月 読
彼は渇望する。
其れは得ようとして得られない物に対する本能の欲求による物かも知れない。自分がかつて人であった頃に、心の中に常に蟠っていた物。救おうとして救えなかった者。斃そうとして斃せなかった物。
其の時彼は常に求め続けた。自分にもっと力が有れば、自分の願う望み全てを叶える事ができるのに。
そう思うが故に欲した力。人の名を捨て、人の形を捨て、そして人の心を棄てて迄、彼は力を欲した。そして手中に。冥府魔道に巣食う輩と同様の禍々しき姿。しかし其処に後悔はなかった。
彼は魔に擦り寄り、其の力『だけ』を手に入れさえすれば良いと、本気で自分の師に信じ込まされたのだ。
魔界に堕ちた途端に、彼の求める物は一変した。彼の前に立つ、人の成りをした物は全てが『餌』となる。自分以外の法力者が全て敵となる。そして自分に仇名す者は全てが殲滅の対象となる。其処に人であった頃の慈悲等は一片も存在しない。只、引き裂き、喰らい、蹂躙する、それだけの存在。
しかし其れこそが彼の求めた力の果てには違いなかったのだ。かつて抱き続けた筈の葛藤も無く、純粋に力を行使する事の出来る肉体。倫理等は必要ではない。欲するが侭に成し得る事の出来るこの姿に、彼は酔っていた。
だが其の自分の力を以ってしても、蹂躙出来ない存在が居る。喰らう事の出来ない人間が居る。其の事が彼の、かつて失われた『人』の部分を覚醒させた。
故の渇望。自分の攻撃を躱し、自分を窮地に陥れ、自分の前から逃げ続けている女。捉え損ねる毎に、傷つけられる毎に、頭の中でアノ声が聞こえて来る。捉え損ねる度に、逃げられる度に、其れは次第に頭痛を伴って彼の頭蓋を侵食する。
たべたい、ああ、たべたいね。あのおんな、あのしろいうで。あのやわらかいあし。はらわた、ちぶさ、ほと、ああ、たべたい。
飢餓の欲望に支配された彼を押し潰す声。遂に果たされようとした筈の欲求を再び阻止された怒りは、全ての者を喰らい尽くす事で紛らわせる。そうして行く手を阻む者が居なくなった時、再び彼の本能は逃した獲物を追跡する事に向けられた。
今度こそ。
微かに残る女の芳しい血の匂いを追いながら、耐え難い渇望を充たせる期待で心は震えている。そうして踏み込んだ、建物の中。
彼が求める女の血の匂いを纏った、彼が求める者とは違う、女。
碧達を見送った月読の背後で、破壊音が鳴る。黒き肉塊は観音堂の僅かに残った梁を破壊して、其の巨躯を本堂内に侵入させようとしていた。数多の人間を喰らい尽くして尚、何かを捜し求める魔界の殺戮者の前で、月読はゆっくりと、あっけないほど普通に振り向いた。微かに、微笑みながら。
黒き肉塊を覆った人面疽が、月読の姿を視線に捉えて、咆哮した。其れは自分の求める者の血の匂いを放ちながら其処に立つ、自分の求める贄では無い者に対する怒り。『またしても』という、粟立つ憤怒が瘴気を放って月読の元へと押し寄せていた。
それは絶対的な死。長谷寺全ての人間を蹂躙しても尚充たす事の出来ない渇きを癒そうとする、自分を阻もうとする者全てに叩き付けた物。月読の周囲を其れが音も無く、形となってふわふわと取り囲もうとしていた。
退魔行の経験の少ない月読と言えども、其の目の前に聳え立つ異形の者の存在の異質さは理解できる。本来ならば不可視である筈の魔疽が、こんなにはっきりと形を保って自分の周囲に降り注いでいる。其処に籠められた虐げられた者達の怨嗟、恐怖、羨望、畏怖。様々な負の感情が黒い雪と化して本堂内に降り続いていた。これは、つまり。
「成程、お父様の仰った『人の持つ負の因子が作り出した澱』と言うのは本当かも知れない。この物の中には其れしか、無い。」
撒き散らされる雪の一つ一つから放たれる波動を感じながら、月読は以前、掛川の廃寺で父松長が評した『天魔波旬』の実体像が正しい事を認識した。
そう、使いの者であってこれ程の負の煩悩を纏った存在ならば、その大元となる者はどれ程の負の力を背負って存在しているのだろうか? そして其れに対抗してこの世に生まれた『摩利支の巫女』の力とはどれ程の物なのだろうか?
月読の僅かな思考の隙を突いて、黒き肉塊が行動を起こした。無論其れは目の前の邪魔者を排除する為に他ならない。人の顔 ―― 多くの人間を喰らったそれらの顔は既に鬼面 ―― を貼り付けた大蛇が一斉に黒き肉塊の下を離れて、鎌首を擡げた。ギリシャ神話の中に記述されたメデューサの頭部の如き威容を放って、月読との間合いを詰め始める。その殺気を感じ取って間合いを保とうと後ずさりする月読。
大蛇の視線はその全てが、他の生贄と同じ様に『絶対的な死』から逃れようとしている哀れな女の姿、その一点に集中している。
「むだだよ」と、声無き聲。嘲笑うかの様ににやりと笑うその全ての口が大きく開かれ、舌が伸び、その先端が鋭く研ぎ澄まされ、狙いが只一点へと向けられた。
「ごめんなさい、姉様。」月読が呟く。
それが先に死んで行く我が身に対する物なのか、それともこの様な者の矢面に立たせてしまった事に対する憐憫なのか。まるで死を覚悟したかの様に、月読は静かに眼を閉じる。
其れを合図にして、蛇達はその口から一斉に黒い棘を月読目掛けて吐き出した。其れは今迄と変わらぬ、これからも変わる事の無い死の儀式。目の前に据えられた獲物目掛けて、瞬く速さで黒き棘が繰り出された。
今正に、哀れな獲物を串刺しにしようかとした其の時、それは止まった。その先端は距離にして一メートル余り。空中で静止したそれらは何か強固な壁に阻まれて、月読の肉体への侵攻を阻止されていた。
ぎりぎりと音を立てるその無数の棘の先端を目の前にして、月読はゆっくりとその両目を開いた。その視界の下の端。ほんの僅かに移る黒髪、その前面に翳された『月陰の杖』。
黒い棘との力の拮抗でその杖から展開される護法印が空間に露になっている。しかし、それが破られる筈が無いと言う事を月読は理解していた。何故なら此処にある物は、正真正銘の『神』の力。
「汝の、選択は決まったか。」杖を翳した少女が振り向きもせずに月読に問いかけた。
その言葉に「はい。」と一言言って頷く。
尚もギリギリと、盾として展開された護法印を突き破らんとする黒い棘の先端が、其の時、掻き消えた。
いや、消えたのではない。その先端が護法印と一体化して完全に固定されたのだ。不慮の事態に慌てる蛇達。だが、もう遅い。固定された棘を引き抜く事も出来ず、噛み千切ることも叶わず、彼らはその本体である肉塊ごとその場に釘付けにされてしまっていた。
その動揺は全てに伝播して。のたうつ蛇と肉塊。其れは白血球に捉えられたウィルスの様に見える。
少女が手にした杖をくるりと天地逆様にして、軽く床を打った。こおぉんと猪脅しの様な音が本堂全体を包んだかと思うと、床全体に金色の魔方陣が浮かび上がった。其れは月読が構築した筈の、完成を諦めた筈の『月読の陣』。光のカーテンがその外縁部から一気に立ち上がって三人の姿を包み込んだ。
そう、これで術者 ―― この場合は月光菩薩にあたる ―― が意識的に術を中断しない限り、外界との接点は完全に閉ざされてしまう。黒き肉塊がこの罠から抜け出すには目の前の、少女の姿をした『神』を葬るしか手段は残されていないのだ。
逃れる為の最後の手段。肉塊はその全身を力任せに振り回した。それによって、一本、又一本と引き千切られていく大蛇の首。どおんと轟音を立てて床に転がるそれらが、無慈悲に切り離した主人を呪うかの如く、または湧き上る渇望を充たす事の出来なかった事を呪うかの如く、その場でのた打ち回り、やがて、枯れた。
全ての大蛇を千切り落として、肉塊は戒めから解かれた。自由を取り戻した其れが、この場を逃れようと本堂の出口へと向かう。その背後から、抑揚の無い少女の声が響いた。
「無駄だ。魔の眷属。お前の領域ではこの『光陣』から出る事は叶わん。ここから出られる者は我より上位にある者のみ。」
その少女の言は正しかった。肉塊が光のカーテンに触れた途端、その身体が電撃を受けた様に内部へと弾き返される。再び轟音を上げて。繊毛の様な足を露にしてその場に倒れる肉塊。
「既に此処は神の領域。再び闇の力を手にして復活を果たそうと言うのであろうが、此処にはそのような穢れも届かん。」
手にした杖が空中でくるりと回る。その動きに合わせる様に床から光の渦が巻き上がり、起き上がろうともがき続ける肉塊の身体を床に縛り付けた。絶望の咆哮を挙げる筈の蛇達は既に無く、只、芋虫の様に蠢くしか手段の無い、かつての殺戮者。その姿を無表情に眺めながら、少女が月読に言った。
「月読。我との盟約に従い、我に導かれる事を望むか? 」
彼女からの最期の質問。
しかし考えるまでも無い。自分が此処で命尽きる事を望むからこそ、自分の愛する者を守ろうとするからこそ、今自分は此処に居る。もうそれ以外に、何の望みも、無い。
「 …… 望みます。月光菩薩様。どうか穢れた私の御霊を貴方様の手でお導き下さいます様。」
「承認した。」冷酷な一言とは裏腹に、其の言葉に秘められた僅かな憐憫の色を聞き止めて。
「月光菩薩様 ……? 」
少女の肩越しに月読が其の言葉の真意を確かめようとした時、不意に黒衣の少女は月読の方に向き直り、顔を見上げた。両の瞳を彩る空色がじっと月読の瞳を見つめる。
「 …… 我は今迄に、汝も含めて二十四人の女と運命を共にして来た。其の中でも、月読。」少女の両腕がそっと月読の腰に回された。其の突然の行為に呆気に取られる。
「汝が我が母ならばと、何度も願ったものだ。」
「そんな、私など。私は私を信じる者を全て謀った、穢れた者。月光菩薩様の母君の代わり等に生り得る存在では御座いません。」
「だが、汝は最期に裏切らなかった。…… 月読よ、其れは決して『穢れ』ではない。其れこそが人の身が神より戴いた『業』なのだ。」
「『業』。」
「そうだ。言い換えるなら『我儘』と言っても良い。凡そ人の世では悪意に取られかねない其の言葉の本質が、」独唱の様に続けられる少女の言葉を耳にしながら、月読は自分の選択が間違いではなかったと、少女に告げられている様な気がした。
「『救世』の本質なのだ。人を救うのも、滅ぼすのも、神の力ではない。全ては人によって成し得られる結果に過ぎない。…… 月読よ。汝はその『我儘』で人を救う事を選んだ。そんなお前を、我は好ましく思う。」
月読の両の目から再び涙が毀れた。其れは赦された者の涙。月読に抱き着いたままの少女の肩に控えめに両腕を回す。
「有難う御座います、月光菩薩様。私の様な者にその様な御言葉を掛けて頂いて。月読は最期まで、幸せ者で御座いました。」
「彼岸の先にても、共に在ろうぞ、月読。現世に残す者達には申し訳ないが。…… 汝の役目は、終わった。」
月読の腰に回されていた両腕が解かれ、其の侭天を翳して、其の先にある月読の顔を求める。空色の瞳が光を放ちながら月読を見つめて、少女は言った。
「此れより、汝の封印を解く。我の力を欲するならば、求めよ。」
少女の其の声に導かれる様に、月読の顔が下がった。そうしてお互いの唇を重ねて暫し。床に描かれた魔法陣を形どる金色の光が大きく広がり、魔方陣その物を光の中へと埋め尽くす。
神代の者と人の世の者の最期の契約が終わった時、其処は既に建物の中ではなく。金色の野に佇む二人の姿があった。二人の瞳は光の中で縛り付けられ、打ち棄てられたままの魔の眷属の姿、只一点に向けられている。
月読の前に立つ少女がその手にしていた『月陰の杖』をその場に立てた。揺らめきながらも自立を果たした其の杖から溢れ出る青白い光。
最初は光であった物が徐々に形を成して、其の一本一本が力を纏った羽毛である事が認識される。それらは微かに震えながら、未だ成長を果しながら其処より解き放たれる合図を只管に待ち続ける。
「現世の理、幽界の理。悠久の時、原初の時。我遍く天界神人末席の者、魂魄道程道標の任を司る月光遍照菩薩也。我盟約者と共に在りて彼者懇願承認を果し、此処に其の力顕現せしむる由、六道在人只照覧を求むる。」
抑揚の無い詠唱が金光の中を漂う様に流れる。
「我真名『清涼金剛』」
其の声と共に少女の両手が動いた。左手は軽く上に持ち上げられ、右手は垂らされて。持ち上げられた左手の親指と人差指が『月』を意味する円を象る。
「真言詠唱伴い、其の力解放する。」
ブン、と言う響きを残して、少女の前に立つ羽毛の木が大樹へと変貌した。それは月読の上背を遥かに超えて、二人の頭上に其の幹を展開する。
「では、往くぞ。月読、…… いや、『エリヤ』。」
振り返る事無く告げられた其の呼び名に、月読の眼が大きく見開かれる。
「 …… 『救世の者を導く預言者』よ。」
少女の空色の瞳が光を放って。其の口から最期の真言が詠唱された。
「オン センダラ ハラバヤ ソワカ」
終了と共に、頭上一杯に満ち溢れた青白い羽毛の葉全てが一斉に空中に舞い散った。音も無く降り頻る異界の雪景色の中で、少女が静かに其の術の名を虚空に放った。
「 …… unseal[封印解除]。―――――― lunatic[月]・anonymous[読] ―――――― 」
地の底より湧き上る、癒し様の無い渇望を紛らわす為の口は喪われた。探す為の眼は潰された。光の茨に縛り付けられた侭の黒き肉塊に与えられている物は少ない。触覚と聴覚。全身に巣食った蛇達を根こそぎ奪われた後の傷が、踏み込んではならない場所に満ちる光の粒子に中てられてジクジクと痛む。
其の肉塊の中心。元は高名な法力僧であった筈の人間の持つ耳が、自分の置かれた場所の変貌を認識していた。音がある訳ではない。音が亡くなっている事こそが、その認識の証明。そして其の事は彼を恐怖させた。
かつて人であった頃。退魔師として人々を苦しめる『魔』を調伏していた頃。自らの魂が穢される事も、憑依される事も厭わず其の身を『魔』と対峙させて戦い続けたあの頃。そして、其の崇高な使命の為に死ぬ事も恐れず、辞さずにいたあの頃。あの男、我が友と共に。
だがあの日。我が師より魔界の力を授けられた時、全てが一変した。
『善』の者の矜持も、誇りも、尊厳も、全てが闇に食い尽されて残った物。『善』という嘘に塗り潰されて隠された『人』の本質、羨望、怨嗟、そして渇望。剥き出しになったそれらが彼の心を支配した時、彼は其の揺り篭から這い出る事を拒否した。
そしてそれらを充たす為だけにのみ彼は存在する。其処に恐れも怖れも懼れも畏れも存在しない。彼は自分が、善悪はともかくとして神の力を手に入れた事を知っていたから。現世に存在する者の中に彼を疵付ける程の力を有する者が無い事を認識していたから。其の事が彼の振る舞いの暴虐さに輪を掛ける要因になった事は否めない事実だ。
だが今、彼は確かに恐怖していた。
それは過去に置き去って来た筈の、消滅に対する、消去に対する、死に対する恐怖。床に縛り付けられた我が身が今迄蹂躙し続けた、いと小さき者達よりも矮小な存在に成ってしまったのではないかと言う、誤った、正しい認識による物。其処から導き出される存在の維持への執着が彼の行動を決定した。
足掻く、もがく、抗う、図る。ありとあらゆる方法を試しても尚、光の茨は緩む事無く彼の存在をその場に縛り続ける。彼の本能が、抵抗は無意味だ、と彼の脳裏に囁く。其の言葉が彼の存在への執着により一層の拍車を掛ける。
やがて張り巡らされた感覚が、周囲に満たされる何かを捉えた。
其れは、光。其れは、振動。
彼の傷を苛む光の粒ははっきりと形を成して彼の残骸に降り懸かる。触れる毎に、積もる毎に彼の体からは煙と共に力が喪われていく。其れは彼が犯した罪に対する光の粛清が始まりつつあると言う事。だが其の事よりも、彼は彼の周囲を振るわせ続ける極低周波にも似た空気振動の方へと意識を奪われていた。
果たして其れが何を意味するのか?
人であった頃の記憶の階層を一瞬の内に引っぺがして検索する。其処に存在する、彼が習得、若しくは認識した全ての真言の巻物。記されている全ての記録を呼出そして消去。
―― 無かった。彼の巻物全てが赤く染められて、其の作業は終了した。そして再び訪れる、未知の物への恐怖。そして、其れは終焉の始まり。
――― はじまった。ああ はじまった。 うれしい これで ―――
金色の野に立つ二人の姿。微動だにしない其の姿は一本の大木の根元に設えられた大小の道祖神の如く。瞬きもせずに見開かれた二人の瞳が共に光をリンクしながら、半開きになった唇が僅かに振動を繰り返して、非聴覚領域での真言詠唱を続けている。
封印が解かれた時点で二人 ―― 神と人間 ―― の人としての機能は全て無い。此処に有る物は神の如くに真言を紡ぎ挙げる、只の機械。
人の形をした機械が垂れ流す真言が振動波となって周囲の空間を漂い。其れは神と人の法力を巻きつけて実体化を目指していた。そうしてかつて月読が構築した『月読の陣』を直径とする半ドーム状の空間の中。放たれた真言が其の外郭を構成する。外延部に立ち上がっていた光のカーテンが、まるで朝日を迎える月下美人の花の花弁の様にそのドームを包み込んだ。そして其処には何人たりとも侵入する事の出来ない領域『光球』が構成、顕現を果たした。
それでも尚詠唱は終わらない。
二人の口から放たれた真言が空間に漂う羽毛に導かれて、絡められて其れは物質化したまま漂い、互いに引付け合って其の存在を大きくする。限定された空間を過剰な法力と真言で埋め尽くす、月光返照菩薩の奥義。未だかつてどの契約者との共闘も果した事の無い、互いに通じ合う事の出来た二人だからこそ可能な神の力。
『狂乱の詠唱者』
その空間異常は直ぐに現れた。
本来ならば空気中に放たれ、『無』に回帰する筈の法力と真言が限定された空間内で滞留する。留まる事の無い、更なる補充によってそれらは鬩ぎ合い、擦れ合いながら外郭に積層を繰り返す。法力の摩擦がドームの天井の其処此処で火花と雷光を放ちながら、それでも外部に放出される事を望んで、決して破れる事の無いドームの天井に向かって圧力を高めた。 其処に起こる空間の飽和。現世では在り得ない力と物質の存在限界。其の最期の一線を空間が踏み越えた瞬間。
ゲートが開いた。
足元が無くなる感覚。しかし少女と月読は変わらず其処に立っていた。其処に存在した筈の『月読の陣』。其れを直径とした光の回廊が、無限の深さを以って其処に現れた。そして其の何処を根源とするのか、膨大な量の法力 ―― それは神力 ―― が吹き上がる。
光の風が二人の黒髪を、色も定かでは無くなった着衣を宙に舞わせて。それでも止まらぬ詠唱が更なる風をドーム内に呼び込んで、闇の眷属たる黒き肉塊の穢れた肉を削ぎ取り始めた。 千切れた肉が光の中に吸い込まれて、瞬く間に分解されて。
そこには分子も原子も電子も量子も存在しない。変換されて行き着く先は、神の座。即ち『無』。
既に自らの行く末を観念したかのように動きを止めた闇の眷族の姿。光の粒に包まれて形も定かでは無くなりつつある其の存在を、僅かに残った意識の端に留めたまま、月読は自分の命脈が尽きようとしている事を認識した。
人の持つ『生存本能』と言う箍を解き放ち、其の命全てを法力に変換する事で神と同等の力を行使して、初めて成しえる秘宝儀。誰も知る事の無い、知られる筈の無い発動致死の儀式。
だが其処に何の後悔も無い。自分の命と引き換えにして、自分が本当に守りたいと望んだ者の魂をこの世に繋ぎ止める事が出来る。そう思う月読の心の中に一つの名前が浮かんだ。
其の御名。
“ 雪斎様。”
其れは澪の父。そして月読の短い生涯の中で只一人愛した、男の名。
“ ―― 願わくば、貴方様が澪を御守り下さいます様 ―― 。”
命の尽き掛けた月読の身体に宿る、僅かな熱。それに呼応するかの様に、光の風は光度を増した。
二人の姿が其の只中に溶け込む。文字通り解けて行く。爪先から光に分解されて霧散していく少女と月読。屠られつつある闇の眷属と同様、人である故に残された、消滅への恐怖を打ち消そうと。其の手に握り締められたままの碧の懐刀に力を籠めた。
そして最期の時。少女の姿は既に光の粒と化した。月読の姿も、握り締めていた筈の懐刀も全てが光の中へ消え去ろうとした其の時。
最期に消えかけた其の意識だけが其の少女の言葉を聞き取った。
“ 月読、これは …… 罠 …… ”
意識が、そして全てが消えた。
観音堂の内部から漏れる光で眼下に広がる長谷寺の敷地が昼間の様に照らされる。其れを見つめる四対の瞳。
もう私は一生分泣いた、と碧は思っていた。だが其の瞳から未だに毀れる涙。止め方も分からぬ侭、彼女は其の光景を見つめている。どんな些細な異変や出来事も見逃さない様に、それはほんの微かに執着し続ける我が妹の生存の可能性に掛けて。
ドン、と言う音。そして四人の立つ裏山の祠にまで到達する衝撃波。見つめる四人の髪を大きく棚引かせて、其れは直ぐ傍を駆け抜けた。消滅する光。
「紗絵っ! 」
『雷帝縛鎖』に囚われたままの碧の身体の中で唯一動く事を赦されていた唇が、其の只中に或る筈の妹の名を叫ぶ。夜の虚空に放った声が届かぬ侭、眼下の観音堂の外観が変貌を始めた。
それは滲み出してくる。観音堂の内部から緩やかに。
何も破壊する事無く、何も干渉のされる事の無い、月の光の中に浮かび上がった黒。やがてそれは巨大な玉となって観音堂全体を其の中に取り込んだ。表面に紛れて縦横無尽に赤い雷光が走る。
「此れが、月読様の、奥義 …… 」
碧の体を支えていた藤間が何かに中てられた様に呟いた。黒球の内部で何が起こっているかは見通せない。だが其の状態が既に奥義の最終段階に入っている事を理解するのは容易だった。少なくとも其の兄弟分とも言える忍術を使役する彼女達にとっては。
それがこの後どうなるのか? 碧を支えている二人は互いに顔を見合わせて頷いた。
もし此れが破裂しようものなら、其の内部にある何某かの物 ―― 物理的物体も含めて ―― が飛散する事になる。其の爆心地を見下ろすこの位置では、危険だ。今はこの場を移動して、より遠くで事態の推移を見守るしかない。
藤間と水尾の危惧は一致した。其の打開策を実施しようと動き掛けた其の時、
「動くな。」碧の声が二人の足を地面に縫い付けた。
「しかし、碧様、此処は危険に御座います。月読様の奥義がこの後どう推移するか判らぬままに此処に留まる等。」
「駄目だ。ここは離れない。此処でなければ月読様が御存命だった時に迅速な対処が取れん。」
「そんな …… 」
もう一縷の可能性も無いのだと。其れは碧に反論を展開しようとする二人にも確証の無い事だった。
まだ一連の顛末の結果は出ていない。其れを見届けずしてこの場を離脱する事など、碧が赦す筈がない。二人の思惑と反目する碧の命令の板挟みにあって、藤間と水尾はまんじりともせずに碧を見つめる。其の二人の葛藤を和らげる様に、碧が言葉を繋いだ。
「大丈夫。あれは私達に危害を加える事は無い。」断言する碧、驚く二人。
「何故、お解かりに?碧様はあの術のご説明を以前に ―― 」
「受けてはおらん。だが解るのだ。月読様は我らを逃がす為にあそこに留まった。殿として残った者が味方に被害を及ぼす様な所業を仕出かすと思うか? 」
「それはそうですが。しかし正体の解らぬ以上、細心の注意を払うべきではないでしょうか? 此処では其れすら危ういと言うのに。」
水尾が此処に来て初めて口を開いた。若輩故と、必死に留め続けていた言葉が口を付いた。
「水尾。其れが理解出来ると言う事が解らんか? 」
碧の問い掛け。顔を真っ赤にして、必死に我が頭領の質問の答えを模索する。其の答えが出る前に、碧が優しく告げた。
「私が、そうするからだ。…… あの場に留まっていたとしたらな。」
言葉に詰まる。月読様と碧の間で繋がれた絆。其れを一瞬でも疑った自分達の愚かさ。其の愚かさを拭い取る為に、二人は決心した。
「分かりました。申し訳御座いません。」言葉を疑った非礼を謝して、二人は再び及び腰になっていた自分の身体に渇を入れた。
其の時。
真っ赤に焦げた鋳鉄に、ほんの一滴の水滴が落ちた、様な音。
チッという音を放ったその場所は正しく黒球の中心。玉の表面を迸る赤い雷光がより一層の激しさを増して全体を駆け巡る。其の度に震える黒球。
四人が眼を見張る中、其の変化は急激に、そして劇的に起こった。
消滅。其の中に存在していた物全てを飲み込んでの消滅。闇に浮かんだ黒球も赤い雷光も、一瞬前に存在していた筈の全ての物、そして其処に存在していた筈の全ての物、者。それらを一瞬の内に飲み込んで、黒球は消滅した。
風が吹く。其処に向かって動き始める空気。
事態を読んだ碧が命令するよりも早く、藤間と水尾は身につけていた帯を解いて手近な木の幹に自分達を碧の体ごと固定した。それを見越した様に突然、風が強まる。
「爆縮! なんて事 …… 」
空気さえも何処かへ持ち去った黒球。その為に形成された真空状態を復旧させんと一気に雪崩れ込む周辺の空気。観音堂があった場所の景色が大気の密度差に大きく歪んで見える。
其れを元に戻す自然界の修復作業が一気に行われた。台風の暴風に似た何かが、裏山の斜面を駆け下りる吹き降ろしとなって四人に襲い掛かる。
身体が浮き上がる感覚。いやそんな事はどうでもいい。碧は手の中の澪を持ち去られない様に必死に両の手に力を籠めて。藤間と水尾は其の二人が持ち去られない様に、両の手足に力を籠めてしがみ付き、踏ん張る。
時間にすればほんの一瞬の出来事。あれほど吹き荒んだ風が其の落ち着きを取り戻し、四人の周囲を爆縮反応が起こった以前と変わらない静寂が訪れる。そして碧は自分の身体の異変に気が付いた。
澪を風に囚われまいとして、思わず力を籠めた両の腕。其の手に力が戻っていた。其の事を喜んだのも束の間、身体の傷からの出血が徐々に増してきている。この二つが意味する事、それは。
「 …… 紗、絵 …… 」
自由を取り戻して、痛みを増した身体をよろめかせて、碧は擂鉢状に抉られた爆心地を見つめる。月読の法力の支配から解き放たれた意味。其れは彼女の死。そして碧に抱かれた澪の両目も、瞬く事無く其処を見つめていた。
碧の失血が徐々に増えている事は藤間と水尾にも理解できた。襦袢を脱ぎ捨て、其の全てを包帯状に引き裂いて、碧の体に残る全ての傷口を立たせたままで縛り上げ、動脈を圧迫した。 それでも出血の量は月読の法力が抑えていた時と変わらない。これ以上は手の施し様が無い事を悟った藤間が、碧に告げた。
「碧様、早く病院へ。出血だけでも止めないと、お命にかかわります。」
藤間の懇願が耳に届かないのか、碧は只黙ったままその場に立ち尽くして、じっと爆心地を見つめている。澪と共に。
「碧様! 」水尾の声、いや叫び。闇夜に響く其の声に、碧が辛うじて反応した。
「藤間、水尾。私の頼みを聞いてくれるか? 」
力の無い声。其れは彼女達の頭領としての命令ではなく、肉親をたった今喪った一人の人間としての願いであった。
「このまま、私を御山に連れて行ってくれないか? …… 治療は其の後で、いい。」
その碧の言葉に、息を飲む二人。
もし、此れが命令であったなら。今までの経緯を知らない侭だったとしたら、碧の申し出など命を掛けて拒否出来た筈。喪うべからざるものの存命という使命に比べたら、忍びである自分達の命など取るに足らない事象に過ぎないからだ。
だが今は違う。彼女達を守る為に散った命。其の者が碧に託した落胤、そして願い。
全てをその場で聞いてしまった二人にとって、碧の願いは其の侭二人の願いへと塗り替えられていた。そこに異論を挟む余地など遺さない程に。
ましてや敵の攻撃を封じきった今が、移動のチャンスだと言う事もある。此処で治療の為に病院に向かって悪戯に時間を浪費し、其の間に体勢を立て直した正体不明の敵の襲撃を受けたら、其れこそ眼も当てられない。
藤間と水尾の力等ではあんな物を押し留める事は不可能。澪すらも守れず諸共に食われてしまうだろう。だから敵が正体を喪った今が、唯一安全に移動できる最大最後の機会なのだ。
二人の決断は早かった。
碧が託された月読の最期の願い。澪を父の元へと無事に届けるという。其れは同時に命を月読によって長らえる事の出来た二人の、月読への恩返しでもある。藤間が碧の手から澪を預かり、水尾が碧を負ぶって。碧を背負った水尾が肩越しに笑い掛けながら、言った。
「往きましょう。碧様。御山に。」強い決意。
其れは我らの殿を立派に勤め上げてこの世を去った『月読』という名の仲間の願いを叶える為。そして碧も死なせないという決意を籠めて。
「水尾、お前 …… 」当然拒否されるであろうと覚悟していた碧が驚きの声を上げた。
「そうです。往きましょう。」同意する藤間の声。
碧の驚きが歓喜と感謝の気持ちに変わる迄、二人は待てなかった。
「さあ、碧様。泣いてる暇は無いですよ。私のバンキッシュがこの先の駐車場に停めてあります。碧様は後ろで澪様を確り支えていて下さい。」
水尾がそう言うと二人は山道を影よりも早く疾走り始めた。
「五時間で御山に着いて見せます。かなり飛ばすことになりますから、覚悟して下さいね。」
「ああ、解っている。其れまでは死なないさ。」恐らく其処で流す事の出来る最後の涙が、碧の頬を伝って。
「 …… そうさ、死ぬものか。誰が死んでやるものか。」
そして澪を除いた三人は其の痕跡に気付くことは無かった。唯一人、澪の両目だけが爆心地に抉られたクレーターの中心に横たわったままの、黒い、この世の者の領域の外に存在し続けた人影を其の眼に焼き付けていた。
黒球が爆縮状態に陥る寸前、其の者は吐き出される様に放り出された。全てが消滅した後、吹き返しの風に煽られてクレーターの中に引きずり込まれていく、人間の形をした、何か。
全てが終わった時、クレーターの中央にあった其れが動き始めるのに、幾許かの時間を要した。
ゆらり、と立ち上がる影。以前は法衣であった筈の黒い襤褸雑巾を纏って、それは酷く消耗した身体をゆっくりと動かした。力が尽き掛けている事は遠目にも判別出来る程の衰弱。幽鬼の様に揺らめきながら、しかし其れは確りとクレーターの壁を登り切った。
其の侭、振り返る事無く。其れは自分の犯した過ちの痕を辿るかの様に境内を抜け、階段を下り、惨劇の残滓に満ちた妙智池の脇を通って、雑木林の闇の中へと其の姿を消した。