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                 碧

 寝付きの悪い夜だった。身体の何処かに異常がある訳でもなく、思い煩うような心配事も無い。だが其の夜は、何故か胸の奥深くに蟠った靄のような物が、松長の意識を何度も何度も眠りの底から引き摺りあげる様な、そんな感覚に囚われていた。

 堪りかねて栄俊に持って来させた薬湯を口にして、やっとの思いでうとうととしかかった頃、突然に其の気配が寝所の片隅に現出した。

 横たわったままで意識を澄み渡らせて、其の気配の正体に探りを入れる。例えて言うなら其れは深手を負った猛禽類の様な。息使いこそ抑えてはいるが、今にも崩れ落ちてしまいそうな意識を必死で支えているのが解る。其れよりも松長は、以前に同じ様な意識を持つ者と相対したことがある。

 其れはあの日の掛川、あの廃寺。

 寝所の片隅に蹲っている其の存在を刺激しないように、松長は静かに身を起こして尋ねた。「 …… 碧殿、か? 」

「 …… 御意に御座います。座主猊下。」硬く罅割れた声。

 其の何処にも、松長の知る碧の印象は存在しなかった。胸の奥の靄が大きく広がって、霧となる。

「貴殿一人か? 参られたのは。」

「いえ。」短く答える碧の其の言葉に、松長は決して有得てはならない唯一の可能性の存在を認知せざるを得なかった。

「月読はどうした? 」

 それ以上は尋ねられない。平静を装いながらも其の声は、心の底にある否定の色を帯びて、震えていた。其れに答える碧。鉛の塊をやっとの思いで吐き出す様に、静かに告げた。

「昨日、午後九時、月読様。長谷寺に於いてお亡くなりになられました。」

 長き沈黙。鼓動の音だけが大きく響く。咆哮を上げようとする感情を鎮圧しようと、松長の理性の全てが総動員されていた。それでも抑制することの出来なかった感情が口の端を付いて呻き声の様に漏れ出した。

「碧殿が、見取って、くれたのか? 」

 途切れ途切れの声で尋ねながら、寝所の明かりに灯を燈す。薄暗く浮かび上がる寝所の片隅に、碧は蹲るように座っていた。血塗れで。

「 ! 其の傷 ―― 」

「お静かに願います。座主猊下。此処はなるべく隠密に。」

 慌てて布団を飛び出して碧に近づく。

 よく見ると着衣はぼろぼろ、裾等は消し炭になって大きく千切れている。そして身体の各所に何かに切刻まれた痕が大きく口を開いて、夥しい出血を心臓の拍動毎に繰り返していた。太腿と脇の付け根をきつく縛り上げてはいるが、既に相当量の血液を失っているのだろう。其の顔色は白を通り越して、色を失っていた。

 松長が舌を鳴らした途端に栄俊が寝所に飛び込んで来た。変わり果てた碧の姿を見て、慌てて近づき印を結んで真言を詠唱する。

 薬師如来真言大呪。

 唱えた途端に碧の体に刻まれた深手の傷の全てが光り始め、出血が治まっていた。尚も両の掌に法力を集める栄俊。松長の顔を見つめて小さく頷いた。

「碧殿。御免。」そういうと松長は、胸の前で硬く組まれた両腕を解こうとした。

 其の腕の中から現れる七宝柄の西陣織の着物。これは。

「 …… 月読様より、座主猊下にと、私が託されました。お願いいたします。」

 松長の手の中に。碧の血に塗れた月読の着物の中に確りと包れた赤子の姿。澪。

「これにて、私めのお役目は終了にて御座います。 …… 月読様のお命を救えなかった件、私の、いのち、を持って ―― 」

「ならん!! 」

 そう言うと松長は澪を膝元に置き、碧の着衣の前を素早く肌蹴た。露になった両の乳房の間、丁度心臓の真上目掛けて栄俊が、両の手に溜めた法力の玉を必死の形相で思い切り叩き込む。

 体内に入った瞬間其れは大きく弾けて、光を放ちながら残り少ない血流と共に全身の隅々まで流れていった。途絶えそうになっていた碧の呼吸が回復する。

 同時に栄俊は戻しそうになるのを堪えて歯を食いしばっていた。噛み切った唇から血が流れて顎を滴り落ちる。

「大丈夫か、栄俊。」

 自分の命を分け与える事と同義の法力を行使すれば、そうなる。だが、何の躊躇いも無くそれを行った栄俊に松長は感謝した。一瞬でも遅れていたなら碧の命をこの世に繋ぎ止めて置く事は難しかったであろう。

「は、はい。…… 取り合えず、これで碧殿の御命は大丈夫だと存じますが、出血の量が多く御座います。今は一刻も早く金沢にご連絡を ―― 」

「そうではない。俺が心配しているのはお主の体の方だ。」

「その様なご心配は無用に御座います。今は一刻も早く碧様を。」唇を拭って栄俊が碧を抱き上げる。

「夫以外の男に抱かれた事も無いのに」等と言う碧の言葉に顔を真っ赤に染めながら、松長の布団へとその身を横たえた。肌掛けを被せ、一礼をして寝所を後にする。

 どうやら薬湯を持って来ようとしているらしい。

 松長が澪を抱いて碧の枕元に座った。澪の顔を碧に向けると、ああ、と言いながら碧の手が澪の顔をなぞった。零れ落ちる涙。其の掌の感触をいとおしむ様に笑う澪。

「素晴らしいお坊様ですね、栄俊殿は。喪い掛けた命を蘇らせるとは。」

「あの男も見かけは頼り無いが、薬師如来の真言を使役できる、数少ない僧だ。体の事は栄俊に任せて、今は養生していてくれ。」

 少しの間を置いて、予想通り栄俊が薬湯を持って入室した。松長の向かい側に座って、横たわったままの碧の口に急須で薬湯を流し込む。

「少々苦う御座いますが、秘伝の薬湯に御座います。静かに、少しずつ臓腑に流し込むようにお飲み下され。」

 コクリ、と少し飲み込んで。「 …… 本当に、苦ーい。」

 其の碧の声を聞いて、松長と栄俊は顔を見合わせて微笑した。其れは碧の容態が死の淵から遥かに離れていった事を確信した笑みだった。

 翌朝の治療の段取りをする為に退室する栄俊を見送った後、松長は呼吸の整った碧に向かって、静かに尋ねた。其れは彼女の記憶が定かな内に聞いておかねばならない事であり、碧にとっては、言って置かねばならない事。

「碧殿、話してくれるな。今日長谷寺で何があったかを。」

 松長の質問に僅かに頷く碧。其の瞳が忌まわしい記憶を思い出そうとして宙を彷徨っていた。

 やがて、静かな声で話し出す。

「それは、長谷寺で『星宿の法要』を開始した直後の事でした …… 」


 首尾は完璧だった。澪の御披露目を餌に食いついて来た僧侶達を観音堂の中に案内し、月読が陣を発動させてトランス状態に陥らせる。後は月読の意思の侭に僧侶達を操り、陣の外周にあたる場所に配置した。凡そ三十人ほどの僧侶達が円陣を組む其の中央に一人佇む月読の姿。

 其れはまるでバレエの不朽の名作『ボレロ』のクライマックスシーンを思わせる。唯一つ違うのは傍らに寝かされている澪の姿くらいか。

 暗闇の中で、月読が真言を詠唱し始めると、其れに僧侶達も続く。月読の放つ涼やかな声と僧侶達の重低音が織り成す、真言のアリア。音の広がりは『月読の陣』を青白い光で浮かび上がらせ、やがて其れは広さ四十畳ほどの観音堂の室内全体を照らし上げていた。

 円陣の外に控えた儘で、其の光景を見つめる碧。陣が無事に発動した事に安堵しながら、意識を室外へと集中した。

 発動してしまえば術者が意識的に術を解かない限り、何者も其の内部に進入することは出来ない。二人の存在が絶対安全圏の中にある以上、碧が彼女達の心配する必要は無い。碧に残された使命は、この事が外部の者に ―― 特にあの『盆暗』に気付かれない様にする事。其の一点に絞られていた。

 だが、其の点に付いても抜かりは無い。この日の為に里より選りすぐりの二名を呼び寄せておいた。松田に気付かれない様に側女の中に紛れ込ませて、存分に誘惑する様に命じてある。 睦事と房中術に長けたあの二人に掛かれば、並の男など二分と持つまい。干乾びるまで精を吐き出させ続けて、出来る事なら。

「 …… そのまま、逝ってくんないかなぁ。」

「どうやってあの者を封じるのですか? 」と執拗に尋ねてきた月読に、「ええ、まあ。」と言葉を濁した碧。本当のことを話したら、また「なんて、ふ、ふしだらな! 」とでも言って、真っ赤な顔で怒るだろうか?其の光景を想像して碧は笑った。

 以前にその様な話をして口論になった挙句。

「澪様がお生まれになったと言う事は、貴方も私も同じ様な『ふしだらな事』をしたのですよ。」と言った時の月読の顔。あの時は危うく滅殺されかかったのだが、今度は如何に?

 様々に思いを巡らす碧の意識の糸が、一瞬何かを引っ掛けた。

 それはチャクラを全開させてこの地に埋め込んだ、残留思念による常時結界。法力による行使とは異なる為に、僧侶が発見する事 ―― 無論、月読にも ―― は困難だ。その結界の一部分が僅かに断線した。

 急いで意識を集中して其の原因を探りに掛かる。

 場所は宝物館の西側。人と思しき小さな存在がゆっくりと宝物館に向かっている。何だ、只の泥棒か、と碧の意識は其の存在を判断した。

 長谷寺の宝物館には鎌倉時代を初めとして、数多くの貴重な什宝が安置、展示されている。故に近年、外国人による窃盗団に狙われる事もしばしばで、現に何度かは侵入されて貴重な仏像や懸仏等が盗み出されていた。

 其の度に松田は様々な手練手管を駆使して行方を探し出し ―― そういう才能に関してはこの『盆暗』を認めざるを得ない ―― 高価な金額で買い戻すといった事態に陥った挙句、終に警備員代わりの僧兵紛いの者を雇い入れた。

 勿論正式な浄土宗の者ではなく、寺を追われた破戒僧だとか元犯罪者など出自は多彩に及ぶ。

 多額の人件費を払って迄その様な者を雇用する必要性を疑問視する声は上がったが、松田はそれら全てを、『宝物館警備強化によって得られる増収分の還元』と称して分配された配当金によって沈黙させた。警報システムを強化しても犯人を取り逃がしてしまう、それよりも犯人を取り押さえる事によって得られる風評を重視した、と言うのが当時の松田の見解であった。しかし真意は大きく違っていた。

 忍び込んで捕らえられた者達が司法の手に委ねられたと言う記録は無い。

 つまり犯人は捉えられたが最期、二度と日の目を見ることも無く、松田自らの手によって誅殺されていたのだ。他人の手ではなく自らの手を汚してまで其の行為に浸る所に、松田と言う人間の持つ類稀なる残虐性を垣間見る事ができた。

 この者も直ぐに捕らえられてあの世逝きか、直にわらわらと僧兵が飛び出して来て、にべも無く捕らえられるに違いない。此処に着てから二ヶ月余りの間に何度も其の光景に出くわした碧にとって、今又侵入を果たした者の行く末等に興味を持つことは出来なかった。

 やれやれと、張り巡らせた神経を緩和させて、再び月読の姿を眺めようとした、其の時だった。

 人と認知していた筈のその存在が、突然大きく膨れ上がった。撒き散らされる瘴気の嵐。

 碧の意識がズレて、体の機能と共に凍りついた。幾つもの戦場、幾つもの修羅場を渡り歩いたその身が知り得ぬこの存在。これは一体なんだ!?

 気付かれない様に、そっと月読に視線を送る。今や完全に展開された『月読の陣』は白い法力のカーテンに包まれて、その内部を窺い知る事は出来ない。という事は中で術を施行している僧侶達も外の様子を知る事が出来ないという事。という事は。

 静かに立ち上がって観音堂の扉を開け放つ。一歩外に出た瞬間に外気の異常に気付いた。二月初めの外気の冷たさを超える冷ややかな空気。吹く風に混じって嗅覚に訴える、自分が何者であったかを思い出させる血の匂い。そして断末魔の悲鳴。鎌倉を代表する名刹が、悲惨な戦場と化している事は明白であった。

 そのまま観音堂の階段を駆け下りて宝物館へと向かう。今は其処が主戦場だと訴える、彼女の勘。出来るだけ情報を収集し、事態を把握して、限られた時間で対策を講じなければならない。来訪者の目的、目標、その正体を知る為に死地へと急ぐ碧の歩みは、事態の深刻さを感じさせないほど軽やかに見える。

 観音堂のある上境内から麓に降りる階段の手前で、碧は不思議な違和感に囚われた。何時もならば此処から眺める事の出来る町の灯りが、漆黒の闇に覆われていた。ある部分を境にして長谷寺の周囲に立ち上がった闇のカーテンが、この地を現世と幽界とに隔てている様に見える。

「これは …… 」

 境界の部分に敷設されていたのは、自分が侵入者感知用に張り巡らせた常時結界の筈。来訪者は碧の結界を、何らかの方法を用いて上書きし、自分の物として利用している。それは碧の術がいとも簡単に破られた事を意味していた。

 これほどの相手に気配を隠す事など無意味だ。碧は一気に上境内から麓へと続く石段を駆け下りた。冬の寒さに木枯れた紫陽花の葉を舞い散せながら妙智池の辺に辿り着く。

 今の時期ならばマンリョウやロウバイの可憐な花が咲き乱れて、冬の間の寒々しい景色を忘れさせる筈の妙智池。そうで在らねばならない筈のその池が、今では地獄の風景の一コマの様に碧の視界に飛び込んで来た。

 血煙と瘴気が織り成す魔界の大気。自分が其処に存在して呼吸している事の違和感。見渡す限りに撒き散らされた、かつて人間であったであろうパーツ。原形など在ろう筈がない。

 手が、足が。肉が、臓物が。新鮮さを誇示する様に血を滴らせた侭にそこいらじゅうの木に垂れ下がる。その連なりは並木道の様に点々と宝物館の方へと続いていた。

 成す術も無く蹂躙された人間。

 碧は足元に残された金属片を拾い上げる。捻じ曲がった錫杖の先。法力僧が『魔』を調伏する為のシンボルとも言えるそれが、強大な力で捻り潰されている。どうやらここで食い散らかされたのは、松田が雇った僧兵達である事が解った。しかし、一瞬にして此れだけの人間を挽き肉の様に引き千切る存在など、今迄に見た事も聞いた事も無い。

 目の前に広がる地獄の光景は碧の意識を、寧ろ沈静させる方向へと働いた。

『鬼百合』の二つ名を持つ其の頭脳が現状を分析して、一つの判断を導き出す。そこに在る物は『忍』特有の徹底した現実主義。こんな相手とまともに戦って勝利を得る事は不可能だ。いや、『A装備』を持ち込んだとしてもどうだろう?

 どうやら相手は『人』以外の存在の様に思えるのだが。

 警報アラート。池の辺に立つ碧の背後に、何かが忍び寄ってきた事を感じて。発せられたチャクラの波紋が全方位を索敵して。碧に襲い掛からんとする存在の位置を、碧の頭の中にある長谷寺の見取り図の中に点滅させた。

「馬鹿な子。」

 流麗な其の表情が夜叉の面に変化する。

「あたしが何もせずに、ただ此処に立っているとでも思ってたの? 」言うなり両腕をグッと握り締めて、渾身の力で胸の前で交差させた。

 林の中を無数の滑車の音が木霊する。途端に背後に迫っていた黒い影の進行が止まった。其の全身に絡みつく幾重もの極細のワイヤー。其れを完全に捕らえた事、足掻いている様がワイヤーを介して碧に伝えられた。

「無駄な事を。スペースシャトルにも使われているこのチタンワイヤーの頚木から逃れる事は不可能よ。おまけに滑車の原理のお陰で、縛り上げる力は八十倍まで引き上げられている。あたしが此処からほんのちょっと力を加えるだけで、」交差した腕を更に深く。

 背後で肉の切断される音と苦痛の呻き声。

「あんたの体はばらばらになるわ。あんたがしたのと同じ様に。」

 だが碧の心中に勝利の確信は無かった。

 これは『はったり(ブラフ)』。背後に感じる食欲にも似た殺意が、変わらず碧に叩き付けられている。其れはそうだろう。この仕掛けはあくまで対人用。人ならざる物にまで通用するとは ――

 両腕から林に伸びる十本のワイヤーに体を巻きつかせるようにして、ゆっくりと後ろを振り向く。其の視界に飛び込んで来た『もの』を見て。

「 …… やっぱり。此れじゃ駄目な様ね。」

 そこに屹立する黒い肉塊。全体を覆う人面疽が苦痛の咆哮を上げ、其の度に魔疽を撒き散らす。ライトアップされた庭園の光に照らされた人面疽の口々には肉が咥えられて、この期に及んでも尚、咀嚼を続けている。

「こいつ、食ってやがる …… 」

 剛の碧を以ってしても、それには恐怖した。人肉カニバ嗜好リズム等と言う生易しい物ではない。こいつは、何の抵抗も無く、人を、食うのか。

 黒の友禅を纏った夜叉姫の、生奪の舞踏が始まった。

 全身にワイヤーを回して緊縛の度合いを強めると、切断を開始したワイヤーが黒い肉塊に潜り込む。切断された人面疽の断末魔の叫びが妙智池の水面を震わせた。やがて叫びは絶叫へと変化し、ワイヤーのテンションも致命の領域に向かって加速する。

「もう少し ―― 」そう思った矢先にワイヤーの侵攻は突如、停止した。

 そこから先は如何に力を加えようともびくともしない。碧の勘が瞬時に危険を察知した。それは自らが攻撃を加えている肉塊より発せられた物ではなく、自分の背後にある池の中から。回転を中断してプレッシャーの放たれた池に向かって意識を集中させた。

 ぽう、とうかびあがる暗き焔。幾つも幾つも。

 仄暗い妙智池の水面を、滑る様に此方岸へと向かってくるそれらに浮かぶ、人の顔。

 苦痛、悔恨、怨嗟。暗き鬼火を呼び寄せる様に咆哮を上げる残存の人面疽。やがてそれらは肉塊の周りを渦を成して回り始めた。

 もし、あの鬼火があの肉塊の力の源で、それらが一斉に奴の体内に取り込まれたとしたら ―― !

 逆回転リバース。全身で巻き取ったワイヤーを緩め始める。体の周囲に蟠っていく。

 万が一鬼火を取り込む事で力を取り戻す様な事があれば、全身にワイヤーを巻き付けた自分の肉体が、今度は今のあれと同じ様な事になる。いや、多分もっと酷い事に!

 碧の予想通り、肉塊の表面を覆う人面疽が、直ちに鬼火の渦を取り込んだ。パン、と膨れ上がって、全身を縛り上げていた筈のワイヤーが肉の表面に浮かび上がる。

 上昇したテンションが、碧が巻き取った時よりも遥かに大きい音を立てて滑車を回し始めた。続いて今度は肉塊が回転を始めて、全身でワイヤーを巻き取り始める。碧の足元に積み重なっていたワイヤーの束が一瞬にして宙に消し飛んだ。

「まずいっ!! 」間に合わないっ! 

 印を結びながら、暫しの時を稼ごうと回転を続ける碧の体。その行為を嘲笑うかの様に巻き取られる鋼鉄の糸の束。そして終にその緊張が碧の体に到達した時、碧の体は悲鳴を上げる事無く塵散りに千切れ飛んだ。


 仕留めた獲物を捕食しようとワイヤーを体に纏わり付かせた侭で、碧が立っていたであろう場所に肉塊は近づいた。新鮮な腕を、腿を、乳房を、女陰を、貌を食らおうと人面疽が長い首を伸ばして辺りを嗅ぎ回り始める。

 だがその自慢の鼻が碧の生命の痕跡を探り当てることは出来なかった。そこに残された物。幾重にも切断された楓の木が散乱しているのみ。名残惜しげな呻き声を上げる、人の貌を貼り付けた大蛇の群れに向かって、妙智池の対岸に立つ人影が声を掛けた。

「探してるのは、あたしの事かな? 」

 声に振り向く大蛇の群れ。そこに、両腕を胸の前で軽く組んだ碧の姿があった。小首を傾げて微笑みながら問いかけるその姿は、対岸の黒い肉塊と対極を為す。

「今のであんたの事が少し解かったわ。あたしの真似をしてワイヤーを巻き取った所を見ると、少しは知恵も有る様ね。」

 そう言いながら目にも留まらぬ速さで印を結んで、チャクラを練り上げる。油断などおこがましい。この化け物を足止めするにはどうやらかなり大掛かりな術が必要な様だ。

 碧を食らう為の体制を整えようと人の顔を貼り付けた大蛇が元の位置へと収まる。其の瞬間を碧は待っていた。

 練り上げたチャクラを術の発動と共に開放する。途端に巻き起こる旋風つむじかぜ、いや其れは既に竜巻に等しい。地面に舞い散る木の葉を根こそぎ巻き上げながら、黒い肉塊を押し包む。

「先ずはその『眼』を頂くわ。」

 碧の言葉と共に放たれた術式が、二つの間を隔てた池を飛び越えて旋風に叩き付けられた。

「木遁。木の葉千刃。」

 秒速九十メートルで肉塊の周りを渦巻く木の葉全てが、其の詠唱の瞬間に刃へと変化した。肉の全身を覆う人面疽の眼が、口が瞬く間に切り裂かれていく。苦痛の叫びと共に撒き散らされる黒い泥が旋風に取り込まれて、巨大な黒き繭がそこに形成される。

 其の最中にも碧の詠唱は止まらない。違う術を行使しようと、再び。

「まだまだ。次は其の足。」

 練り上げたチャクラを両の掌に載せ、足元の水面にそっと触れた。掌を中心にして円形に光り輝く水面。そのまま持ち上げると、円盤状の薄いガラスが高速で回転していた。

「水遁、水龍牙! 」

 全身をむん、と捻り込んで。返す反動で一息に肉塊の足元目掛けてリリースする。水面ぎりぎりをふわふわと漂う、黒い鬼火を切り裂きながら高速で飛行した其れは、肉と地面の間に蠢く繊毛せんもうの様な足を一気に切断して、背後の立ち木に突き刺さった。

 黒い繭が達磨落としの一段目が抜かれたかの様に、ズン、と地響きを上げて上背を低くする。

「止めは取って置きよ。―― 出でよ、石英っ。」

 今度はその場に跪いて、片手を地面に付けた侭で詠唱を始めた。

 池の辺の地面全てに細かい罅割れが走り、光り輝く微細な粒子が其の中から空中へと吐き出される。肉塊の周りで未だに続く旋風の吹き戻しが帯状に連なるそれらを取り込んで、闇を光へと変化させた。

 人面疽が放っている筈の断末魔の呻き声も、既に碧の耳には届かない。轟々と鳴り響く、光の繭を形成している旋風の唸りだけが辺り一帯に木霊していた。

 下忍三十人分に相当するチャクラを使っての三連打。此れだけの大技を放っても尚、碧の心の中の警戒レベルは変わらない。一際長い詠唱に入りながら、碧は思った。この程度ではまだ、足りない。肉体部分の損耗など、この化け物にとっては一時の不自由さを感じさせるだけにしか過ぎない。またぞろそこいらじゅうから鬼火を取り込んで、一瞬にして復活を果たす機会を伺いながらこちらを見ているに違いない。

 だが、これならばどうだ!?

「土遁、」両手で結んだ印を中心にして形成された、人の頭ほどもあるチャクラの光球。碧の詠唱した言葉を包帯の様に纏って。そのまま両腕を袈裟に振り上げて、声諸共に光の繭目掛けて投じた。

「金剛石化封縛球! 」

 チャクラの玉が繭の外周に触れた途端に、表面を覆っていた呪文がほどけて旋風に飲み込まれて消失する。

 次の瞬間、ギイン、という、硬い金属が派手に擦れ合う様な音を残して繭玉は静止した。取り込まれていた石英の微細な粒子が碧の呪文によって一瞬にして石化を果たしたのだ。巨大なガラス球の中に透けて見える化け物の全貌。

 対岸から術の成功を見届けた碧が、ほっと溜息をついた。気を抜いた途端に、チャクラを大量に練り込んだ事によって発生する副作用 ―― 猛烈な眩暈めまい ―― が碧の意識をぐら付かせる。嗤い出しそうな膝に活を入れて、屹立するガラス球に警戒の意識を集中させて近づいた。

 永久凍土の中に封印されたマンモスの様に、今ガラス球の中に封印された化け物の姿。空気と言う媒体を遮断してしまえば、如何に化け物が鬼火を呼ぼうと吸収する手段は無い。また、空気が無ければ如何なる生き物も生存することは出来ない。

 全身を切り裂かれてガラスの檻に閉じ込められた黒い肉塊のモニュメントを見上げる。動きは無い。

「これでよし、と。後は月読様の儀式が終わってから考えましょう。」

 その場を後にして、観音堂に戻ろうと硝子の墓標を背にした瞬間、其れは起こった。

 碧の背中に突き刺さる数多の視線と殺気。思わず振り返る。

 其の視線の先に、跡形も無く切刻んだ筈の人面疽の貌が復元していた。絶対に動く事の出来ないガラス球の中にある其れの瞼が開いて、見つめる碧と視線を交わす。

「うそっ …… 」思わず呟く碧。

 ありえないっ!反射的に蜻蛉を切った其の跡に、復活した人面疽の口々から放たれた黒い槍が、ガラスの玉を貫通して次々に突き刺さった。

「うそでしょう? どうして …… 」

 其の疑問は眼前で起こりつつある状況と同様に、氷解した。 ガラス球を震わせる聲。それが真言の詠唱だと気付くのにそう時間は掛からなかった。完全に硬化していた筈の石英がチャクラによる結合を失って、内部より解け始めている。溶解が進む毎に大きくなる言霊。

「不動明王火界呪。何でこいつがそんな物を ―― 」

 溶岩と化して肉塊の足元に溜まって行く石英の成れの果て。じりじりと迫ってくるマグマと距離を取る様に碧の足が跡ずさる。

 肉塊の下に広がる灼熱の沼の表面に、碧が『水龍牙』で切断したはずの繊毛達がプカリと浮かび上がる。それらは胴体の下でお互いを求めるように触手の様な物を伸ばして、やがてその目的を果たした。

 足を再び手中にした黒い肉塊。『人間にしては中々に手強い』女と再び合間見えようと、碧の姿を探し始める。そして再戦を求められている当の碧は完全な敗北を実感した。一気に距離を取ろうと後方の林の中に跳躍する。

「これでは儀式どころではないわね。」

 そう呟きながらも再びの詠唱。残ったチャクラで行使できる大技はあと一つ。確実に足止めを果たして、その間に月読様と澪様を連れてこの寺を脱出するしかない。幸いにしてその大技を成立させる為の材料は此処に存分に存在する。

 それは、火と、水。

 その忍術は『三式』と呼ばれる、三系統の忍術を同時に行使する秘儀中の秘儀。

 先ずは火遁。両手を地面に押し当てて、肉塊の足元に広がるマグマと化した石英に対して命令する。地面に消え失せるマグマの池。

 消えた訳ではない。地面に染込んだ、膨大な熱量を帯びたその液体が肉塊の足元の地面の土を沸騰させた。張り巡らされた木の根が発火。それは導火線の様に伝わって、地表に伸びる幹を燃やし始める。碧と肉塊の周囲が炎の壁に包まれた。

 次に水遁。それは妙智池と放生池に湛えられた大量の水。その全てを肉塊の存在する足元の、煮え滾った地中に誘導する。一瞬にして消え失せる二つの池の水。

 流れ込んだ先に存在する石英の溶岩と反応して、大量の蒸気を地表に向かって噴出させた。 蒸気の熱によって焼かれた人面疽が、身も凍るような悲鳴を上げる。その足元で、大量に流し込まれた水によって急激に冷却された地面が音を立てた。それは地面の土が温度変化によってより細かく砕けていく音。

 最後は、土遁の術。炎の林の中を静かに立ち上がる碧の姿。チャクラを帯びた握り拳を一気に地面に叩き付けて振動を与える。

「秘儀、土蜘蛛。」

 碧の視界から肉塊が消え失せた。

 いや、消えたのではない。その足元に大きく穿たれた穴に落ち込んだのだ。何とか這い上がろうと足掻くそれを取り込み続ける泥。繊毛が、人面疽が片っ端からずるずると地中へと飲み込まれていく。

 液状化現象。それが『土蜘蛛』の術の正体。

 急激な温度変化によって強制的に粉末状にした地面に大量の水分を含ませる。そこへチャクラによって発生させた細動を与えて結合力を弱体化させれば、そこに底無し沼が出現する仕組み。地形と規模によっては大軍を屠れる技である。

 無論使える者は数少ない。碧を含めても何人居る事か。

 穴の縁にしゃがんで、何処までも沈んでいく肉塊を眺めながら。

「ま、精々頑張んなさい。特に念入りに仕掛けて置いたから、ちょっとやそっとじゃ抜けらんないわよ。あんたが此処へ何しに来たのかは分んないけど、暫く其処で大人しくしててくれるとこっちも助かるわ。」

 微笑を浮べて、懐から取り出した物。先程拾った捻じ曲がった錫杖の先を肉塊目掛けて投げつけた。

 炎を反射させて一筋の光跡が肉塊目掛けて。今正に碧に向かって黒い槍を放とうと口を開いた人面疽の口腔内にそれは飛び込んだ。苦痛の絶叫を放つ。

「それは、おまけよ。じゃあね。」

 右手を小さくバイバイと振って、立ち上がる。

 その場を離れる碧の足取りは、肉塊との戦いの最中に垣間見せた余裕とは程遠い。体術を使って上境内へと続く階段を一気に飛び越えて敷地内へと降り立った。

 碧の焦りには理由があった。それはあの時、奴が唱えた「不動明王火界呪」。真言僧侶の中でも高位に位置する者しか行使出来ない術を、何故あの化け物に使う事が出来たのだ? 

 理由は一つしかない。

 あの化け物が元は真言宗の退魔師であったと言うことでしか其の事実が成り立たないのだ。

 元々法力僧の使う『法力』と忍が使う『忍術』とは兄弟の様な物。故に日本各地に点在する忍者の里と、真言宗の盛んな地域とは見事なまでに共通している。

 伊賀・甲賀の里は比叡山と距離を密にしているし、根来は其の侭根来衆の本拠地。隣には雑賀が隣接している。遠く東国に置いては仙台、伊達政宗の配下に会った黒巾脛組。北に聳える出羽三山には羽黒山修験本宗の本山、荒沢寺を擁しているし、西国、尼子氏の配下・鉢屋衆と風魔に至っては元は一つの組であり、飯母呂いぼろ一族として筑波山に存在していたと言う。其の筑波山には中禅寺が存在する。(現在では明治の神仏分離令によって筑波神社と知足院大御堂とに分かれて存在しています……作者 註)

 つまり『忍術』とは法力僧の使役する『真言』を母体として作られた物。

 しかし退魔師が信仰によって天界と契約して其の力を執行する法力とは違い、忍者の其れは純粋に鍛え上げた人間の内部に存在する力による物。其の大きさも性質も比較にならないほどの違いがある。という事は、碧が如何に力を尽くしても元法力僧で在った筈のあの化け物には、一切通じない事になるのだ。

 人の力等、神様に及ぶ道理が無い。

 土蜘蛛もそう長くは持たないだろう。奴が這い上がって来る前に法要を中止させて、月読様と澪様をこの場より避難させねば。後はあの『盆暗』を誑かせている二人にも何とか連絡を取って ――

「み、碧っ! 此れは一体どういう事だ!? 」着地した碧の背後で大声が上がった。

 しまった、見られたか? 動揺を抑えながら立ち上がって声の主の方を振り返る。

 そこに、血の気の引いた顔で狼狽する、あの『盆暗』が立っていた。下着も着けずに白い襦袢じゅばんを羽織って裸足のままで。肌蹴た前から覗く男根と陰嚢が今にも体内に潜り込みそうな程に、恐怖で縮み上がっている。

 けっ! 小物が!貧相な物を見せんじゃねえっ! 

「大変で御座いますっ! 何か得体の知れないお化けがあそこから入って来ております!一刻も早くお坊様達を非難させないと! 」

 瞬く間に世情に疎い乳母の姿に立ち戻る碧。あの高慢な松田がこのうろたえ様。今、碧が何故此処にいて、何故事情を知っているか等、気が付いていない様子だ。

「お、お化けだと!? 」そう叫んで松田が池を見下ろした。

「何も、何も見えんぞ! 何処にいる!? 宝物館は、私の金は大丈夫なのか!? 」

 おいおい、この期に及んでも金の心配か? 全く。いっその事あそこで寝ててくれればこんなに悩まずに済んだ物を。

「解りませぬ。私も物音に驚いて此処に来たばかりですので。其れよりも住職様、早く皆にこの事をお伝えせねば。住職様は一緒に居られた側女達を避難させて下さいませ。」

「お、おお、そうであった。しかしあの者共は疲れて眠って居る故、直に目覚めるかどうか ―― 」

 疲れて眠ったぁ? 嘘だろ? 二人掛りでこの男に負けたって、どんな精力の持ち主なんだ? この生臭坊主。

「そこを何とか起こしてくださいませ。私は急いで、」時間が無い。

「お坊様達にこの事をお伝えしてから警察に ―― 」

「そうだ、碧。月読は、澪は。何処にいる? 私の可愛い宝は何処にいるのだ!? 」

 人の話を聞けよ、このボケッ!! 

「月読様と澪様なら観音堂にてお休みに御座います。私が今すぐお知らせして参りますので、住職様はお早く ―― 」

「そこで、何をしているのだ? 」

 その松田の声音の変化は、碧の警戒システムに冷や水を浴びせた。投掛けられた問いは既に、悲鳴ではない。悪鬼の声と殺気が絡み合って碧の体と五感に絡みつく。

「? 住職様 …… 」

 上辺で未だに乳母を演じながら、碧の本質が殺気を受けて眼を覚ました。夜の闇の中で犬歯を剥きだして嗤う松田の貌。そこには傲慢で不遜な男 ―― いや人間としての表情の欠片も存在しない。寧ろこの男のこの顔は。

「そこで、月読は何をしていると、聞いているん、だ。」

 恐怖で縮こまっていた筈の松田の男根が見る見る屹立を始めた、だけでなく猛烈なスピードで碧目掛けて奔る。蜻蛉を切って距離を開けた碧の体を捕らえ損ねて、其の鞭は空を切って地面へと落ちた。

 懐刀を抜いて正眼に構える。かつて松田であった者と対峙する碧。

「汚ったならしい物であたしに触んじゃないわよっ!! この化け物っ! 」

「捕まえ損ねたか。残念。」地面でとぐろを巻いた鞭がゆるゆると松田の股間に戻っていく。

「お前にもあの二人と同様の極楽浄土を体験させてやろうと思ったのだが。―― どうやら、碧。お前も御山の回し者の様だな。それも唯者じゃあない。」

「だとしたら、何? それよりあの二人を、どうした!? 」

 問いに答えようとする松田の貌に下衆げすの表情が張り付いた。舌なめずりをしながら。

「だから言ったろう? 眠って居ると。体中の穴と言う穴から体液を零れさせてな。…… どうだ、お前も? 俺と馬鍬って見る気は無いか? 一度お前ともシテみたいと思って居ったのだが。」

 うわ、考えただけでも吐き気がする。

「残念だけど、化け物とヤル趣味は無い。あたしはソフトSMが限界だよっ! 」

「まあ、そうつれない事を言うな。あんまり邪険にすると ―― 」両腕を後ろに回す。

「捕まえた時に痛い目を見ることに、なるぞっ!! 」

 語気を強めて後ろ手を前方に振り出す。今度は両腕が鞭のように伸びて、碧を捕獲しようと迫って来た。今度は一気に後方に飛んで相当の間合いを開ける。またしても碧を捕らえ損ねた二本の鞭が地面に落ちてのたうち回った。

「どうした、お前も術の使い手なのであろう? 俺にも何か使ってみろ。尤も ―― 」

 するすると両腕を元に戻して、無造作に碧の方に歩み寄る。間合いを詰められまいと松田を見すえた侭で後退する碧。何時しか其処は上境内の中央、観音堂を背にして向かい合っていた。

「その力もあれに対して殆ど使い切ってしまったのであろう? 力の無いお前など今の俺にとっては只の女に過ぎん。ささ、今の内に俺の慰み者として仕えろ。さもないと、」

 突然松田の背後に巨大な影が浮かび上がった。音も無く忍び寄る黒い肉塊をその背後に従えて、道化師の様に口角を上げて、嗤った。

「お前のその美しい肢体を、この化け物に食わせる羽目になるぞ。」

 松田の宣言を理解したのか、黒い肉塊を覆い尽くした人面疽の全てが一斉に地獄の雄叫びを上げた。奴は再戦の相手を見止めて、歓喜している。全てを理解する碧。

「あんたが呼んだのね。その化け物を。」

 フン、と鼻白んで。「だったらどうした? 」

「目的は、何? 自分の手下を失って迄、あんたは何を得ようとしているの? 金と女以外に全く興味を持たないあんたが。」

「あんなもの、只の肉だ。替わりは幾らでも居る。金さえ出せばな。」蔑んだ声。

 人外の者に成り果てた松田と言う魔物が述べる、人の世に対する評価が其れであった。

「だがこれは違う。脆弱な人間の肉体を捨てて、俺は神の力を手に入れたのだ。例え法力僧が束になって襲い掛かって来ても一瞬にして八つ裂きに出来る、究極の肉体を。」

「鏡見て出直して来な。其の体が『究極の肉体』だって? ハッ! 」

 嘲笑しか出て来ない。本気で言ってる?

「腕やチ○ポの伸びる体がお望みだったなんて、あんたの趣味にも呆れるわ。あんたの神に言っときな。色ボケも程々にしないと赤玉が出て終わっちまうよってな! 」

「下品だ。其の物言い、極めて下品で不愉快。この身体の『進化』も理解できぬとは。…… まあいい。お前には後で相当の仕置きを与えてやろう。月読を捕まえた後でな。」

「待て、此処は行かせない。」

 手の中の懐刀を松田の眉間目掛けて突き付ける。「月読様をどうするつもりだ? 」

「月読の乳母ともあろう者が戯けた事を聞くものだ。我妻と同衾どうきんして何をはばかる事があるというのだ? 御山にいるボケ坊主の沙汰を待ってからと思っていたが、もう待てぬ! 今より月読の元へ赴き、既成事実を作ってやろうと言うのだ。」

 松田の貌が妄想の世界に陥って、愉悦に歪む。

「おお、あの女の体を想像しただけで身震いがする。あの中に俺の全てを注ぎ込んで悶える様を想像するだけで、堪らん。俺の身体無しでは生きられなくなる位に虐めて、辱めて、弄んでやる。それに乳母たるお前が同意できぬとはどういう了見だ。ん? 」

「同意できるか、馬鹿野郎!! 」

 怒りで血液が沸点を超えた。米噛みが裂けそうな位に脈動する。

「あんたの意見のどこをどう引っ繰り返して同意すればいいんだい!? 其の前にあたしがあんたの其の汚らしい一物を根っこから叩き切ってやるっ!! 」

 碧の語勢の強さに怯む松田。しかし其れも一瞬の事だった。どんなにこの女が強がろうと、此方が優位なのだ。

「 …… 其の強がりも何時まで持つかな? お前の相手は俺ではない。」

 そう言って右手を高く掲げて、指を鳴らした。唸る咆哮、巻き上がる魔疽。黒い肉塊を後ろに従えて碧との間合いを無造作に詰める。蹈鞴を踏んで碧が下がる。

「 …… おい。」背後に声を掛ける松田。

「ここはお前に任せる。いいか、くれぐれも言って置くが、あまり遣り過ぎて殺すんじゃないぞ。この女には後で俺が直々に月読と同じ目に合わせてやる。」

 肉塊の前を開けて碧と対峙させる松田。

 こうなったら、と碧は残ったチャクラを練り始めた。今までこの男に自分の術を見せなかったのは、こういう時の為だった。見た事も無い術であれば回避する事は叶うまい。

 それはさっき黒い肉塊と戦った事で理解した。奴は碧の放った術が法力と違う物であったからこそ回避する事が出来なかったのだ。と言う事は最初の一撃は有効な筈。この一撃でこやつ等の自由を奪った上で ―― 既に攻撃出来るほどのチャクラは残っていない ―― 速攻でお二人を救い出さねば。

 チャクラを練る碧が異変に気付いたのは、松田が肉塊に進路を譲ってからほんの二、三秒後であった。碧目掛けて迫って来る筈の奴が、一歩も動かない。唸り声を上げたまま立ち尽くしている。

「おい、どうした? 何をしている、早くあの女を捕まえろ。」

 松田の語気に焦りの色が滲む。 其の命令を受けても尚、肉塊は動かない。碧の戦闘データが其の化け物と戦った時の映像を視覚野にフィードバックした。

 あの時のこいつ、こんな感じだったっけ? 否定ネガティブ。何かが違う。一体何処があの時と ―― 。

 そうか! 鬼百合の電算機が回答を弾き出した。人面疽、其の目!

 碧の視線が肉塊に釘付けになる。松田にしてみれば其の光景は『蛇に睨まれた哀れな蛙』の姿としか捉え様が無い。しかし碧は人面疽全ての瞳を追いかける。それらが見つめる方向は碧では無い。

「おいっ! お前、使いの分際で ―― 」不可解な行動を取る肉塊に向かって抗議の声を上げる松田。

 振り向く。其の正面に人面疽の大きく開かれたあぎとがあった。

 黒い舌が盛り上がって、先端を尖らせる。ゆっくりと伸びた其れが、振り返ったばかりの松田の眉間に突き付けられた。

「! なっ ! 」松田が驚愕の声を上げ、それが人の言葉の最期であった。

 トン、という軽い音。一息に眉間を貫いた黒い槍が、事態の推移を固唾を呑んで見守っていた碧の足元に、鈍い音を立てて突き刺さった。


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