表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/41

                 悪 鬼

 契約と言う名の下に理不尽な交換を強いられた『結印』の修法はその後三年もの間、彼ら修行僧の心身を苛み続けた。彼ら全てから生れ付き与えられた人としての権利である『声』を奪っていった『師』の発言は実の所全く正しく、声を失う事によって彼らが操る事の出来る法力は質、量共に増大した。しかし同時に、未熟な彼らが力を使う事によって発生する危険性も増大した事を意味していた。

 印を結ぶ事で退魔の力を初めて発揮する『真言』。だが其の力を具現化する為の『声』を奪われた彼らには、現実に向けて其れを開放出来ないのだ。体の中を駆け巡る法力はその退魔の破壊力を持って彼等の内臓を、血管を、神経を、そして細胞を切り刻もうとしていた。

 暴走にも等しい力をなけなしの精神力で、彼らは必死に制御しようと試みた。怒り、悲しみ、苦しみ。にべも無く陥れられた彼らに蟠る全ての感情を総動員して、やっと均衡を保つ事は出来る。しかし其の状態が夜明けから日没まで延々と続けられば、彼らの精神や行動にも齟齬を来す。

 結んだ印と合致しない真言を心の中に描いた瞬間、魔を討つ為の力は容易く彼らに襲い掛かる。内臓や血管の損傷などはまだ軽症だ。暴走が細胞レベルに達した時、人の体はあっと言う間に蕩けてしまう。

 事実、この三年間の内に彼らの目の前で四人の仲間がこの世から消え失せた。

 そうして十六を数える修行僧が ―― 何人かは『補習』と呼ばれる粛清に其の命を落としたに違いない ―― 残ったあの日、最後の修行が始まった。


 漆黒の闇の中。音無く、風無く。ただ只管に真言を唱える人影だけが仄かに輝く。しかしそれは蛍の輝きにも似て微かな物だった。

 蹲ったまま深く目を閉じる『43』番の命数は今正に尽きようとしていた。自らの血流の音しか聴こえないこの空間に押し込められ、真言を唱え続ける。何十万、いや何百万回か? 数も時間の概念も無く、いや、そもそも自分が座っているのか寝ているのかすら意識する事も叶わない。

 真言を唱える事によって身体の中を流れていく法力が、此処に到る以前の三年間と同じ様に彼の体組織を蝕んでいく。皮肉にもそこに発生する痛みだけが『生』という事実を『43』番に実感させた。

 しかしそれにも限界は存在する。痛みが痺れに変わり、命が尽きるであろう瀬戸際に立った今頃になって、彼を絶えず苦しめた其の痛みの元が彼の細胞一つ一つに干渉し何か別の物を作り上げようとしているのが理解出来た。しかし其の正体と目的を理解するには、彼の命脈は余りにも少なすぎた。

 諦観にも似た感情が彼の心を大きく支配する。閉じた瞼の裏側でしきりに点滅を繰り返す『意識』と言う名の光の輝き。途切れた時が恐らく『43』番にとっての最期の時だ。

 しかし彼の心中に存在を拡大する『死』と言う不可避の事実に対して、彼の感情は何の感銘も受けなかった。人の身ならば恐怖を覚えてしかるべきである『死』は、彼が過ごして来た日常に於いて直ぐ隣に存在する日課の様な物であった。

 以前『師』も言っていたではないか、と去来する言葉が彼の心に覚悟を促す。

 我らが『生』は多くの『死』の上に成り立っていると。自らに『生』に値せぬ力無き者は選抜者の礎に成るのみ。屍の上を踏み越えて生き残った者こそが『お役目』を果たす権利を得る事が出来るのだ。今までの自分が歩いて来たその道を、今度は他の誰かが。

 瞼の隙間から忍び込んで来ていた自らの燐光が微かな光へと変化を始める。

「いよいよ、私にもその時が来たか。」

 命の喪失は其の輝きに明確に現れた。体中に穴が開き、何処かへ流れ出して行く力を押し留める事も出来ず、それでも最期の力を振り絞って更なる吐息を吐き出して真言を唱える。それは彼の前で散って逝った多くの修行僧達に対する祈りに似た物でもあった。

 法力に痛めた体から感覚が喪失を始める。自身に訪れている闇が黄泉路への扉なのか、現実を忌避しての物なのかも分からなくなっていく。そうして最期の命の灯火が法力と共に吹き消されようとした、その時。

 突然彼の視界の中に炎が立ち上がった。それで自分の瞼が既に力を失って開放されたままである事に気が付いた。暗闇で仄暗く立ち上る不気味な炎は、朧な輪郭を彼の視界に焼き付けて次第に近づきつつあった。

 彼の視覚が其の正体を知る事は出来ない。瞳を凝らす力も無く、輪郭すら捉える事も出来ない。だが『死』の覚悟を受け入れた彼にとっては、近づきつつある者の正体が何であるか等と言う事は既に如何でも良かった。ただ『炎の様な物』という認識だけで。

 例えそれが死神であったとしても自分にはどうする事も出来ないのだ。寧ろこれ程罪深き己にもお迎えが来るのだと、途切れる意識の中で彼は幾度も願いながら望みを聞き届ける事の無かった『神』と言う不確かな物に感謝した。

 炎は彼の前に立つ。手を伸ばせば触れるほどの距離。立ち上る炎の先端がより高くなる。其処に何らかの意志が介在する事は明らかであった。それが死神でも仏でも構う事は無い。『43』番は渇ききった虚ろな瞳で見上げながら、祈りの言葉を吐息で告げた。

「願わくば我ら礎となりし者どもに、御加護と安らぎをお与え下さい。」

 魂の奥から振り絞る様に零れる最期の言葉。言葉を境に、蝋燭が消える様に収束して逝く意識。人としての尊厳を全うして瞑れる理性の最期の一片が彼方へ旅立とうとした瞬間。

 冷たい感触が腹部から背中に訪れた。次にそれは灼熱へと変化する。そして激痛。一片しか残ってなかった筈の彼の意識は刹那の単位で無限増殖を繰り返し、あっという間に元の状態へと復元された。

 そして彼は目の前の炎が幽界からの使者等ではなく、人である事を知る。其れはついこの間まで共に苦痛しか与えられない修行の耐え続けた十六人の内の一人である事に気付いた。

 冥界から誘われたと信じて疑わなかった炎の正体は男の法力の光。自分目掛けて真直ぐに伸びる右手は彼の腹に生えている物を掴んだまま震えている。反射的に彼は其の手首を拒む様に掴んだ。

 冷たく、枯れ木の様に細い其の男の腕。闇に紛れて判別し様の無い自分の腕も多分同じ形をしているのかと思いながら、有りっ丈の力を込めて握り締めた。

 掌に残る感触は折れる等と言った物では無かった。文字通り崩壊を誘発して潰れる手首。僅かに残る彼の良心が呵責を覚えて、力が緩む。

 人ではない絶叫を上げながら炎は彼の前から後退した。距離を取って対峙したまま動かない炎を睨みながら、すぐさま彼は腹を弄って痛みの正体を探る。内臓を駆け巡る灼熱とは余りにも懸け離れた、冷ややかで硬い物が彼の手に感触を与えた。不自然に彼の腹部から生え出た物、殺意によって人の手で突き通された物。それは紛れも無く『武器』の形状をしている。

 長鈷杵。握りを中心に双方向に短刃を備える『独鈷杵』とは違い、片側にだけ約三尺の刃を持つ、所謂太刀に近い物だ。反りは無く、諸刃である為に敵の攻撃を受けるには不向きな、かつて戦国時代に専ら僧兵が吶喊とっかんの時に好んで使った武器だ。

 刃は彼の体を貫通して背中に抜けている。状態を理解した彼の肉体が、死への過程をなぞり始めた。体の深奥から上がってくる鉄の味がする液体。口腔一杯に満たされた其れは固く結んだ唇の隙間から溢れ出そうと圧力を上げた。反射的に上がる右手が押さえようと口に叩き付けられる。 

 間に合わない。硬く食い縛った歯と指の間から噴出して、湿った雑巾を叩き付ける様な音が彼の耳に飛び込んで来る。其の液体が降り注いだ太腿に有り得ない熱を感じる。感覚を失いつつあった自分の身体の変調に恐怖を感じて思わず見下ろす視線。其の先に暗闇に光る、彼自身の中で命と法力を繋いでいた物。

「血が …… 光っている。」

 彼の血液の中から励起された蛍光の池。全てを忘れて目を逸らす事の出来ない其の光景を、我を忘れて眺める彼の耳に魍魎の吐息が拍動を刻んで届いた。

「死んでくれ …… お前の命を俺に、頼む。」

 声の元は炎の中に浮かび上がる人の影から発せられていた。距離を置いて動きを止めていた筈の暗殺者 ―― そう言う以外にどう表現すればいいのか ―― は、彼が気が付いた時には彼我の距離を詰めていた。彼と同時期に、同じ場所で、同じ男に同じ方法で声を失った男の吐息が青い息交じりの拍動を声代わりにして、彼に呟く。

「死にたくない。お前の力 …… 俺にくれ。」

 一方的に要求する暗殺者の提案は、彼にとっては不可解極まる物。弱者の論理側に立たされた彼の要求は、暗殺者に対して当然の質問を投げ掛けるしかない。失った血の量に比例して減少する意識を必死で繋ぎ止めながら、彼は炎を睨み付けた。

「何故、私を殺す? 」理不尽な死に対する怒りがあった。「殺してどうする気だ? 」

「解らない。『師』がお前を殺すようにと …… 言った。力 …… 自分の物に ―― 。」

「『師』だと? 『師』が本当にそう言ったのか? お前に、俺をそうしろと。」

 混濁を続ける意識を侵食する、言葉の衝撃。思考を巡らす行為は、命を脅かされつつある彼にとっては自殺行為に等しい物であった。其の瞬間まで彼は、自分の目の前に近寄って来る男の事を『同じ境遇に追いやられた哀れな仲間』だと信じ切っていた。だが間違いに気付いたのは、目の前の炎から枯枝の様な二本の手が ―― しかも一本は彼が握り締めた場所から不自然に垂れ下がっている  ―― 彼の頸に巻付いた時だった。

 窮鼠の力。地上の頂点に立った筈の『人』と言う種同士で連鎖の上位を争う意志が、暗殺者の朽ち欠けた其の手に込められて彼の喉笛を締め上げた。そのまま彼の体を吊り上げて壁へと叩き付ける。

 肉の無い、骨の感触が彼の喉に伝わって呼吸を止める。背中から叩き付けられた反動で長鈷杵が抜け落ち、足元で鈍い音を立てた。胴体を貫通していた傷口からは更なる血が零れ出して、蛍光の血溜りがその領域を闇に拡大して、絶命の砂時計の時を刻む。其れを理解した暗殺者の二本の手は、彼の残り少ない現世での時間を更に短縮する為に、声帯という骨を『師』に奪われた彼の気道を押し潰そうと渾身の力を込めていた。

 暗殺者の口腔から吐き出される息が、熱い。勝利を確信した者のかおは、吐息の中に紛れ込んだ法力の光に浮かび上がって醜悪な影を彼の視界に映し出す。陰湿な欲に支配された其の貌に猛烈な嫌悪感を覚える。理性という仮面ペルソナをかなぐり捨てた人間の本質。

 その時、彼の中で何かが変わった。

 慈悲、価値観。『フランクフルト症候群』に代表される極限下に於ける『家族愛』に支配されていた彼の心は、許可も許容も出来無い暗殺者の表情を見てしまった事で霧散した。替わって其処に上書きされる怒りの言葉。

 こんな奴の踏み台になど。其れは消え逝こうとしていた彼の魂の誇りであったのかも知れない。だが怒りは彼一人の境遇に対してではなく、彼の前に、彼の足の下で踏み付けられた何倍もの命を拠所にした物であった。

 こんな奴に踏み拉かれる様では、自分の為に犠牲になった多くの者達に許される筈が無いではないか!

 あまねく怒りが彼の中の何かに火を衝けた。残量僅かな血液の中を、力を求めて法力が駆け巡る。長い歳月を掛けて書き換えられた細胞の一つ一つが賦活し、取り込まれた法力が意志を携えて力に変わる。吐き出された力は全ての伝達経路を利用して全身へと伝播する。死の淵に立っていた彼の肉体は、暗殺者と同じく窮鼠の力を漲らせて再び現世の舞台へと降り立った。

 勝利を確信していた暗殺者は、彼の肉体から溢れ出した力の変化を感じ取って狼狽を露にした。押し寄せる戸惑いを払拭する為に、更に力を込めて彼の首を握り締めた筈の両手がそれ以上の侵攻を果たせない。

 手の届きかけた暗殺者の勝利は、理解の出来無い力によって覆されつつあった。首の拘束を解いて思わず後ずさる暗殺者の炎。それを不倶戴天の敵の様に見詰める彼の姿。暗殺者はほんの僅かに室内を照らす光の中で、自分の獲物が見てはならない異形の存在に変貌した事に気が付いた。

 其れは正に『鬼』。吐く息は白い靄を伴って、両の瞳はは赤洸しゃっこうを放つ。髪は逆立ち、そして何よりその体躯から放たれる殺気が暗殺者の生存本能をにべも無く握り潰した。

 圧倒的な力の差。死すらも覚悟させる『鬼』の発現は、暗殺者の法力全てを掻き集めた所で対抗も、抵抗すら覚束無い物だという事を本能で認識させるには十分であった。其の姿こそが、暗殺者に与えられた告死天使の姿。

 齎される『死』への恐怖が暗殺者の心を鷲掴みにする。発熱か痙攣かも判別出来ないおこりが体を支配した。

 震える。止められない。胃がせり上がって来て、失われた舌の代りに今にも動き出しそうだ。それがもし可能ならば伝えなければ。

『今のはほんの出来心』であったと。

 慈悲を求める暗殺者の心と顔に見向きもせずに『鬼』が動く。足元の血溜りの中で鈍い光を放つ長鈷杵を拾い上げるその姿。ぎくしゃくとした緩やかな動きを阻止する事が出来ない。何故なら暗殺者の心は既に『死』んでいる。握り潰された『生』への執着は暗殺者の肉体から力を奪って其の両膝を挫かせた。

 その場に坐ったまま、やがて訪れるであろう『死』のくびきに縫い付けられる暗殺者の姿。迷う事無く男の前に進み出る『鬼』の影。一瞬にして立場を変えた二人の周囲を包み込む闇。どれもが狭い空間の中に仮想の地獄を創り上げた。逃げ道の無い其の場所で、断罪の裁きを執行する為に暗殺者の下を訪れる『鬼』。腹から零れた蛍光を放つ血液が暗闇に象った足が暗殺者の目の前に姿を現した時、刑の執行は始まった。

 滑らかな動きで掲げられた両手が、何の斟酌も無く振り下ろされる。纏わり付いた輝きが血である事を確認した暗殺者の思考を掻い潜る様に、切っ先が胸に潜り込む。刹那、暗殺者は理解した。 

「こいつは、俺を殺す気だ。」

 人としての淡い期待を相手に求める惰弱な『人』としての発想が、刃が貫く最期の瞬間まで暗殺者の心を曇らせていた。そうならない様に逃げるべきだったのだ。

 嘗て『人』であった者に暗殺者が為した事と同じ運命が、自らの流す血を代償として繰り返される。ただ暗殺者と『鬼』との違いは突き通された刃の勢いのみ。

 暗殺者の体が衝撃に耐え抜く事は考えられなかった。襲い掛かる激痛と共に其の肉体を刃の上に預けた暗殺者は、鈍い音と共に床の上へと串刺しになる。刃の隙間から吹き上がる光の噴水は、捉えた長鈷杵が心臓を貫通した事を意味している。死の痙攣に囚われながらも暗殺者の生命活動は止まらない。なまじ鍛えた法力が全身を閃光の様に駆け抜けて、人の世の常識を凌駕しようと其の本領を発揮した。

 無駄なのに。

 光る『鬼』の顔が瀕死の悶絶を繰り返す暗殺者の視界一杯に広がった。既にその両手は武器を手放して暗殺者の視界の隅に存在を誇示する。どちらの血に塗れたのかも判別出来ない光る掌が、暗殺者の身体を拘束しようと迫って来る。熱を帯びた吐息が顔に掛かるのもお構い無しに男は胸に手を当てた。

 今ならまだ間に合う。これを引き抜いて今度こそこの男の首を、撥ねれば ――

 胸を押さえた両手は、其処から生え出た長鈷杵の柄を握り締めたまま微動だにしなかった。自らを貫通した其の刃が深く床に突き通って、既に暗殺者に残された力では事態を打開出来なくなっていた、という事もある。しかしそれ以上に暗殺者の自由を奪っていた物は、肩を押さえ付けた『鬼』の両腕の存在だった。

 物凄い力だ。標本の虫に成り下がる運命が彼の脳裏に其の映像を展開する。そしてそれを本能が拒絶した。もがく両足が自分を組み敷いた『鬼』の身体を下から蹴り上げて、それで貫かれた心臓の傷が刃によって更に切り開かれるのも厭わない。陵辱される尊厳を取り戻す為の欲望が、抵抗と言う名の行動を暗殺者に決定させた。

『鬼』の顔が男の視界から消える。次に衝撃。後頭部を床に叩き付けられて首が圧迫される。絞殺の感覚が暗殺者の記憶に蘇った。其れは自分がこの男の命脈を絶とうとして行った行為。因果応報。自分の最期が自分の選んだ手段によって飾られるのか、と言う ―― 誤った認識。

 それを理解したのは『鬼』がその禍禍しい相貌を振上げて、暗殺者の顔を見下ろした時。

 地獄の笛の音。形容し難い喉鳴のどなりを自分が発してる事に気付くまで、戸惑いと共に要した時間はほんの僅かな間だった。ごっそりと食い千切られた首。あぶくと共に泡沫の煙を上げる頚動脈。剥き出しの頚椎を覆い隠す様に大量の血液が、仄かな光を発しながら致命の池を形成する。

 薄れ行く意識。しかし瞼は閉じる事無く。男は死に削り取られて行く記憶の映像にその光景を焼き付けて、心の中で呟いた。

「こいつ、食ってやがル …… 。」


『43』番は血に塗れて意識を取り戻した。薄らと開く目の前に広がる蛍光の海。頭を起こす事無く、ただ認識可能な視界の中に広がる風景だけを見つめる。其の光に照らされて浮かび上がる、自分をころそうとした暗殺者の亡骸を見止めた。

 何故、奴は死んでいるのだろう?

 刺されてから此処に到るまでの記憶がごっそりと抜け落ちている。頭痛を伴う記憶の回復は、其の痛みだけで彼に其の努力を放棄させた。脳の記憶野を司る細胞にも、いや他の部分を機能させようと命令しようとしても其処に廻らせるだけの血液と生命が足りない様だった。

 口の中に残る、柔らかな感触の固形物が其れを呼び戻す手掛かりである事は理解できるが、それを検証する暇も無いだろう。法力の残照すらも認識出来なくなっているという事実が、彼に迫った最期の時を予感させて、覚悟させた。

 しかし彼は何故か満ち足りていた。

 自分が『お役目』を行使足り得る立場まで届かなかったのは心残りだったが、それは残った仲間達が引き継いでくれる筈だ。力無き自分が礎となるのは当然の帰結であり、又必然なのかも知れない。

 それよりも最後の瞬間に至るまで人の崇高な尊厳を守り通せた事が嬉しかった。そして如何なる手段を用いたのか、其れを捨て去った輩が自分の代わりに『お役目』に付く事を阻止出来た事に。自分の正義を全う出来た事に。

 闇の中で彼は全てを忘れてゆっくりと瞼を閉じた。安らかな開放感。

 吾身は若輩ではあるが、成仏とは正にこの事かも知れない。既に痛みも熱も感じなくなった身体に感謝しながら、彼は永遠の眠りに付いた。

 

  しろいみず。ぎゅうにゅうのような。くろいてん。ちいさく、ちいさく、ちいさいこえ。

  ひろがるこえ。きこえる。きこえる。きいて、きいてよ。


 幼子の声だった。輪唱を繰り返す其の言葉が頭の中へと静かに、柔らかな響きを伴って何処かの空間へと彼の意識を誘う。

 成る程、功徳は積んでおく物だ、と其の声に支配された彼は思った。

 此処が話に聞いた極楽への入り口なのか。齢二十四にしてこの場所に至れる魂がどれ程あろう事か。現世の生き様は苛烈であったかもしれないが、それも自らが信じた神仏のお導き ―― 因果律 ―― なのだろう。そしてこの後自分は生まれ変わるのだ。新たな肉体、新たな人生を与えられて。そして其の魂はやがて高みへと到達する。それこそが人が現世と幽界を行き来する目的に ―― 


“すすれ”


  牛乳の中にただ一滴落とされた墨。それは波紋と共に薄まらない。声? 聲? 今何と言った。


“啜れ”今度ははっきりと。波紋の広がりは白を黒に。そして黒が広がる毎にその聲は彼の心を黒く支配し始める。

 啜る? 一体何を?


“啜れ、啜れ。”白は黒に犯された。命令。強制。抗う為の手段は考えられない。いや、そもそもこれは何なのだ? ナンナノダ? 

 ナンナ


 彼の眼が大きく見開かれる。最期の力で息を吸い込んだ。既に心臓の拍動は停止の域にあり、瞳孔は拡大したまま。どんな藪医者でも死亡認定は確実な状態でありながら、彼の最後は闇に染められた命令を実行する事に宛がわれた。息の吸引と共に、彼の口に僅かばかりの血が流れ込む。

 甘露。何かに囚われた彼の脳裏にそれ以外の表現が思いつかない。味覚を亡くした肉体が表現するには余りにも滑稽な言葉。しかしその感動は彼の本能に訴えかけるには十分過ぎた。

 尚も啜る。一口。二口。三口。唇をぬらぬらと光らせながら、彼はいつの間にか這いつくばって光る池を構成している全ての液体を舐め採った。

 足りない。

 彼の視線の先に男の屍があった。抉り取られた様な首の傷から光る液体が染み出している。転ぶ様に近寄る、禁忌を犯した『人』であった筈の『43』番。そして彼は其の傷口にかじり付き、啜った。

 暗殺者の体内に留まった血液だけではない。体液と呼ばれる全てを吸い尽くそうと無心にむしゃぶり付く其の姿は、捕食。人の姿を借りた人外が其の渇望を充足させようと繰り広げる『謝肉祭カーニバル』の真っ只中に其の身を置きながら、激しく横隔膜を上下させる。

 其の殆どを胃袋へと収め終った時に、生贄を蹂躙じゅうりんし続けた彼に変化が訪れた。

 価値の無くなった獲物を見捨てて立ち上がった彼の体が突如として跳ねた。僅かに光の残る床に叩き付けられて、仰向けに倒れた身体が反り返る。壊れたぜんまい仕掛けの人形の様に打ち震えながら、部屋の空間を引き裂かんばかりの声で咆哮した。共に口から迸る閃光が遥か頭上の天井を叩く。

 吸い取った血液は彼の内臓を伝わって既に体内を循環している。その中に含まれていた彼の男の法力が『43』番の全身の細胞に干渉を始めていた。一人の体に二人分の法力が突然介在した事による、それは拒否反応。過剰蓄積による法力の『暴走』はいとも容易く彼の自我を崩壊させて、それは着実に『43』番の理性やら思考やら諸々の、人間としての大事な物を奪い去ろうとしていた。

 何故自分が『あの言葉』に抵抗出来なかったのか、何故あんな事をしてしまったのか? 

 自らの思考を行為の後悔に振り分けたまま、彼は足元から巻きついて来る灼熱の拘束に耐えていた。いや、もう手遅れだ。拘束された部分から自分の物では無くなって行く感覚。

 咆哮は二つの力の摩擦。其の力が拘束の縄に一層の拍車を掛けた。足が、生殖器が、内臓が、そして手が自分の支配を離れていくのが分かる。そして口が、目が喪われた時、彼は強く念じた。

「神は、何処に。」


 そして、脳が灼かれた。 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ