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                 思 惑

 足元に何かが落ちる。踏みつけると其れは落雁の様に粉々になった。覚鑁は其れが自分の肋骨である事に気付いている。そして其れが最後の一本であった事にも。

 纏った大袈裟に隠されてはいたが、既に彼の胴体の中身は無い。干からびた内臓は腰骨の辺りでようやく繋がっていて、それもいつ落ちてしまうか定かではない。鎖骨との結合を喪失しかけている胸骨が歩を進める度にぶらぶらと揺れる。そんな中で覚鑁の口が何度目かの雷帝種子音を放った。地を走る雷電が閃光と轟音を上げて肉塊へと殺到し、戒めのループが其処に展開した。

 轟音に掻き消された其の音。其の時全身のいたる所から薄氷が割れる音が鳴った。

「む? 」

 体中に起った体の異変を疑問に思う声を、覚鑁は上げる手段を失った。顎関節が粉々になって骨が地面に落ちてゆく。同時に視界ががくんと落ちた。見下ろす其の足元に粉々になった彼自身の膝下の骨が転がっていた。

「此れが最後の一撃であったか。…… どうやら間に合わんかった様じゃな。」

 そうなる事を予想していたかの様に覚鑁は心の中で思った。いや、予想していた。そしてそれが現実の物となっただけの事。

 干からびた体の各所から文字通り『骨の髄まで』法力を絞り出して放った術の代償が此れだった。地面に落下した骨の全てには海面の様にが入り、地に転がった途端にもろもろと崩れていく。其処に跪いてしまった覚鑁の体がそれらと同様の物になるのは時間の問題であった。

 そしてその代償の支払金ペイバックは、未だに得る事が出来ないでいる。穏形印を結んで気配を隠したままの覚瑜が動き始める様子は感じ取れない。

「まあ、アレだ。往々にして博打とはそういう物では有るがな。」

 等価交換など有り得ない。多くの元手を支払って得る利益は微々たる物。ましてや一発勝負で万馬券を手にする事等、神の悪戯にも似た偶然という物だろう。其の目に張った自分が負ける事は当然だろうと、思う。例え自分の存在が此の世から消え去ってしまうとしても。

 互いの存在を賭けた賭場はここでお開きとなった。だが賭けに負けたとはいえ此処で逃げる事は許されない。それ以前に逃げる手段は奪われていた。

 覚鑁は自分の目の前に屹立した光の繭をじっと見詰めたまま、何かを考えていた。

 それは彼に語りかけてきた『摩利支天』にも尋ねられて答えなかった事。

「 …… しょうがないのう。最後の手に打って出るとしようか。」

頭の中で呟いて覚鑁は、ある印を結んだ。既に指先の骨は幾つも欠落して、結んだ印が正確な形を成す事は出来なくなっている。だが今結んだ其の印こそが、追い詰められた覚瑜が使おうとしている手段だと確信する。故に其れが今一番必要な手段であった。

 自分の肉体を辛うじて維持するだけの法力を残して、覚鑁は其の意識を地獄の賭場の何処かに潜んで、今だ諦める事無く、愚直に同じ目に張り続けている覚瑜に向けて飛ばした。『共振』という手段を使って。


 荒れ狂う波濤は、其処に佇む覚瑜の自我を飲み込もうと其のかさを高める。体内に浸入したウィルスを排除しようと黒い波頭が覚瑜に襲い掛かった。

 自分の周囲は全て闇の意思。波が砕けて飲み込まれようとする自分の自我を、覚瑜は強い意志でその場に留めようと試みていた。

 幾度目かの挑戦で、覚瑜は遂に肉塊の心象内部で自らの実態を結ぶ事に成功した。瞼の裏で動いていた肉塊のフレームワークがばらばらに崩壊して、覚瑜の意識が其の中に吸い込まれる。そうして辿り着いた先が此処だった。

 実体を持たぬ体にねっとりと纏わり付く暗い波動。呼吸しなければならないとしたら其処に充満した其れを胸一杯に吸い込まざるを得ない。そうなった時に自分がこの世界に取り込まれずに済むかどうかは疑わしい。此処は其れほどまでに『闇』が充満する場所だった。

 例えるならば其の光景は台風の只中で荒れ狂う夜の海。吹き荒ぶ風が常に覚瑜の物である光体の輪郭を揺らめかせる。

 この閉ざされた世界の中に覚慈の自我が眠ると上人様は言った。だが其れは何処でどんな姿で存在しているのだろうか? この荒波が其れを包み隠そうとしているのなら、自分はこの中に隠された真実を求めなければならない。しかし ―― 。

「この波を収める術が、俺にはない。」

 それは冷静を装った絶望だ。闇を打ち破る事に邁進まいしんして来た自分の退魔師としての経験。其の何処を思い出してみても闇を平癒させる術など使った事が無いのだ。

 有る訳が無い。自分は相対した『魔』には更なる力を持って調伏を果たしてきた『根来の阿仁王』。闇と同じ地平に立つ事等考えた事も無い。

 知識としては存在はする。しかし、其れを使う事が出来るかどうかは自分の経験に裏付けられた物である事は間違い無い。初めての真言法術を出たとこ勝負で使えるほど、其れは甘くない。自分が其の力に耐えられなければ、覚慈を見つける前に自分の命運が尽きる事になるのだ。

 頭の中に浮かんだ一つの真言が有る。其れならば恐らくこの波を収める事が出来る ―― 或いはこの闇を支配する事も ―― であろう。だが其れを使うには自分は余りにも矮小すぎるのだ。術士としても。法力僧としても。

 覚瑜の目の前の海面が突如爆発した。衝撃波に揺さぶられる意識がその状況の変化を感知しようと集中する。其の脳裏に浮かんだ物は巨大な黒い爆炎のような物だった。見る見るうちに其れは高さを増して覚瑜の頭上で大きく何本にも分かれると、緩やかに不自然な放物線を描いて覚瑜目掛けて其の先端を向けた。

 それは海竜。肉塊が纏っていた人面の大蛇よりも遥かに大きく、そして邪悪だ。何の干渉も存在しない純粋な闇の世界が作り上げた神話の生物。それらが今正に覚瑜に対して其の存在を飲み砕こうと暗い荒海から其の姿を出現させていた。

「いかん、途方に暮れている場合じゃない。」

 覚瑜は決心した。敵地に踏み込んだ自分に与えられた物は敵対する者の悪意と殺意。一瞬の逡巡が命取りになるのは解り切った事ではないか。心の何処かで澱んでいた生に対する執着を拭って覚瑜は静かに両手を合わせる。掌を境にして左右対称になる様に両の人差し指だけを開くと其処から金色の光が迸り全天に向けて突き刺さった。

「虚空蔵菩薩求聞持(ぐもんじ)法。」金色のレーザーが扇状に広がって海面を奔る。

「オン・バザラ・アラタンノウ・オン・タラク・ソワカ 」

 真言前段を口にした途端に覚瑜の姿がぼうっと靄と化した。其処へ目掛けて海竜の頭が次々に殺到する。一瞬にして靄は散されて宙を舞った。だが其の総数が失われる事は無い。尚も犇く竜頭の隙間から漏れた光の帯が再び位置を変えて実体を為した。輪郭が闇の中で書き加えられた時点で、更なる詠唱が付け加えられる。

「ナウボウ・アキャシャギャラバヤ・ オン・アリキャ・マリボリ・ソワカ」

 後段の二重詠唱。それで術は発動した。開祖空海が大安寺の戒明より伝授され、御蔵洞(在・現高知県室戸市)にて悟りを開く為に唱え続けた真言の一。此の世の森羅万象と我が身を一体と化し其の全てを手中に収めて制御する、真言の中でも最上位に位置する呪術。此れに比べたら覚瑜が使役する大威徳明王真言など児戯に等しく、自分の様な若輩者が使い切れる物ではない。

 だが、今この闇の海を鎮めて求める物を手にする為には、一か八かの賭けが必要だ。それが覚瑜がこの真言を選択した動機だった。

 光体の輪郭が再び解けて無数の線となって闇の中をひた走る。そこに限定された空間を形成する肉塊の意識を制御し抵抗を排除するべく、覚瑜は果てしなく引き伸ばされた自分の自我でそれらを包み込もうと試みた。


 雷光に照らし出された林の中で、穏行印を結んで石像の如く固化した覚瑜の肉体が突然痙攣を始めた。ぶっと言う音と共に全身の穴という穴から血が噴出す。全身の筋肉が痙攣の領域を超えて振動し始め、心臓は心房細動と完全停止を繰り返す。

 肉体の活動が生存領域を踏み外しそうになりながらも、覚瑜の両手は硬く印を繋いでいた。両腕を其の状態で保持したままで、其の外の部分が既に限界を迎えた。痙攣が治まった肉体の部位から徐々に力を失い、やがて覚瑜の肉体はその場に力無く横たわった。


「ぬうっ! 」其の世界の隅々まで引き伸ばした光の線が千々に千切れた。自分の意識であった筈の物が一瞬にして途切れる。そこに有る筈の無い肉体の内部で小さな爆発でも起ったかの錯覚に陥る。

 爆散した意識が夜空に煌く花火の残光の様にふわふわと荒れ狂う海面に向かって舞い降りる。其れを待ちかねた波濤が全てを飲み込もうと鎌首を擡げた。まるで覚慈の体を取り巻いている人面の大蛇の様に。

「しまったっ! 」

 焦る覚瑜の思惑を他所にそれらは元に戻る事は無かった。断裂した、彼の物であった筈の意識体は其の全てが覚瑜の支配から解き放たれている。

 力が足りなかったのだ。術を発動させるに足る法力が不足していた事で、其の代償は覚瑜自身に降り懸った。限界まで引き伸ばされたゴムが千切れる様に、術は覚瑜の意識を寸断した。 空中に散らばった其の全てが一つの意識となって、だが其の全てが思う様に成らないままで、覚瑜は自分に向かって迫り来る波の姿を只、見つめた。

 目の前に広がる其れは波の形をした闇。それがこの地の底より起った物か、覚慈自身が抱き続けてきた物かは分らない。だが覚瑜の意識の粒が一つ、また一つと飲み込まれて行く度に、それが人発祥の物だと理解を深めた。

 何の事は無い。其処に満ち溢れている物は自分の中にも存在している人間の本能其の物に過ぎない。ああ、そうか、と覚瑜は途切れる意識の中で呟いた。

 自分が正義の名の下に打ち滅ぼしてきた物、『魔』。其の正体は自分が守ろうとして来た『人』其の者だったではないか。

 人を守ろうとして『人』であった物を調伏して、その事に満足している自分が居た。愚かしい。これでは自分はまるで道化ピエロだ。そこで誇りに満ちていた自分のいた世界はまるで『茶番劇バーレスク』ではないか。

 波に飲み込まれる。飲み込まれた先に有る、呪いと妬みと嫉みと恨み。ぶつける事の出来なかった、其処に有る人々の『悪』全てが覚瑜の意識を飲み込む為に押し寄せてくる。

 ああ、此れで今日何度覚悟をした事だろう、と侵食される意識の中で思った。やはり自分は敵わなかった。刺し違えてまで守ろうとした友の誇り。だがそれは本当は其の言葉に隠した自分の自我エゴであったのだろう。

『悪』と化した覚慈を討ち取る事によって自分の誇りを守ろうとしただけ。そんな陳腐な考えで『此れ』を調伏する事など出来なかったのだ。だって、これは、この者は ―― 

「人が求める、本当の願い。」

 それが真理かどうかは分らない。力不足の自分は其の術を使うには至らなかった。だが多くの者が求める願いを叶える力が自分に有る筈が無い。これに立ち向かうにはにはそれこそ、神の、ちからが …… 。


 暗黒に満ちた海の底で覚瑜は目覚めた。目覚めた事に覚瑜は驚きを禁じ得なかった。光の只一粒でしかない自分が其処にいて、飲み込まれもせずに暗い海面を眺めている。

「此れは一体 …… 」

 先程とはうって変わって静けさを取り戻した水面を見上げながらぼんやりと呟いた。自分は既にあの闇に意識を食い尽くされてしまった筈。

 では此処は何処なのだ? ああ、またこんな事を考えている。さっきは奇跡的に奥の院に辿り着いたが、そう何度も奇跡が続く筈は無い。では今度こそ自分は彼岸の岸辺に辿り着いたのか。それとも三途の川にでも沈められたか。

「残念じゃが、主のいる所は彼岸でも三途の川でもない。いい加減に目を覚ませい、この戯けが。」

 覚瑜の意識に、しわがれた老人の声が飛び込んできた。

「 …… どちらさまでしょうか、拙僧に呼びかけられるお方は?未だに頭がはっきりせぬ故 ―― 」

「其の礼儀正しさは見上げた根性を通り越して既に阿呆の域に達しておるが。今は主の呆けに付き合っている暇は無い。とっとと起きんか。馬鹿者。」苦笑を含んだ叱咤が木霊して、覚瑜は気付いた。

「上人様、に、ございますか……? 」

「其の侭でいいから、儂の話を聞け。…… 先ず、其の呆けた頭をはっきりさせろ。今すぐに、じゃ。」

 其の言葉で、覚瑜の意識が覚醒した。実体が其処にあったなら自分の頭を力いっぱい怒付いていた事だろう。

「し、上人様、今何処にいらっしゃるのですか?いや、それよりも拙僧は何故意識が有るのでしょうか? 」

「一々質問が多い奴じゃの。答えてやるのは簡単じゃが今は必要な事しか話せん。時間が無いからの。」

 そう言う覚鑁の声はフフンと覚瑜の問い掛けを鼻で哂っていた。

「予想通り『虚空蔵菩薩求聞持法』を使いおったか。儂が見込んだ通りの無謀な奴じゃ。今の主に遣い切れると思うておったのか? 先ずそれを聞きたいものじゃ。」

「い、いえ。しかし、」自分の覚悟を嘲われたような気がする。覚瑜の声が知らずの間に激した。

「では、一体どうしろと!? 肉塊の意識に浸入はしたものの、拙僧には其処から踏み込むほどの力は持ち合わせません。ましてやこの『人』の暗部の集まりの中から覚慈の自我を探す術など。如何に考えても開祖の秘術を用いるしか手は無いではないですか!? 」

「やかましい。そんなに怒鳴らんでも聞こえとるわ。主がそれを使う事は織り込み済みじゃ。失敗して死に掛ける事もな。」

「なっ ……。」覚鑁の口から放たれた暴言 ―― 少なくともこうなる事を知っていてわざと教えなかったという点に於いて ―― に言葉を失う。

「理不尽か? 其れは分らんでもないが、今は主の抗議を聞いてやる時間は無い。失敗したら彼の世で存分に聞いてやる故、今は儂の言う事を聞け。」覚瑜の反問を挟む余地も無く、覚鑁は言葉を続けた。

「今より、儂がこの者の意識と一体化する。時間はそれほど長くは無い。其の間に主はこの中から覚慈の意識を見つけるのじゃ。」

「見つける、と言いましても其れは先程試みて失敗しております。この上如何なる手段で ―― 」

「闇に飲み込まれた主の意識全てを使うのじゃ。無数に散らばったそれらとの同調を果たして探してみよ。そうすれば、今度こそ必ず見つける事が出来るはずじゃ。見つけたら其処に意識を集中して覚慈の自我に印をつけろ。其の時は儂も手伝ってやる。」

「印をつけた後は如何にすれば、」

「ああ、全く。全部言わんといかんのか? 目を覚まして戦え。主の意識が去った後でも儂の意識が覚慈の自我を捉えておる。主の目には其処がはっきり映るはずじゃ。其処目掛けて獲物を刺して有りっ丈の法力を流し込め。」

「そ、そんな事をすれば上人様の意識ごと昇華してしまうのでは御座いませんか? その様な事を拙僧が出来る筈が ―― 」

「 …… つくづくじゃの、お主は。今はそんな事を心配している場合か! 大体主の如きへっぽこ術者の技などで、この儂が昇華されるとでも思っておるのか? 思い上がるでないっ! 」

「は、はいっ! 失礼いたしました。」余りの剣幕に心胆縮み上がる思いで返礼する覚瑜。

 失念していた。見かけこそ木乃伊の如き出で立ちでは有るが、それが唯一無二の法力を有する僧侶である事に違いは無い。現に自分がやっとの思いで浸入を果たした肉塊の意識の中にも易々と入り込んできているのだ。

 自分の不明を恥じながら覚瑜は覚鑁に言われた通りに、散らばったままで何処に有るとも知れない自らの意識の欠片を捜し求める為に、集中を始めた。


 体は其処に有りながら、其の手足は無限に伸びていく様な気がする。闇に飲まれて染められた自分の心の欠片。微かな法力の匂いを放つそれを見つけて、見えない手で握り締める度にとても細い糸で結ばれていくような気がする。結ばれる毎にはっきりしていく意識。そこに寄り添う様にして何かの力が働いて、繋がりのラインをより一層強固な物にしていた。恐らく覚鑁の意識がサポートしているのだろう。

 だが其の力が強くなればなる程覚瑜の頭上の海面は騒々しく蠢き始めていた。体内に侵入した異物の存在を再び探知した肉塊の意識が彼らの存在を黙って見逃す筈が無い。ラインへの圧迫は一瞬毎に其の力を増して圧壊しようとしている。

 だが如何に力を加えられようとも其れが途切れる事は無いという確信が覚瑜にはあった。周りを取り囲む液体の様な物は其の密度を増して今や土の如し。だが引き伸ばされていくラインは其れに屈する事無く掘り進んで、次々に覚瑜の意識であったものへと繋がってネットワークを構成する。蜘蛛の巣が出来る十倍の速さで構築される意識の網が徐々に肉塊の意識の中で成長を始めていた。


「やれば出来るではないか。やれやれじゃ、とんだ手間を掛けさせおって。」

 現実の世界へと意識を戻した覚鑁が心の中で呟いた。其の声音には何処かしら安堵の色がある。それは最期の時が迫って来ている事を知るが故。空ろな眼窩を照らし上げた雷光が徐々に其の威力を弱め始め、それに対比して黒い肉塊は遂に自分のターンが訪れた事を知る。

 もぞもぞと、やがて其の動きは波打つ様に蠢動を始めて待ちに待った攻撃を仕掛けようと、全身に巣食う人面の大蛇を伸ばし始めていた。

 覚鑁の体は既に半分崩れ落ちていた。足元を埋め尽くしても尚零れ落ちていく舎利の存在を感じながら、覚鑁は静かにその時を待つ。

 自分の存在が此の世から消滅する時。だが其れこそが目の前に聳え立つ肉塊を無に帰する唯一のチャンスでもあり、そして彼が密かに抱いていたもう一つの目的を成し遂げる為の唯一の手段でも有る。

 覚鑁は祈っていた。願わくばこの紛い物の悪魔が槍などではなく、自分の体を其の人面に設えられたあぎとで蹂躙してくれるようにと。

 遂に雷電はその場から姿と光を失い、辺りは以前と同じ様な静寂に包まれた。ただその(しじま)の中に煌く幾つもの燐光。地獄へと魂を誘う鬼火の如くにゆらゆらと揺らめきながら十重二十重と重なり合って、死に体になりつつある覚鑁の周囲を取り囲んでいた。

 其の事は覚鑁にとっても不思議な心境を齎した。自分は遥か過去に一度死んだ存在。深く閉ざされた暗闇の中で今生の未練を断ち切り、この地に何時か訪れるであろう悲劇の為に、自らの存在を持ってこの地を封印聖所とする為に即身仏になる事を選んだ。そこで自分の現世での役割は終了した筈。

 だが今有り得ざる再びの死が彼の元に訪れようとしている。だがそれは自分の思惑とは関係の無い完全な消滅を意味する。今までの自分の存在意義を否定し、人々の記憶の中にのみ其の名を留めるだけの者に成り果てる。其の事実を自らが容認する事は是か、非か?

「 …… いや、今となっては其れも瑣末な事にしか過ぎんか。」

 心の声で呟く覚鑁の声に僅かばかりの無念が滲む。自らが築き上げた聖地は自らの弟子によって穢された。地より溢れ出す人の負の感情を押し留める事も出来ないままに、其の後始末を若輩ともいえる只一人の法力僧に委ねなければならないという憐憫。其の代償としての再びの死という事であれば、其れは其れで受け入れるしかない。

 第一、既に自分が守ろうとした物全ては其の思惑を離れて暴走を始めている。それを止める事が出来ない以上、自分が此処に存在する事の意義など見出せる筈が無い。

「 …… だがな、覚慈よ。」空洞となっている筈の双眸。もし此処が真の暗闇だとしたら、其処に微かな灯りが燈った様に見えるだろう。

「このままこの根来の地を、堕落したお主の様な者に無償で蹂躙させる訳にはいかん。」

 心の奥で燃え上がる闇の炎と言の葉。其れは『開祖覚鑁』の名を冠した者の意識ではなく、恐らくはその土地に執着し続けた者としての意地。

「主が其の身にこの地全ての怨念を纏わり付かせた存在というのなら、望む所。儂は如何なる手段を用いてもそれらをお主の存在込みで昇華させて見せる。ついでに」

 炎は紅蓮に。

「主が壊した儂の寝所の替わりに新たな住まいを提供してもらう。お主は其の道案内じゃ。…… 言うて置くが、儂はしつこいぞ?何せこの地に九百年近くもしがみ付き続けたのじゃからな。」

 紅蓮がオーラの形を借りて全身より溢れ出す。不動明王が全身に纏いし浄化の炎の如く。だが無論其れは浄化などではなく、ましてや其の只中に座したる者は神ではない。唯の、嘗て人であった筈の唯の屍。妄執の炎を纏った、唯の。

 それまで覚鑁の周囲を嬲る様に徘徊を繰り返していた大蛇共が、そのオーラに反応した。死に体だと確信していた存在より湧き上がった焔が彼らの防衛反応を刺激するのは、過去の例を省みても当然の事と言えた。

 その次に起る事。それは必ず彼らを思わぬ窮地に陥れる事象が発生するという事を彼らは骨の髄まで叩き込まれている。故に次に彼等が取った行動を非難する者は恐らく皆無であろう。

 トラウマが行動を支配する。動きを止めた大蛇達の顔がその屍ただ一点に振り向けられる。命を貫く槍を設える暇ももどかしく、彼らは一斉に覚鑁の体へと群がった。まるでそうせねば自分達の命が危ないとでも言わんばかりに。

 その成り行きをじっと見詰める覚鑁。もし自分の顔に肉が残っていて、眼球が干からびもせずに残っていたとしたら自分はきっと今笑って見詰めているだろう、と覚鑁は思った。存在を抹消しようと殺到する私の死神達。だがそれこそが今私が求め得る最高の結果。私が、そして彼女が選んだ者に対する最大の贈り物になる筈だから。

 吹き込み過ぎたビードロが粉々に砕ける様な、小さく儚い破壊音。覚鑁の体は既に大蛇の攻撃を受け止める事も出来ないほどに損耗していた。触れた端から砂となり、一瞬の内に地面と同化して行く存在。土台を失った頭蓋骨がポロリと転がって地面に落ち、それも堕ちた所が陥没して全体に卵の様なひび割れを走らせた。

 互いの体で摩擦を繰り返しながら尚も覚鑁の存在を捜し求める大蛇達。疑っていた。そんな筈は無いと。溢れる欺瞞は留まる事無く彼らの行動を捜索へと駆立てる。見敵必殺。本能にも似た確固たる信念を満足させるべく彼らは動き続ける。

 其の中の一匹 ―― いや一人というべきか ―― が白い灰と共に地面に蹲る覚鑁の衣服の側に転がる『何か』に目を留めた。


 其の目を通して覚慈は知る。全てが粉々に砕けても其処に法力の残滓がある。故に形を留めていたのだと。

 細くて白い二本の枯れ枝が複雑に絡み合ってそこに有る。地より吐き出された魔疽によって生命を吸い取られた木々の枝と見まごう様な、目立たぬ其の存在。気が付かなければ、それが何で有るか理解できなければ恐らく見過ごしてしまうであろう白枝。だが覚慈の意識が白枝の瘤が何で有るか理解した時、彼の心の中の大半を占める闇の世界は恐れおののき、其の世界から取り残された微かな自我は、一縷の希望を其処に見出そうとする。

 それはいくつかのパーツが掛けてはいるものの、間違い無く人の両手の骨だった。組まれた両の掌から平行に伸びる互いの人差し指。それが何を意味するのか覚慈は瞬時に理解し、心の中で叫んだ。恐怖と歓喜で。

 ―― 虚空蔵菩薩印 求聞持法 ――

 理解した瞬間に変化は訪れた。

 其処にある全ての動きが、止まった。


 肉体を噛み砕いた大蛇達の牙を通して送り込まれた覚鑁の最期の術。それが黒き肉塊の隅々に行き渡り、且つ全身の機能を支配するのは刹那。

 菩薩部の中でも高位に位置する虚空蔵菩薩。故に其の名を冠する術は天界に於いても比類なき力を発揮する事が出来る。解呪ディスペル出来る者はほんの僅かにすぎない。つまりは発動すれば最期『完全なる支配』が待っている。

 意識を乗っ取られた訳ではない。事実自らの体の頚木を解き放とうと努力を続ける黒き肉塊。しかし其の行為が全くの無駄で或る事を理解するのに左程の時間は要さなかった。自分の ―― つまり覚慈の ―― 意思は首から下で滞って、絶対に其処から抜け出す事は不可能。其の事を理解する事が簡単なほど強烈で、直ぐに認識出来る術が体内に浸入した事が分る。

 強固な意志と使命感を螺旋の様に絡み合わせて、肉塊の体内にもう一つの肉体を作り上げられたかのようだ。しかも今となってはそちらの方が主体となって肉塊の動きを支配している。

 焦燥に悪意を捩らせながら覚慈の心を支配していた『魔』が声無き咆哮を上げた。それは今正に消えんとする蝋燭の灯火にも似て。消されまいと、消えまいとする執着のみが其の炎を保とうと全ての力を注ぎ込む。

 だがかつて数多の悪意無き人々を己の闇に取り込んだ筈の強大な力も、其の術の前では余りに無力。芯を根元から押し切られる様に、その炎は吹き消された。

 そして残った物。術と共に送り込まれた覚鑁の意識と、そして、

「上人様っ! 覚瑜っ! 」

 一度は闇に飲み込まれた、男の声。鮮明に、そして確実にそれは其処から全ての方位に向けられて放出された。車軸が回り出す様に再び動き出す、時と共に。



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