人で、だと? それは覚瑜の事か! 」
「葬るには絶好の機会じゃ。結界を開放したあの地はまさに地獄。じゃがそれは覚慈にとってはほぼ無限とも言える力の貯蔵庫じゃ。『穢れ』を常に吸い上げるその体は滅する事を知らず、力は長谷寺の時のそれを遥かに上回っておる筈じゃ。長谷寺では女人相手に不覚を取ったと聞いたが、今度はそうはいかん。如何に奴がその本性を曝け出したとしても、所詮は人じゃ。今のあれに敵う筈が無い。」
松長に向けられていた視線を外して掌に視線を落とした。ゆっくりと開かれた其処に炭の粉と化した、変わり果てた覚鑁の心臓の成れの果てがある。
「奴が戦いの中で万が一にも自分の心に潜む『それ』に気が付き、恐れて、『人』のまま戦う事を望むのならば、必ず最後には此れを求める。 …… 儂はこの秘術の事は奴には教えんかったが、奴は一人でこの術の存在を調べ上げ、いざという時の切り札と考えておった様じゃ。それが儂にとっては奴を誘き出す格好の餌となった訳じゃ。」
「だが叶わないと分かって向かって行くほどあの男は愚かでは有るまい? その地を抜け出して御山と連絡が取りさえすれば、直ぐにでも古儀真言宗十二人衆が参上しようぞ。それだけでは無い、栄俊以下全山の法力僧がここに押しかけて来るに違いない。そうなれば貴様は終わりだ、赤塚。如何に魔界の者とはいえ、それだけの退魔師と戦って勝てる見込みはあるまい? 」
赤塚の口調から一瞬前の毒々しさが消えた事を感じた松長が言う。言葉に何の反応も示さない赤塚に向かって、尚も言葉を続けた。
「十二神将が息絶えた時点で、覚瑜と覚慈を封じた結界は解かれておる筈。覚瑜が逃げ延びて御山と連絡を取ったとすれば、直に彼等が戦装束でやって来る筈じゃ。其れまでの間の時間稼ぎならば。」
「我らだけでも十分出来る!! 」
盾を翳して再び突貫の姿勢に構えた峰英が強く言い放った。二度交わる事によって相手の力量をすっかり把握した峰英の顔に確信の表情が浮かんでいた。この程度の力ならば、いける。討ち果たす事は至難だとしても松長の言葉通り援軍が到着するまでの間であれば、守り抜く事は可能だ。最悪『巫女』一人が生き延びられれば、それでいい。
「希望を見出した人間の姿とは、誠に神々しい物じゃの。今のお主らを見ると羨ましいわ。じゃがな。」手の中の煤から視線を離して、正面に対峙する峰英を上目で見上げた。
「それは、無い。」
「何っ!? 」
「展開した結界陣を去る間際に儂は、十二神将と同じ術を自分の独鈷杵に込めて奴らの結界に干渉した。『共振』という奴じゃ。故に十二神将が全て死んだ今、あの結界は既に儂の術の支配下にある。儂がその力を失わん限りあの結界が解ける事は無い。じゃから、援軍など有り得んのじゃ。」
淡々と語り口調で話す赤塚のその言葉に愕然とする二人。其処まで周到に準備をしてまで、覚瑜を抹殺しようというのか。例え仮初めとはいえ今まで自分の子供の様に、そして次期座主にまで自らの口で指名したその男を。
「尤も、例え結界が無くなっていたとしても奴が逃げ出す事は無いじゃろうがな。 …… 人としての感情と『人外』の者としての欲望。そのどちらもが、奴が其処から離れる事を拒否するじゃろう。本人にはその自覚は無いじゃろうが。」
「貴様が其処までして抹殺したいと言う者、『覚瑜』とは一体何者だ!? 」
自分達を再び失望の沼に叩き落そうとする赤塚に向かって、峰英が堪り兼ねて叫んだ。
「答えろ、赤塚っ! 『覚瑜』という者が抱える宿業とは何だ!? 貴様は『覚瑜』の中に何を見たと言うのだ!? 」
「それを今更聞いて、お主らがどうしようと言うのじゃ? 奴は間違いなく死ぬ。そしてお主らもな。答えは賽の川原ででも聞けば良かろう? …… もっとも其処で立ち話できる時間は少ないぞ? お主らと奴は全く別の所へ送られるのじゃからな。」
「どういう意味だ!? 」
「お主らは仏門に遣える身。行き先は仏の御蔵と決まっておる。じゃが奴は ……再び此の世に舞い戻る。姿形を変えて、再びな。」
赤塚の言葉を受けた峰英と松長の視線が交錯した。言葉の意味を図りかねた松長が静かに言った。
「赤塚。お前の言の全てを俺は否定できない。お前の言う通り、俺も一度はこの子を殺そうとした。母である紗絵でさえもだ。紗絵が見た『摩利支の巫女』の運命。血塗られたその道を、ただ戦いの為に歩いて行くその姿が、我らが頼りにしている者の正体だと紗絵の口から知らされた時、俺は恐怖した。そしてその資格の可能性を自分の孫が得てしまったと知った時、自分の血縁からその様な者が出てはならないと、…… 俺は『座主』という体裁に拘ってしまったのだ。」
知らずの内に松長の目は赤塚の姿から腕の中に抱かれる澪へと移っていた。視線を外した松長の代わりにじっと赤塚を見詰める、澪の横顔。
「だが、紗絵はこの子を殺す事が出来なかった。そしてその運命を俺の手に託して、自らの命を以ってこの子の命を守った。そして、俺も、最早澪を手に掛けることは出来ないだろう。」
「その子が此の世に災厄を齎し、大勢の人々の命と希望を根こそぎ刈り取る存在だとしても、か? 」
「そうだ。」断言した松長が視線を再び赤塚へと向けた。その瞳に宿る確固たる意思を示す様に。
「それを決意させたのは他ならぬ貴様と、その弟子である『覚瑜』だ。」
「儂と、覚瑜 ……? 」
赤塚の声に疑問の色が翳る。短い問い掛けに軽く頷いて松長が言葉を続ける。
「貴様は言ったな? 『貴様らが一方的に『悪魔』と決め付ける存在であったとしても其れを認めるか、認めないかは其れに支配される人間の評価』だと。それは澪にとっても同じ事だとは思えないか? 確かに此の侭『摩利支の巫女』としての運命を携えて生きるのならば、この子の未来には紗絵の見た地獄が待っているだろう。だが貴様が天魔波旬を戴いて新たな世界の姿を作ろうとするのならば。運命を変えようとしているのならば、俺達も『摩利支の巫女』を支えながら、彼女に定められた運命を変える事が出来るのではないか? 」
「愚かな。神から与えられた定めを人が変える事など有り得ん。其れは人としての領分を越えた所業ぞ? 」
「だが、貴様はそうしようとしている。自らの魂を闇へと堕としめ、嘗ての友と道を違えてまでも。殺そうとしてまでも。…… この先にある世界の運命に抗う為に。」
その言葉が核心を得ていたのか、赤塚は答える事を止めた。
「それを俺に教えてくれた者が、今貴様が葬ろうとしている『覚瑜』という男だ。あの男が言い残した言葉。其れこそが『摩利支の巫女』を見出した我らが為さねば成らない事、そしてこの為に命を落としてしまった者達に対する贖罪。此の侭我らが何も為さずに只運命に流されてしまえば、『創生の法要』は貴様の言う通り『悪魔』を生み出す事に手を貸すだけの行為になってしまうだろう。だが我らをその心の迷いから救い出してくれた男こそが、貴様が育てた『覚瑜』という退魔師なのだ。…… だから、その男をここまで育て上げた貴様に、改めて問う。」
その声に秘められた感情が赤塚の肩を僅かに揺らした。御山の座主から傍系宗門の座主に対する、有無を言わさぬ命令。人としての全てを捨て去っている筈の赤塚の肉体がその言葉にだけは反応する。
「答えろ。天啓とも思える言葉を言い残して死地に立つあの男とは何だ? 『覚瑜』とは一体何者なのだ? 」
「…… 天啓 …… だと!? 」
その言葉が引き金だったのか。言葉を吐き捨て、嘗ては覚鑁の心臓であった黒い煤の粉に塗れた掌を、乾いた血でどす黒く変色したその口に勢い良く押し当てた。叩きつけられた拍子に周囲に舞い散る煤煙。
「こ、の、痴れ者どもがあっっ!! 」
黒い粉に染まったその口から走る雄叫びが轟く。同時に膨れ上がる赤塚の魔力。更なる泥がマグマの様に赤塚の足元から湧き上がる。
「そのような戯言にっ!我が塗り込んだ『人』としての感情の隙間から漏れ出た、『人外』の魂の囁きに篭絡されるとはっ! それこそが奴の、あの『穢れ』の真の目的だとも知らずにっ! 」
「『穢れ』だと!? 」
赤塚の言葉に動揺した松長が声を荒げて尋ねた。自分が答を得たと信じたその言葉さえもが、『覚瑜』の物では無いと言う。あまつさえ其れこそが『覚瑜』の中に潜む『穢れたもの』の真の目的だと。では『それ』の目的とはなんだ?
「赤塚っ、言えっ! 貴様は何を知っている!? 」
「教えてやるっ、松長! 人の世の因果に懲り固まったその心と耳を良く開いて聞くがいいっ! あの男は、『覚瑜』とは! 」
大師堂の中の魔力が飽和した。赤塚の体を中心として黒い旋風が巻き起こる。その風鳴りの中を魔界の使者と化した赤塚の声が響く。
「『人』でありながら『神』になろうとした男の魂! その手段として数多の人々をその手で斬り殺した、此の世で最も『穢れ』た哀れな男!その魂が転生を続ける今生の姿じゃっ! ―― そしてっ! 」
両の大腿筋、前脛骨筋、下腿三頭筋。跳躍を司る全ての筋肉に流れる法力が炸裂する。伸び上がって行く体。足の裏からその存在の在り処を失っていく地面。相手の体に叩き付けられる衝撃に備えて緊張する上半身。相手の急所に、手にした其れを突き込む為に関節の稼働域の限界まで後方に引き下げられた肩。そして、高ぶる感情、浮かぶ凄絶な笑み。
その全ては自分の物でありながら、もう一人の自分が見ている。小間送りで進行する事象。これならば一息で其処に届くと確信する。一思いに殺せると確信する。
その距離がもどかしい。その時間が待ち切れない。早く届けと。早く殺せと。高鳴る心臓の鼓動だけが自分の時間を支配して。この一拍が一秒ならば其処に到達するまでには永劫を迎えてしまうではないか。早く ―― 。
待て、これは一体なんだ? 俺は今、何をしている?
時間が戻る。目前に迫る黒い肉塊。視界に大写しになった大蛇の頭頚の根元。接触と同時に放つ刺突の為に力を込める左手。目指すは金の光、『印』。
突然、消えた。何かで覆い隠された様に輝きを失う金の光。目の前に再び広がる暗闇。そして其処に浮かび上がる、怨嗟に塗れて覚瑜を睨みつける人の顔。
舌を失ったままの人面疽。その大蛇の頸が宙を舞う覚瑜の体を横殴りに払い退ける。吹き飛ぶ覚瑜。そのまま背中から地面に叩き落され、地面を横滑りに転がっていく。
赤塚の言葉が途絶える。旋風の中心に佇むその顔には既に怒りを通り越して嘲笑が張り付いていた。そのままゆっくりと松長を見る。だがその視線が正確に松長に向けられているのかどうか、当の松長には判断できなかった。
赤塚の目から黒白の境が失われている。その硝子体を構成している筈の体液が黒く塗り潰されていた。遠目には空洞にも見えるその視線が追った者。
松長は直感的に理解した。それは澪に向けられているのだと。
「 …… 主の『番い』じゃ。『摩利支の巫女』」
呟く様に、嘲笑う様に、瞬きもせずに赤塚の姿を睨み付ける澪に向けて放たれる言葉。
「そして、奴こそが、『鍵』じゃ。」
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