拒 絶
金色の蜘蛛の巣が闇の中に果てしなく広がっている。其の中心に立ち尽くす覚瑜の姿、いや姿という形を借りた意識が其処にあった。両の手をだらりと垂らしたままじっと目を閉じ、何かを唯只管に待っている。そう、変化を待っている。
印など結ぶ必要は無かった。張り巡らされた自分の意識の糸は今や自分の支配下を離れて、何かの力を借りて展開を果たした。それが何で有るかなどは言うまでも無い。自分と共に戦う我が教義の始祖、覚鑁。
其の卓越した法力が覚瑜の足りない物を補って、自分では到底到達できない高みにまで術式を押し上げたのだ。つまりは此処に展開している術のその殆どが覚鑁の力。自分は此処で、今から起こるであろう何らかの変化を唯待ちさえすればいいだけの事。覚鑁が自分に言い残した言葉を信じて。
何時の間にか闇の中を荒れ狂っていた嵐はすっかり収まっていた。べっとりと重油の様にたゆたう黒い空間だけが其処に取り残されて覚瑜の周囲を取り囲む。
だがそれは第一の変化の現れ。光の網をを押し潰そうと常に働きかけていたプレッシャーがその意思を止め、其の侭何の動きも無い。蜘蛛の巣の真ん中でじっと待機できる状況が整っているという事が、覚瑜に状況の好転を認知させていた。だがそれがどういった事による物か迄は理解は及ばなかったが。
「 ―― 俺は此処にいる ―― 」
それだけを心の中で反復し続ける覚瑜。遠い暗闇の底で未だに目覚める事の無い覚慈の意識に向かって語り掛ける。
事此処に至ってでさえも、お前が何処にいるかは分らない。ならばお前が俺を求めろ、手を伸ばせ、覚慈。俺がしくじりそうになった時は何時だって。
「お前はそうだった。俺の命を救ってくれたのは、窮地に駆け着けたお前だった筈だ。…… 今度もそうだろう? 」
お前が俺にそうしてくれた様に、今度は俺がお前にそうする。お前が俺を『其の為』に生かし続けたと言うのなら、俺はそれに応えなければならない。だが、俺を信じろ、覚慈。俺は、
「 ―― 此処にいる。」
二つ目の変化が起った。覚瑜の呼びかけに反応したかのように闇の中に轟音が轟く。爆発、地響き。だが覚瑜には声であると言う事が ―― 認識が覚瑜の心に感情を呼び覚ます。
それは説明しようの無い、自分にも理解の出来ない激流の様な物だった。助けたいと想う事は、救いたいと想う事は自分の半身を仏の身元へ送り返すという事。それを果たすという義務と、拒否する感情。
二つの反した思いは覚瑜の瞳を知らずの内に濡らし、そして零れ落ちた。拭う事無く、覚瑜は微かに笑い、嘲った。
「 …… すまん。待たせた。」
展開を続けた金のハープ。地表を覆い尽した内の一本が大きく振動した。振動は波となって真央に立つ覚瑜目掛けて押し寄せる。それを静かに足元に受けたままで覚瑜は目の前の彼方、深き闇の最奥の黒い空間を見詰めた。
漆黒の視界の中に浮かび上がった黒い影。黒の中にて更に黒く、輪郭すら定かに保てない影が覚瑜との距離感を全く無視して其処にいた。手を伸ばせば届きそうでいて、遥か彼方にいる様にも思える。声も無く、顔も無く、だが確かに其処に彼は姿を表していた。それが覚慈である、と覚瑜だけが感じる何かが其処に有る。
音も無く金色の空が、互いに閉塞した彼らの頭上に広がる。無数に鏤められた金の粒は星、次第にそれは雪となり、ふわふわと、有る筈の無い重力に誘われて、彼ら二人だけが佇む蜘蛛の巣目掛けて舞い降りた。
最初の一粒がそっと黒い影に触れる、切っ掛け。降り頻る金の雪の全てが黒の存在目掛けて押し寄せ、取り囲み。表面に吸着を始める様はまるで遠い宇宙の彼方で繰り広げられる、星星の創生にも似ている。
金の粒全てが人の形らしき物を成すまでほんの数十秒。其の光景を覚瑜の瞳が揺らめきながら見詰める。身じろぐ事無く、ただ両の手だけが強く握り締められたまま細かく震えていた。
それはどんな感情なのかも分らない。怒りなのか、喜びなのか、或いは其の両方?混在する何かが金の粒で構成された覚瑜の姿をも支配して、感情を動作にして表していた。今目の前に対峙している『覚慈』であった物にはそんな物等 ―― 手や足 ―― 存在しないというのに。
逡巡を、している。
今覚瑜の目の前に居る者は、嘗ての友であり同胞。共に同じ道を歩きながら何かの弾みで闇に心を売り渡した裏切り者。この男が闇の支配に堕ちてから今まで幾人殺してきただろう?
長谷寺の全ての僧侶を抹殺し、月読様を散華せしめ、そして今またこの寺に於いて同じ惨劇を繰り返そうとしている。
自分が此処で切り伏せた、魔に支配された多くの僧侶と同じ、若しくはそれよりも深く闇に染められてしまった哀れな魂の形。この者を彼らと同じ様に幽世に送り返す為には、覚鑁の術が支配している今を置いて他には無い。だが ―― 。
「覚慈、俺が判らないか。」
問いかけるでもなく、力の無い言葉が覚瑜の口を付いて出た。幼い頃からの思い出が走馬灯の様に過っていく。その時を積み重ねる毎に覚瑜の躊躇いは大きくなっていく様な気がした。 覚慈の望みは上人様が仰られた通り、自己の完全なる昇華。ここに覚慈の自我が存在するという事は上人様の予言が正しかったという証だ。自分への攻撃を弱った自我を振り絞って押し留め ―― それでも生死の瀬戸際まで追い込まれたが ―― 遂には辿り着いた自分の前に其の姿を露にする。それは自分を現世から葬り去ってくれという、覚慈からの明確なメッセージであるという事。それは同時に自分は其の為に此処に存在しているという事。
其処に残された時間は少なく、自分に出来る事もほんの僅かな事だった。蜘蛛が網に掛かった獲物を捕らえる様に、足元に広がった金の糸をその人型に巻付けて、固定する。それが『印』だ。後は覚鑁が言った通りに自分の意識を肉体に還元させて現世に戻り、其の印目掛けて得物を突き刺し、法力を流し込んで闇の者の結合を崩壊させて昇華させる。
それで以前は『覚慈』という人の名を名乗っていた殺戮者はこの現世から消え失せる。跡形も無く。
「本当に、そうするしかないのか、覚慈? 俺にそれをやれ、と。」
だが、応えは無い。求めてどうするのだろう、と自問自答する覚瑜。仮にもし、此処にいる覚慈が助けを求めたとしたら自分に何が出来るのだろうか? 既に力も残り少なく、闇に取り込まれた覚慈を殺す事のみを目的にここまでやってきた自分に、此れを助ける事など出来るのだろうか?
それでも、助けたいと、思う。自分に求められた全てを否定した其れこそが覚瑜の本音であった。確かに友と師の名誉を守る為に、仲間を守る為に此処まで来た。だがそれは『守るため』に命を賭けたのであって、『殺すため』にではない。
上人様はおっしゃった。『守るため』の戦いこそが我が本領であると。救いたいと思い、求めた。それ故に自分は此処に辿り着いた筈だ。其の運命を反故にしてまでこの命を見殺しにしていい物か。否。
覚瑜の手がゆっくりと金の人型に向けて差し伸べられる。救う術など解らない。だがこの手を奴が握りさえすれば、其処に道が開かれるに違いない、そんな気がする。
御仏がこの世界を支配し運命を導くと言うのならば、自分がそうする事にも何らかの意味がある筈だ。その結果が如何であろうと構わない。例え自分が此処でこいつの代わりに命を落とす事になったとしても、だ。
「覚慈。…… 修平、帰ろう。」幼き頃と同じ様に、本当の名を呼び、立ち尽くしたままの人型に呼びかける覚瑜。その声に覚慈は必ず『おう。』と応えて握り返して来た。
夕暮れの帰り道でも、どんな過酷な退魔行を終えた後でもそれは違えた事の無い、二人だけが知る光景。
覚瑜の視界の中の人型が微かに動きを見せる。肩が、肘が、そして手首が僅かに動きを見せ、其処に自分の意図に応えようという意思が有る事を知る。純粋な喜びを覚える。
そうだ、覚慈。例えお前が裏切り者だとしても俺は構わない。お前がもしここで生き延びることが出来たとしたなら、それこそが神仏の御加護という物。お前は生き残って自分が奪ってきた数多の人々の替わりに何かを為さねばならぬと言う事に違いない。
それが俺の命を踏み台にする行為だったとしても。
金の人型は遂に其の手を覚瑜に向かって差し伸べた。其の手を ―― 掌に当たる部分 ―― 握ろうと覚瑜が動く。そうして今まさに握ろうとした瞬間、覚瑜は人型の差し出した手が左手で有る事に気付いた。
「修平 ……? 」其の手の意味に思わずたじろぐ。右手の握手は親愛の意味を表した筈。だが左手の握手は。
手から人型の顔に当たる部分へと覚瑜の視線が移動する。見上げた目に映った物。金の粒で覆われた球体。頭に相当する物の口の部分が引き裂かれる様に破けていく。大きく裂けた其処に現れた物、それはこの場所を支配し続けていた漆黒の闇。覚鑁の術の拘束を振り切って再び其の活動を再開しようと、今また覚瑜の前に其の姿を現そうとしていた。
「修平ぃっ! 」闇が溢れ出そうとするその口から放たれた咆哮に負けない大声で、覚瑜は叫んだ。慌てて握ろうとした左手が空しく空を切る。今まで身動ぎもしなかった人型は既に覚瑜の前を離れて悶えていた。
それは覚鑁の術から自らの自由を取り戻そうという闇の力の総意ででも有るかのように。全身の至る所から闇が滲み出して金色の光を侵食している。その範囲が大きくなるにつれて覚瑜の周囲の状況も徐々に変化を見せつつあった。
足元の地平が粟立ち始めて波打つ。鏡面の如き地平を保っていた其処は、再び海に変化しつつあった。澱んだ空気が風を孕んで少しずつ覚瑜の頬を撫で始める。取り巻く状況の悪化は明らかであった。其処は覚瑜が浸入した時の風景に戻りつつある。
「修平っ! そんな、馬鹿なぁっ! 」悶えながら、激しい頭痛に苛まれる様に両の手で頭を抱える仕草を覚瑜の視界に映しながら、少しずつ遠ざかっていく。空を切ったままの左手がそのまま宙を彷徨う。だが其の間に広がる絶望的な距離、そして時間。
そこに猶予を求めながら、時が尽きた事を知る。救えなかった失望と、押し寄せる絶望が覚瑜の心を貫いた。
「うわああああああぁぁぁぁぁっっっ!!! 」
唱える九字の代わりは口を衝いて迸る覚瑜自身の絶叫だった。神速で切られた覚瑜の目の前の空間に陣が展開し、一瞬の内に地面へと ―― 展開された蜘蛛の巣へと ―― 吸い込まれた。
全ての金の糸が跳ね上がる。遥か地平より互いを撚り合わせながら金の人型に向けて其の先鞭を向ける。光の速さで帰ってきた何千もの金糸がそれを縛り上げるのは一瞬の事だった。
世界に広がる全ての金糸が人型に巻付いてそれを締め上げた時、其処に現れたのは最早人型ではなく、金で作られた人間。其の表情も其の姿も、覚瑜には見知った者だった。肉塊の形をした闇の眷属の姿に身を窶す以前の覚慈の姿がそこにあった。
最期の切り札を切ってしまった覚瑜がこの術を解呪する事は出来なかった。最早出来る事は一つしか残っていない。嵐を巻き起こす寸前の暗い空を見上げて、覚瑜は叫んだ。
「何故だっ! 何故助ける事が出来ないのだっ!? 御仏よ、俺には何一つ救う事など出来ないと言うのかっ! ただ葬る事しか出来ないのか、応えてくれっ! 」
天に差し出した其の両手が形を失って、狼煙の様に形を変えて空へと向かう。現世に戻る時が来たのだ。姿が掻き消える寸前に残した覚瑜の叫びが、雷鳴の様に闇の空間に轟く。
「それでは俺の両腕は、この力は! 一体何の為に有るというのだっっ!? 」
「赤塚、貴、様 …… 」其の光景を目にした松長は絶句した。せざるを得なかったと言うべきか。
十二本の錫杖は深々と食い込んでいるのではない。それを通り越して赤塚の体を貫き、其の鋭い先端を大師堂の床へと突き立てているのだ。錫杖を伝わって滴り落ちる血の量は尋常ではない。座したままで縫い付けられた赤塚の体を中心に広がるそれは、如何控えめに見てもそれだけで致死に値する。
だがそこに有る者は違った。喉元から背中に貫通した錫杖を透かして見るように、ギリギリと其の顔を持ち上げて眼前に立つ、暗器の攻撃から生き延びた三人の顔を見上げた。
「こ、これは ―― 」そう言うと、松長と澪の前にただ一人生き延びた配下の僧侶が、赤塚との間合いを離す為に立ち塞がった。
懐より取り出した五鈷杵に印を押し付けて諸刃の刃を大きく展開させる。
「ふん、貴様か。峰英。金剛印の使い手よ。…… 『執行部』等という下らん部署に身を沈め、醜く老いた主の姿を見るには忍びない。嘗ての退魔師筆頭も、其の地位を後進に譲ってからは見る影も無いのう? 」
「抜かせ、赤塚。真言宗座主の地位に有りながら、何と言う体たらくだ。俺の方こそ今の主の姿は見ておられん。速やかに闇の住まいに叩き返してくれよう。」
有り得ないほどギラギラと光る瞳で見上げる赤塚を睨みつけながら、峰英は空の左手で再び印を切る。白銀の盾が左の掌を中心に展開する。それを確認して赤塚が喉に溜まったどす黒い血と共に嘲いを吐き出した。
「成る程、右手に『金剛牙』左手に『金剛吼』。金剛夜叉真言の奥儀、『憤怒の法門』という訳か。だが良いのか? 左手に輪宝を装備せずして本来の力は発揮できまい。」
「闇の者に魂を売った主等、此れで十分。ましてや人である事を辞めた者などに言われる筋合いはない。」
「松長を守る為に本来の装備を捨て、守りの盾を備えた訳だ。だがそれが、」赤塚の目がギラリと光る。次の瞬間、赤塚の座した足元から迸る様に黒い槍が峰英の胸元へと伸びた。研ぎ澄まされた其の先端を左の盾で受け流して、一気に間合いを詰めようとする峰英。だが其の足を松長の声が止めた。
「待てっ! 出るなっ! 」
踏鞴を踏んで留まる峰英。つんのめる上体、其の眼前を掠めて新たな槍が床板を突き破って立ち上る。勢いに押されて再び間合いを取ろうと飛びずさる。着地した場所、背後に立つ松長に其の背中を押し付けて、峰英は言った。
「座主猊下。澪様、いえ『巫女』を連れてお逃げ下さい。此処は私が食止めます故、お早く。」肩越しに投げ掛けられる峰英の緊迫した声。其の声が暗に指し示している意味を松長は理解し、そして其の提案を否定した。
「いかん、峰英。主も此処から我らと共に立ち去るのだ。今ならまだ間に合う。」
「忝いお言葉。ですが、それをむざむざと許す輩では御座いますまい。この者が動けない今こそが此処をお離れになる千載一遇の時かと存じます。猊下は残りの僧侶を引き連れて根来寺をご退去ください。」
左手の盾を用心深く赤塚の方に翳しながら、峰英は言葉を続けた。
「幸いな事に猊下に最も近き敵はこの赤塚ただ一人。如何に闇の力が此処を攻め立てたとて、根来寺の二百人余の僧侶の力があれば少なくとも猊下と『巫女』、お二人の身を汚す事無く此処より逃れる事位は出来る筈。さあ、ぐずぐずしている暇など御座いません。猊下は表に出て僧侶を御集めください。それだけでも幾許の時間を要します。」
「峰英、お主 …… 」
自分の盾となって殿を勤めようとする、嘗ての退魔師筆頭。現筆頭が不祥事にて放逐された折に代理を務める事を頑として拒んだ男。「自分より力の強き者が存在する限り、其処に自分の席は無い。」と松長に直訴し、其の席を今の今まで空席にし続けた。
その理由が彼の口から語られる事は無かったが、松長は知っていた。その男が澪の父親である事を彼は知っていたから。何時の日にか必ずその男が此処に立ち返り、再び其の力を高野の為に役立てる日が来る事を切に願い、その時まで自分が其処を守り続けると誓った男。
そして其の男の『師匠』で有り続けた、男。
「見くびって頂いては困ります、猊下。」声に苦しげな笑いを込めて峰英が言った。
「拙僧は此れでも奴の師。こんな所で殺られはしません。それに拙僧が彼奴の娘を守らずして、如何に『師』を名乗る事が出来ましょう。ましてや其の子が『巫女』と言うのならばこの老いぼれの命、賭けるに値しましょうぞ。さあ。」
摺り足で後ずさりしながら、其の背で少しずつ出口の方へと二人を押し遣る峰英。其の姿を静かに見守る、座したままで動かぬ赤塚の姿をした魔物の目が静かに閉じられた。ハッと言う溜息が其の口から漏れて、再びの出血が胸元を濡らした。
「どうした、化け物。今頃になって臆したか? ―― そうだ、此処を逃れれば主らが『巫女』を手に掛ける事はいよいよ困難な事になる。何せ日本全国の真言宗宗門の退魔師全てが貴様らの敵になるのだからな。いや、それだけではない。我らを相手にすると言う事はこの『日本』を相手にする事も同然。それを知らぬ主では有るまい? 」
「知っておる。」掠れた声が魔笛の様に本堂の中に木霊した。「 ……愚か者めが。」
「何!? 」
「まだ儂の言った事が解らんのか?解らんが故に愚か者と言ったまでじゃ。」赤塚の瞼が開かれる。其処には閉じられる前に見せた嘲笑の色ではなく、明らかな怒りを湛えていた。
「峰英。主はその様な私事で儂の前に立ち塞がっておるのか?主のやろうとしておる事が、守ろうとしておる者が、この『日ノ本』という国を未曾有の危機に追い遣ろうとしている事も解らずに。」
「どういう意味だ!? 貴様、この期に及んで世迷言を、」
「戯けっっ!! 」はっきりとした恫喝だった。此処に居座る赤塚を死者とするならば、其の声は生前の彼となんら遜色の無い声。松長と峰英の足が、それで止まった。
「今、主は申したな? 我らが『日本を相手にする』と。では其の相手が『日ノ本』以外の全てじゃったとしたら、主らは一体如何にするつもりなのじゃ? 主らの其の行いがこの『日ノ本』を再び大きな戦火の中に巻き込み、今度こそ滅せられんとするならば、其の責を如何に負うつもりか聞いておるのじゃ。」
「待て、赤塚。」峰英の肩越しに松長が問い掛けた。
「貴様は既に闇に其の身を売り渡した者。…… 『天魔波旬』とは何者だ? それ程の力を既に有しておるとでも言うのか? 」
「今は、まだじゃ。」
「其の言葉を俺に信じろ、と? 」
「信じる、信じないは主の勝手じゃ。…… だが、あれは何れ世界を統べる事になるだろう。敵対する全ての勢力を残らず平らげてな。その時になって『日ノ本』が反勢力の御旗を掲げる様な事態だけは避けなければならんのじゃ。」
「故に『摩利支の巫女』を攫って『天魔波旬』に献上しようとでも言うのか? …… 『天魔波旬』にとって最大の敵と成り得る唯一の可能性を摘み取る為に。」
松長の其の問いに赤塚は答えない。ただ其の時、赤塚の瞳から憤怒の光が消え、憂いた表情を覗かせて床に視線を落とした。
「それを知った時の儂の絶望など、貴様らには解るまい。」
赤塚の全身に力が篭ったのが、二人には判った。ビスッと言う鈍い音と共に錫杖の先端が床から離れ、赤塚の体が自由を取り戻そうとしている。
「儂が、この儂が好きで闇に身を投じたと思うかっ! 我ら『新義』は主ら『古儀』の闇、即ち影。だが儂はそれでも良かった。如何に退魔行で大勢の弟子を失おうと、如何に『古儀』の者から蔑まれようとも。我らにとってこの『日ノ本』に息衝く民草全ての者が平和で安らかに暮らせるのならば、我らの犠牲は無駄にはならぬ、そう信じて今まで修練に明け暮れ、大勢の者とそれに倍する闇の者を屠ってきたのじゃ。」
赤塚の膝が立った。既に床から離れた錫杖の柄を掴むとゆっくりと引き抜き始める。赤塚の肉と引き抜かれる柄が発する胸が悪くなる様な摩擦音が、その場の静寂を掻き消した。
「だが、あの日。儂はこの『日ノ本』の運命が自分達が行おうとしている事によって、窮地に陥ってしまう事を知った。それ即ち『創生の法要』の事じゃ。分かるか?…… 我らが『天魔波旬』の事も知らず、『日ノ本』のみならず世界がその様な戦火に巻き込まれる事等考えも及ばなかった頃に、其の子供は儂の前に現れた。それが今から五年前の事。」
「『その子供』だと? それは一体何者だ、赤塚。そも五年前と言えば月読が星宿にてこの事態を預言するほんの少し前の事。まさか月読以外にも未来を預言する事の出来る、異能の力の持ち主がいたとでも言うのか? 」
「『天魔波旬』。」
二人は戦慄を隠せなかった。澪を抱いた松長の手にぎゅっと力が篭る。
「そうだ、儂は彼と出会い、そして知ったのだ。我らが自らを正義と信じて戦う事と、其処に担ぎ上げる『摩利支の巫女』という旗頭。我らと彼らの激突こそがこの世界を破滅へと導く切欠に成りかねないと言う事を。 …… 無論その事を端から信じる気等は毛頭無かった。それどころか儂は彼を当然の如く討ち取ろうと決意までした。だが、」
「何故その時に討ち取らなかった!? いや、そもそも今のお主の口からその様な言い訳を聞いた所で、手放しにそれを信じられるとでも思うか!? 」
峰英が赤塚の独白を遮って一喝する。言葉を切った赤塚がギリと視線を上げて、峰英を睨み付ける。
「 …… 観自在菩薩十五尊絶界陣。彼はその真の意味を知っていたのじゃ。」
その言葉の意味に心当たりの有る峰英と松長。真言宗執行部の中でも一部の者にしか知られていないその禁呪の意味。それを『天魔波旬』は知っていたというのか? 明らかな動揺を見せる二人を取り残して赤塚は言葉を続けた。
「そう、彼は知っていた。外側からは絶対に破られる事の無い絶対防御。大勢の素質の有る者を集め、その中から選ばれた八人を傀儡と化して陣を構築する外道の呪法。そして我らがその時に進めていた計画が唯の試験段階に過ぎないと言う事まで、彼は言い当てた。それどころか、その術が成功した暁には、何れ時の権力者の万一の保身の為に使われると言う事までな。主は何らかの機関からの依頼を受けてそれを受諾し、我らにそれを行わせた。」
「違うっ、赤塚! だから俺はそれを受諾する前にお前に問い質した筈だ! お前がやらねば俺がやると。お前だけが手を汚す事を俺が良しとするとでも思っていたのかっ!! 」
夕闇の中立ち尽くす二人とその時の言葉。叫びと共にほんの半日前の光景が松長の脳裏を駆け巡る。取り乱す松長の姿を何の感情も表さずに見詰めて、赤塚が言った。
「そうだ。確かにお主はそう言った。だがその申し出を儂は断った。…… 儂は信じておったのじゃ。お主がそれを受諾したのであれば、それはきっと正しい事に違いない。例えその禁呪が成功したとしても、主に任せておけばきっと彼奴らの思惑に乗せられる事無く、万が一の時にはこの『日ノ本』の民の為に使ってくれる筈だ、とな。そう信じたからこそ、自らの矜持に背いてまでこの禁術の準備を行っていたのじゃ。二十年余の歳月をかけて、着々と。」
遂に赤塚の体から一本の錫杖が引き抜かれた。煩わしげにそれを足元へと放る赤塚。ゴトンと鈍く湿った音を立ててそれは床の上を転がった。
「全てを彼に看破された儂は、そこで殺す事を躊躇った。…… 勘違いされては困るが、彼に篭絡されたのではない。彼が預言した事が本当に正しいかどうか確かめたかったのじゃ。そしてあの『星宿の法要』の日を迎えたのじゃ。」
「今、言った事に間違いは無いのか? 月読。」長い沈黙の後に、松長が陣の中央に座したままの月読に向かって尋ねた。
「既に『天魔波旬』は此の世に生を受けていると。そう申すか? 」その言葉に月読は静かに頷いた。高野山の奥に位置する女人堂。本堂内に特別に設えられた魔方陣の中央から月読は静かに立ち上がり、松長の前に歩を進めた。
陣の構築に参加した尼僧達にも動揺が広がる。
古くからの言い伝えによれば『其の者生を受くる時、末法の世の扉が開かれる』と言わしめた存在、『天魔波旬』。それが既に此の世に存在していると言う月読の言葉。其処に居る全ての者が耳を疑うのも無理は無かった。
喧騒を掻き分けて流れる様にその歩を進め、松長と赤塚の前に静かに座る月読。深々と一礼を終えると面を上げて、言った。
「間違い御座いません。この術中に何度もその答の検算を行いましたが、何れも否定する事は出来ませんでした。確実に其の者は此の世に生れ出でております。」
「むう …… 」そう唸ったきり、松長は言葉を失った。月読の為した預言が如何に絶望的な物であるかと言う事を松長は感じている。
其の者は有史の中に記載の残る暴君や殺戮者とは訳が違う。少なくとも人の記載した歴史上には存在した事の無い、恐らくは神代の時代に存在した『穢れた存在』としか言い様の無い者。そんな者が今の時代に顕現しよう等とは思いも依らなかった。
『神』に等しき存在。それでも此の世の平穏を乱そうとする存在に対しては、戦いを挑まなければならないと言う義務感と、自分達が信仰の拠所とする存在に等しき相手を敵に回すという絶望感が、真言宗座主という立場に君臨する松長の心を強く締め付けた。
その沈黙を破って背後に控える赤塚が、月読に尋ねた。
「月読殿。月読殿の預言は今まで確かに違えた事が無い。それは此処におわす全ての者が知る周知の事実じゃ。では其の者が既に存在するとして今、月読殿が申した事。それは果たして預言と言えるのであろうか? 」
赤塚のその質問で月読の顔に動揺が走った。赤塚の質問の真意と月読の動揺を見咎めた松長が、再び月読に尋ねた。
「言われてみれば赤塚の言は正しい。お主が今申した事は預言では無く、唯の事実。 …… 月読、何か隠しておる事は無いのか? 」
「そ、それは、」口篭る月読の顔を松長がじっと見詰める。一言も発さず、その眼光だけが月読が隠そうとする真の預言を引き出そうと睨みを効かせている。その圧力に抗う事を諦めた月読は、やがてゆっくりと口を開いた。
「申し訳御座いません、猊下。その事を語るのに今暫くの猶予を頂けませんでしょうか? もう一度法要を行い、それが確かで有ると確認してからでは ―― 」
「ならん。」月読の懇願を制圧する様に、松長は言った。
「事態は一刻を争うのだ。自分の見た者がどういう者で、我らが今現在どういう立場に置かれているかと言う事が分からんお主でも有るまい。今はその預言だけが頼りなのだ。どの様な絶望的な状況に追い遣られたとしてもそれを打開する手段が存在するのであれば、それが例え陽炎であろうと我らは縋らねばならんのだ。言うのだ、月読。お主は何を隠している? 」
松長の命令を境に暫しの沈黙が女人堂に流れた。固唾を呑んで月読の言葉を待つ尼僧達と松長、そして赤塚。やがて月読の声が静かに漏れた。
「 …… 『摩利支の巫女』が、顕現、なさいます。」
月読のその言葉に、凍り付いていた女人堂の空気が一斉に解けた。或る者は肩を撫で下ろし、また或る者は籠から解き放たれた小鳥の様に近隣の尼僧と言葉を交わす。唯、月読の言葉の意味を真に理解する三人だけがその安堵に溢れる空気の中に漬かる事を拒んでいた。松長と赤塚、そしてそれを告げた、月読。
『摩利支の巫女』。―― 其の者はこの日本に於いて特別な意味を持つ存在。古くは『日本書紀』・『古事記』の時代よりその記述が端々に名前を変えて見え隠れする、必勝の女神。 其の者は戦の前に何処からとも無く戦場に現れ、其の者が祝詞を上げた陣営はどんなに不利であろうとも、どんなに寡兵であろうとも絶対の勝利が約束される。
壇ノ浦の戦いでは先陣を切った源義経と共に同舟し、平氏より放たれた弓矢の悉くを異能の力で打ち落としたと言い伝えられ、桶狭間の戦の折には、直前に織田信長が必勝を祈願しようと訪れた熱田神宮に姿を現し、関が原に於いてはその戦の最中に徳川家康の本陣に姿を現した。
『摩利支の巫女』の存在が記載された戦の結果は後世に現存する史書に記された通り。
敵が『神』に等しき存在ならば、こちらにも『神』が光臨される。その事実を知って今しがたの絶望から解放されぬ者はいなかった。ましてやこちらは『百戦不敗の戦女神』。その実績を鑑みれば我らが敗れる道理が無い。いや、寧ろ勝利は確実に約束されたのではないか。
しかし。
浮ついた空気に支配された女人堂に、松長の渇が響いた。
「皆、浮かれておる場合ではない。今だ『摩利支の巫女』は此の世に顕現を果たしてはおらぬのだ。それがどういう意味だか分かるか? 」
その言葉に口を噤む尼僧達。再びの静寂が其処に戻る。
「敵にこの事を知られれば、一体どのような手段に出るかは予想が付かん。いや手段など選ばぬかも知れん。万が一其の者が『天魔波旬』、若しくはその手の者に討ち取られれば、我らは永久に抗う手段を失う事になる。その事を肝に命じておけ。」
動きを止めた尼僧達に向かって、更に松長の確固たる意思を込めた言葉が叩きつけられた。
「今よりこの事は此処に居る者のみが知る事、決して外部に漏らしてはならぬ。例えそれが主らの近習の者だとしても、だ。これを破る者あらば必ず突き止め、厳しい沙汰が待っておる事を覚悟しておけ、良いな。」
松長のその言葉に尼僧達が平伏す。一同を見回した後、その秀麗な表情を凍らせたままで座り続ける月読に向かって尋ねた。
「月読。お役目の者に高野山真言宗座主として、今一度尋ねる。…… お主の言。真に相違無いな? 」
「はい。…… 」同意するその言葉と頬に僅かな震えを残して。「 …… 相違御座いません。」
「其の者は何時、此の世に顕現する? 」畳み込む様に質問を続ける松長。見詰める月読の震えは少しずつ大きくなる。
「 …… 今より五年後。西暦二千一年十二月十三日午前九時。辛の年、庚の月、庚の日、庚と辛の間の時間。それに相違御座いません。」
「赤塚。」女人堂を離れ、本院の土室へと下る道すがら、松長はその足を止めた。先に立って山道を下る赤塚が振り返る事無くその歩を止めた。
「お主に任せてあった例の件。…… 使おうと思う。」
「『創生の法要』に、か? 」振り返る事も無く、短い言葉で尋ねる赤塚。だがその短さが無念を表している様に、松長には思えた。
「そうだ。予定より大きく時間は繰り上がってしまったが、あと五年で何とか仕上げてくれ。」
「本気、か? 」
その問い掛けに沈黙を以って応える松長。赤塚はその沈黙に向かって尚も問いかける。
「翻意は有り得ない、と? 」
「情が移ったか? 」
「そう取って貰っても構わん。…… 今残っておる二十余人の子供達、その誰もが多くの仲間の屍の上を踏み越えて生き残った者達だ。素質も、能力も今活動する法力僧となんら遜色の無い仕上がりを見せている。このまま育てれば我らの新たな力、いや我らを超える存在に成る者もおるやも知れん。その可能性を無視してまで、お主はあの禁術に固執するのか? 」
「平時ならば、俺もその可能性に賭けたかも知れん。いや、自分達を踏み越えていく逸材が現れてくれればいいとも思っていた。だが …… 時は動いてしまったのだ。」
使いたくは無かった、と松長は心の底からそう思っていた。その気持ちは赤塚と同じであろうと言う事も。
「今度の『創生の法要』は今までに記録に残された物とは訳が違う。絶対に失敗する訳にはいかんのだ。万が一の事を考えれば、彼らの力は絶対に必要になる。」
「『絶対領域』か。それが完成の日の目を見たならば、『創生の法要』を完遂する為の重要な要素となる。」
赤塚の言葉の後に続く反論を松長は覚悟する。だが赤塚はそれ以上語ろうとはしなかった。 代わりに深い溜息が一つ。吐き出される息が背後の松長からも分かる位に、本来撫肩である赤塚の両肩をより一層落とした。
「松長。我らのこの手は、後幾人の命を奪う事になるのだろうか …… そして我らが生み出そうとする者はどれだけの魂を幽世に送り返す事になるのだろうか。」