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                 死 地

 音の無い黒白の世界が果てしない奥行きを持って月読の周囲に広がっている。周囲を取り囲んでいた三十人の僧侶の姿も、傍らにいた澪の姿さえも今は無く。己の詠唱する月光菩薩真言だけが鳴り響く空間の中に、一人佇んでいた。

 足元に大きく広がっていた『月読の陣』は既に其の形を喪っている。代わりに広がる光り輝く水面。足元から照らし出される月読。地より湧き上がる法力に着物の裾を、肩より長く伸びた黒髪が揺らめくのを其の侭に、閉ざされていた両の目を静かに開いた。

 其の侭詠唱を続けながら、足元の光の円を眺める。そこに映し出された『地球』と言う名の紺碧の惑星。

 天空より滴る光が一滴。波紋が地球の姿を揺らめかせての広がり。揺らぎが全体に広がった瞬間に、月読は無言で早九字を目の前の暗闇の中に切る。

 其れが合図。立ち上る無数の光柱。

 太さも高さもばらばらなそれらが月読を中心に置いた侭足元に描かれた地球を埋め尽くしてゆく。ブンッ、という僅かな振動音はそれらの光柱が絶え間なく上下している事を表している。

 つまり、生命の揺らぎ。何かが死ねば減り、生まれれば増える生命の御柱。地球を無数のグリッドに分割し、生命の増減をリアルタイムで表した、所謂『生命指標』と言うべき物。

 それら全ての生命に対して心の中で問う。異端の者。黒き存在。光を消し去ろうと画策する闇。どれだけの場所にそれらは存在しているのか? 

 程度は問わない。全て導き出せ。

 光の帯が地球全周を緩やかにサーチする。一本、又一本と消えていく光の柱。月読の予想を遥かに超えて、結構な数の柱が床に映し出された地球のあちこちに残っていた。深く溜息を吐く。

「こんなに残っているとは …… なかなか骨が折れそうだわ。」

 再び詠唱を始める。光柱の内の一本に対して九字を当てる。念じる。

 其の中に潜む闇の正体。現世の『人』が有する欲望による黒い波動ではなく、人に在らざる者の、永劫に続く深い闇を携えて存在する者、有るや否や?

 光柱が光の粒となって解けて行く。其の後には何も残らない。

「ここではない …… 」

 月読は呟いて次の一本に向かう。再び詠唱、九字、そして繰り返される消滅。幾度かの後に、他の柱よりも明らかに高さのある柱に対して同じ様に詠唱、九字を切る。

 果たしてそれは消えなかった。光柱は九字を纏った瞬間に黒いオベリスクへと変化し、表面に文字を浮かび上がらせた。はっと目を見張る月読。

「此処は …… まさか、そんなことが、」

 オベリスクに対してすぐさま真言を詠唱する。黒い柱が一気に拡大して消滅する。其の後に、月読の足元に大きく地形が表示された。誰の目にもはっきりと解る大都市、メガロポリスの俯瞰光景。

「こんな所に、」強大な法力の行使によって、月読の額に汗が滲み出る。

 しかしその俯瞰を見つめる瞳は力に満ち溢れていた。『月読の陣』の最終局面に差し掛かって、いよいよあの『天魔波旬』の居場所を特定できることの喜び。父との約束を果たせるという安堵感。二つの気持ちが法力の発現にいよいよの拍車を掛ける。

オン! 」気合一声。

 胸の前で印を結んで集中する。頭上に展開する金色の魔方陣。其れが月読の足元の摩天楼に到達すれば、其れで終わる。其の瞬間に『天魔波旬』の存在は、例え地中深く潜んでいてもこの魔方陣によってフラグを立てられ、そうなれば何処に隠れようとこの地球上に存在する限り、この術から逃れる事は出来ないのだ。

 後は、例え父が敗れようと御山の総力を挙げて奴に決戦を挑む迄の事。

 勝利を確信した笑みを月読が浮べた其の時。

 突然、光を放つ魔法陣の降下が止まった。いや魔法陣だけではない。月読の周囲に存在するありとあらゆる物 ―― 光でさえ ―― の活動が停止している。歪み始めた月読の足元に広がる摩天楼の町並み。

 術の強制停止。月読の法力を遥かに超えた存在の者の介入。抗う事の出来ない存在が現界しようとしている事を知る。

 その月読の目の前の空間が揺らいで一人の少女が、初めはぼんやりと、やがて徐々に実体の輪郭を露にしながら、印を結んだ侭で動けない月読の眼前に現れた。

 黒衣の少女。黒髪を肩より僅かに長く垂らして、ゴシック調のドレスを身に纏い。幼い表情に不釣合いな長い睫の奥に潜む空色の瞳は、節目がちに月読の足元を見据えて、冷酷な沈黙を守っている。月読の口が真言の詠唱を止め、其の少女の正体を口にした。

「 …… 月光菩薩様。」

「神の名を冠しながら、仏の力を行使する矛盾の者、『月読』よ。」

 其の声に振幅も抑揚も無い。二人の存在する空間全体を充たしていて、それでいて月読にしか聞こえない様な小さな声で。

なれは選ばなくてはならない。」

「選択 ……? 」

「そう。守って死ぬか、守られて死ぬか、どちらか。」告死の天使が、やはり感情の存在しない響きで。

「やはり、」彼女が現れた時が『星宿の者』の命日という噂は嘘ではなかった。

 代々伝わる言い伝えを眼前に捉えて、月読の心は僅かにさざめく。月読の心の波を見透かした様に、少女は言葉を続けた。

「そう、汝は今日死ぬ。其の前に選ばなければならない。」

「私が今日死ぬと決まっていて、何を選択すれば良いのか。月光菩薩様、お教えしては頂けませぬか? 」

「其の前に、汝に問いたい。」月読の問いを無視して。

「何故、汝は信じる『もの』を裏切ろうとした? 」

 其の問い掛けに月読の感情が酷く揺らめいた。そうか、何もかもお見通しなのですね。月光菩薩様。

「我、告死の使いに在る者が汝に選択を求むるのは其の為也。此れは汝の行いが招いた事象。決めるのは汝の決断のみ。」

「私の望む事象を選択したならば、其れは私の望む通りになるのでしょうか? 」

「なる。其は我が力也。」其の言霊に、月読は絶対的な力を有する神の存在を感じる。

「この地にある全ての生きとし生ける者の存在が滅せられる。確実に。」少女の瞳が蒼光を放って月読に向けられた。

「望むか? 」

 其の問い掛けに月読は声を詰まらせた。一言「望む」と口に出せば、誰にも言う事が出来なかった自分の願いが叶えられる。

 実の父親を騙し、穢れた自分の事を『妹』とまで呼んでくれた碧を裏切って迄望んだ、自分を取り巻く者達の消滅。自分も、澪も、自分達を利用してこの国を乗っ取ろうとする松田の陰謀も、全て消えてしまえばまた、元に戻るだけの事。『天魔波旬』の居場所だけを特定して父に教える事が出来たならば、それで自分に思い残す事は無い。

 筈なのに、何故言う事が出来ないのだ?

「汝は『魔』を甘く見た。」少女の聲が月読の心を責めた。

「汝の望む『誰か』を残す事は出来ない。全て。全てが滅する。そういう運命さだめ。」

「 ! 碧も死ぬ、と。」月読の描いたガラスのモザイクが音を立てて瓦解した。

「そんな。まさかあれ程の手誰の者がそう簡単に殺される等考えられません。きっと逃げ延びることが出来る筈。何故にそのような事をおっしゃるのですか? 」

「汝が生存を望む者、所詮人の力也。『魔』に対抗する事等できぬ。其れに ―― 」

 突然の衝撃。少女と月読の立つ摩天楼の風景が振動し、床以外の周囲が観音堂本来の景色を一瞬にして取り戻す。

「汝を守ろうとしておるのは、汝が生存を望む者。人の身で魔に対抗する事等、死は必定也。」

 少女が言い終わった途端に建物全体がバキバキと音を立てた。境内に面する一面の壁が捲れ上がって、建物を構成している木材から無数の新芽が芽吹き、其れらが全て蔦に変化して室外へと伸びてゆく。開け放たれた入口の外に一人立つ人影。自ら放出するチャクラに其の輪郭を揺らめかせながら、印を結んで黒い肉と対峙する者。

「碧っ!! 」

「此れは汝が望んだ事。あの者に守られて、共に死ぬるか。」

「そんな!! 」少女に向かって慟哭する。

「では私が術を行使して『天魔波旬』の者を特定できたとしても、伝える者が居なければ何にもならないではないですか! 」

「だから、問うた。何故裏切るのか、と。此れは信仰に背いた汝に与える罪。汝が求むる真の望みは、」月読を見つめる少女の瞳に宿る蒼光が輝きを増した。

「叶えられない。」


 鋭い牙を携えた、人の顔をした蛇達が松田の全身に喰らい付いていた。額を貫かれても決して動きを止めなかった、松田という人間の身体をした魔物の身体が拘束される。

 最期の抵抗を試みて伸ばされた手足も。自慢の男根も。全てを咥え捕られて宙吊りにされた其の口から異形の叫びが轟いて、呆然と見上げている碧の知覚を現実へと引き戻した。そう、此れは夢物語 ―― それも飛びっきりの悪夢 ―― 等では無い。紛れも無い現実だ。中断していた詠唱を小声で再開する。

 断末魔の叫びを上げるその喉を咥えて息を止める。男根を睾丸ごと咥え込む。自らの獲物の取り分を確保しようと一斉に引っ張り合う蛇達。其のテンションが人間の筋肉の保持する限界を超えた時、松田という人間の身体は鳥肌の立つような断裂音を響かせて引き千切られた。

 碧の周囲に振り撒かれる大量の血液と生暖かい臓器。糞尿の匂いを撒き散らして腎臓と大腸が。濃い鉄の匂いを含んで肝臓が。ビシャリッと音を立てて地面に落ちる。其れすらも喰らおうと地面へと我先に群がる黒き肉のしもべ達。

 碧の頭上で一飲みにされようとしている、松田の上半身のぽっかりと空いた胴腔内で蠢く心臓の鼓動だけが、終に叶えることのできなかった松田の野心の無念を表しているかの様であった。

 どんなに凄惨な光景が目の前に展開されていても、碧はこのチャンスを逃す訳にはいかなかった。

 長い詠唱。この術には広大な範囲に働き掛ける為の時間が必要。こ奴らが獲物を喰らい尽くすのが早いか、私の術の詠唱が終わるのが早いか。

 人の限界を超えた速さで詠唱される術が、碧から放たれるチャクラを伴って足元に円を描き始める。繋がった瞬間、それは波紋の様に碧の足元から離れて周囲に広がってゆく。ざわめき出す森、振動を始める背後の観音堂。

 自身を取り巻く環境の異変に、黒い肉塊も気が付いた。人の残骸を貪るのを止め、蛇達が鎌首をもたげて周囲を見回す。再び其の足元をチャクラの波紋が音も無く周囲へと広がる。木々のざわめきがより一層大きくなって、黒い肉と碧を取り囲む。

 そして碧の前に対峙した『魔物』は気付いた。この全ての異変が今目前に居る一人の『餌』によって引き起こされている事に。

 そうだ、さっきもそうだった。この『餌』は普通の『餌』とは違う。自分に何度も手傷を負わせ続けた『極上』の餌なのだ。油断すれば又今度も。

 其れは決意の咆哮なのか? 魂を握り潰さんばかりの雄叫びを碧に向かって叩き付けた肉塊が、再び戦闘態勢を取る為に、全身から伸びきった蛇達を収納し始める。

 そうだ、と今度は碧が思う。

 お前はそうやって必ず蛇を仕舞ってから攻撃を始める。そうしないと力が発揮できないのか、弱点がそこに隠されているのか。まあ、今となってはどうでもいい。今の私にお前を仕留める力は無いのだから。だが、足止めだけはさせてもらう。

「残念。気付くのがちょっとばかり遅かった様ね。」

 其の言葉と共に、三つ目の波紋が碧の足元を離れて周囲に消えていく。木々のざわめきと地面の振動は其れで最大になった。のたうつ境内の地面の上で睨み合う二つの存在。一つは『魔』。一つは『人』。しかし其の立場は明らかな逆転を見る。

 冬枯れた全ての植物が一斉に芽吹き、裸の幹を晒した木々の枝に新緑が宿り。観音堂の入り口の全ての木材が枝葉を伸ばし始め。黒い肉塊が使役する物が蛇ならば、碧に付き従おうとしている植物の全てが、夜の闇に蠢く大蛇の様に見える。それらが全て其の矛先を碧の敵へと向けた時に、碧の詠唱が終わった。

「さあ、これで成功しても失敗しても、あんたとはおさらばだわ。こっちにはもう何にも無いからね。」

 ニヤリと。再び碧の表情に夜叉の面が浮かび上がる。「風魔一子相伝の禁術だ。中途半端で悪いが、とくと味わえぇっっ!! 」

 印を解いて両手を頭上に高く掲げて。パアンと打ち鳴らして眼前の敵に向かって振り下ろした。

 「木遁禁術、賦活ふかつっ!! 」

 碧の声が其の合図だった。暴風に翻弄される無数の枝が悲鳴を上げ。直下型地震が起こった様な地盤の変動。ある部分は盛り上がり、ある部分は落ち込み。そして境内の石畳を全て捲り上げて地より解き放たれる雑草。破壊音。観音堂の入口一面の壁を構成している木の板から伸びる新芽。どこかの野球場の外壁の蔦の様に、観音堂の入口を覆い尽くしたそれらが互いに絡まりあって、碧の背後で緑の竜と化して黒き肉へと迫っていく。

 一瞬にして熱帯雨林のジャングルと化した長谷寺の境内。其の只中に佇む『魔』の者の動揺が露になる。

 力の大本となる碧を一刻も早く仕留めんと、動かそうとした繊毛に似た足が、地面より伸びた雑草に絡め取られる。ならばと槍を放とうとした人面疽の口に、周囲の木々から枝が捻じ込まれる。

 全ての武器と動きを封じられた黒き肉塊に次々と襲い掛かる全ての植物。鋭い枝が巨大な肉を易々と貫いて地面へと縫い付ける。無数の雑草が碧の背丈の二倍ほども伸び上がって肉全体を覆い始める。其の上から太い木の幹が大蛇の様にからみ、獲物を締め上げる。くぐもった咆哮が緑の卵と化した内部より放たれる。

 碧の背後に控えていた緑の竜が首を上げた。碧の右手が振り下ろされるのを合図に、其れは天高く舞い上がった。

 竜の姿を構成していた新芽の根元に存在した観音堂の外壁が、竜の侵攻の進捗しんちょくに耐えられずに、バキバキと音を立てて引き剥がされた。露になる室内。『月読の術』によって見通すことの出来なかった筈の光のカーテンが存在しない事に、其れを背にした碧は気付かない。

 天空より襲い掛かる緑の竜が顎を大きく開けて獲物に狙いを定める。其れは金の宝玉を狙うという中国に伝わる伝承の様にも似て。

 金の宝玉の代わりに緑の卵と化した黒き肉塊を飲み込んだ竜が、其のスピードの侭地面へと激突した。崩れ落ちる姿。壊れながらも其の全ての新芽が生き物の様に互いに絡み合って、堅牢な縛めたらんと活動を続ける。

 全ての動きが終息した時、そこには巨大な緑に覆われた小山と、力なくへたり込む碧の姿があった。注意深く緑の小山に耳を澄ませる。音の是非を確かめる。皆無。

「やれやれ …… やっとですか、全く。手間ぁ掛けさせてくれるわ。」

 立ち上がろうとする碧の膝が遂に嗤っている。片膝ずつ両手で押さえて、やっとの思いで立ち上がる。こんなに成るまで力を使い果たして、まあ、と碧は自分の忍者らしからぬ行動に苦笑した。

 どんな状況に於いても最後の最後に逃走する力だけは残して置くのが本来の姿。情報戦を生業なりわいとする彼らにとって、其れは生き延びるための常識とも言って良い決まり事である。

 敵地に於いて力を出し尽くす事は自らの死に直結する、と父親から耳にタコが出来る位に教えられてきた碧。実際、我が父はそれで落命したのだ。幼い碧の命を護る為に。

「 …… しょうがないよね、父上。可愛い妹の為だもの。ま、とにかくあたしはこうして生きてるんだし。」

 空を見上げて宙に語りかける碧。夜叉の面はそこには無く、ただ一人の亡者なきものを思い描く一人の娘の姿。

「さて、月読様をお迎えに行かねば。ラッキーな事にあの盆暗も死んでくれた事だし …… ぁ、そうだ。あの二人。全く口ほどにも無いんだから。ったく、連れて帰ってどんな事されたのか聞き出さなくっちゃ。」おおうっと想像して、身震い。

「詳しく聞いて、今度道順様にお教えして、」思わず顔に血が上るのを感じる。

「 …… してもらわなくっちゃっ。」

 テヘッと笑いながら。

 其の光景を思い浮かべて思わず浮かれながら、踵を返して観音堂に向かおうとした碧の耳朶に、常識的に在り得るべきでない音が響いて来た。浮かれた足が縫い付けられる。

 そんな、「ばかな。」

 観音堂に足を向けたまま振り返ることの出来ない碧の背後から。緑の小山の中から。重低音だった其の音が次第に言葉の意味を伴って微かに響いていた。そして其れは碧にも理解出来る程に、はっきりと。

 「不動明王真言。何で? 口は全部封じた筈なのに。」

 火の属性を持つ不動明王真言が効果があるのは金の属性を持つ物のみ。故に碧は木の属性を持つ木遁の術 ―― 其れも禁術 ―― で対抗したのだ。其れが今あっさりと破られようとしている。これは、力の差以外の何物でも無いという事。

 其れほどまでに強大な存在なのか? しかも碧が対峙していた者は、法力僧が『魔』に魂を売っただけで、元は人間だ。しかもあの盆暗に『只の使い』と言わしめた程度の存在の者に、我が禁術が通用しないとは!

『鬼百合』と称された碧の頭脳も、発揮する力が存在しなければ次の手段を構築する事は出来ない。自らに残存する体力を ―― 月読と澪を連れて逃げる為の ―― 必死に計算しながら、今でははっきりと聞き取る事の出来る碧の小山の方を振り返った。事態を把握するために、逃走の為に残された時間を計算する為に。

 視界に写った物。黒き炎を纏った槍。緑の小山を突き抜けて碧目掛けて。慌てて懐刀を引き抜いて射線を逸らす。ギインという音を放った其れが碧の背後にある観音堂に突き刺さった。めらめらと炎を上げ始める観音堂の外壁。

「しまった!! 」自分の迂闊さに動揺する碧。

 この位置で迎え撃ってはダメだ。何とか奴の背後に。

 そう考える碧を嘲笑うかの様に、次々と小山を突き抜けて放たれる炎の槍。障害物によってスピードは押さえられているものの、一本でも自分の背後に通す訳にはいかない。私の背後には術の最中の月読が居る。外の様子が解らない今の彼女を護るには、自分がここで食い止める以外に方法が無いのだから。

 尚も碧目掛けて飛来してくる槍を猛烈な速さで足元に叩き落す。ダメージが無い訳ではない。刀身の短い懐刀で炎を纏った槍を叩き落すのだ。受ける右手の甲は焼け、袖口は燻り、足元に落とした槍の熱で裾は焼け焦げる。

 父の形見の相州伝正宗の懐刀であればこそ、何とか躱してはいる物の、其れも何時まで持つか。既に刀身は熱で赤化し、所々がはつれた様に削られている。

 何十合か槍を叩き落した所で、突然攻撃が止んだ。槍の軌跡ばかりに集中していた碧の意識が、其の時初めて緑の小山の変化に気付いた。所々に空いた穴。槍の抜けた跡。其の奥で暗く輝きながら碧の姿を見つめる目、眼、。哂った様な気がする。

 碧の戦慄とそれらの行動はほぼ同時だった。炎の槍の倍速で碧目掛けて放たれた黒い棘。槍の投擲スピードに目を慣らされた碧に躱す術は存在しなかった。まさか、これもこいつの手だったというのか!?

 それらは碧の手足を余すところ無く突き刺して。懐刀が着槍の衝撃に耐え兼ねて、碧の右手を離れて観音堂の室内へと消えてゆく。貫通したそれらが碧の体を観音堂の濡れ縁に上がる階段へと叩き付けた。尚も深々と伸びる黒い棘が碧の体をその場へと縛り付ける。

 絶叫する碧。其の叫びに応えるかの如く、黒い肉塊は碧の禁術の戒めを引き千切り、再び其の醜い姿を自分とは逆の立場に陥った碧の前に現した。

「畜生! …… 月読様ぁっ!! お逃げ下さいっっ!! 」

 視線の届かぬ観音堂の室内に向かって、碧の絶叫が木霊した。


 法力の光を湛えた鋼がひらひらと。舞い降りた其れは月読の足元にタン、と小さな音を立てて突き刺さった。黒檀で設えられた其の柄にはべっとりと赤く染められた指の跡。一部始終を目の当たりにする月読の叫びが、月読に向けて放たれた碧の叫び声と重なる。

「碧っ! 早く逃げてっ!! 」

 だが月読の陣が起動されている以上、中からの声が表に届くことは無い。それは同時に窮地に陥った碧を助けることも出来ないと言う事。彼女を助ける為の唯一の方法、それは。

「汝は選ばなくてはならない。」月読の前に立つ黒衣の少女が再び同じフレーズを口にした。「残された時間は僅か。守って死ぬか、守られて死ぬか。」

「守って死ぬ為には、」

 変わらず蒼光を放つ少女の瞳を見詰めながら、月読は静かに尋ねた。

「この術を止めなくてはならない。そう言う事なのですね。」

 その問い掛けに無言で頷く少女の頭。長い黒髪が大きく揺らめく。

「ならば、迷う事はありません。私は守って死のうと思います。月光菩薩様。」

「それが汝の望みか? 」短く放たれるその言葉が月読の真意の真偽を強く問い質す。

 その瞳を見詰める月読。強い決意の色を孕んで。

「はい。其れが、私の、」

 父との約束は終には果たせなかった。自らの仕出かした不始末を清算しようと画策したはかりごとも何の成果を上げる事も無く、最悪の形で終わりを告げようとしている。ならば今、自分が成し得るに値する形は何なのか? それは、

「最期の望みです。」

 自らの信じる神を、実の父を裏切った私を『妹』と呼んで今尚戦い続けている碧を。そして私とあの人の子供、『澪』を守る事。

「ならば汝の信じる侭に成すがよい。我が契約者よ。」

 少女の姿が其の声と共に次第に薄らいでゆく。

「汝が最期の時、わらわも微力ではあるが力を貸そう。滅する事は出来ないまでも、汝が望む者の逃げる足止めにはなろう。」

「月光菩薩様 …… 」

 既に輪郭すら定かではなくなった其の黒衣の少女に向かって、月読は深々と頭を垂れた。其の姿に、少女の微かな声が投げかけられる。

「戦え …… 月読よ。」


 勝ち誇った様にゆっくりと其の歩を、囚われの蝶と化した碧に向かって進めて来る黒き肉塊。

 突き刺された黒い槍が碧の体から引き抜かれる事は無く、まるで手繰り寄せるかの様に大きく顎を開いた人面疽が碧に迫ってくる。松田と言う名の肉体を貪り尽したばかりの其の口から吐き出される歓喜の吐息が、碧の顔面目掛けて吐き出される。

 錆びた鉄の匂いで思わず吐きそうになるのを碧は必死に堪えて、眼前に迫ってくる『異形の死神』の姿を睨みつけていた。

 死の恐怖に囚われて無様な姿を晒すことだけは避けたかった。それは自分の美意識と異なる振る舞い。例えどのような目に遭おうとも、自分の命が途絶える其の瞬間まで毅然とした態度で臨む事こそが、『お庭番女衆筆頭』を名乗る自分の死に方だ。手足を切り裂かれ、黒い棘に貫かれた激痛に苛まれながらも、碧の信念が揺らぐ事は無かった。

「さあっ! 食ってみろ、この野郎っ!! 」有りっ丈の力で肉塊に向かって吼えた挙句に、その胸をむん、と突き出す。

 今正に獲物に飛び掛らんとしていた人面疽達の動きが、其れで止まった。身動きの出来ない碧の体を取り囲み、め回すように見つめる。碧が尚も吼える。

「オラァッ! どうしたぁっ! とっとと食えっつってんだろうがぁ!! 」

 其れは疑問。今までに捕食した人間には無かった反応。泣き叫ぶことも無く、命乞いをする事も無い。気が狂った訳でもない。最期を迎えようとするこの瞬間に於いてもこの獲物は戦意を喪失する事も無く、寧ろ更なる敵意を剥き出しにして決殺の気迫を叩き付けて来る。

 此れは一体どういう事なのか?

 其れは経験。この獲物には何度も煮え湯を飲まされたという。

 この状況に於いてもこの獲物は何らかの罠を仕掛けていて、自分が獲物を喰らおうとした時に其れを作動させようとしているのではないか? いや、それは在り得る事だ。そうでなければこうも易々とこの獲物が囚われの身になる筈が無い。

 碧の態度に疑心暗鬼に駆られた人面疽達が、周囲に巡らされた罠の存在を確かめようと、碧の体から視線を離す。

「どうした、コラァッ!! あたしの身体は不味そうだってかぁっ!! 」

 怒鳴る碧にそんな事情など理解できる筈も無く。ただうろうろと在りもしない罠の存在を嗅ぎ回る大蛇の姿を視線で追っていた其の時だった。

 碧の直ぐ前方の空間で、巨大な爆発音が鳴り響いた。着弾の衝撃と共に放たれる閃光。衝撃波が碧の視界と大蛇達の丸太の様な胴体をぐら付かせる。

「何っ!? 」状況が全く把握出来ない碧を尻目に、尚も立て続けに炸裂音が鳴る。

 碧を喰らおうとしていた筈の大蛇達が、碧の体から一斉に其の黒い槍を引き抜いて、至福の時の邪魔をした物の正体を確かめようと其の頭を振り上げた。拘束を解かれて崩れ落ちる碧の体。引き抜かれた跡からどくどくと血が溢れる。

「うっ、くうっ …… 」苦痛の呻きを上げながら急いで帯留めを解き、腕の根元にある動脈を力一杯縛り上げて止血する。其れが精一杯だった。

「これは、これで、…… 結構ヤバいかも。」 

 刺される事よりも失血する方が生命維持に深刻なダメージを与える。如何に死神の頚木を逃れる事が出来たとはいえ、この身体では逃げることも侭ならない。詰まりの所、状況は何にも変わってはいないのだ。

「それにしても、何がどうなって、」

 呟きながら見上げる頭上に大勢の人の気配が。碧の術によって破壊されかかった観音堂の濡れ縁に立つ大勢の僧侶の姿。それぞれが印を結んで、詠唱の終わった者から次々に、其の術を黒き肉塊に叩き付けている。何の一貫性も無く闇雲ではあるが、総勢三十人の僧侶が束になって放つ法力の密度に耐えかねて、彼らの敵は少しずつではあるが境内の入り口へと押し返されていた。

「これは、」驚く碧。彼らは『月読の陣』に参加していた僧侶達ではないのか?

 激痛を無視して碧がゆらゆらと立ち上がる。今しかない。

 既に戦う力も残らない今の自分に出来る事は只一つ。

 一刻も早く月読様の元に赴き、服を取り替えて、彼女の身代わりとなってあの化け物に食べられる事。ほんの少しの間で良い。術を終えた月読様には左程の法力は残っては居ないだろうが、それでも澪様を連れて御山に逃げ込める事位は出来る筈だ。

 彼女達が生き延びる事が出来るならば、其れは自分の本懐。誰に恥じる事の無い死に様を迎える事が出来ようと言う物。

 碧の強い決意に反して動こうとはしない肉体。失血の為に薄れていく意識。まだだ、と活を入れる。まだ、まだここで死ぬ訳にはいかない。なんとしても月読様の元に辿り着いて ――


 遂に崩れ落ちる碧の膝。自分の不甲斐無さに歯軋りしながら。其の体が地面に崩れ落ちようとした時、不意に体がふわりと浮いた。

 与えられるべき敗北の衝撃を知覚出来なかった碧の意識が、自分の身体を支える人の気配を感知する。二人。

「碧様っ! お気を確かにっ! 」

 耳元に響く人の声、女? 「しっかりして下さいっ! 今お手当てをいたしますから! 」太腿の辺りをきつく縛られる。血液の循環経路が短絡した事で、喪われかけた碧の意識が現実へと引き戻された。重くなった瞼を開いて、自分の身体を支えている者の正体を認知しようと。

「藤間、水尾。あんた達……。」

 松田の足止めの為に金沢の里より呼んだ二人。白襦袢一つを身に纏ったままのしどけない姿で、一人は碧の上半身を支え、もう一人は襦袢の裾を細く千切って碧の足の出血を止めようと躍起になっていた。

「碧様、解りますか? 藤間ですっ! 」上半身を支えた女が碧の耳元で叫ぶ。太腿の付け根を縛りながら、泣きそうな瞳で碧の顔を見つめるもう一人。

「生きてたんだ …… 良かった、お前達が残ってて丁度良かったわ。」ぼんやりと喋る碧。

「もう喋らないで下さい! 直ぐに此処を離れて手当てをしないと ―― 」

 太腿を縛り終えた水尾が叫ぶ。手当てをした故に今碧が於かれている状況の深刻さは手に取る様に解っていた。フラッと碧の右手が力無く上げられる。

「ああ、それ、ダメ。却下。」人を食った様な、惚けた様な口調で、碧は二人の提案を退けた。愕然とする二人。

「そんな、碧様っ! 」

「いい? これからあたしの指示通りにするのよ。」そう言うと藤間の頬に手を当てて、

「あんた達は、今から、あたしを、月読様の元に連れて行く。」コクリと頷く二人。

「そこで、月読様と、あたしの着物を取り替えて、」はっと目を見張る二人。其の後の展開が容易に想像できる。

「月読様と澪様を連れて此処を離れる事。」

「碧様は? 」聞くのが恐ろしい。水尾が震えながら。

「おい …… 」其の後は聞くな、という碧の行間の声。薄っすらと笑って水尾の瞳を見つめる。

「駄目ですっ!! 」藤間の慟哭が。

「そんなの駄目に決まってるじゃないですか! 却下です、却下っ!! 」溢れる涙が藤間の頬を伝って碧の肩口に落ちる。

「そうですよっ!! 碧様が死んだら百合様と道順様にあたし達は何とお伝えすればいいんですか!? 」泣きながら水尾が叫ぶ。

「じゃあ、二人に、聞くけどさぁ。」そう言って、法力僧の攻撃を受け続けて轟音と光に包まれた侭の黒き肉塊に視線を送った。

「手負いの人間と生まれて間もない赤ん坊、其れにやんごとないお方を引き連れてお前達があの化け物から逃げ果せる可能性は? 」

「やります。必ず。」碧の問いに藤間が応える。

「どちらかが犠牲になったとしても、必ずお三人を無事に安全な所までお送りいたします。」其の言葉に水尾もコクリと頭を下げた。

「だから碧様、今暫く我慢してください。直ぐに ―― 」

「その答えは零点よ、藤間ぁ。水尾も。」朦朧としていた筈の碧の瞳の焦点が合う。

「自らを忍と自負するんなら、そんな出来もしない答えを弾き出すんじゃない。いい? 一番効率のいい、一番犠牲の少ない、一番確率の高い答えを弾き出しなさい。あんた達のどちらかが殺られた時点で其のプランは御破算よ。それじゃあ駄目。」

「だからといってこのまま碧様を見す見すあの化け物の手に掛けさせる事等出来る訳が ―― 」

 尚も泣き叫ぶ水尾の顔を、意識を喪いかけているとは思えない眼力で碧が睨んだ。

「此れは、任務よ。お馬鹿さん達。」何処にそんな力が残っていたのかと思う程、力強い響きで。

「さあ、もう解ったわね。解ったならあたしの言う通りにして。もう時間が無いわ。この攻撃もそんなに長く通用するとは思えない。」

 碧の強い口調が二人に最後の決断を促した。もう手遅れなのだ。今この状況で最低限の任務を完遂する為の作戦。二人がどんなに知恵を絞っても碧の考えている以上の方法は思いつかなかった。無念の涙を流しながら二人は碧の両肩を支えて立ち上がった。

「ありがと。」囁く様に礼を言う碧。「あ、藤間。」思い出した様に呟く碧の声に、藤間が応えた。

「何でしょう、碧様? 」

「百合の事は御婆様にお任せする、と伝えといて。あんたたちにもお願いするわ。決して甘やかす事の無い様に、立派な大人にして頂戴。」頷く二人。

「それと …… えっと、えっとね。」 

 口篭る碧の声音の中に秘められた羞恥と後悔と無念と。藤間と水尾は今迄に何度も聞いた、聞かされた其の言葉を、自らが敬愛する首領の口から聞く羽目になった事を知った。

 いやだ、と。拒絶しようとするその耳から、柔らかに染みとおるような碧の辞世の句が忍び込んできた。

 忘れないで、と言わんばかりに。

「道順様に伝えといて。 ……その、ね。 …… 愛しています …… って。お願いね。」

 溢れる涙を拭うこともできずに。

 二人は碧を抱えて頭上の法力僧の放つ呪文の間隙をすり抜けて、観音堂の本堂へと飛び込んだ。

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