表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/41

                 謀 反

「 …… これが、今日起こった出来事の全てに御座います。」

 記憶ごと心の奥に鍵を掛けるかの様に、碧は独白を締め括った。澪を抱き抱えた侭で身動ぎ一つせずに碧の言葉を聴いていた松長が、そこでやっと息をついた。実の娘を喪ったと言う事実。立てた謀が潰えてしまったと言う事実。その他諸々の無念を其の息一つに籠めて、吐き出す。

 忘れる訳ではない。悲しくない訳でもない。だが今更時間は戻らず、結果が覆される訳でもない。松長が吐いた溜息は、既に起ってしまった悲劇に対する決別を意味していた。

「碧殿、」孫の命の恩人に対して投げ掛けられる、感謝の声。

 しかし碧は其の顔を見上げる事が出来なかった。松長の顔から視線を外したまま、答えない。あの時の景色、事実、結果を思い出すだけで湧き上る悔恨が、碧の体を言い様の無い震えの中に閉じ込めていた。深い悲しみに包まれた碧の心を救おうと、松長が言葉を続ける。

「孫を …… 澪を助けてくれて、有難う。そして、よく生きて戻って来てくれた。紗絵の父として、心から礼を言う。」

 其の松長の言葉で、碧の震えは大きくなった。そうだ、碧殿。悲しみを堪えてはいけない。吐き出すのだ。其の量が多ければ多いほど、人は早く其処から抜け出す事が出来る。

「私は、何も出来なかった …… 」心が裂けて滲み出す様な、か細い声が碧の口から漏れた。

「助けようと決めたのに。守ろうと誓ったのに。全部無くして自分だけがおめおめと生き恥を晒してしまうなんて …… 」

 その碧に返す言葉を持ち合わせてはいない。慰めれば碧の心はより一層深く傷つき、なじれば、その所業のさもしさに今度は自分が傷つくだろう。愛する者を喪った悲しみを癒す事が出来るのは人の詞ではなく、時間のみ。其れは碧だけではなく、松長自身にとっても同様の事が言えた。

 ただ、碧と違う点は唯一つ。松長には其の感傷に浸る余裕すらも与えられなくなったと言う事。

 長谷寺が壊滅した事に因って『創生の法要』の秘密は守られる。松田が何処かに預けた告発文を世に出そうにも、この様な尋常ならざる事態が長谷寺に起った事を預かった者が知ったら、公表する事を躊躇う筈だ。幸か不幸か、其の現場の凄惨な光景と言う物が抑止力となって、『マスコミへのリーク』という最悪の事態は避けられるに違いない。

 だが其れと共に『創生の法要』無くして『天魔波旬』に対抗する手段も失われた。月読という星宿の者を失った今、百余人の赤子の命を犠牲にして『創生の法要』を行い『摩利支の巫女』を見出す以外に、姿形、其の居場所さえも突き止める事の出来なかった『天魔波旬』と戦う手段は残されていない。

 松長率いる真言宗は以前通りの道行きに軌道修正する事を余儀無くされた事も、又事実であった。

「碧殿。」其の声に煩悶は欠片も見せずに。言葉に反応してびくっと震える碧の顔を見つめて、松長は静かに言った。

「 …… お役目、ご苦労だった。傷が癒えるまで此処でゆっくり休んでくれ。出来る限りの配慮は行うつもりだ。寺ゆえに何かと行き届かぬ事も在ろうとは思うが。」

 優しい言葉でも憐みでもなく。其の言葉に始めて碧が松長に視線を向けた。そこにある穏やかな微笑を見つめながら、碧はコクリと頷いた。

「栄俊、其処に控えておるか? 」

 松長の呼び掛けと同時に寝所の障子が音も無く開く。何時から其処にいたのか、栄俊が黙って座っていた。

「お呼びで御座いますか、座主倪下。」

「碧殿と共に来られた方達を女人堂の方に案内する様、手配してくれ。ああ、くれぐれも、『尼僧』に申し付けるのだぞ。叩き起こしてもかまわん。」

「いえ、その様に無体な事になるのならば私めが直接お伺いして案内致しますが。」

「馬鹿者。黙って話を聞いておったのなら解るだろう。一糸纏わぬ女人を前にしてその方が如何なる所存にて応対するつもりぞ? 」

 盗み聞きを咎める松長の言で自分の迂闊さに気が付く。面を赤く染めて、栄俊は平伏した。

「考えが至らず、誠に申し訳御座いません。直ぐに手配いたします。」

「うむ。恐らくは裏手の関係者用の駐車場に停めてある外車の筈だ。一刻も早く碧殿は無事だと教えて差し上げてくれ。きっと心配しておるだろう。…… ああ、それと。」

 松長の命を受けて弾かれた様に立ち上がり、踵を返そうとする栄俊を、松長は呼び止めた。

「主は其の侭、長谷寺に向かってくれ。恐らく被害者の関係者として此処にも早晩警察が尋ねて来る筈だ。其の前に先手を打って此方から出向くのだ。電話が不通になったとか、いろいろ理由を付けてな。そして、」

「現場を見て来い、と? 」先んじて返答した栄俊の言葉を、松長は肯定した。

「あれを見ても警察等では理解できまい。主が現場に行って全てを観察してくるのだ。そして其の全てを分析して此処に戻って来い。三日以内だ。良いな。」

かしこまりました。では三日後に。」

「だから、」栄俊に向かって松長の鋭い視線が飛んだ。

「其の懐の物は置いて行け。」

 強い口調に、其れを聞いていた碧の方が驚いた。栄俊の方に視線を向けると、苦渋に満ちた表情で、静かに懐から独鈷杵を取り出す栄俊の姿があった。ゴトリと、其れを自分の前に静かに置いて松長を見つめている。

「主の気持ちは有難く受取っておく。だが仇討などは許可できん。」

 本来ならば其の一言で事が足りる二人の関係。しかし栄俊の表情は其の言葉を受け入れる事無く、変わらず松長を見つめていた。

「栄俊。理解せよ。」

「 …… 座主猊下。」心の葛藤を沈黙で表した後に、栄俊がやっと口を開いた。

「月読様、いえ、紗絵様がお生まれになった時と同じゅうして座主倪下の傍御用を仰せ付かった事、身に余る光栄と存じ上げております。座主倪下より下される命に逆らう事など、拙の身分では考うべからざる事と理解もしております。しかし、」

 怒りで声が震えている。其れは月読を、長谷寺の仲間を屠り、碧を死の一歩手前にまで追いやった者に対する純粋な怒り。

「 …… 月読様のご成長を見守って参りました私にとりまして、殺めた者に一糸報いる事無く事の次第を見守る事など出来よう筈が御座いません。是非ともこの栄俊めに討伐のご指示を承りたく存じます。」

「儂が主を破門する、と言うても決心は変わらぬ。そう申すか? 」

「御意に御座います、座主猊下。いえ、寧ろその方がこの栄俊。心置き無く『魔』に相対する事が出来ようと言うもの。是非ともご命令頂きます様。」

 寒々とした濡れ縁の床に両手を付き、平伏する栄瞬。其の気持ちが今の碧には痛いほど良く解る。『仇討ち』。陳腐にも思える其の言葉が何故これ程までに耀かしく思えるのか? 

 理不尽に身内の命を奪われた者の怒りの捌け口を正当化する為に作られた言葉。其の中に身を委ねて恨みの炎を燃え上がらせる事の快感。もし自分が栄俊の立場であったなら、いや、今でも再びあの者と対して今度こそ仕留めてやろうと思う。だが ――

「栄俊様。」悲しみから覚めやらないままの碧の瞳が平伏したままの栄俊の姿に向けられた。 思わぬ声に面を上げて其の声の主を見遣る。「座主猊下の仰る通り、仇討ちなど考えてはなりません。」

「碧様 …… 貴方様だけは、自分の気持ちを理解してくれると思っておりましたのに、何故? 」

 驚愕と失望の入り混じった表情が碧の顔を見つめた。

「何故です? その様になるまで月読様を御守りした碧様なら、今の私の気持ちがご理解戴ける筈。ましてや私の知る大勢の者を殺められ、それを知りながら座して耐える事など私には。いえ、この高野に息づく総ての者が赦す筈が無い。せめてその先駆けとなるべく自分が其の者と合間見える事こそ、今は亡き月読様の御無念を少しでも晴らせるとはお考え頂けませんか? 」

 苛烈に続く言葉とは対照的に、静かに語る栄俊。だが、その静かな語り口が栄俊の覚悟を表していた。

 その姿をじっと見詰めていた碧が突然、くぐもった苦痛の声を上げた。痛む体を無理矢理に起こして、栄俊の方に向き直る。

「 …… 栄 …… 俊様 …… 」

 全身を駆け巡る痛みに耐えて、苦痛の呻きに紛れて話しかける。それを目の当たりにして、栄俊の全てが狼狽の悲鳴を上げた。

「み、碧様、何をっ! 」

 支えきれずにグラリと倒れる碧の体を、跳ねる様に近寄った栄俊の両腕が済んでの所で支えた。

「何と言う事をっ! その様に血を失ったお体で動く等なさってはお命にかかわりますっ! じっとお休みして戴かないと! 」

「ほら、やっぱり。」栄俊に支えられたままの碧がニッコリと笑った。額に冷や汗をじっとりと滲ませながら続く、碧の言葉。

「倒れる私を、見捨てる事が、出来なかった。」

「なっ …… 」碧の体を支えた栄俊の手が、その言葉に震えた。言葉を失った栄俊の顔を見上げて、囁く。

「貴方様は……人の命を救う為に、授けられた力を使わなければならないお方。栄俊様の其の御手は、」肩に回された栄俊の手をそっと、震える手で握った。

「私の様に血で汚す様には出来て無いのですよ。其の事は栄俊様自身が一番お分かりの筈。」

 碧の其の言葉が一瞬にして栄俊の憤怒の焔を消し止めた。未だに末端の体温が戻らぬ侭の碧の手に触れられて、栄俊の目から涙が毀れる。こんな身体で、ここまでして私の決意を押し留めるか。何という人だ、貴女という人は!

「栄俊、主の負けだ。」

 其の碧の行為は松長をも再び感服させていた。自分一人では恐らく栄俊を破門するしか手が無かったであろう其の決意を、死に掛けた自分の身体を使って翻意させるとは、何という女子であろうか。またその事は、それほどの精神力を持った者が死ぬ寸前にまで追い込まれたと言う事実が、彼女が相対した『魔』の強大さを認識させた。故に彼女は身体を張って栄俊を押し留めたのだ。恐らく敗れる事が解っているから。

 松長の一方的な敗北宣言に黙って頷く栄俊。ゆっくりと碧の体を布団へと寝かし付け、再び濡れ縁へと後ずさった。その場に置かれたままの独鈷杵を寝所の中へと置き直して、再び平伏する。

「この栄俊、座主猊下のお言い付け通り、三日で帰参する事お約束いたします。」

 其の言葉に黙って頷く松長。栄俊の面は上がる事の無いまま、寝所の襖は静かに閉じられた。再び訪れる沈黙。

「碧殿、返す返すも申し訳無い。その様な身体でのお心遣い、この松長、痛み入る。」

「いえ、そんな …… 私ができる精一杯の事をしたまでの事。それに栄俊様、いえ。人の力ではアレには勝てない、と思うのです。」

「何故そう思うのだ。其れは彼の者と戦った経験による物か? 」

「月読様がそう仰ったのです。そして私も、そう思う。」

 忌まわしい記憶が蘇る。里の下忍三分の一以上のチャクラを駆使して放った四連打。其の全てが系統最強 ―― 其れも一つは禁呪 ―― クラスの忍術で在ったにも拘らず、傷一つ付けられなかったと言う事実。もし月読が万全の体制で迎え撃っていればあるいは、とも思うがそれを証明する手立ては既に失われている。

 相手の力も推し量らぬまま打って出る事は、今となっては自殺行為に等しい、と思う。それに、月読みが遺した言葉の意味。

「月読様は『創生の法要』を行い『摩利支の巫女』を見出す以外に、『魔の眷属』に立ち向かう手段は無い、と申されておりました。それは即ち『人外の者』には『人外の力』を以ってして当るのが最善だと言う事なのだと思います。」

「故に月読は澪を御山に届ける様、碧殿に頼んだと言う訳か。有資格者を一人も零さぬ様に、自らの命を投出してまで。」

 其の言葉に、碧は頷いて松長の顔を見上げた。

「恐らく何らかの確証が在ったのでしょう。今度の法要で『天魔波旬』と同等の力を持つ者が現れると言う確証が。そうでなければ、」ぎゅっと布団の裾を握り締めて、

「 ―― あのは、犬死です。」

「そんな事には、させんよ。」

 其れは傷心に沈む碧を勇気付ける為の物だったのかもしれない。力強く宣言すると、松長はすっと立ち上がった。

「碧殿。此の子の乳母としては甚だ不本意だとは思うが、澪は此方で預からせてもらう。それで、良いか? 」

 其の言葉に碧が異論を挟む余地など無かった。ただ、悲しげな表情で頷く。

「 …… 御意に御座います。猊下のお心のままに。」

「月読が最期にそう言い遺したのであらば、儂も心を決めねばならん。例え此の手を血塗れにしてでも月読を信じる。―― 碧殿。傷を確りと癒して金沢に帰られよ。ここにいると、良くない物を見る羽目になるだろうからな。」

「座主猊下 …… 」碧の心に去来する言い様の無い喪失感。

 月読を失い、澪を手放し、自分の命以外手元に何も残っていないと言う事実。其の全ての気持ちを理解した上で、松長は碧に宣言したのだ。澪と貴方はもう何の関係も無いのだと、他の有資格者を預かる時に両親に言い残す筈の同じ言葉を以ってして。

 松長は其の侭静かに寝所を後にした。澪を他の有資格者の集まる女人堂へと預ける為に濡れ縁を歩む。そこで松長は、未だに澪を包んだ産着が血に汚れたままである事に気付いた。思わず手の中ですやすやと眠っている澪の顔を見つめる。足が止まった。

 其処にある天使(エンジェル)寝顔(スマイル)。揺れる心。可愛いと、愛おしいと思う、我が孫。

 妻も娘も無くした自分に残された唯一人の血統。それを見す見す失ってしまう自分の運命を呪いそうになる。神が何だと。仏が何だ、と。今からでも遅くは無い。此の子の命を救う算段を考えるのだ、元々その為に棄てようとした命ではないのか?ならば再び策を持って『天魔波旬』を探し出す手段を考えるべきではないのか?

 松長の人としての葛藤を、真言宗筆頭座主としての松長が否定する。

 それでは月読は何の為に澪を自分に託したのか? 神仏に最も近い所に存在して、其の力を駆使した月読の遺言を無視して、それでどうなると言うのだ。最期まで『お役目』に殉じた者に報いる為にも其の遺言を信じ、成す事が正道と言う物ではないのか? 第一、碧が此の子を此処に連れて来た時点で、答えはもう出ている筈だ。

『摩利支の巫女』。其の力無くして『天魔波旬』とは戦えないと、犠牲になった者が、生存した者が異口同音に伝えているではないか。其れを見過ごしてまで、お前は汚れる事を忌避しようとでも言う積もりか?

「 …… どうやら、選択の余地は無い、と言う事か。」そう呟いた松長の足が再び歩を進め始める。ふと手の中の澪を見下ろしながら、ぽつり、と呟いた。

「 …… 産着を変えてもらわねばならんな …… 」

 そう言って、産着を包んでいた月読の袖をそっと外して、自らの懐に仕舞いこんだ。


「どうやら、お喋りが過ぎた様だ。この様な自戒で時間を費やしている暇は無いと言うのにな。」

 震える足で、松長はゆっくりと立ち上がった。澪を此の場へといざなった僧侶にも、そして赤塚にも。誰にも語る事の無かった真実を全て吐き出して、手の中の澪を祭壇に安置すべく其の足を進めようとする。そのよろよろとした足取りの松長を、赤塚が止めた。

「松長。一つ訪ねてもいいか? 」

 其の赤塚の言葉の響きに違和感を覚えた松長。足を止められて、赤塚の方に振り向いた。「何だ?まさかこの期に及んで俺の覚悟を問い質すつもりでは在るまいな。其れならば心配は無用だ。既に煩悶は ―― 」

「いや、そうではない。御主がそれでお役目を果せ無くなる様な者ではない事は、この儂が一番良く知っておる。そうではなく、」俯き加減に喋る赤塚の顔が、松永の位置からでは良く見えない。だがその声は松長の記憶の何処にも無い、赤塚の声であった。「其の子が、『摩利支の巫女』である可能性は、あるのか? 」

「何を言い出す? そんな可能性は今まで犠牲になった赤子達にも等しく存在した。此の子だけが可能性が高いとか、そういった物は無い。ただ皆と同じ様に、此の子にも此の試練を受ける義務がある。それだけの事だ。」

「だが、もう既に残った有資格者は四、五人の筈。其の中に『摩利支の巫女』が存在するのなら、お主の孫が一番確立が高いのではないのか? 血筋的に見ても、その子が潜り抜けて来た修羅場を鑑みても。」

「赤塚、何を言っている? お主少し ―― 」

 変だぞ、と思う。其の思考が松長の危機リスク回避コントロール機能に赤ランプを点灯させた。

「『摩利支の巫女』の行く所、常に流血在り。其の等しき代価、救世の名の下に在り。……誠、月読の言が正しいとするならば、其の子こそ正に、その星宿の通りの存在ではないか。其の子の周りにいた三十人余りの僧侶、そして星宿の者、月読。其奴それらの血を啜って此の子は此処に存在を果している、と。松長、お主はそうは思わんか? 」

「だとしても、どうする? 其れを証明する為にはやはり儀式は成さねばならん。其無しに『摩利支の巫女』を名乗る事なぞ赦される事ではない。少なくとも前に散って行った赤子の命に対しては、な。」

「そうだ。そうして今又百余の命を己の中に取り込んで顕現しようとしている。それが、」

 その赤塚の声と共に、大師堂の中の空気が澱んだ。景色は変わらない、十二神将の法力が放つ緋色の光に染められたまま。唯其処を充たしている空気が突然無明の闇を取込んだかの様に、異様な重みを持って彼らを包もうとしている。松長の意識が其の発信源を探ろうと全方位に意識を集中した、いやするまでも無い。其れは明らかに表情を隠したまま其処に座り続ける赤塚から発せられているのは明白だった。

「真に『善』を戴く神仏の成せる業である筈が無い。其の者は、神の名を騙る悪鬼羅刹に等しき存在だ。」

 言い放った途端に赤塚は印を結んだ。観自在菩薩十五尊絶界陣。しかし、何かが違っている。印の順番を本来とは逆の順に結ぶ。其れと共に今まで詠唱を続けていた赤塚の袈裟の内に納められていた『番号つき』の法力僧達の舌が、真言をさかさに詠唱し始めた。其の変化に気付いた松長。

 手の中の澪を抱き締め、赤塚に向かって叫ぶ。

「『逆詠唱さかよみ』だと!? 貴様、どういう事だ!? 」


 絶界陣の外輪部にひっそりと佇む人影。其の顔を横切る傷と断ち割られた腹部。どす黒く変色した其れが、既に其処から流れる血液が残り少なくなっている事を示している。そして其れは彼らの肉体的な死を意味する。

 しかし彼らは動いていた。彼岸の淵でよろめきながらも尚、其の口から空に撒き散らされる真言は止む事が無い。だが、行為に伴って彼らの足元を回り続けていた巨大な魔方陣のターレットが突然、停止した。動きを止める彼らの口腔。印を結んでいた其の両の手。

 僅かな空白の時間が経過し、ターレットは運転を再開した。但し、其の動きは逆向き。そして其れに合わせて彼らの動きも変わった。まるでビデオを巻き戻すかの様に、正確に今迄とは逆の順番で詠唱を、印を紡ぎ始める彼ら。そして大きな変化は彼らが結界を形作っていた敷地内全ての場所で発生した。

 地面に滲み込んでいた筈の黒い泥。触れる物全てを死に塗り替えるそれらが一斉に敷地内に湧き出していた。それらは絶界陣の外輪部を境として其の嵩を押し上げて、中に位置する根来寺中心部を飲み込もうとし始めていた。


 しゃがれた老人の声、だった様な気がする。いや、それは声だったのか? 耳に届いた声の主を探る為、覚瑜は今一度、死出の旅路を諦める事を選択した。歯の間に挟んだ舌を仕舞い込んで、声のした方向に向かって、床に押し付けられたままの顔を無理矢理向けた。其の姿を視界に捉えた時、覚瑜の心臓は飛び上がらん程に跳ねた。

 にべも無く破壊された、白木造りであった筈の棺の中央に其れは立っていた。

 人影でありながら人ではなく。故に『其れ』と表現するしかない者。遥かな昔、『真義真言宗 開祖 覚鑁』の名を戴いたそのミイラが、ゆらゆらと陽炎の様に立っていた。干乾びて消滅した後の空洞になった眼窩を覚瑜に向けて、かたかたと顎の骨を鳴らしながら。

「し、上人様……。」極め付けに現実離れした其の光景に、そう口にするのがやっとだった。 畏れに囚われる覚瑜の視界の中で、そのミイラは枯れ木の様な両手で印を結び、緩やかに早九字を宙に斬り始めた。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」

 ゆったりとした詠唱に緩やかな動き。しかし九字を斬り終わった瞬間に、覚瑜を取り巻いていた状況は一変した。全身を戒めていた大蛇の首が稲束の如くに切り落とされて、どうっと床に落ちた。そしてそれらは苦痛の悶絶も成し得る事が出来ずに、一瞬にして灰となって崩れ朽ちていく。その光景に我が目を疑う覚瑜。

 当然だ。力を失っていたとはいえ、覚瑜では傷一つ付ける事の出来なかった其れを、いとも簡単に薙ぎ払って見せたのだ。そして其れをやってのけた者は、決して現世に存在する筈の無い者。寧ろ『死者』と渾名した方がしっくり来るであろう存在。

 傷付けられた黒い肉塊の周囲を取り巻く、残存の人面疽が苦痛の絶叫を上げた。ばきばきと御廟の床を踏み破りながら後退し、瞬く間に覚瑜と、幽鬼の様に佇んだままのミイラの前から距離を置いた。

「む、引き下がるか。少しは物を考える事が出来るようじゃの。」

 干乾びた舌と顎の骨が動いて、其のミイラがはっきりと喋っている事が解る。そう言うとそのミイラはゆっくりと、ギクシャクと歩き始めた。そして訳が解らずに動けないままの覚瑜の前に立ち、見下ろす。

「儂を黄泉の眠りから無理矢理に呼び覚ました、不貞の輩は貴様か? 」

 頭上から発せられた声に、覚瑜は傷の痛みも力の喪失も忘れて平伏した。其の圧倒的な威圧と尊大さに、今迄味わった事の無い畏怖を覚えながら。

「全く、人の身体を無碍に扱いおって。貴様が乱暴に腹を弄ってくれたお陰で眼が覚めてしもうたわ。やるならもちっと術を修行してからやる事じゃ。貴様の師匠の様にな。」

「は …… 師匠、でございますか? 」その言葉の意味を理解しきれずに、覚瑜は思わず聞き返した。

「ん? 貴様の師匠はあの赤塚とか言う僧ではないのか? 奴は主より先に現れて、儂の身体から心の蔵を抜き取って行ったぞ。何に使うのかは知らぬが。」

「! 座主様が、上人様の! 」

 自分が求めた物が既に赤塚の手の中にある。其の事実が覚瑜の心身を凍らせた。そして御廟を破った犯人は覚慈では無く赤塚であった事を理解した。だが何故そんな事を? いや、其れより何故其の事を覚慈の仕業で有るかの様に、あの時振舞ったのだ? ああ、一度に色んな事が頭を駆け巡ってさっぱり考えが纏まらないっ!

「なんじゃ、知らんかったのか? …… まあいい。そんな事は後回しじゃ。今は ―― 」 ミイラの顔が御廟の出口へと向けられる。そして其処には周囲より魔疽を吸い上げてすっかり復活を果たした黒い肉塊が、新たに現れた強敵に復讐せんとばかりに、幾つもの赤い瞳を燃え上がらせていた。

「 ―― あやつを、何とかせねばな。」

 ミイラの手が平伏したままの覚瑜の右手を掴む。立ち上がらせようと力の篭った其の冷たい手が、ピクリと止まった。その反応に、思わず面を上げる覚瑜。じっと自分を見つめるミイラの面を見上げる。

「貴様、右手をどうした? 」深刻な響きが覚瑜に其の答えを促す。

「此の手はどうしたか、と聞いておる。」

「は、実は未だに痺れたままで力が戻らず、結印を成すのも難しい状態で。」

「其れは解っておる。儂は何故こうなったかと聞いておるのじゃ。」

 こうなった理由? 事の重大さを示すが如く、ミイラの声が大きく御廟内に響く。気が動転している覚瑜だけがそれに気付かなかった。鸚鵡おうむ返しに答えるしか術が無い。

「こ、此れは戦いの最中に『魔』に取り付かれた同胞に噛み付かれまして。其処から血を吸われて以来どうにも動かす事が出来ません。恐らく、何らかのショックだとは思うのですが …… 」

 うろたえ気味にそう答える覚瑜の顔を、髑髏の両目は見ていなかった。じっと握り締めた覚瑜の右手を、吸い付く様に眺めて、ぽつりと呟いた。

「難儀な事じゃ。これは如何様にも出来ん。」

 ミイラの手が右手から左手へと持ち替えられて、覚瑜の自立に力を貸した。もう二度と動く事は無いと思われた其の身体に、再び微かな炎が灯る。そして萎え掛けた両のあしに力を籠めて、自分の敵に相対する。かつて覚慈であった黒い肉塊は其の威勢に圧されたかのように、ゆっくりと二人の眼前から離れていった。

「どうやら、此処では不利と見た訳か。広い所に誘い出して一気に決着を付ける積もりと見るか、それとも、死にたがっているのか、どちらかじゃな。」

「死にたがっている? 」

ミイラのその不思議な分析に、覚瑜は耳を疑った。

「馬鹿な。奴は今の今迄拙僧の息の根を止めようとしていた。それが死にたがっている等と、どうして考える事が出来ましょう? この戦いは討つか、討たれるか。其の二つの結果しか残されていない筈。」

 憤慨する覚瑜の言葉にミイラはふん、と鼻を鳴らした。

「では、聞くがな? 何で、貴様は生きて此処に立っているんじゃ? 」

「っそ、それは ―― 」一瞬考えて、其の問いに対して口篭る覚瑜。

 確かに、今自分がこうして生きているのは神仏の思し召しだと思っていた、そう上人様に尋ねられる迄は。だが、今迄の戦いを振り返って見ると、どうしても疑問が残ってしまう。肉体的にも、攻撃力も圧倒的に優位に立つあの者ならば、自分の命を奪う事等造作も無い事の様に思える。

 実際そんな場面は幾らでも存在していた筈なのに、何故奴は自分の急所を貫かなかったのか? 殺さなかったのか? いや、そもそも何故奴は此処で待っていたのだ? 

『魔』を人に憑依させて襲わせる等と回りくどい事をしなくても、もっと早い段階で出現すれば自分のみならず根来寺を壊滅させる事など簡単な事であっただろうに。

「 …… 解りませぬ、上人様。いやそれどころか上人様に頂いたお言葉全てが、未だ拙僧には理解出来ませぬ。」

「其れは未だに貴様の修行が足りぬ、と言う立派な証じゃ。我が身をよう省みてみよ。貴様に組する輩のみを救う事が仏の御心と勘違いしてはおらぬか? ならば貴様に仇成す者は全て調伏するのか? それでは真の『救い』とは言えぬだろう。」

『加持身』の教義を唱えて開祖となった覚鑁の言葉。其れが今迄の退魔行で戦いに明け暮れた覚瑜の心に、海綿に滲み込む水の如く吸い込まれてゆく。覚鑁は言う。其処に救いは無い、と。今まで自分が信じて、言われるが侭に、命じられるが侭に行ってきた調伏。其れは間違っているのだ、と。

「我らの到達すべき目標は、『世の平穏』じゃ。生きる者、死した者、二つの存在が互いに其れを犯す事無く過ごす世界じゃ。其れを実現するために儂も、大師様も即身仏となり、死者と生者の境界を守り続けてきた。 ―― 良いか、よく覚えておくのじゃ。一つの世、一つの側に立って物事の本質を見抜く事は出来ん。常に心を大きく広げて物事に当るのじゃ。さすれば、今迄見えなかった真実もはっきりと見、聞き、知ることが出来る。そうして始めて仏の御心に近づけると知れ。」

 我らを襲い、命を喰らい尽くそうとしている『魔』の者も救いを求めている、と。其れを理解して元の場所に還してやる事こそ、自分達の使命だと。枯れ木の様に朽ちた身体から溢れるオーラが覚瑜の心を解き放つ。熱い物が込上げて来るのを抑えて、覚瑜の口から覚鑁に対する心からの謝辞が溢れた。

かたじけのう御座います、我が上人様。この覚瑜、今正に眼の覚める思いに御座います。其のお言葉、我の魂の朽ちるまで忘るる事は御座いません。」

「貴様、覚瑜と申すか。…… そうだ、決して忘れるな。」預言にも似た命令の色を孕んで、覚鑁は告げた。

「此の言葉が、何れ貴様には必要になる。其の時になっても忘れぬ様、貴様の魂に刻み込んで置け。」

 そう言いながら、覚鑁の手が自らの懐へと伸びた。「えい、貴様が腹に穴を開けるから、一体何処にいったか …… おお、あった、あった。」

 そう言って懐から取り出された物。遥かな時間が経過したとは思えぬ程に美しく、闇夜に輝く一本の独鈷杵が握られていた。其れを覚瑜の左手に握らせる。

「彼の者を救うにも、得物が無くてはどうしようもあるまい? 此れを使うが良い。」

「こ、これは上人様ご愛用の物では御座いませんか。拙僧等が此れを使う等、」

「戯け。こんな身体の儂が使うても、肘や肩がもげるだけじゃ。若輩の貴様がキリキリ働け。儂は貴様が遣り易い様に後ろで助けてやろう。良いな。―― おお、それとじゃ。」

 再び懐に手を差し込む覚鑁。コキン、という音の後に覚瑜の前に其の手が差し出されて、開く。掌の中に現れた一本の白いかすがい

「貴様、殆ど命が残っておらぬ様じゃからな。此れでもかじって補充するが良い。」

 一本の肋骨を覚瑜の手の中に預ける。「心の蔵程ではないが、此れでも少しは役に立とう。心して齧れよ? 勿体無いでな。」

 薦められるがままにコリリ、と噛み砕く。途端に覚瑜の眼が眩んだ。

 枯渇した筈の生命力、いやそんな物は直ぐに補われた。其れを補って余りある法力が、幾つもの塊となって全身を駆け巡る。其のあまりのスピードに覚瑜の心拍数が心房細動を起こしかねない位に上昇した。

「す、凄い …… 」

 今までの自身が打砕かれかねない程の其の力。そして覚瑜は自分が覚鑁の心臓を齧ろうとしていた事実に恐怖した。肋骨一噛みで此の威力ならば、法力の源である心臓など齧ったらどういう事になるのか見当もつかない。只言える事は其れを成した瞬間に、自分はこの世に居なかったかも知れないと言う明確な予想であった。

「当たり前じゃ。貴様らとは出来が違うわ。…… さて、では行くか? 」

 近所に買い物にでも行くかの様な口調を残して、覚鑁はゆるゆると其の歩みを御廟の出口へと進めた。御廟を出た直ぐ先には、必ず奴が待ち構えている筈。覚鑁の直ぐ後に続きながら緊張の度合いを高める覚瑜に向かって、再び覚鑁が声を掛けた。

「臆することは無い、覚瑜。我らは奴を救ってやるだけじゃ。何も難しい事ではあるまい? 」

 其の言葉に、覚瑜の足に力が蘇った。そうだ、此れは調伏ではなく、天誅でもなく。ただ、救うのだ。決して関わってはならない世界に迷い込んだ闇の眷属を穏やかに元の世界に帰す為の、此れは、儀式。

「上人様、拙僧が先に出ます。」

 覚瑜が覚鑁を追い越して前を進む。其の背中越しに、頼もしそうな覚鑁の声が投げ掛けられた。

「そうじゃ、其れで良い。其の姿こそが、貴様らしい。」

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ