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                 覚 鑁

 灯された明かりの中を三体の御本尊が本堂を睥睨へいげいする。俯瞰する視野の中に映る其の光景。足元に広がる巨大な七角形の護摩壇一杯に広がる白い灰と幾人かの僧侶の姿。

 そこに座したまま身動きもせず、ただ只管に聞きなれない真言を詠唱する一人の僧侶を取り囲む殺気の束。その場を満たしている筈の清浄な空気は、何故か陰湿で邪悪な物へと変化しつつあった。


 立ち並ぶ十二本の錫杖。其の全てが今一人の男に向けられていた。澪を抱えた松長を覆い隠す様に、澪をその場に誘った僧侶が赤塚と松長の間に立ち塞がり、懐から金剛杵を取り出して身構える。

 周囲を敵意に取り囲まれた赤塚は、その空気に動揺する事も無く未だに半眼を開いたまま印を紡ぎ続けている。その姿に業を煮やした松長が、僧侶の陰から赤塚に向かって叫んだ。

「赤塚っ、正気か? 今直ぐ其れを止めろっ! お前、自分が今何をやっているのか解っているのかっ!? 」そんな松長の問い掛けにも動じる事も無く、只僅かにその目を動かすだけの反応。

「赤塚、聞こえているだろうっ!? 其れを止めるんだっ! さもないと此処は ―― 」

「常世から湧き出す『闇の泥』に飲み込まれて、皆死ぬ。そんな事は解っている。」

 ぽつりと呟いた言葉に一切の揺らぎが無い。「そうしようとしているのだ、松長。」

 聞き間違いだ、と思う松長。だが同時にその赤塚の言葉を耳にした他の者達の顔色が変わっていた。

「言ってる事の意味が解っているのかっ!? お前は此の法要を、いや、人の世を魔の手から救う運命を授けられた『摩利支の巫女』までも葬ろうとしているのだぞっ!? 」

「儂はそうするつもりだ。そう、此の話がお前から持ちかけられた時。つまりは最初からだ。」

「何……だ、と?」

 問い質した筈が、驚愕で後の言葉が続かない。思考が働かない。一体赤塚は何を言っている!? 最初からだと? 最初からこうするつもりで奴は『創生の法要』の準備をしていたのか? と言う事は、まさか。

「そう、お前の考えている通りだ。松長。長谷寺の松田の言っていた『内通者』とは ―― 」

 保たれていた半眼が見開き、睨め上げる様な赤塚の視線が人陰に隠れた侭の松長を貫く。「 ―― この儂だ。」

 その宣言で、周りを取り囲んでいた十二神将の殺気の密度が上がった。明らかな敵対の意思を露にした裏切り者に対して、怨敵調伏の決意を秘めた十二本の槍が錫音を鳴らして突き付けられる。

「座主猊下、ご指示を。早くしないと手遅れになり兼ねません。この者の思う壺に陥る前に、お早く。」

 十二神将の指揮官らしき僧侶が、赤塚の喉元に錫杖の切っ先を押し当てたまま尋ねた。其れが後僅か数十センチも動けば赤塚の喉は延髄ごと貫かれる。だが其の状況下に在りながら、赤塚は怯む事無く毅然とした居住まいでその場に座していた。

 赤塚には松長の気持ちが理解できる。此の男が何も知らない侭で自分を殺す筈がない、と。自分の娘を、数多の人間 ―― 絶界陣の構築の為に攫われた人間や、長谷寺の僧侶達 ―― を死に追い遣った張本人を目の前にして、黙って死ぬのを見ている筈が無い。

 必ず事の次第と顛末を聞きだそうとするに違いない。それまでは自分を殺す筈が無いという確信があった。また、そこに付け込む余地が存在すると言う事も。

「待て。まだ殺すな。こいつには聞きたい事が山ほどある。」

 予想通りの松長の言葉に、ほくそ笑む赤塚。

「赤塚、何故だ? 何故お前がこんな事をする? 何故俺達を裏切ったのだ? 」親友だと信じていた者に背かれたと言う狼狽が、松長の声を震わせた。

「……何故、悪に魂を売ったのだ?」

「悪だと? 」松長が放った其の一言に赤塚の語気が強まった。

「松長。さっきの儂の言葉を聴いてなかったのか? 生まれながらにしてその様な宿命を持つ者を『神の代理』だと認められる訳がなかろう。其の者は悪鬼羅刹に等しく、今迄我らが調伏してきた存在と同じ物。だから手を下そうと言うのだ。何も間違ってはおるまい。」

「御託を並べるなっ! 我らが此の者を見出す為にどれ程の犠牲を強いてきたか、知らぬお前ではない筈だ! 其れを信じて散って逝った者達に、お前は彼岸でどの様に詫びるつもりだっ!? 」

「それがそもそもの、お前達の犯した間違いだと何故気付かないのだ? 犠牲を強いなければ見出す事の出来ない神など、神ではない。」

 そう言うとフッと溜めていた何かを吐き出す様に、赤塚が息を吐いた。

「そうだ、大勢の者が散っていった……此の者に関わった大勢の命。生まれながらにしてこれ程の流血を求める存在を此の侭顕現させる訳にはいかん。万が一現界を果せば月読の予言通りに、行く先々で更に多くの流血を求めるだろう。そしてその様な者を求めるお前達の存在も、儂にとっては『悪』も同然じゃ。」

「此の者 ……? お前、」赤塚の其の言葉の意味に唖然とする松長。

「先程から聞いておれば聞き捨てならん台詞ばかりを並べおって。そも、主の言う『其の者』とは誰を指しておるのだ!? 」

「此れだけ言うてまだ分からんのか。―― 良かろう、ならばはっきり言ってやる。儂の目的は『摩利支の巫女』。お前が今抱いている赤子を奪う事じゃ。」

 断定する赤塚の其の言葉に、大師堂全体の空気が凍り付く。

 赤塚の周りを錫杖を構えて取り囲む十二神将でさえ、僅かな狼狽の色を見せた。根拠の無い其の発言が、赤塚に敵対しようとする者達に与えた衝撃はそれ程大きかった。

「澪、が、『摩利支の巫女』…… 馬鹿な。お前、何を根拠に、血迷ったか …… 」松長の言葉ですらも、脈略が要領を得ない。あくまで有資格者の一人として此の祭壇に連れて来られた我が孫。

 先達が潜り抜け損なった多くの関門を潜り抜けて始めて認められると言われた、『摩利支の巫女』を見出す為の『創生の法要』。法要の存在意義を全て否定して、赤塚は澪を『摩利支の巫女』だと断言した。

 ならば此の男は何故今まで此の法要の下準備を ―― 其の手を血で染める ―― 粛々と行ってきたのだ?

「知っていたさ。其の子が生まれる、少し前にな。」

「世迷言をぬかすな。『星宿の者』月読でさえその存在を知る事は出来なかった。ましてや自分の娘がその様な運命の持ち主であった事も分からぬのに、何処の誰が其れを知ると言うのだ!? 」

「儂の知り合いに、それを看過できる者がおった。そしてその事を儂に注進した者が居た。そういう事じゃ。」

 松長の詰問の激流を飲み込むかの様に、赤塚の口調が其れを静かに包み込む。しかし其の眼は敵意を剥きだしの侭、己が前方をじっと見つめていた。一息の間を置いて、赤塚が静かに口を開く。

「言うた筈だ、儂は内通者だと。そして其の名を ―― 」僧侶達の陰に隠れて姿の見えない松長を、貫く様な視線で見据え続けて。

「 ―― 今だ法力を駆使する儂の口から言わせるつもりか?」

「 …… 『天魔、波 …… 旬』 ……お前、」

 松長の忍耐がそこで切れた。庇う様に立ちはだかった僧侶を押しのけて、赤塚の姿を見下ろした。だが其れは赤塚からも視線の届く距離。

「そうだ。その『お方』が儂に預言したのじゃ。もう直ぐ生まれる『女犯にょぼんの孕み』こそが『摩利支の巫女』である、と。だが生まれながらにして流血の宿命を携えて顕現を果たす者が、果たしてこの世を救う運命に在る者なのか、己が教義に照らし合わせて今一度考えよ、とも仰った。そして、」

 赤塚と松長の視線が火花を散らして交錯した。自らの立場の変わった故の怒りを互いにぶつける様に。

「儂は己が信ずる道を選んだのじゃ。お前達と相反する道をな。」

「お前、自分が何を言っているのか分かっているのであろうなっ! 」

「無論じゃ。…… 松長、其の子を見よ。」赤塚の声に思わず反応した松長が、反射的に手の中の澪を見下ろす。

 澪の両目はパッチリと見開かれ、明らかな敵対の意思を持った視線が赤塚に注がれていた。「気が付いたか? 泣かぬじゃろう。赤子にしては変だとはとは思わんか? 」

「それがどうしたと言うんだ。此の子が静かなのは生れ付きだと聞いている。その様に無関係な誘導で己の所業を誤魔化そうとでも ―― 」

「此れが、其の子の生きる世界だからじゃよ。…… 解るか? 今迄此の子の周りには常に人の命が奪われ、おびただしい流血に塗れた世界があった。其れは其の子がこれから生きて行く様に神から定められた世界なのじゃ。故に動揺がない。だから泣く事は有得んのじゃ。」

「おのれ、知った様な口を。」

「だが、主は気付いていた筈じゃ。少なくとも其の子が普通の赤子とは違う、特異性を持っている事位はな。」

「其れ位は凡愚な俺でも分かる。だが、其れと『摩利支の巫女』とは何の関係も無い事だっ! 稀有な法力を有した者ならば、人間性の欠如など十分に有得る。その様な素質を有した赤子等、命を落とした百人の中にも何人かはいた。今迄共に儀式の最中に居たお前が其れを分からん筈が無いっ! 」

「分かっておったさ。五、六人は居たな。だが我らは其の子らの未来を奪い取った。いや、其の子らだけではない。他の有資格者九十余の未来も、其の子らの親、関わってきた大勢の人々の未来も、希望もじゃ。そしてそれらの不幸は全て、其の子の存在に帰結する事なのじゃ。」

「貴様、汚れた手が拭った其の口で綺麗事を説くとは恥を知れっ!! 貴様が送り出した手の者が殺めた長谷寺の僧侶達の事までも澪に擦り付けるつもりか! 」

 松長の其の叫びに、赤塚は一瞬遠い眼をして、何かを思い出す様に其の名を呟いた。

「 …… 覚慈の事か ?…… 」


 地より解き放たれた魔疽が濃い霧となって、御廟の外へ飛び出した覚瑜の身体と神経を包んだ。充たされた法力が削り取られる様な感覚を覚えながら、覚瑜は再び大威徳明王の真言を唱えて左手の独鈷杵を大太刀へと変化させる。肩に担いで黒霧に紛れる闇の眷属の姿を求めながら。

「何とも、凄まじい景色じゃな、此れは。」

 しゃがれ声での軽口が覚瑜の背後から流れた。白い大袈裟を纏った骸骨がギクシャクと歩きながら、其の周囲の光景を眺めて呟いている。

「成程、儂の封印を解く事で、此の地の地縛霊を開放したと言う事か。…… それにしてもあの『猿太閤』とはとんでもない外道じゃな。あの様な気違いに日の本を任せるからこの様な事になるのじゃ。全く、雑賀の子倅め。あの時討ち取っておけば良い物を、無駄に情けなど掛けおって。」

「上人様は其の時の事 ―― 秀吉に此処が焼き討ちにあった時の事をご存知なのですか? 」

「当たり前じゃ。あの様に胸糞悪い記憶など、二度と思い出したくも無いがな。それだけではない。儂が入定してから今迄の事も、全て知っておる。此の眼でちゃんと『看て』来たからな。」そう言って空洞の眼窩を骨の指で指し示した。

「目の玉も干乾びて既に形を成さぬ身体ではあるがな、覚瑜よ。『見る』と『看る』ではその意味合いが大きく異なるのじゃ。儂は後の日の本の行く末を憂いて此の身体となった。大師様も同様じゃ。その様に人々をおもんばかって見守る事が出来る者こそ、全ての物事を『看る』事が出来るのじゃ。それは例え此の身体が朽ち果てようとも変わる事は無い。」

「では、弘法大師様も、で御座いますか? 」覚瑜の肩越しの質問に覚鑁は頷いた。

「そうじゃな。いや、儂よりももっと深く今の世を憂いておられるかも知れんのう。何せ御人好しに思える程、慈悲深いお方じゃからな。」

「上人様、無礼を覚悟でお尋ねいたします。 ―― 此処が秀吉に焼き討ちに会った時、何故今の拙僧を助けた様に彼らに御助力為されなかったのですか? 」

「何じゃ、お主。儂を責めておるのか? 」

「いえ、滅相も御座いません。ただ、其の時討たれた者の中にはきっと拙僧よりも生きる価値のある者が居たに相違御座いません。其の者達に慈悲深き上人様がご助力して頂けたなら或いは、此の地がこれ程穢れた土地になる事も無く、上人様のご憂慮も軽くなられたのではないかと浅慮致しました次第に御座います。」

「なんじゃ、その謙遜の仕方は …… まあええ、言うてやろう。あの時儂は此の侭此処が滅びても良いと思ったのじゃ。」

「何と。」

 開祖の者とは思えぬ、覚鑁の其の発言に覚瑜は息を呑んだ。

「主は知らんじゃろうが、あの時此の根来と雑賀の地は乱れておった。『加持神』という我が教えを自分達の都合の良い様に解釈して、本来向き合わねばならない筈の神仏に背を向け、周りに集まる民草と共に其の利の追求にのみ血道を開けておったのじゃ。隣に雑賀という器用な村があった事も災いした。偶々《たまたま》手にした一丁の火縄銃が奴らをより一層堕落させ、遂には僧侶でありながら人を傷つける『もののふ」と化してしまったのじゃ。」

「それは拙僧も此の地の歴史でそう教わりました。其の当時で日本最大の鉄砲集団を形作っていたと。」

「それで奴らが大望を持っていたと言うなら、それは是じゃ。だがな、奴らには日の本を治めるとか、戦を終らせるとか言った望みを持ち合わせていなかった。寧ろ其の逆じゃ。雑賀の者と共に戦を好み、求め、明け暮れた。己が破戒を正当化してな。―― その様な者達を儂が救う道理が有るまいが。」

 しゃがれ声を震わせて覚鑁が毒づく。だが覚瑜は其の言葉の中に隠された、死して尚此の地を治めていた開祖の無念を感じていた。

「しかし拙僧の聞き及んだ所では、此の場所でも大勢の僧侶が無為に惨殺されたとの事。何故其の者達までもお見捨てに為られたのですか? 」

「戯け、儂とて此の地の開祖ぞ。其の者達を助けたいと思わなかった筈が無かろう。 ―― 奴らは知らなかったのじゃ。儂の亡骸から力を取り出す方法をな。主の様に廟を暴いて力を手にする事が出来なかったのじゃ。」

 覚瑜の問い掛けに心外とばかりに覚鑁がそのしゃがれ声を荒げて応えた。

「 …… そんな馬鹿な。拙僧と彼らとは同門のともがら。身分の高い僧都であれば其の事は口伝で伝えられている筈。」

「主と奴らが同門? 片腹痛い事を申すな。奴らが己が頼みとしたのは、『火縄銃』という名のはがねとその威力じゃ。主の様に修行を積み、得を重ねて得た法力など唾棄してな。その様に辛い道程を歩まずとも簡単に手に入れられる力を行使する事に味を占めてしまったのじゃ。故に、道を学ばず、知らず、より大きな力に因って滅びの道を歩まされた。正に『栄枯盛衰、盛者必衰』じゃ。」

 吐き棄てる様に言う言葉の中に苦渋を滲ませて。力に拠る者は更なる力に因って滅ぼされると永劫の時を歩み続けた守り手は言う。それは過去も現在も変わる事の無い厳然たる事実であり、未だに世界は其のパワーゲームから脱却する事が出来ずにもがき続けている。

 事象の大小はあれ、弟子達が此の世の理によって屠られていく様をこの奥の院で成す術も無く見続けていた覚鑁の苦しみは、今世界で繰り広げられている争いを見続けるしかない神仏の嘆きなのかも知れない、と覚瑜は思う。

『摩利支の巫女』。覚鑁の独白を只管に窺う覚瑜の脳裏に其の言葉が燦然と浮かび上がった。 故に彼女はこの世に送り出されるのだろうか?其の名を掲げて現界したかつてのお役目の者とは違う、途轍もなく悲しい運命を携えて。『天魔波旬』という強大な力を滅ぼす為の更なる力。

 だが神力を駆使しても、その者は一人の少女に過ぎない。もし彼女が自分の運命と向き合う時が来たら、其の時彼女は目の前に置かれた現実に耐え得る事が出来るのだろうか?

「 ―― 儂が主に力を貸そうと思ったのは、其処じゃ。」

 沈黙して思考を巡らせる覚瑜の頭の中を覗き見たかの様に、覚鑁は言った。

「 …… 主はさっき、『生き延びる事が出来たなら其の子を守りたい』と申したな? 儂が主を気に入ったのは、その心根なのじゃよ。」

「心根、で御座いますか? この惰弱な拙僧の? 」

「其処まで重ねて卑下せんでもええ。…… そうじゃ。主が誓った通り、『守る為の戦い』にこそ人の本当の強さが現れる。主の今迄の戦いは正に其れじゃ。霊障で困っている民草を守り、この根来寺を守り、友人の名誉を守る為に戦う。其処に自らを置いて初めて主の真髄とも言える戦いが出来るのじゃ。儂は主のそういう所が気に入った。だから力を貸す気になった、と。まあ、そういう事じゃ。」

「『守る為の戦い』…… 」

「うむ。だから必ず ―― 」覚鑁の言葉と二人の歩みが同時に止まった。より一層の濃度を増した魔疽と圧倒的な存在感。力を取り戻した覚慈が二人の直ぐ近くにいる事が分かる。

 担いだ大太刀をゆっくりと下ろして背後の覚鑁との間合いを開ける。其の背中に、言い残した覚鑁の言葉が続けられた。

「 ―― 此処を生き延びて、主があの子の傍に居て『守って』やれ。其れこそが、」

 覚鑁の両手が上がり、胸の前で白骨化した掌が印を結ぶ。途中で途切れた覚鑁の語り口の続きを聞き止めようと、覚瑜が老人を顧みた。

「上人様? 」先を促す覚瑜の表情を二つの空洞が見つめる。結びかけた印を停めたまま、覚鑁は恥ずかしげに呟いた。

「 ―― ふん、何でも無いわい。いいから先に行け。奴が手薬煉(てぐすね)引いてお待ちかねじゃ。」

 髑髏の視線が覚瑜の肩越しに僅かにずれる。慌てて振り返る覚瑜の先に薄っすらと現れる黒い影。聳え立つ魔界の使者の姿があった。



 其処で刀を構えて立つ男を、俺は知っている。陽炎の様に揺らめく意識と視界の中で認識される世界で只一つの感情が、其れの心に灯を灯す。誰だかは分からない、知らない。だが其れはかつて自分がとても大切にしていた、繋がっていた者の様な気が、する。

 脆弱な肉体、ひ弱な精神しか持たぬ人間と言う存在。前に立ち塞がって再び戦いを挑もうとしている其れも他の存在と何ら変わりが無い、只の人間にしか過ぎない、と思ったのだが。

 しかし自分の繰り出した攻撃が其れの命を奪い去る事は果たして無かった。いつでも一撃で止めをさせた筈。だが何故か致命の槍を其れの急所に打ち込む事は出来なかったのだ。以前にも同じような事はあった。だがそれはかつて取り逃がした女から感じた物とは、違う感覚。

 何故だ、と。果てしない自問自答が其れの中で繰り返される。闇に向かって叫ぶ様に、月に向かって吼える様に、返答の無い答えを探して其れは回答を求め続ける。殺す事が、喰らう事が出来ないその理由を。あの時とは違うその訳を。

 灯が語る。其処に自分の中の何かが手を伸ばす。其れを掴めば分かるのだ、知る事が出来るのだ、と既に失われた筈の手を伸ばす。知らねばならないのだ。此の人間を遂に屠ってしまう其の前に、俺は分かって置かなければならない気がする。灯が語る、言葉の意味を。

 差し伸べた掌が其の灯を包み、握り締める。其処を介して彼が忘れた筈の人の言葉が、叫びが。闇の汚泥に浸りきった『覚慈』という存在の輪郭をなぞっていく。

 闇の何処かで、声が、叫んだ。

“ ―― 助けてくれ、覚瑜 ―― ”


 肉が、吼えた。其の咆哮が肉塊の周囲の魔疽を切り払って、其の巨躯を二人の前に現す。完全に復活した肉体を誇示するかの様に動き始める其れを見つめて、覚瑜は手にした大太刀を下段に構え直した。だが覚鑁は覚瑜の構えに僅かな変化が発生している事を見抜く。

「主、切っ先が震えておるぞ。もしや武者震いか? 」

 覚瑜から放たれる裂帛の気合とは裏腹に、垂らした太刀の剣先が小刻みにカタカタと震えている。

 其の異常は覚瑜自身が一番理解出来ないでいた。やるべき事は全てやった。心強い味方も手に入れた。其れなのに何故俺の手はこんなに震えているのだ?

「ふん、この期に及んで怖気付きおって。その様な事では見える物も見えなくなるというのに。まあ、主の気持ちも分からんではない。此処を落とせば全てが水の泡じゃからな。」

 他人事の様な口調で喋る覚鑁。其の両手は未だにゆっくりと印を紡ぐ。

「じゃが、主よ。其の恐怖は何処から来ておるか分かるか?それは目の前の者を『仇敵きゅうてき』と認識してしまう、主の心の弱さから来るのじゃ。そして儂はさっき主に言ったな? 彼の者も救うべき者である、と」

「救うべき者 …… 」

 そうだ。御廟の中で上人様は自分に告げられた。そして自分は『討つ為』では無く『救う為』に再び此処に立っているのだと。

 太刀の柄を握り直した覚瑜の剣先の震えが、其れで止まった。覚鑁が再び覚瑜に声を掛ける。

「そうじゃ。瞋恚しんいに囚われては其の者を知る事は出来ん。努々《ゆめゆめ》忘れるな。」

「しかし上人様。如何に上人様のお力をお借りしたとはいえ、此の者と戦う事は此の地では不利で御座います。この地にいる限り、彼の者は不死身です。幾ら手傷を負わせても直ぐに再生してしまうのではないかと。」

「其れに付いては少し考えがあるでな。儂が囮になって奴の攻撃を惹き付ける。主は其の間、穏行印で姿を隠してこ奴の本体を探るのじゃ。」

「本体? 此の者に本体があるのですか? 」

「ある。主が此処まで生き長らえた事が偶然ではないとしたら、必ず闇の力に抵抗する『自我』が何処かに存在している筈じゃ。主は其れを探し出して其の者の力の源にありったけの法力を注ぎ込め。さすれば如何に闇の眷属といえども『昇華』させる事が出来る筈じゃ。」

「しかし、其れをどうやって ―― 」

「声を聞くのじゃ。己の心を均衡させ、明鏡止水の如くに穏やかに保つのじゃ。その水面を乱そうとする水滴、其れの出所を見つければ良いだけじゃ。」

「見つけられなければ ―― もし覚慈が完全に闇に心を囚われていて、拙僧が生き延びていた事が只の偶然だったとしたら、それを見つけられなかった私の敗北という事ですね。」

 自分に課せられた役割の重さに、覚瑜の声音が硬くなる。

「そうじゃ。じゃが其の時は、主と奴は相打ちするしかないのう? 最初の主の覚悟通りにな。」

 茶化す様に言葉を掛ける覚鑁。だが其れが緊張で雁字搦(がんじがら)めになっている覚瑜にとっては有難かった。其の一言一言が覚瑜の心を平静へと導いてくれる様な、まるで即効性の精神安定剤の様に、心の中のさざなみを鎮めてくれている。

「では、始めるぞ。覚悟は良いな? 」そう言うと覚鑁は印を紡ぎ終えた両の掌を緩慢な動作で地面に押し付けた。

「イー」と覚鑁が一言呟いた次の瞬間。

 覚鑁の前で太刀を構える覚瑜の周囲を覆い尽くす様に無数の雷電が立ち上った。其の余りの眩しさに覚瑜の視界がホワイトアウトし掛ける。雷電は地獄と化した周囲の景色を真昼の様に照らし上げながら、一瞬にして黒い肉塊の足元へと到達した。

 耳をつんざく雷鳴と共に其の全てが肉の塊を取り囲み、貫き、蹂躙する。

「此れが本来の『雷帝縛鎖』じゃ。―― さあ、今のうちじゃ。主はとっとと身を隠せ。そしてやるべき事をやるのじゃ。」

「しかし上人様。本当にお一人で ―― 」囮など大丈夫なのか、と。不安が拡がる覚瑜の心に、紛れもない覚鑁のしゃがれ声が雷鳴を掻き分ける様に轟いた。

「戯けが。儂を誰だと思うておる?」嗤い声。覚瑜は確かにそう感じた。

 その思惑は果して正しかったのか分からぬまま、覚鑁は言葉を続ける。

「 ―― 仮にも、主の兄弟子であるぞ? 」言葉を残して、ギクシャクとした足取りで林の中の闇へと歩いていく覚鑁。

 もう後戻りは出来ないのだ、と其の姿を見送る覚瑜は思った。最後の切り札は切られたのだ。後は是か非か、出来るか出来ないか。だが、それは。

「 ―― 判り易くていい。」

 其の言葉はは誰にでも無い、自分の決意に向けての呟き。そして湧き上がる闘志に火を点けて、覚瑜は未だに消え去らぬ雷電の幕の中で、穏行印を組み始めた。


明日から引越しが始まります。ですが、手違いでネットの出来る環境が二月二十四日まで整いません。次の更新は若干遅れるかもしれませんが、必ず書き溜めておきますので、ご愛読よろしくお願いします。特に未だにこの拙作に喰らい付いて来て下さっている方達、見捨てないで下さいね。

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