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 着地に失敗して三人の身体は観音堂の床にそれぞれ投げ出された。慌てて起き上がった藤間と水尾が、自分達が抱えていた何物にも変えがたい存在の在り処を探そうとする。

 其の眼に、横たわった侭の碧の体に逸早く駆け寄る白銀の着物が飛び込んで来た。

「碧ぃっ! 」

この世の者とは思えぬ程の美しいおもての血相を変えて、月読が叫びながら碧の体を抱き上げていた。未だに溢れて止まぬ血に七宝の西陣が汚れる事も気に留める事無く。

「碧っ、みどりぃっ!! しっかりして! 眼を開いて、お願いっ! 」

 抱きかかえた肩を何度も揺さぶりながら月読が叫ぶ。其の呼びかけに碧の瞼が力無く、ゆっくりと押し開かれた。深い眠りに付こうとする意識を底から引っ張り上げようとする主の姿を確かめようと、碧の瞳の焦点が結ばれて、其処に月読の姿を捉える。

「ご無事でしたか、月読様。」

 身体を小刻みに震わせながら碧が言った。まずい。出血性のショック症状が始まっている。

「待ってて。今少し楽にしてあげるから。」そう言うと碧の身体を抱えた侭、片方の手で薬王印を結んで詠唱を始めた。

 ぼうっと二人の身体を紫の炎が包み、月読が詠唱を終えた時に其の炎は治まる。碧の体のあちこちにある傷口からの出血がそれでやや収まった様にも見えた。

「今の私の力ではこの程度の治療しか出来ないわ。一刻も早く病院に行って手当てをしないと、」

「いえ、それには及びません。有難う御座いました。これで何とか動く事が出来ます。」

 他人行儀に礼を言うと、碧はゆっくりと月読の体から自分の身体を引き剥がそうと試みた。慌てて其れを月読の両手が抑える。

「バカ、何やってるの!? 今は動いては駄目! 」

 月読の力にすら抗う事の出来ない碧が、やれやれといった風情で離れて控える藤間と水尾に目配せした。それを理解した二人が一礼をして、碧と月読の傍に近寄る。気配に気付いて月読が尋ねた。

「碧、このお二人は? 」

「私の部下で、藤間に水尾と申します。任務の為、寺の中に忍び込ませておりました。」

 二人が跪いた侭、月読に向かって一礼した。

「まあ、碧の …… それにしてもその様な格好で此処に参られるとはさぞや大変な御任務だったのでしょう。手近に羽織る物があれば良かったのだけれど、今はこんな有様で。」

 裸に襦袢一枚を纏っただけの二人の姿を見て、こんな時にも拘らず月読は本気で心配している。どんな時でも誰に対しても ―― 例外も存在したが ―― 優しく接するというこの心根を知ったからこそ、碧は自分の命を引き換える気になったのだ。

 決して任務の為だけではなく、死なせてはならないという、本当の気持ち。

「お心遣い感謝いたしますが、今は時間が御座いません。」

「碧……? 」いつもと違う事務的な口調に違和感を覚える。

 こんな口調で話す碧を月読は今迄に何回か見た事がある。そんな時は決まって『乳母』の顔ではなく、『お庭番』の顔をして話している時だ。あの日の掛川で我が父、松長座主に話していた時と同じ様に。

「月読様、実はお願いが御座います。」

 やっとの思いで月読みの元から重い体を引き剥がし、向き直って座った碧が静かに言った。向かい合って指呼の距離に座る月読の着物の前面が、碧の流した血の跡で緋に染まっている。「何でしょう? 碧。」放たれた声の影に僅かな氷の匂い。

「私とお召し物を ―― 」

 其処までしか碧は話せなかった。

「駄目です。」きっぱりとした口調で月読が碧の提案を拒否した。

「まだ何にも言ってないでしょうが。」驚きで、口調が普段に戻ってしまった。慌てる碧。

 駄目だ、今はこんな事をしている場合ではない。いつもの仲のいい関係に戻る事だけは避けなければ。そうしないと別れが ―― 。

 心の隅で罪悪感がうずく。そんな碧を尻目に月読は言葉を続けた。

「貴方の事です。私と着物を取り替えて身代わりにでもなろうという魂胆なんでしょうが、それは許しません。」

「もう其れしかお二人のお命を救う手段が無いのです。どうかご理解下さい。」

「許しませんし、解ろうとも思いません、碧。」

 頑として碧の提案を受け付けない月読。瞬き一つしない眼差しが碧を射抜いている。

「貴方が立てた策に異論を挟む気持ちは毛頭無いわ。現に以前に貴方が澪に掛けた吉祥天の呪文で、此処にいた僧侶は澪を守りたいが一身で、命を投げ出してあの化け物と戦っています。碧の思惑の是非に拘らず。」

 そういうことだったのか、と碧は室外に耳を済ませてみる。幾重にも黒き肉塊に叩き付けられていた法力の炸裂音が徐々に少なくなって来ている。その代わりに大勢の僧侶の時の声が上がって。

「我らが身命に代えても澪様を御守りするのだ!! あの様な化け物の手に決して渡してはならんっ!! 」彼らが手にした錫杖が鳴り響き、一斉に境内へと駆け出す足音。そして悲鳴、絶叫。

「其処まで私の事がお分かりならば、今私がしている提案に間違いが無い事も御理解できる筈。さあ、もう時間が御座いません。直に法力僧の囲みも破られ、奴は此処に向かって来る筈です。うまく言えませんが、そんな気がするのです。一刻も早くお召し物を私の物とお取替え下さい。」

「碧。」其の呼び掛けは碧が今まで聴いた事も無い様な、不思議な感情を孕んで。

「そこまで貴方の事を理解しているからこそ、きっぱりと貴方に言える事があります。 ……貴方は間違っています。」

「は? 」

 また口調が。月読様、貴方は一体何をおっしゃりたいのですか?

『風魔の鬼百合』が最期の最期に弾き出した戦略を、まるでお話にならないと言わんばかりに蹴っ飛ばす白銀の天女。碧だけではなく、傍に控えた藤間と水尾までもが眼を丸くして月読を見つめた。三人の視線が集中する中、月読が言葉を続ける。

「貴方の策は、殿しんがりに置く人選を間違っていると言う事です。」

 月読の其の言葉の意味を理解するのに、一瞬の沈黙が人気の無くなった観音堂の本堂内に流れた。

「 …… 駄目。」

 其の沈黙を破ったのは、か細い、余りにもか細い、搾り出す様な碧の声だった。頭を振って月読を睨む。

「其れは駄目。…… 駄目です。月読様。」碧が考えてもいなかったもう一つの最善の策。

 いや、何を言い出すんだ、このお方は! ぶつけ様の無い怒りが、碧の意識を覚醒させる。

「馬鹿な事を言わないで、月読様っ! 一体何を考えてるんですか!! 冗談でもそんな事言わないでっ!! 」自らに科した禁則を吹き飛ばして、碧が怒鳴った。

 其の姿を静かに眺める月読に向かって、

「貴方が死んだら澪様はどうなるのですか!? いや、そもそも座主猊下とお約束した『天魔波旬』の居場所を誰が御山に伝えるというのですか!? それは貴方様以外には出来ない、この世の雌雄を決する重要なお役目だと解っておられるのですか!? 」

「碧こそ、百合ちゃんと道順殿の事はどうするのですか? 貴方も私も立場は同じ。ならば少しでも生き残る可能性の高い策を選択するべきではありませんか? 」

「解ったようなことを言わないでっ! 月読様と澪様と私達の命を秤に掛けるまでも無いでしょう!? 月読様は生き延びて、成さねばならぬ事がお有りの筈! 動けぬ私と貴方様と、どちらかが犠牲になる事等、それが解らない月読様ではないでしょう!? 」

「碧も私も一人の子を持つ同じ命の筈。価値の有る無しは関係ありません。それに ―― 」

 二人のやり取りを聞く藤間達が呆気に取られていた。碧様が月読様に進言しているのは、先程自分達が碧様に進言した事と同じ事。そして其れを拒絶する月読様の言は先程の碧様の言と同じ。まるでこのお二人は本当の姉妹の様ではないか。

「『星宿の法要』は失敗しました。彼の者を特定する事は出来ません。」

「だったら尚の事! 生きてこの地を離れ、日を改めて再び『星宿の法要』を行って成果を成す事が、貴方様に科せられた、貴方様にしか成し得ない使命だとはお考えにならないのですか!? 」

「聞いて、碧っ!! 」

 碧の問いが鋭い刃となって月読の良心を苛む。止めて、碧。私は貴方達を裏切った。貴方が其の命を賭けるほど、私は清廉せいれんな人間では無いのっ!

 碧の言葉に堪り兼ねた月読の叫びに、碧の声が止まった。固唾を呑んで見守る三人の前で、月読の瞳から涙が、小さく開かれた口から嗚咽が流れた。

「 …… 今日、『星宿の法要』がある事を松田に漏らしたのは、この私。」

 再びの沈黙。月読の告白は三人の理解の範疇はんちゅうを大きく逸脱している。

「え ……? 」問い質そうにも、碧の喉から出る声は其れがやっとだった。

「澪がこの世に生まれた時から、私は二人で死にたいと願っていた。でも死ねなかった。」

 月読のかたわらで純白の産着に包まれて、何事も無いかの如くすやすやと寝息を立てている澪を見つめて。

「自分がもう少し強ければ、心が確りしていればあの様な邪鬼に取り入られることも無かった筈。私達のせいでお父様を苦しめ、御山を窮地に落とし入れた其の事実を知った時、私は本当に死のうと思ったの。でも …… 」

 澪を取り上げ、抱き寄せる。

「この子の顔を見る度に、呪文も刀も振るう事が出来なかった。私の手では澪の命を絶つ事が出来ないと悟ったわ。だから、私は。」

「今日の事を決心したのは、掛川なのですね。」短く碧が尋ねた。

「あの時に座主猊下の提案を頑なに断っていたのも、二人で死のうと既に決心していたからなのですね? 」

 頷く月読。

 「お父様に『星宿の法要』の話を持ちかけられた時。其れを果たす事が出来さえすれば、私達がお父様に掛けた迷惑の、ほんの少しでも恩返しが出来ると思った。其の後に私達が居なくなれば、あの松田の陰謀も叶えられる事は無くなる。だから私は奴が私の身体を求める機会を利用して、あの男の耳に今日の事を話したわ。『星宿の法要』さえ無くなれば、私達は名実共に貴方の物になる、とさも味方であるかの様な振る舞い迄して。」

 なんと、と碧は体の痛みも忘れて月読の成そうとした、余りにも浅薄な戦略に聞き入っていた。『一児の母』であるという事に囚われていて、この方の真の姿を見誤っていたとは。

「あの男の事です。成り上がろうとする野心に駆られて絶対にこの事を外部に漏らすに違いない。『天魔波旬』の手の者の耳にこの事が入ったら、きっと何らかの行動を起こしてこの法要を阻止しに来るでしょう。貴方が其の者を阻止している間に私が法要を終わらせ、其の情報を貴方に持たせて御山に向かわせるつもりだった …… それで全てが終わる筈だったのに!! 」

 叫ぶなり、月読の体が碧の前で平伏ひれふされた。

「御免なさいっ、碧っ!貴方をこんな目に合わせるつもりは無かったっ! だからせめてもの罪滅ぼしに私が貴方の代わりになるからっ! 碧は此処から逃げて、お願いっ!! 」

「澪様をどうするおつもりなのですか? 月読様。」

 その碧の声には、自分を利用して窮地に追い込んだ月読に対する一片の怒りも無い。優しい声。はっとして抱き抱えたままの小さな赤子に眼を落とす月読。感極まって毀れる涙が頬を滝の様に流れて澪の頬へと滴り落ちた。その姿を滲む視界に捉えた侭、碧が問い掛けた。

「月読様の成そうとした事はまだ何一つ形になっては居ません。月読様は、それでも死にたいとおっしゃるのですか? 澪様と共に。」

 月読の叫び、魂の慟哭。

「澪 …… みおぉ …… 」

 それは獣の母親の様に何度も子供の名前を唱えて、無垢な赤子を死神に囚われまいと掻き抱く聖女の姿。

 痛む体を推して碧が月読の傍に近寄り、そっと其の身体を抱いた。微笑みながら。

「碧 …… 」

 涙で表情をくしゃくしゃにしながら見上げる月読。其の月読に向かって優しい声で語り掛ける碧。

「馬鹿よね。…… 出来もしないのにそんな事考えて、こんなになって …… でも、よかった。」

「え? …… 」

「今、まだ死にたい、なんて言ったらビンタの一つもかまして気絶させてから運ばせようと思ってたんだから …… でもよかった。これで貴方にお別れを言う事ができる。」

「そんな、碧っ! 」

 だめだ、碧を逝かせては。月光菩薩様は言っていた。私が皆を守って死ぬ事こそが唯一私の最期の望みを叶える方法なのだと。

「碧っ!駄目ぇっ! 」

 碧の抱擁を振り解く月読。その瞳に、後ろに控えた二人に視線で指示を送る碧の姿が映る。 ダメ、碧。今死ななければならないのはこの私。このまま貴方を残してしまったら、私の望みも潰えてしまうの。貴方も、澪も、私の愛した全ての者が死んでしまうっ!

 澪っ! 私に力を頂戴っ! 碧の決意に負けない力を私にっ!!

 二人の着物を交換しようと藤間と水尾が月読の傍へと近寄る。肩に掛けられた水尾の手を振り解いて、月読の手が袖口に掛かり、其れを一気に引き千切った。

「月読様、何を、」

 慌てる三人を尻目に無言の侭、其の袖で手の中の澪の産着を包む。そして、

「碧、貴方にお願いするわ。澪を …… お願い。」碧の手の中に。

 この期に及んで何を言い出すのか、と表情を曇らせる碧。

「できないわ、月読様。澪様は、今少しでも生きたいと思った貴方が連れて行きなさい。其れが、貴方の為でもあり、澪様の為でもある。」そう言って再び月読の手の中に。

「違うの、碧。此れは。」

 澪を再び手渡そうとした月読の手を碧の掌がそっと押し包む。

「月読様が、もし、私の事を少しでも気にかけていらっしゃるのならば、私の言う事を聞いて下さい。月読様や澪様や、里の皆が私の事を少しでも覚えていてくれるなら、碧はそれで本望です。」

 そういうと碧は両手を後ろに回して帯を解こうと試みた。碧の耳には絶えず外部の状況が流れ込んでいる。法力が炸裂する音はとうに止み、人の気配も既にまばらになっている。後は散々聞き慣れた、獣が肉を咀嚼する音だけが境内中に響き渡るだけ。残り少ない時間が更に此処で費やされている。ぐずぐずしている暇は無い。

「藤間、水尾。月読様の衣装を私のと交換して。もう一刻の猶予も無い。」

 碧の命令に弾かれた様に月読の肩に再び手を掛ける二人。そして再び其れを振り解いて月読が澪を手渡そうとする。何をしているんだ、と三人を睨み付ける碧の瞳に怒りの色が宿った。

「月読様っ、いい加減になさいませっ! もう時間が無いのです。此処でそのような事をしている暇は、」

「違うのっ!これは違うのよ、碧っ! 」泣きながら澪を無理矢理に碧の手の中に押し付ける。「澪を連れて逃げてっ!これは貴方でなければならないのっ! 」

「それは、貴方であってもいいはずだっ!! 」

 恫喝。今まで限られた人間にしか発した事の無い、心胆寒からしめる声音が碧の口を付いて出た。心の底から湧き上る怒りを露にして。

 驚いたのは其の後の月読の反応を見た碧の方だった。傀儡回しも呆れる程の、拘束の意思を持ったその言霊が月読には通じない。おそれに全身を震わせながら、其の瞳が怯む事の無い決意を宿して碧の瞳を射抜いていた。

 怒りの波動が収まりかけた所で、月読の叫びが碧の耳朶を打つ。

「私は、此処で死ななくてはならないのよっっ!! 」

 

 全く今日は予想外の事が有り過ぎる。

 予定通りだったのは月読様が術を発動させる迄。其の後の化け物の出現から今此処に至る迄は、全くの予想外だ。身体は穴だらけにされるわ「死にたい」と護衛対象にこくられるわ、もう散々。流石のあたしの脳味噌もパンクしそうだ。

 で、最期の最期に自殺志願者の提案と来たもんだから恐れ入る。一体何の理由があの優美で、可憐で、清楚な月読様を取り乱せる事が出来るのだ? 

 碧は半ば呆れながら、預けられた澪の身体を受取ろうとしない月読の表情を眺めていた。

 其の視線に負けないかの如くに、碧の顔を泣きながら睨み付ける月読がいる。まいった、意味が解らない。

「『星宿の法要』が失敗したのには理由があるの。」先に発した叫びとは対極の声。

「術が完成する間際、私の契約者である月光菩薩様が顕現けんげんされたの。彼女は私に、自分の望みを叶えたいのならば今直ぐに術を止めろと言ったわ。此の侭『星宿の法要』を続けて力を出し尽くせば、皆、死ぬ、と。」

「それはそういう意味ではなく、逃げる時間が無くなるから月読様の守護菩薩様がそうお知らせに参ったのではないのですか? 其の事と、貴方様が死のうとしてる事の因果関係が私には解らない。」

「そう言う意味なのよ、碧。」

 もう碧と顔を合わせる事も出来ない。『共に生きたい』と言う自分の我侭が飛び出して来そうになる。少し俯き加減で頭を僅かにふるふると振りながら、

「我ら『月読』の名を持つ星宿のお役目を持つ者が最期を迎える日、契約者たる月光菩薩様は昇華する我らの魂を導く為に、其の目の前に顕現を果たします。私達はその契約の下に力を貸し借りする関係なのです。」

 其の月読の言葉の意味を理解した碧の血相が変わった。

「そ、んな作り話っ、一体誰が信じると言うのですか? 冗談も大概になさいませっ! 」

「冗談でも作り話でもないわっ、本当の事なの! 私は今日此処で死ぬことを月光菩薩様に宣告されたっ! そうしないと貴方も、澪も。皆が死んでしまうのよぉっ!! 」

 それは夜鷹の雛の如く。大きく口を開け、喉から血を迸らせんと泣き叫ぶ。碧の決意に負けまいと、ありったけの力で翻意を求める月読の姿。

「今あの者と、」そう言って境内に視線を向ける月読。

 其の先には自分に仇成す者達を完全に排除しようと躍起になって貪り続けている、黒き肉塊の姿があった。

「戦った碧ならば、『神仏』の力がどれ程の物かという事が解るわよね? 月光菩薩様にも言われた。人の力ではどうすることも出来ないのよっ! 法力を残した私でなければあの者の足止めすら叶わないのよっ!! 」

「だから、どうだというんですか? そんな事、やってみなきゃ解んないでしょうがぁっ!!」

 再び恫喝を放つ、碧の口。何処にそんな力が残っていたのか、澪を抱いたままでスクッと立ち上がった。震える右手で月読の手首を掴んで、無理矢理立ち上がらせる。

「藤間、水尾っ! もう作戦は無しだっ。全員で行けるとこまで行くぞっ! 覚悟を決めろっ!! 」

「碧っ! 止めて、まだ解らないのっ!? 」振り解こうとした左手が碧の右手から離れない。尚ももがく月読の視線と碧の視線が仄暗い本堂の中で交差した。驚く月読。

 碧は笑っている。

「月読様、この手は私が死ぬ時まで離さない。」

 其の言葉に、月読の抗いが雷に打たれた様に、止まった。

「あの日の掛川で私は貴方様に誓った。この身に代えても、貴方様と澪様を御守りする、と。覚えていますか? 」

 月読の心の底まで射抜く碧の瞳から月読は眼が離せない。微かに頷くしか出来ない。

「あの言葉は本心です。貴方はあの時、私の言葉に涙を流してくれた。其の時、私は、」

 にっこりと微笑んで。其処が修羅の真っ只中では無いかの如く、穏やかに。

「不覚にもお役目を忘れてしまいました。私の目の前で泣いている私の妹を命のある限り、どんな苦難からも守り抜いてみせる、そう心に誓いました。」

「み、ど … りぃ …… 」

 ダメだ、私に碧の心を翻す力は無い。

 宣告された死を目前にして尚、生にしがみ付こうとしている自分に、彼女を説得出来る筈が無い。碧が私に語り掛ける毎に、其の言葉が二人をかすがいの様に繋ぎ止め、望む事の出来ない『生』へと執着させようとしている。

 でもそれは叶わない。別たれる半身を求めようとすればする程運命は、悲劇と言う名の鉄槌を持って引き裂くしかないのだ。それだけは駄目。もう此処から先には一歩たりとも進めない。

「だから、一緒に行きましょう。月読様。例え定められた運命だとしても、人の力で何とかできる余地は必ず有る筈です。それが、」月読の手首を掴んだままの碧の手に力が篭って、

「 …… 『信心』と言う物でしょう? 」

「それでも、駄目……私は行けない。」

 呟き。駄目、碧。私は行けない。貴方の言う事が正しくても。私は仏と契約した者。其れに逆らえばどういう事になるか ――

「月読様! 」

 一向に動こうとしない、共に生きようとしない我が半身に向かって。それは叫び。自分に繋ぎ止めようとする、未来に繋ぎ止めようとする。

「行くんだっ!! 月読様っ! 私と、澪様と一緒にっ! 」

 自分のもとに収めようと。共に在ろうと。握った手に力を込めて。

「駄目っ! 碧、お願いっ! 」

 振り解こうと、わかとうと。握られた手に力を込めて。

「月読様っ!! 」

   「姉様っっっ!!! 」

 碧がその月読の叫びと共に眼にした物。離すまいと握り締めた手首の先で、煌く様に紡がれる雷帝印。


 例えチャクラが残っていたとしても、其の結印の早さには敵わなかっただろう。目の前に掲げられたお互いの手が静かに離れた時、碧は月読の『雷帝縛鎖』をほぼ完全な形で決められた事を悟った。

 澪を左の手に抱いた侭、呆然と目の前の『半身』の姿を、見つめる。自分から別たれようとする其れが、泣きながら、笑いながら、言葉も無く碧を見つめる。月読様。貴方は ―― 。

「卑怯だ。…… 何故この様な事を。」思いが口を付く。

 碧の手形の痣が残る左手と対の右手が月読の体と共に碧の体を澪ごと包んだ。

「そうです。…… 私は卑怯者です。お父様を騙し、貴方を欺き、我が子を殺めようとした、咎人とがびと。」

 碧を抱き締める其の両腕に力を籠めて。死を迎える其の瞬間までこの温もりを、忘れないように。

「だから、姉様にも、こうするの。それが、私。」別離わかれの悲しみに声を震わせて。「姉様、お願いがあるの。 …… 私を『紗絵』と呼んで下さい。一言でいいから。」

「紗絵。」そう呼ぶ事に躊躇いなど無く。

「紗絵 …… 紗絵 …… 。」

 求める様に名前を呼ぶ度に碧の両目から涙が溢れる。動かぬ身体がもどかしい。

「紗絵。私を『姉』と呼ぶのなら、私の妹ならば今直ぐこの術を解いて。お願いだから。」

「いいえ、それは駄目。」碧の胸に頬を埋めて。「そうすれば、姉様はきっとまた私と逃げようとするわ。だから駄目。」

「紗絵っ! 」何で動かないっ!? こんなにも近くに、こんなに傍に自分の大事な者が在るというのにっ!!

「姉様、…… 澪を、お願い。」それは遺言。

「お父様の下へ、連れて行って。」

「紗絵っ! 貴方、其れがどういう意味か ―― 」

「わかっているわ。」

 碧を抱き締めた侭の両手に力が篭る。其れは自分の下した決断に対する悲しみ、恐怖。

「もう『天魔波旬』に戦いを挑む策は無くなった。だから後は『創生の法要』で『摩利支の巫女』を見出すしか、あの巨悪に立ち向かう手段は残されていない。例え我が娘とは言えども、この子は …… 」顔を埋めた侭、碧に抱かれた澪の顔を見下ろす月読。

「 ― 有資格者、だから。」

「ならば、私が全てを捨てる。」

 余りにも明快な其の答えに、控えていた藤間と水尾が息を呑んだ。

 もしそんな選択を碧がしようものなら、二人の敬愛する首領は其の瞬間から『抜け忍』の烙印を押される。そうなったら二人は今、ここで碧を粛清しなければならないのだ。例えどんな状況、どんな心情に在ろうとも其れは決して破る事の出来ない掟。

「碧様、それだけは何卒お考え直し下さい。」呻く様に藤間が言った。後の言葉は続ける事が出来ない。解り切った事だから。しかし。

「全てを捨てて澪を守って見せるわ。貴方が此処で私の代わりに死ぬ、と言うのであれば、私も貴方の忘れ形見の為にこの命を掛ける。でなければ、」濡れた瞳を宙に向けて。

「貴方を『紗絵』と呼んだ意味が無い。」

「ねえさま …… 」

 其処に縋り付きたくなる自分の弱さを。母である自分の望みを。託したい、其の全てを。そうすればどんなに楽になる事か。でも、それは ―― 。

 碧を抱き締めた其の両腕を解いて、僅かに身体を離す。お互いの顔を見つめる。決意を秘めた碧の顔、嬉しそうな月読の顔。涙は止まらない。

「ありがとう、姉様。私と澪の為にそんな決心をしてくれて。でもね、」

 語尾に放った否定の言葉。其の響きが碧の表情を僅かに曇らせた。

「其れは私が成さねばならない事だった。私は救える筈だった有資格者の赤子の命を、私の愚かな行いによって其の手から零してしまったの。もう元には戻れない。」

「そんな事はないわ! 何でそう言い切れるの!? 私が必ず ―― 」

「あの人の様になってしまうわ、姉様。この子の父親の様に。いえ、其ればかりか姉様は自分の里までも敵に回して逃げる事になるわ。そうなったら、生き延びる術は無い。」

「私を舐め無いで。」其れは強がりかも知れない、と思う。

「その気になったら幾らでも相手をしてやるわ。例え私が斃れても、澪だけは私が必ず守って見せる。」

「嘘は、だめ。」碧の妄言ねいげんを見抜いた月読が微かに笑う。

「私と姉様の組織、両方を敵に回すと言う事はこの日の本を敵に回すも同じ事。そんな事、姉様にも解っているでしょう? それにね、私の最期の望みは、」

 再び碧の身体を抱き締めて。

「 ―― 私の姉様の命を守る事。破廉恥で、」

 走馬灯の様に浮かぶ、碧と月読の在りし日々。御山の密会の事を根掘り葉掘り尋ねられて、恥ずかしさの余り雷帝印を結んだ侭の両手で叩きそうになった事。

「お調子者で、」

 月読を騙して『吉祥天の護法』を澪に掛けさせた時。慌てる月読を尻目に、「よっしゃっ! 」と言いながら二人で ―― 無論、月読は澪を取り返そうと ―― 寺中を駆け回った事。

「明るくて、」

 月読が自分の置かれた立場を知らされた時、只其の境遇に泣いていた自分の傍で、にっこりと笑いながら綺麗な声で『When I find myself in times of trouble. Mother Mary comes to me  …… 』「 …… ねえ、碧、それ宗教違うんだけど。」「え? 」お互い顔を見合わせて笑った事。

「優しい、姉様 …… 」

 掛川の廃寺。微笑みながら自分の事を『妹』と呼んでくれた事。父よりも、娘よりも私が愛した姉様。そんな姉様を裏切ってしまった自分の贖罪。だから、最期の望み。

「澪。」

 月読の口から言葉が毀れて澪に降り懸かる。澪は其の眼を確りと開いてこの世を去ろうとする実の母の顔を見つめていた。

「貴方より、姉様の命を選んでしまった母を許して。でも、それでも、母は、」

 止め処無く流れ続ける涙に負けない笑顔で。

「 ―― 貴方を、心から、愛していました。」


 床板を通して地響きを感じる。其れは観音堂内、いや長谷寺に残った生者に別れの時が来た事を知らせる、冥府からの鐘の音。

 既に境内に音は無く、只、何か巨大な者が禍々しい瘴気を発する吐息を立てて。其れは次第に大きく響きながら。

「藤間様、水尾様。」

 二人の傍に控えて跪いたままの、碧の部下である二人に向かって月読の声が掛けられた。「姉様、いえ、碧と澪をお願いします。二人を連れて速やかに此処を離れて下さい。後は私が。」

 優しい物言いとは裏腹に、其の声音には反問を許さないと言う確固たる意思が感じ取れる。 返す言葉も無く二人は碧の体を、澪を抱かせた侭で担ぎ上げた。動けぬ碧の其の瞳だけが、静かに其処に立つ月読の姿を追いかけていた。自分の命が尽きる其の瞬間まで、彼女の姿をその脳裏に焼き付けようと。

「御本尊の裏に抜け道があります。其処を通れば長谷寺の敷地外に出る事は容易いでしょう。…… 姉様。」

 そう言うと月読は足元に突き立ったままの碧の懐刀を拾い上げた。

「姉様のお父様の形見であるこの刀、私に頂けますか? 」

 月読の手の中。其れは刀ではなく鋼。

 黒き肉の放った炎の槍を受け続けて刀身は青黒く変色し、刃紋は薄れ、所々がはつられた只の鋼。

「待って、紗絵。それでは何の役にも立たないわ。それなら其処に隠してある ―― 」

 碧がもしもの時の為に自分の忍刀を隠してある場所を視線で追った時。

「いいえ、此れで。いえ、これが、いい。」月読の手が其の懐刀をすっと握り締める。

「私と、姉様のお父様と。二人で此処を抑えて見せます。だから、これが、いい。」

 既に地響きは明確な足音となっている。それはあの黒き肉塊が観音堂に近づいて来ている証。

「さあ、急いで。私とは此処でお別れです。」

 月読が発した別れの言葉に促されて、生存の可能性を託された三人が観音菩薩像の裏手へと走った。

「紗絵ぇっ!! 」

 三人を見送る月読の姿が其の視界から消えようとした正に其の時、碧の叫びが逃走者達の足を止めた。

 碧がこれ以上無い位の優しい笑顔で笑い。藤間の肩に回された、動かない筈の右手が微かにフルフルと振られて。

「 …… またね。」

 覚えている? それは初めて貴方と出会った日に、私が世間知らずの貴方に最初に教えた、別れの言葉。

 別れの仕草。

 月読の右手がゆっくりと挙げられて、ひらひらと、バイバイと、左右に軽やかに振られて。

「 …… またね、姉様。」

 泣いている、震えている、でも笑いながら。

 

 殿の月読を其処に残した侭、四人は観音像の裏へと其の姿を消した。


「藤間、水尾。」

 死地より脱した四人が長谷寺の敷地外へ脱出するのには、そう掛からなかった。一分もしない内に裏手の山道へと其の姿を現す。そこで、そこまで一言も発しなかった碧の口が動いた。 掠れる様な声。二人はたった今凄絶な別れを果たしたばかりの、自分達が敬愛する頭領の懇願する様な声の響きに耳を済ませて。

「 …… 何でしょう、碧様。」

「私達を、観音堂の見える、安全な高台まで連れて行け。」

「碧様! それでは碧様のお命が、」

「これは、命令だ。」口調が変わっていた。

 それは藤間と水尾にとって絶対の意味を持つ。逆らう事など考えてはいけない。思わず緊張する二人の空気を感じ取って、碧の命令は尚も続く。

「 …… 我らの殿の死に様を、其の目に焼き付けておくのだ。あの人は。我ら女人の鑑だ。」

 其の言葉を二人は深く理解する。そうだ、今あそこに残った人は、我らが聞き知った『さる高貴なお方』等では既に無く、我らを生かそうとして死地にて戦う、私達の仲間であると言う事。

 碧の命令に返事をする事無く、二人の足は裏山の中腹に置かれたほこら目掛けて早められた。満足そうに笑う碧。其の眼が、左手に抱かれたままの、母の袖に包まれた澪の顔を見る。碧の顔を見止めて笑い返す澪。

「それにな、この子にも見せて置きたいのだ。自分を守る為に散ってゆく母の姿という物を。」

 それはかつて碧も経験した事。

 風魔の里が何者かに襲われた時、その身を挺して自分を守ってくれた存在、風魔小太郎。あれがあるから、自分は今この世界で生きていける。父が何を守ろうとして命を賭け、喪ったかを理解しているからこそ其の優しさを知り、其れを他人にも分け与える事が出来る。

 例え澪が今日の事を其の記憶に留める事が出来なくても、いつかそれは記憶の底から蘇って、澪の支えとなる筈だ。いえ、そう信じたい。

「それが、今の間だけの母である、私の役目だ。」


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