運 命
光の剣に全身の自由を奪われながらも肉塊は、新たに現れた自分に対する脅威にその意識を向けた。手を伸ばせば届きそうな、届きさえすれば一瞬にして存在を抹消出来そうな其の存在。だが自分の体の自由を戒めているその術の威力はかつて無いほど単純で、尚且つ強大であった。
その強大な力が齎す恐怖。肉塊にとっては長谷寺以来の二度目の経験。圧壊寸前の精神に抗う肉塊の敵意が増大し咆哮の容を借りて、自分の周りを一定の距離を取って移動する敵に向かって叩きつけられた。
雷光に浮かび上がるその姿。座主のみが纏う事を赦された白の大袈裟を着た骸骨。発条仕掛けの人形の様に動くその異形の者はそれでも尚動く事を止めない。唱える事を止めない。結印を止めない。あれを止めない限り自分に自由は無いのだと、追い詰められた肉塊は理解する。
落ち着け、と。闇の中から声がした。此れが何時までも続く訳が無い。この尋常ならざる法術が途絶えた時、いや途絶えぬまでも少しでも力が弱まった時こそが反撃のチャンスだ。其の時には我が力の全てを集中させてあれに向かって必殺の槍を繰り出せば良い。一本でも当たれば、いや掠りさえすればそれで全てが終わる。だから今はその時までじっと耐えるのだ。
事実、その声の分析は正しかった。雷光の明度が僅かに落ちると共に、体の自由を奪っていた法力が弱まる事を実感する。今だ、と。闇からの声に促されて全身の攻撃機能が賦活した。 骸骨と対峙している人面疽の顎が大きく開いて、かつて何人もの人間を仕留めたその口腔内の舌を伸ばし始める。それをあの骸骨に当てさえすれば良いだけの、今迄にも繰り返し行われただけの簡単な作業。
勝利を確信した者の慢心が引き起こす僅かな隙。それを骸の姿の覚鑁は見逃さなかった。「イー」という声が顎骨剥き出しの口から放たれた瞬間、更なる雷電と轟音と発光が肉塊の足元から湧き上がって、再びその姿をを封じ込めた。
残存していた法力に乗算された雷電は今度は肉塊を縛るだけでは飽き足らず、高密度の法力の刃となって今正に覚鑁を貫こうとした人面疽の舌を根元から切り落とした。ビチャッという音と共に、何かに塗れた肉が足元の地面へと滑り落ちる。
「痴れ者めが。闇に心を売り渡した主の考える知恵などその程度のものじゃ。それで儂の術から逃れよう等とは正に浅薄の極み。今暫くそこで大人しくしておれ。」
轟雷を貫いて、骸骨の声が確かに肉塊の耳に届く。いや声ではない。意識の中にダイレクトに語り掛ける波。波は揺らめきながら肉塊の闇の中に浸入し、その中の何処かへ目掛けて押し寄せようとしていた。
「覚慈、と申したか、主の名は。此処に居るのは解って居る。何処ぞ? 」
問い掛けが再び闇の中に放たれる。黒い水面を、同心円を描きながら展開していく波紋の一部がある地点を境にしてその形を歪めた。覚鑁に呼びかけられるまで形の無かったその部分が緩やかに歪んで、僅かに水面に顔を出す岩の様な抵抗がその存在を露にした。
「やはり居ったか、覚慈。我が不肖の弟子よ。」
存在に確信を持つ覚鑁。自らの分析と見識の正しさに、安堵の声が漏れた。その声に小さな岩が絞り出す様な声で辛うじて反応した。
“ ―― 上 …… 人 …… 様 ―― ”
その聲を覚鑁が意識の中に捉えた瞬間。黒く、静かであった筈の意識の水面が覚慈であろう者の意志とは裏腹に一瞬にして荒れ狂い、自我の一端を具現化した歪みををその波濤の中へと飲み込んで覆い隠した。
弾かれる覚鑁の意識と消え失せる覚慈の自我の容。
「奴を少し手助けしてやろうと思うたが、此れでは逆効果じゃったな。あの赤塚という者、とんでもない術を仕掛けたもんじゃ。」
試みが失敗し、心の中で思わず舌打ちしながら覚鑁は再び雷帝印を結ぶ。
闇の中に沈む相手の自我 ―― 『心』という名の器 ―― を感知し其処に具現足らしめる力と相反する法力を流し込んで存在其の物を昇華する。言葉にするのは簡単だが、と覚鑁は思う。それが覚鑁ほどの法力を持った者でも困難な作業である事を、覚瑜には伝えなかった。伝える事を躊躇った。
何故なら此れは分の悪い賭けなのだ。自分の力を持ってすれば、あの闇の者の中に眠る覚慈の意識を探し出すのにそう時間は掛からないだろう。だがこの様に朽ち掛けた体で肉塊に物理的な戦いを挑む事はナンセンスだ。覚瑜に言った「腕がもげる」という表現はは紛れも無い事実。自分で其処に独鈷杵を打ち込もうとするならば、間違い無く本当に、もげてしまうに違いない。
かといって覚鑁がその場所を正確に覚瑜に伝える事も出来ない。『其処を右』『其処を左』といった三次元的な表現ではなく、相手の意識と合一する事でしか其の場所を特定する事が出来ない。
とどのつまりこの技は術者自身が正確にその位置を感じ取り、その一点に向かって法力を打ち込む事でしか為し得る事の出来ない、物理的に究極の退魔術なのだ。故に覚瑜自身が闇の中に眠る覚慈の意識を感じ取れなければ、この賭けは『親の総取り』という事になる。
「だが、奴を信じるしかないのう。」
思いが詠唱する真言の合間を衝いて口に出る。そう、信じるしかない。覚瑜という法力僧がこの土壇場で自分並の実力まで能力を上げる事が出来るかどうかがこの話の肝だ。
素質が無い訳ではない。それは法力が枯渇した状態で此処まで戦い抜いて尚、命が有ったという事がそれを証明している。並みの退魔師ならばとうの昔に死んでいても可笑しくない状況を乗り越えたこの男にこそ、その素質があると覚鑁は考えた。だから教えた。唯一の望みをこの男に託したのだ。
だが絶対的にこの技を修得するのに必要な物が奴には欠けている。それは、時間。
“随分と買っているのだな、その男を。”
不意に覚鑁の意識の中に、若い女の声が流れ込んだ。
“御山に絶望し、下野したお主がその流れを汲む法力僧を当てにするとはな。月日は流れるものじゃ。”
「左様。月日は流れて拙僧も聊か年老いまして御座います。ここは若い者に踏ん張ってもらわねばこの先心配でおちおちと眠りに就く事も出来ませんからな。まあ期待は出来ませぬが、望みが無い訳ではない。」
辛辣な言葉とは裏腹に楽しげな覚鑁の声が女に応える。
“だが、お主。その様に法力を放出して、体は持つのか? ”
「持ちませぬな、恐らく。」
絶望の表現となるその言葉を、覚鑁はいともあっさりと、それもあっけらかんと口にした。
「心の臓を彼の者の師に抜かれて居りますゆえ、それ程長くは続かんでしょう。恐らく後三・四回 …… そうですな、時間にして五・六分という所でしょうか。奴を抑えておけるのは。」
“其れまでに彼の者が自我を見つける事が出来なければ、どうするつもりじゃ? ”
「其の時は其の時。今答える事では御座いますまい。それで駄目ならこの者と拙僧は此処で命を落とす事になるでしょう。いや、拙僧はともかくこの者にとってはその方が、いい。」
断言する覚鑁の言葉に女の声は応えなかった。その理由を促さんばかりの沈黙に向けて言葉を続ける。
「此処でなまじ生き延びる事が出来たとしても、其れは死ぬのが遅いか早いかの違いだけで御座いましょう。いや、彼の者の心根ならば必ずや復讐に心を囚われて道を踏み外して行くに相違ありませぬ。さすれば何時かはやはりこの者は憤って死ぬ事になる。此の世の地獄の道行きを其れまで存分に味わう事になるのであれば、いっそ此処で落命してしまった方が本人の為にも宜しいのではないかと。」
“ …… 主の言う通りじゃ。此処でこの程度の者が倒せぬ様ではこの先、我の望みに応える資格など無い、と。そういう事か。”
呟く様に覚鑁の言葉を肯定する女の声。その声に向かって覚鑁は力強く。
「御意に御座います。摩利支天様。」
何かを一瞬捉えたような気がした。それはノイズの様な物であったかもしれない。深く心を鎮めて硝子の様に磨き上げた知覚の表面を引掻く音。異常を感じた覚瑜がその音を鮮明に聞き取ろうとした時、其れは再び激しく荒れ狂う轟音の中へと消えて行った。
目を閉じて、相手の放出する瘴気にのみ意識を集中する覚瑜。其の瞼の裏には目を開いていた時より遥かに鮮明に、肉塊の姿を描き上げる事が出来た。体を取り巻く人面疽の息遣い、感情の高まりによる魔力の移動、放出のタイミング。其の全てが呆れるほど簡単に認知する事が出来る。暗闇の中でCGフレームの様に動く肉塊を見ながら、覚瑜は更に其の奥に潜む筈の覚慈の『自我』を認識しようと集中を高めた。
だが其処からが上手くいかない。自分が認識できているのはあくまで表面上だけの事で、其の内部を透過するには至らないのだ。さっきのノイズが内部に踏み込む唯一のチャンスだったのではないか、と覚瑜の心は焦燥に駆られる。覚鑁の独鈷杵を握り締め、汗ばんだ手で紡ぐ穏行印が震え始めるのが自分でも解る。
「覚慈、何処に居る。」
自分はお前を救いに来たのだと、覚瑜は心の中で覚鑁が予言した、覚慈の『自我』に向かって問いかける。見つからぬ苛立ちで漣めこうとする心を強烈な理性で抑制しながら、覚瑜の問い掛けは続く。
お互いを責め立てた松長と赤塚にとって、其れは一瞬でありながら永遠を感じさせる沈黙であった。覚慈の名を呟いたまま言葉を失った赤塚を凝視したまま、松長は赤塚の言葉を待っていた。
覚慈を魔へと引き込み、月読と澪のいる長谷寺へと向かわせた事。其処に赤塚が自分達に反旗を翻した真意が存在する様な気がしたのだ。其の松長の心中を察したかの様に、赤塚はふっと息を吐いて言葉を続けた。
「そうだ、奴は儂が送り出した。『傀儡の呪法』を施してな。だが其れは松長。貴様の娘が、そしてお前が密かに望んでいた事でもあるのだ。貴様らが為そうとして出来なかった事を儂が成り代わってやろうとした。其の事を貴様に責められる覚えは無いと思うが? 」
澪が此の世に生を受けた時に自分が為そうとして松田に阻止された行動。そして母たる月読が真言宗一派を守ろうとして画策し、遂には為しえなかった事。およそ破戒の禁忌ともいえる二人の行動を指摘されて、松長は言葉を失った。そこへ畳み掛ける様に赤塚の言葉が続く。
「其の心の弱さこそが人間たる存在の限界。情けに囚われ、戒律に縛られ、道を誤った主らが頼る、更なる悲劇を生み出そうとする者。其れを見出す主らが『正義』を語る事など有り得ん事だ。人の世に災いを為す者ならば殺せば良い、消してしまえば良い。そうすればこの様に悲しみ、苦しむ事も無かったであろうに。」
「ならば赤塚、貴様に問う。もし我らが澪を殺したとして『摩利支の巫女』亡き後の世界を『天魔波旬』は如何にするつもりなのか? 『闇の者』が統べる世界を此の世に顕現させる事。それが貴様の求める『救世』の形なのか!? 」
「成る程、古儀真言宗の僧都らしい、いい質問だ。」
嘲りを込めた笑いが赤塚の顔に張り付いた。初めて表情を変えた赤塚の喉笛に、突きつけられた錫杖の先端が浅く食い込む。小さな血球が其処に現れ、張力の限界を超えた後ゆっくりと赤塚の喉を伝わって流れて行く。
「だが松長。その様な事が人の身である儂には分かる筈が無い。『燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや』と言う事じゃ。あのお方のお志は我らが考える以上に壮大で、果てしない。貴様らが一方的に『悪魔』と決め付ける存在であったとしても其れを認めるか、認めないかは其れに支配される人間の評価じゃ。それらがあのお方を支配者に戴く限り、貴様らの存在は儂らにとっての『悪』となる。其の後、儂らがどういう行動を取るか等は言うまでも有るまい? 」
「評価をしない者は ―― 貴様らの意にそぐわない者は直ちに葬り去ると。それが貴様らの言う『正義』という事か。」
吐き捨てる様に松長が言って、赤塚の顔を見下ろした。怒りのオーラが立ち上り、其の口からは炎の替わりに言葉が飛び出して、赤塚を罵倒した。
「馬脚を現したな、赤塚! それでは天魔波旬のやろうとしている事は『摩利支の巫女』が携えた運命と何ら変わりが無い。自分を認めようとしない者、益にならない者を抹殺しようというのなら、それは過去に幾人も現れた『独裁者』と同じ事だ。 ―― 赤塚、後世の者達がその様な者を何と呼ぶか知っているか? …… その様な振る舞いに手を染めた者を『悪魔』と呼ぶのだ。貴様が今迄滔々と俺に語って来た事は全て自らの外道を正当化しようとする、只の言い訳だ! 」
「言い訳、か。確かにそうかも知れん。だが貴様らには其の外道を説得する為の材料すら持ち合わせていない。儂の決意を翻すだけの力は無いと言う事だ。」
嘲笑を其の顔の貼り付けたままで赤塚は、彼の命を奪おうと待ち構えている僧侶達を見回した。
彼らに動揺は無い。赤塚までの距離こそ違えども其の生奪の意思は確実に、構えられた錫杖の先に込められている。取り巻く十二人の顔をじっくりと見定めた後、赤塚が口を開いた。
「儂が決意を翻さないという事は、貴様らと此処で雌雄を決さねばならぬという事。そうだな? 松長。」
「確かにその様だ。これ以上貴様から聞く事は何も無い。いや恐らくこれ以上、何も話す事は無いのだろうな。」
松長がそういうと、赤塚の喉元に錫杖を突きつけていた僧侶が、赤塚の顔を睨みつけて言った。
「新義真言宗座主、赤塚明信。貴様を此の世に悪を為さんとする神敵と認定し、この場に於いて古儀真言宗座主、松長有慶の名の下にて調伏せしめんとするもの也。」
「人殺しをするのに前置きが長いわ、十二神将。殺す時には喋る事無く一気に殺せ。さもないと ―― 」
「覚悟っ!! 」
必殺の気合を込めて僧侶が其の手の錫杖を赤塚の喉元へと押し込んだ。気勢につられて他の十一人が赤塚の周囲に殺到し、座して動かぬままの赤塚の全身へと次々にその錫杖を突き立てる。肉に食い込む刃物が放つくぐもった音を大師堂全体に響かせて喉を、胸を、腹を貫通した其の穂先が赤塚の体を竈の薪組の様な影を残してそのまま床へと縫い付けた。
衝撃で赤塚の口がかっと開かれ、大量の血がそこから零れ落ちて、周囲の床をしとどに濡らしていく。
「姿勢を崩さずに絶命するとは、流石は一門の座主。天晴れというべきか、赤塚。」
松長を見上げた其の目は大きく見開かれ、顔には其の瞬間と変わらず嘲笑が張り付いたまま。だらしなく開かれた口から微かに聞こえる、こぽこぽという血の泡の音だけが静寂を取り戻した大師堂の空間に響いている。
松長は赤塚から視線を外して、其の手の中の我が孫の姿を見やった。
これ程凄惨な場面を目の当たりにしても、やはり泣き声一つ上げぬ澪の姿。そこに赤塚の言の正しさを認めざるを得ないと思う。人として何かが欠落している。いやそれとも赤塚の言っていた様に、これがこの子の生きる世界なのか? そうであるとするならば何と不憫な事であろう。
理由はともあれ、今此処で命を落とした赤塚も、この子にとっては道行きに転がる只一つの路傍の石にしか過ぎないというのか?そこに『正義』を見出す事など、自分達に出来るのであろうか?
深い疑問。それは死した赤塚が自分に与えた『疵』かも知れなかった。
だが其の時、自分の目的をに対して疑いの目を向けようとした松長の脳裏に、或る光景が浮かび上がった。それは自分達を逃がす為に一人で魔の領域に踏み止まった覚瑜の後姿。そして松長は其の時に覚瑜が言い残した言葉を思い出した。
「絶望の淵からこの子を救い上げ、出来るだけ人が亡くなる事の無い方法を考える、か。」
人が神を救い上げる事など恐れ多い事だと思っていたが、今となっては其の覚瑜の誓いにも似た言葉が真実の重みを持って松長の心中に迫ってくる。
そうだ、覚瑜の言う通りだ。
このまま澪を『摩利支の巫女』として顕現させたとしても彼女の持つ運命は何も変わらない。その事に対して疑いを持つ自分達の迷いも変わらない。それでは大勢の人々の犠牲という玉砂利を踏みしめた挙句に、対極に立つ『天魔波旬』といつか、只一人で、誰の助けも無く対決する事になるのは避けられない。
だがそれを我らが変えて行けばいい。我らの持てる力を総動員して彼女の運命を変えて行く。その道行きの中に真の『救世』の姿を見出す事が出来るのではないのだろうか? 彼女一人だけを最期の場所に立たせるのではなく、彼女の運命に導かれた全ての者の力が彼女を其処へ押し上げて行く事が出来たなら、彼女は負けない。
例え其れが定められた運命だったとしても ―― 。
「No Fateか。…… そうだな。」
呟く松長の顔を、其の両腕に抱かれた澪がじっと見上げる。身中に潜んで事を成そうとした敵を排撃し、そして澪の行く末に対する自分達の身の振り方を見出せた安堵感が松長の緊張を解き解して行く。行こうとしていた。
「 ……? 」澪を見詰める松長の心を違和感が襲った。手の中の、今だ三キロにも満たない小さな赤子。その瞳 ―― 松長を見上げたままの ―― が、何かを訴えている様な気が、する。
「澪、どうした?」
何かに駆られて思わず声を掛ける。答えが帰って来る筈が無い。言葉も話せぬ赤子の答えを求める松長。そんな気がしたのだ、この子が何かを訴えている様な、そんな気が。
首の座っている筈の無い赤子の首がゆっくりと外へ傾いた。視線を松長の顔から離して、むずがる事も無く見詰めている。其の先には息絶えた赤塚の姿が。『摩利支の巫女』たる自分をかどわかそうとして、為し得なかった無念さ等一切感じさせない不気味な笑いを其の死顔に湛えたまま。
「さあ、十二神将。持ち場に戻れ。今だ此処は法要の最中であるぞ。」
松長の側に立っていた高僧が、赤塚の体の周囲に立ち尽くす彼らに声を掛けた。「澪様が『摩利支の巫女』として認められたとしても、座主猊下のお言葉が無ければこの法要を締める事は出来ん。速やかに持ち場に戻り、印を結ぶのだ。」
返事は無い。動きも無い。まるでその場に瞬時に現れた彫像群の様に動かない十二神将。彼らの反応にうろたえた僧侶が声を荒げた。
「何をしておる!?お前達、早く持ち場に ―― 」
「待てっ! 」
憤慨して彼らに近寄ろうとする其の僧侶の足を松長の声が制した。立ち止まって振り返る僧侶。だが松長は其の僧侶の姿を視界に収めてはいない。松長の視線は其の先の十二神将、彼らの足元の注がれている。
大師堂の室内を照らし上げる照明。真上から射す灯りが作り出す濃い影の中に、何かがあった。目を凝らさねば判らぬ程に細い針。それが床から生えて十二神将の体へと伸びている。その細い針が、見詰める松長の視界の中で細かく脈動を始めていた。
「いかん、離れろっ! 」そう叫ぶなり僧侶の肩を掴んで後ろへ飛び退く。
瞬間、二人の体の前を空気を切り裂く音と共に何かが掠めた。視認する事も許さずに、其の針は高さ五メートル以上も有る大師堂の空間を縦に切り裂き、天井の梁に突き刺さる。鉄の棒が震える様なブーンという音が堂内に響き、混じって湿り気を帯びた苦し紛れの、だが確かな人の声を二人は耳にした。
「 …… 先に、死ぬ事になる。」
声の主の顔に張り付いた嘲笑は変わらない。ゴボリとどす黒い血を吐き出しながら、光を失った筈の両目の虹彩を取り戻した赤塚が三人の姿を見つめていた。
「すげえな、こりゃ。」
惚けた口調で擦り硝子のドームの前に立つ山田の姿があった。この結界が今自分達が装備している物では破れない事は、監視していたカーティス達の部隊が試みていたので知っている。山田の関心はその結界ではなく、別の所にあった。
ドームの輝きは闇に紛れている筈の山田の姿をくっきりと照らし上げる。眩さに顔を顰めながら、山田は後に続いて到着したカーティスを見て、問い掛けた。
「つかぬ事を尋ねるが、俺達と遣り合う前に何か仕掛けてあったのか? 最新型の白リン手榴弾かなんか …… いや、そんなもんじゃねえな、少なくとも陸軍の持ち物じゃねえ。」
乳白色に輝くドームの中の様子を彼らは窺い知る事は出来ない。だが目測にして半径二百メートル程の結界全体を照らし上げる光量を持つ兵器等、彼らの持つどのアーカイブにも存在する代物ではなかった。
山田が口にした『白リン手榴弾』という物にしても、それは発光の様子が良く似ているから尋ねてみただけに過ぎない。兵士が蛍光する事の出来る規模の兵器の中で、此れに合致する物を思い当たる事すら出来ないのだ。
「監視してたのなら解るだろう。俺達がそんな事をしている素振りが有ったか無かったか等。」
そう答えるカーティスの視線も光るドームの姿に釘付けになっていた。後に続いていた楯岡と帯刀も光の中に其の姿を現して、無言でドームを見詰めている。
「 …… だよなぁ。Mk77かとも思ったんだが、そんなもん担いで持って来る筈無いし。米軍基地にもそんな動きは無かったし。じゃあ、これは一体何だ? 」
「尋ねられても困る。俺の方が知りたい位だ。」
山田の問いに答えるカーティスに一つの疑念が過った。楯岡が言った通り、自分達の存在が作戦を遂行する為に放たれた『囮』だとするならば、自分達の与り知らぬ所で別の部隊が暗躍していたのではないのか?
本来特殊部隊の作戦とはそれぞれが全てを把握している訳ではない。『細胞』と呼ばれるユニット毎に個別の計画が提示され、自分達は其れを粛々と実行するだけに過ぎない。其の計画全てが滞り無く終了した時に、初めて『作戦』という名の、一つのジグゾーパズルが完成するという仕組みだ。全ての種明かしはその後に行われる合同の『損害評議会』に於いて、ブリーフィングの形をとって全員に知らされる事となる。
自分達が囮と言うのなら、本隊が必ず存在する。これは彼らの仕業なのか? とカーティスは思考を巡らせた。
もしそうだとしたら、今は囚われの身になっている自分にも一縷の望みがある。これ程の兵器を彼らに気取られる事無く秘密裏に仕掛け、作動させる事の出来る部隊。彼らの助けが得られるのならば、自分が解放されるのも時間の問題だ。自分が楯岡の立場なら此処は現状把握と退路を確保する事に全力を投じる。
となれば、捕虜の身を構っている暇は無い。自分に及ぶ危険は避け様も無いが、そこに逃亡する事の出来る隙が少しは生じるに違いない。
「これを起こしたのが、お前の思っている通り本隊の仕業だったとしたら、俺も此処でぼんやりと眺めている余裕など無いのだがな。」
ぼそっと呟く楯岡の言葉に、カーティスは肝を冷やした。思わず振り向くカーティスの目に、薄らと笑みを浮べたままでドームを見上げる楯岡の姿が映った。
「 …… 気味の悪い奴だ。人の心を読み取る等、悪魔の力としか思えん。」
楯岡の言葉を否定する事無く、カーティスは答えた。其のカーティスに向かって山田が声を掛ける。
「あんたと違って俺達の仕事は専ら『隠密行動』に限定されているからな。遠い距離でドンパチやるんじゃなくて、至近距離で相手と向かい合う事が多い。其の時決め手になるのが、今あんたが楯岡様に仕掛けられた『物読み』の術って訳だ。」
「『MO・NO・YO……MI』 …… 何だ、それは? 」
「対峙した相手の体から全てを読み取る術です。眼や口、全身の筋肉、心臓の動き。突き詰めれば拍動や呼吸数、血圧の増減等から相手の全ての行動や思考を予測して対抗手段を行使する。…… 僕達は『サトリ』と呼んでいますが。」
楯岡の側に立つ帯刀が、其の人と為りに見合った明るい声で説明した。
「もちろん僕達も、楯岡様ほどではないですが其の術を行使する事が出来ます。ちなみに貴方が直に戦った山田という者は其の術に特化した存在です。弾が当たらないのも不思議は無い。」
「おーい、帯刀。俺の悪口言ってないかー? 」帯刀の言葉を聞き咎めた山田が、僅かに顔を三人の方に向けてじろりと睨んだ。其の姿を見て、クスリ、と笑う帯刀。
「言い忘れてましたが、あの山田と言う者。『サトリ』だけではなく『地獄耳』という特技も持っておりますので、悪態をつく時は一キロ以上離れた場所で吐く事をお勧めします。」
「そうだな。それは俺からもお勧めする。だがもし何かあったら『ミドリ』という呪文を口にする事だ。それで奴の動きは止まる。」
「おい、そこっ!! 捕虜に何を吹き込んでんだぁッ!? あんたらそれでも仲間かぁ!? 」
憤慨した山田が怒鳴り声を上げて三人の姿を睨み付ける。自分と対峙した時とは明らかに異なる、まるで別人の様な山田のうろたえ様を目の当たりにして、カーティスは思わず苦笑した。
「分った、『MIDORI』だな。覚えておこう。」
「って、ちょっと待てえっ! 手前日本語もよく分らねえ癖に何で其の言葉だけすんなりと覚えてやがるっ! ふざけんのも大概にしないと ―― 」
「あ、碧様。お早う御座います。」そう言って帯刀が、山田の背後に視線を移してぺこり、と頭を下げる。
其の瞬間、竹が爆ぜる様に怒りを表していた全ての動きが止まり、そーっと背後を盗み見る山田の姿があった。
「 …… 本当だ。」楯岡から教えられた呪文の威力に思わず感嘆の言葉を漏らすカーティス。次に其の男がどういう行動に出るのかと興味深々に見詰める彼の視界に、へなへなとしゃがみ込む ―― 彼が戦士と認めた男の ―― なんとも情けない姿が映っていた。これは彼の予想外である。更なる怒りで本当に収拾が付かなくなるのでは、と危惧していたカーティスにとっては。
「頼むよ、帯刀。…… ホント、勘弁してくれ。マジに寿命が縮んだ。」
「と、言う訳だ。呪文の効果は分ってくれたか? 」深呼吸をして呼吸を整える山田の姿を眺めながら、楯岡が言った。
「だが、この呪文の効果は平時限定だ。戦場に於いてはこの呪文は奴には全く効かん。覚えて置いてくれ。」
「て、いうか。命令も殆ど忘れてしまいますから。気をつけてくださいね。」畳み掛ける帯刀の言葉を聴きながら、
「 …… 解かりました。もう何とでも言ってください。」殊勝な言葉を弱弱しく呟いて、山田が立ち上がった。
「そうか、『MIDORISAMA』だったな。情報から判断するに実に使い所の難しい兵士の様だ。せいぜい気を付けて使う様にしよう。」
「野郎、何時の間にか敬称まで付属しやがって。何時、誰が手前の部下になるって言った? 手前、自分の事を客人か何かと勘違いしてないか? 」
「私が君達の仲間になったとしたら其れはどうなるか解からんだろう。作戦によっては私が得意で、君が不得手な分野があるかも知れない。その時には作戦立案できる者の方が指揮を取るものだ。それに、」
山田の扱い方を心得たのか、カーティスはにやりと笑って山田を見た。
「 ―― 見るからに私の方が君より年長だ。年上の言う事は素直に聞く物だと古今東西、相場は決まっている。そうは思わないかね、『狂戦士』君? 」
「チッ、余計な二つ名迄付けやがって。―― だがな。」
カーティスをじっと見詰める山田。其の瞳に敵意は無かった。どちらかと言えば好意に近い、力強い確信の意思が篭っている。
「あんたが俺達の仲間になって俺を使おうというのなら、その事に異存は無い。必ずあんたの役に立ってやる。それが死線を共に戦う仲間としての証だ。」
そう言ってにやりとカーティスに笑い掛ける山田。今だ変わらず輝き続けるドームの光に其のシルエットを写した立ち姿を見て、カーティスは林の中で初めて山田と出遭った時の事を思い出した。其の姿に一瞬心を奪われてしまった事を。
「お前が戦った男とは、こういう奴だ。カーティス。」
何かに心を囚われて ―― 寝返ると言う感情ではない、別の何か ―― 言葉を失ったカーティスの隣で、楯岡が言った。
「いい人でしょう? 見かけによらず。」帯刀の声が其れに続いてカーティスの心の中の何かを揺さぶった。
この信頼を共有する事が彼らの仲間になるという事なのか? 其の考えがカーティスの心の中に埋もれていた、過去に置き去ったまま忘れ去ろうとしていた何かを掘り起こそうとしている。
自分がイギリス陸軍に入隊した時、何の為に、誰の為に戦おうと誓ったのか? 女王陛下の為? それは其処に所属する事の大前提に過ぎない。では本当は自分は何を望んで今だ修羅の世界に留まり続けようとしているのだ?
SASに配属されて以来 ―― それはもちろん自分が望んだ物ではあるが ―― 多くの戦場を渡り歩き、何時しか『不可視の七人』という渾名まで冠する迄に成長した自分達の小隊。だが自分達に与えられた作戦の内容といえば其れは、筆舌に尽くしがたい凄惨な結果を求められる物でしかなかった。
リベリアでは大勢の民兵を殺した。バンジシールでは戦う相手は子供達だった。アフガニスタンではテロリストを匿った多くの村を焼き払った。自分達の正義を疑いながらも、彼らは着実に上から与えられた命令をこなし続けた。此れは自分達の正義ではない。国家の、女王陛下の正義なのだと自分達の心を偽り続けて。
決して白日の下に晒される事の無い数多くの戦果を上げた後、突然彼らは解散させられた。 其の舞台となったのは彼等が何時かそこで死を迎えるであろうと覚悟していた戦場ではなく、彼らの母国イギリスの国内。それも自分達が信じ続けた国家の手によっての物だった。イギリス国民が『民主主義』の名の下に選出した代議員達の手によって。
アルプスの水源からほんの僅かに滴り落ちる水の如くに戦地から漏れ出る情報を手繰り寄せた『SUN』を始めとする大衆ゴシップ誌が、彼らが手掛けた作戦内容の全貌を暴こうとしていた。
それらに煽動された世論の動きを恐れた軍関係に力を持つ代議士の集団が、こぞって陸軍に圧力を掛けたのだ。彼が手塩に掛けて築き上げた唯一無二の特殊部隊、「SAS of SAS」とまで言わしめた「不可視の七人」を解体する様に。
武門の誉れ高きモントゴメリー家にとってもこの事は屈辱以外の何者でもなかった。将来跡継ぎとなる筈の長男が建てた武勲を蔑ろにして、一方的に非を唱える国家に対して猛然と抗議した。
だが一門を挙げて議会に抵抗する彼らの命脈を絶ったのは、彼らが唯一信じた「女王陛下」の一言だった。
「これ以上、我が大英帝国の威信に疵を付ける事は許しません。」
其の言葉が、誰かに情報を捻じ曲げられて伝えられた物に拠る物だという事を、カーティスは今だ信じて疑わない。だが其の言葉によって彼らは、彼等が信じ続けた者達によってばらばらにされ、決して同じ部隊になる事の無い様、かつ生存率の低い紛争地帯 ―― 例えばイラク・バクダッド近郊 ―― へと配属されたのだ。
出来る事ならそこで『名誉の戦死』を遂げてくれる様に大勢の代議士や陸軍関係者の願いを背負いながら。
小隊を此処まで育て上げたカーティスのその後は、他の六人よりも悲惨な運命だったかもしれない。王室に対して最期まで抵抗を続けたモントゴメリー家は、代々続いた貴族の称号を剥奪されて地に堕ちた。
失意の内に彼の父はカトリックとしては最大の罪の一つとされる行為に手を染めて非業の死を遂げ、かつて彼と彼の家族が住んでいたウィンザーの屋敷は接収されて競売に掛けられ、全てに見放されて追い出された家族はロンドン郊外のアパートメントで市場の手伝いをしながらひっそりと暮らす事を余儀なくされた。
この境遇から家族を救う為に彼はイギリス陸軍を除隊し、傭兵となった。もう名誉を回復する事は出来ない。ならばとそれに見合った金を得る道を選ぶしかなかった。
其の提案をカーティスから提示された陸軍幹部は狼狽した。自分達が作り上げた『人間最終兵器』とも言える特殊部隊。其の指揮官が傭兵になるという。では万が一 ―― いや傭兵である以上其の確率は飛躍的に高くなる。 ―― この男が敵に回りでもしたら自分達にどれ程の損害を与える事になるのか?
事態を重く見た彼らの取った行動は、カーティスの予想の範囲内だった。彼を暗殺しようと試みた全ての脅威を悉く排除した挙句、カーティスはイギリス政府にある交渉を持ちかけた。
「家族の身柄を保障してくれるなら、自分はイギリス国家と敵対する勢力とは契約しない。」
いくら金の為とはいえ、自分がイギリスの敵となって家族を悲しませる訳には行かなかった。そしてこの様な仕打ちを受けても尚、彼は自分の国家という物を敬愛していたのである。
そして彼はイギリス政府が提案した条件付での除隊となった。それは西側諸国と敵対する勢力との契約を禁じるという事と共に、次の就職先まで周到に準備されているという点で、彼と彼の家族を大いに喜ばせた。其の就職先は西側最大の同盟国である合衆国ジョージア州フォートベニング。陸軍特殊部隊『グリーンベレー』本拠地への、所謂転属にも似た物であった。
新天地へと旅立つ日、ヒースロー空港まで見送りに来てくれた家族の喜びと期待に満ちた顔をカーティスは今でも忘れない。だが家族同様に期待に胸を膨らませて合衆国へと渡った彼を待ち受けていた物は、決して彼の思っていた様な喜ばしい状況ではなかった。
傭兵としての契約を合衆国陸軍と結んだ彼に与えられた任務は、非正規部隊としての非合法な活動。それも其の殆どが今まで彼が行ってきた任務となんら遜色の無い、世間の表沙汰になる事の無い凄惨な任務ばかりという物だった。
イギリス政府からこの提案を受けた時、合衆国国防総省は鯊の如く食い付いた。元々非正規部隊の存在を頑なに否定し続ける合衆国政府。故に其の対外工作活動のの大半はCIA(アメリカ中央情報局)の管轄下に於かれていた。
だが1986年、『イラン・コントラ事件』でのCIAの不祥事の発覚以来、磐石を誇っていた『ラングレー』の権威の多くは剥奪され、其の活動は大幅に制限されていた。
CIAの権限が縮小された事は国防総省にとって胸の空く思いではあったが、それに伴う情報収集能力の低下と工作活動の縮小は頭痛の種となった。『目』が良く見えなければその『手足』は動く事が出来ない。『目』の役割の大半をCIAに依存していた国防総省が其の事態を打開する為に採った方策の一つとして『第1特殊部隊デルタ作戦分遣隊』の設立(通称デルタ・フォース)が挙げられる。
米国籍を有してさえいれば何処の民族でも参加できる特殊部隊。本来はテロ活動抑止の為に設立された彼らの活動範囲を国防総省はCIAが失った視力の代わりを務めさせる事に決定し、そして其れは実行に移された。
だが極秘であった筈の『デルタ・フォース』の存在も1980年4月のイランアメリカ大使館人質事件の作戦ミスによって既に明るみに出でいた。部隊の存在を公式に否定する合衆国ではあったが、手がかりを掴まれてしまった以上、それらの部隊に『目』以上の役割を期待する事は出来ない。
1987年フロリダ州タンパに設立された『アメリカ特殊作戦軍』(U・S・SOCOM)として統合された後にも、かつてCIAが担っていた『工作活動』という任務をどう補うかという答えを求めるジレンマは、拡大する戦線の広さに比例して強くなりつつあった。
三軍の特殊部隊が統合された後のフォートベニングは、主に特殊部隊員の訓練場としての役割を担う事となった。彼らが其処に目をつけたのは当然の帰結と言えよう。
訓練場に集まる多くの『人殺ししか能の無い』志願兵。それらの中から選りすぐりの『豚野郎』を選び出し、戸籍を抹消し、生死を厭わない程の過酷な訓練を潜り抜けて来た者だけで構成する『実行部隊』を作り出す。
『訓練場』という名の隠れ蓑を被った其の場所で、其の計画は完全極秘の計画として実行に移された。存在が察知されれば基地の地下に仕掛けられた戦術核を起爆して、一瞬にして其の証拠を消滅させるという覚悟の上で。
部隊の充実を図っていた矢先に齎された、イギリス政府からの其の提案を合衆国が断る理由は無かった。
カーティスは其処に赴任した其の瞬間から、『人殺し共の親玉』になる事を要求され、傭兵として契約した彼は自分の考えの甘さに臍を噛みつつも従うしかなかった。自分から提案した『家族の身柄を保証する』という条件が、彼に選択する余地を与えなかったのだ。
カーティスは再び、更なる修羅へと踏み込んだ。『世界の警察』を標榜する合衆国の闇。其の夢魔の中にどっぷりと首まで漬かりながら彼は任務を遂行し続ける。どの様な状況下に置かれたとしても必ず生還する。それは彼の意地であった。彼を、彼らを裏切った者達の思う通りには決してならないという呪いにも似た誓い。
だがそれは自分達の部隊が投入される戦場の悲惨さと共に、彼の中に在った『誇り』という文字を徐々に消し去っていった。
幾許かの年月が経過し、カーティスは文字通り『人殺し共の親玉』と化していた。彼の率いる部隊は『皆殺し部隊』と名前を変えて其処にいた。そして彼は『決して負けない戦いを楽しむ』為に、其処にいた。
もう既に、此処に彼の仲間はいない。誰も。この三年間で彼が育てた小隊は彼一人を残して全て天に召された。嘗ての部下 ―― 『不可視の七人』と呼ばれた彼ら ―― は、生きてはいるだろうが此処にはいない。
しかし只一人で虜囚の辱めを受ける筈のカーティスの目に今映っている者達は、果たして自分と同じ世界に生きていながら全く違う信念を持っている者達である事に気が付いた。
光の中に佇む其の影を、林の中で槍を構える姿を、カーティスは美しいと思う。彼の部隊をたった一人で全滅させる技量を持ちながら、殺伐とした匂いを微塵も纏わずに立つ其の男と、其れを信じて認める仲間。カーティスは自分が彼らに嫉妬している事を知った。自分が求めて得られなかった物。信じた者達によって蹂躙された『誇り』を、当然の様に手にする彼らを妬ましく思う。
「『ナイトクロウ』一つ聞いてもいいか? 」僅かな沈黙の後にカーティスが楯岡に言った。
「楯岡で結構だ。…… 何だ? 答えられる範囲でなら構わない。」
「では、楯岡。お前達のバックは日本政府か?」
「違う。」即答だった。
「日本政府はあくまで自分達の活動に協力しているだけに過ぎない。所謂スポンサーみたいな物だ。補給と武器調達に関して言えば、便宜を図ってはくれるが無償ではない。自分達の資金で購入し、依頼を受ける。それ以上でもそれ以下でもない。」
「ではお前達に任務を命じる者はどの様な人物だ?私は多くの戦場で自分と同じ世界に住む大勢の敵と渡り合ってきたが、どれも似た様な考えを持った人種だった。人を殺める事が好きで好きでどうしようも無い連中だ。そんな連中を殺す事を私は一度も躊躇った事が無い。自分達も、殺した相手も『人間のクズ』の様な存在だった。そんな世界に生きていながら何故お前達は仲間を信頼する事が出来るのだ? 誇り高く生きていられるのだ? 」
「何だ、俺達に興味が涌いて来たのか? 」
カーティスの問いに悪戯っぽく楯岡が問い返す。其の問いをカーティスは否定しなかった。
「そうだ。興味が涌いたどころではない。私はお前達に嫉妬している。お前達は私が過去に失った全ての物を携えて私の前に姿を現した。私はその理由が知りたい。それが今は散らばってしまった私の仲間と私が、再び戦いに赴ける理由にもなる。…… そんな気がするんだ。」
熱を帯びたカーティスの言葉を受けて、楯岡は形のいい顎を摘んでこの男に何処まで話せばいいのかとを思案していた。やがて其の口がポツリと開いた。
「 …… 今の立場のお前に詳しい事を話す事は出来んが、俺達を指揮している者がいる。そして其の上に村長の様な立場の人間が存在する。掻い摘んで言えば其の村長が自分達の任務を決定するといってもいい。」
「随分と単純な組織だな。其の村長とはどの様な人物なのだ? 」
「それを教えるのはお前が仲間になった後だ。ただ、怖いおばさんである事は確かだ。」
「女性か!? 」驚きの声を上げるカーティスを尻目に、楯岡は言葉を続けた。
「意外か? だが人を信じるという点では性別など関係無い。それにこの世は須らく女性が支配している物だ。女が背後で守りを固め、男が敵を攻め落とす。それが有史以来同民族同士で争い続けた『日本』という国が創り上げた、『世の中を上手く回す秘訣』という物だ。……お前の国では違うのか? 」
茶化した様に聞き返す楯岡に向かって、カーティスは取って置きの質問を投げ掛けた。それはカーティスが今彼らに一番聞きたかった事。イギリス政府に圧力を掛けられたときに、自分達が為し得なかった事。
「では、もし日本政府が何らかの圧力を受けてお前達の敵の回ったとしたら、お前達はどうする? 仮にも世界第三位の軍事力を保持する日本の自衛隊がお前達に攻撃を仕掛けてきたら、如何に技量に長けたお前達をもってしても一溜りも無い筈だ。その時 ―― 」
「何らかの交換条件を持ちかけられた時、どういう選択をするか、という事か? 」
楯岡の問い掛けに沈黙で答えるカーティス。だが楯岡は意外に早く其の答えを口にした。
「そうだな、俺の立場で上の判断を想像することは出来んが、多分戦う事になるだろうな。」 何の躊躇いも無い答えに、カーティスは驚きの声を上げた。
「戦うのか、自分の国と? 」愛国心ゆえにイギリス政府の命令に従い自分の全てを剥ぎ取られたカーティスにとって、楯岡の其の答えは自分の中には存在しない選択肢であった。
言葉を失ったカーティスに向かって、楯岡が続けた。
「それが俺達『お庭番』という存在だ。自分達の判断で為すべき事を選択する。例え其れが自分の国と戦う事になったとしても、そこに是非は無い。例え全滅したとしても自分達の判断が正しいと信じてさえいれば、後悔はしない筈だからな。」
「後の二人も同じ考えなのか? 」
そう言って山田と帯刀の表情を思わず見回す。二人は何も語る事無くカーティスを見詰め、楯岡の其の回答が暗に自分達の回答と同一である事をカーティスに伝えていた。
この思想の共有こそが彼らの信頼の源なのだ、とカーティスは楯岡の回答から自らの答えに行き着いた。信じる物は国家ではなく、ましてや政治家でもない。彼等を構成するものは即ち『人』であり、そこに意識の共有が生れない限り、信頼する事は有り得ないのだ、とカーティスは自分が長年懐き続けて来た疑問に対する回答を得た気がした。
それこそが戦う理由。
自分が部下と共に置き去ってしまった信頼を再び手にする為の存在が、今彼の前に立っている事を改めて知った。
「まだ、答えを出すには早すぎる、カーティス。」楯岡が出会って初めてカーティスの事をファーストネームで呼んだ。
「お前は知る必要が有る。お前達が何の為に此処に派遣されたのかという事を。合衆国が何をしようとしていたのかを。其れをお前の目で確かめてから判断する事だ。」
「楯岡は其れが何かを知っているのか? 」
「詳しい事は俺にも良く分らん。だからそれをお前と一緒に確かめに行くのさ。」
「待て。」一抹の不安がカーティスの脳裏を過る。
「俺達が囮で、此れが本隊の仕業だとしたら其の人数は恐らく二小隊以上の筈だ。幾らなんでも三人だけで其の人数を相手にするのは無謀ではないのか? 此処は一旦退いて状況の分析を図った方が正しい様に思うのだが。」
「お前の進言は尤もだ。だが安心しろ。そんな事は有り得ん。」断言する楯岡。其の言葉にカーティスが異を唱える。
「何故そういい切れる? まさか本気でこの人数で立ち向かおうとでも思っているのか? 」
「まさか。そこまで考え無しじゃない。まあ、やってやれない事は無いと思うが、それでは時間の無駄だからな。」
そう言うと楯岡は不思議そうに視線を向けるカーティスの顔に視線を流した。
「本隊が此処に来ている事は既に作戦には織り込み済みだ。さっきチラッと話したが、俺の上に指揮官がいる事は覚えているな?本隊にはそっちが当たる手筈になっている。」
「楯岡の上の人間 …… 」其の言葉の意味を理解して、カーティスは思わず身震いした。楯岡とは直に刃を交える事は無かった。しかし其の部下である山田という男一人に自分の隊は為す術も無く壊滅させられた。と、言う事は ―― 。
「多分もっと悲惨な目に遭っていると思いますよ。」
カーティスの心中を読み取ったかの様に、側の帯刀が答えた。其れを受けて山田がカーティスに向かって話し掛ける。
「そうそう。俺のはまだ死んじまったのが誰だか解る程度の殺し方だけど、あの人のは根本的に違うからな。『滅殺』って感じ? 」
「『MESSATU』とはどういう意味だ? 」其の質問には楯岡が答えた。
「英語で言うと『消去』だ。其処に来た事も、居た事も解らない様に消してしまう。それがあの人のやり方だ。」
其れだけをカーティスに告げると、目の前で光を放ち続けるドームをじっと見上げた。
カーティスは何の疑いも無く味方の勝利を確信する彼らの姿を目の当たりにして、自分が抱いていた危惧が実は杞憂に過ぎないのではないのか、と思った。
『世界第三位の軍事力を持つ自衛隊が攻め込んできたら一溜りも無い』そんな常識が通用する相手なのだろうか? 合衆国が何年も掛けて準備してきた最精鋭の特殊部隊、三個小隊以上をいともあっさりと平らげてしまう ―― 恐らくそうなっているに違いないと彼らは確信している ―― 様な組織にこの国の兵士が勝てるのだろうか?
恐らく勝てないだろう、と思う。寧ろ勝利するのは楯岡の側ではないのだろうか、とも思う。
信念や信頼で繋がれた集団を打ち破るのは、更なる信念と信頼に繋がれた集団だけだ。決して兵力や武器装備の性能ではない。其れを持たない只の兵士達が束になって掛かった所で、どうやってこの者達に勝てると言うのだろう?
楯岡は出会った時に自分に言った。『戦争は物量が勝敗の全てだ』と。
だが其の言葉は自分達が参加した勢力に対する評価であって、自分達に対する評価ではない。彼らに其の法則が当てはまる事は有り得ないのだ。何故なら『信念と信頼』を持った勢力が大国を打ち破った事は、歴史が証明しているからである。
紀元前に行われたペルシャとギリシャとの戦い。近代史に於いてはベトナム戦争、自分も参加したアフガン紛争。そのどれもが兵力で劣勢に立ちながら、確固たる信念を携えて戦う勢力が大国を退ける事が出来るという事を如実に表していた。
その事例の中に、勝利者側の要素を全て保持している彼等が例外となる筈が無いではないか。
彼らに対してカーティスが抱いて来た恐怖や嫉妬は、何時しか尊敬へと其の姿を変貌させつつあった。
自分達が彼らの仲間になるのなら、なれたとしたら自分達はどのような形で彼らの役に立つ事が出来るのだろう? 楯岡から提示された選択の一つに未来を馳せながら、カーティスもまた発光を続けるドームへと目を遣った。
今出来る事は一つしかない。
「この先の事を知る為には此処で待つしかない、という事か。」
何の脈絡も無く、ポツリと呟くカーティスの姿。だが其の表情は憑き物が落ちたかの様に晴れやかな物になっていた。
光に照らされた其の顔を見詰めながら、山田は思った。
「 ―― 大分マシな顔になってきたじゃねえか。ま、俺の目に狂いは無かったという事かな?」
お待たせ(いや、待ってませんでしたか?)しました。
徐々にではありますが、再開いたします。自分の都合ながらご迷惑をお掛けして、すいませんでした。