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                 家 族

「私に、お父様を死地に向かわせる為の手助けをしろ、と? 」

 泡立つ感情を極限まで押えたが故の低い声。自分の声でありながら、それは何処かしら遥か彼方の地平から届く遠雷の音に似ていた。

「それが …… その様な事がお父様の最期の御命令だというのですか? 」

「そうだ。」只一言ではあるが、そこに集約された意味。異議、反問を赦さない絶対的な命令。

 座主の発するそれに逆らうという事は自ら破門を申し出る事と同義。澪を生む前の自分ならば何の疑いも無くそれに従っただろう。自分を取り巻く人々を恐れ、父の威光を畏れ続けたあの頃ならば。だが、今は違う。

「理由をお聞かせ下さい。以下に座主猊下のご命令といえど、簡単には承服いたし兼ねます。」松長に向かって身を乗り出す月読。

「私達を守る為にお父様が天魔波旬と戦うというのなら、当の私達がどうしてじっとして居れましょう? それに彼の者が人々に災厄を齎す『魔』とするならば、全山を挙げて戦うべきでは御座いませんか? 」

「それが出来ない理由はお前が一番判っている筈だ。奴がこの世に顕現した事を一番最初に知った、『月読』の名を持つお前ならば。」

 其の言葉に月読は反論する事が出来ない。かつて行った星宿で月読は『天魔波旬』という、途轍も無い力を持った存在の発生と、其の者の運命を見た。そして、それに呼応するように出現する、神の代理人たる『摩利支の巫女』。巨大な力を対消滅する為に存在する其の者の代りに、人の身である我が父が敵う事など無い。

「 …… 死ぬお積もりですか? 先程の起請文を『遺書』だと言ったのはそういう事なのですか!? 」言い様の無い怒りで感情が激発した。

「私達に生きろと言った其の口から『自分は死ぬるので後を頼む』と? その様な身勝手な目的の為に行使する術など月読は持ち合わせておりません。もしどうしてもとおっしゃるのなら、今すぐ全山に出撃を御命令ください。其の為でしたらこの月読、我が身命を賭してでも必ず奴の居所を見つけてご覧に入れましょうっ! 」

 一息に捲し立てて呼吸が乱れる。喘喘と肩を上下させながら松長を睨み付ける。しかし、松永の瞳は穏やかだった。それは既にこの世の者では無いかの様。

「月読。お前は何故、今『天魔波旬』がこの世に現れたかを考えた事はないか? 」

其の松永の言葉に、月読の怒りが急速に収まった。

 事の大きさに心が奪われて、そんな事まで考えが至らなかったが、言われてみれば、そうだ。最後に其の存在が記録されているのは仏陀の入滅の時のみ。しかもその時はまだ人であった筈。それが何故今になって出現したのだろう。

「俺はな、其の事について少し考えてみた。」

 手前に置かれた自分の湯飲みを手に取り、冷め切った甘酒の残りをこくり、と飲んだ。

「今、世の中は大きく乱れておる。それは日本だけではなく、世界中でだ。世界を巻き込んだ戦争こそ起こってはおらんが、あちらこちらで小競り合いのような紛争が起きている。其の起こりと言えば、例えば人種間の差別であったり、宗教の違いであったり、其の国の利権を求めての物であったり、理由は様々だ。だが、今迄に起こった戦争と大きく違う点が在るとすれば、それは『人間の欲望によって引き起こされている』と言う事だ。 ―― 何か、気が付く事はないか? 」

「 …… 末法思想。」月読が呟く。それは仏陀が入滅の際に説いた、この世の終わり。

「そうだ。片や正義、片や悪。しかしそれは立場を変えてみれば同じ事の裏表だ。そうやってお互いの正義を高らかに謳い上げて自分達以外の存在を否定し続ける、不毛な戦いだ。それが拡大していけば、世界はやがて取り返しの付かない戦火の渦に巻き込まれる事に成るだろう。」

 語り部である松長の言葉に声を失い、じっと耳を傾ける月読の姿。松長が軽く溜息を吐いて、彼女を見た。

「そして人々は自分に関わる多くの者を失い、悲しみ、憎み、この世の全てを恨むだろう。それが更なる戦いを生み出す事にも気付かない侭にな。」

「教えではその時にこそ西方浄土より弥勒菩薩様が降臨なさって、衆上を救済すると言われています。」

「では、弥勒菩薩様は何を救済すると言うのだ。人か? 戦いに明け暮れ、この世を血で染め上げようとする人間の“どちら”を救済しようと言うのだ? 己の思想に組する一部の者だけだろうか? それでは真に『救世』を行うと言う意味には程遠いだろう。」

「其れは …… 」月読が口篭もる。

 お父様は何をおっしゃりたいのだろう? 今ここに展開している論説は殆ど自分達の教義に対する批判に近い。まさか真言宗座主たる我が父がこの様な事を考えていたとは。

「俺はな、月読。人の立場をそういう風に二つに分けるのならば、『天魔波旬』という者は、人の持つ負の因子が作り出した究極の澱だと思うのだ。」

「澱、ですか? 」

 そう答えながら、内心震えた。星宿の際に感じたあの邪悪さが、人の作り上げたものとするならば、一体どれほどの人間がこの世の滅びを求めているのだろう?

「呪い、と言っても良いな。」

「では、『摩利支の巫女』とは何の為に生まれたのですか? 今迄に顕現した巫女達は、あくまで戦の象徴とか守護神としての存在でしかありませんでした。しかしこの度生まれてくる者は違います。明らかに未だかつて見た事も無いような力を宿して生まれて来ています。」

「其の力の大きさが、『天魔波旬』の力の大きさと言う事なのだろうな。多分。だが ――  」

「それでは尚更、お父様を其処に行かせる訳には参りません。」落ち着きを取り戻して尚、月読は松長の決意を否定した。

「彼の者、そして『摩利支の巫女』の力が同等の者だと言うのならば、この際はっきりと申し上げましょう。お父様一人では全く勝ち目が有りません。」

 断言する月読の其の言葉に、松長は苦笑した。これはまた、はっきりと言ってくれたものだ。

 此れ程の物言いをする者は今の執行部の中にも存在しない。何処まで強くなったのだ、紗絵。

 自分の娘をここまで育ててくれた、自称乳母を名乗る其の女性を思わず見た。月読がそれ程の物言いをしたにもかかわらず、全く動揺する気配はない。逆に月読の放った『暴言』にも等しい意見を、さも当然の事だと言わんばかりに胸を張って松長を見つめていた。

 二対一か。これが民主主義ならば俺の負けなのだがな。

「月読。お前は二つ勘違いをしている。」

「えっ ……? 」

 譴責けんせきを覚悟した上で放った言葉。それすらもさらりと躱して松長は、月読を諭すような声で。

「まず、一つ目。『天魔波旬』を倒しに行くのは俺一人ではない。そこに血判を押した執行部全員だ。」

 其の言葉に慌てて起請文を見つめた。血判を押してある十二人の高僧達。其の全ての人となりを月読は知っている。

「全員俺の呼びかけに快く賛同してくれた者達ばかりだ。確かに俺一人では敵わんかも知れんが、此れだけの法力僧相手なら、どうかな? 」

「いえ、しかし、」

 古儀真言宗十二人衆。其の十二人どの僧侶を取り上げても、父松長に匹敵する法力を有し、万が一松長に不慮の事態が発生した時には即座に其の全権を取って代わるだけの実力を持つ者達。それ奴全ての者が戦うと言うのか? 

 確かに其れならば少しは勝ち目も出てくるだろう。というか、この者達は真言宗最後の砦。もし敗れるような事があったとしたら。

「万が一、お父様達が敗れるような事が有ったとしたら、御山、いや真言宗は如何なさるお積もりですか。座主と執行部を失った私達に一体どうしろと? 」

「其の事も文の中に記しておいた。新執行部の面々は其処に書かれてある通りだ。 ――  まだ開いてはならんぞ。其れの開封は我らが『天魔波旬』に敗れたと判った時のみだ。良いな。」

「そんな …… 」

 狼狽する。松長の言葉一つ一つの何処かに取り付くしまを探そうとして、其れを果たせない自分の力の無さが歯痒い。

「そして、もう一つ。…… 先程『お前達』と俺は言ったが。月読、これはお前と澪の為だけに決心した事ではない。もし俺がそんな提案をしても、この者達は受け入れてくれなかったであろうな。」

「私達だけの為ではない …… 」思わず復唱した月読の声に、松長は力強く頷いた。

「無論、松田の陰謀と御山を守ると言う事は前提としての提案だったのだが、彼らが俺と共に行く決心をした本当の理由は、」

 其の後の言葉を、月読の空ろな声が続いた。

「『創生の法要』有資格者、百余人の赤子の命を救う為 …… 」

「其れこそが『創生の法要』の開催自体を無効化する、唯一の手段なのだ。そして俺達が事を成した後は、残ったお前達が力を合わせて、この世界を正してくれ。」


 これは確かに遺言だわ、碧は松長の言葉に黙って耳を傾けながら思った。

 月読との会話の中で、松長は自分の生還の可能性について一言も語ってはいない。つまりそれは座主猊下を含めた十三人で『天魔波旬』と刺し違える覚悟であると言う事に他ならない。

「良いか、月読。我らが死んでもこの世は果てしなく続く、いや続けなければならない。しかし人の心が今の侭では『天魔波旬』は再び、今と同じ使命を携えてこの世に現れるだろう。残ったお前達の使命は二度と現世にその様な者が現れぬ様に、全ての人々の心を真言の教えによって救済していく事だ。お前達が其れを誓ってくれるのならば、今ここで我々が戦う事にも意味が有る。」

 月読は答えない。松長の娘、紗絵としての自分と金剛峯寺女人堂尼僧筆頭、月読としての自分。どちらも私の筈なのに、父親の発言を頑として受け付けない自分と全てを理解して受け入れようとする自分がいる。一体私はどうすればいい!?

「決められた運命など存在しない。例えそれがお前の星宿の見立てであったとしても、何処かしらに我ら人間の選択する余地は存在する筈だ。俺達は其れを信じる。いいか、紗絵。」

 俯いたままの月読。其の声に肩がびくっと震えた侭、何も答えない。松長は言った。

「俺達が、終わらせたいのだ。現世に満ちた悲しみ、とやらをな。」


 その時、松長は碧の異変に気がついた。魅惑的な女性が一分の隙も無く、己の正面に楚々として鎮座している其の姿は月読との会話の最中から一つも変らない。だが其の背後のオーラが全く違っている。まるで写真のネガとポジを一瞬にして逆転させたような、そんな感じ。

「如何された、碧殿? 」

 松長の問いかけで、月読も碧の異変に気付いた。だが、二人の視線に全く動じる事無く、碧は甘酒の残りを啜った。

「どうやら虫が紛れ込んで来たみたいですわ。」

 そう言うと、其の侭の姿勢で中空に話し掛けた。「帯刀、いる? 」

「はい。」碧に応える声。

 二人の耳にも届く声だが何処からするのかは皆目見当がつかない。

「虫がいるから駆除をお願い。なるべく早目にね。」

 碧の声が凛と響く。だが其れに対しての返答はなかった。ん? と言う顔をして碧が尋ねる。「どうしたの、帯刀。返事は? 」

「 …… あの、碧様。つかぬ事をお伺いいたしますが、」申し訳無さそうな帯刀の声。

「なあに? 」

「その …… 『害虫駆除』ということは、このお話し合いはもうお開きになると言う事ですよね? 」

「そうね。その方が良いかも、だわ。なかなかに抜け目の無い『盆暗』の様だから、余り話が長引くと怪しまれるでしょう。」

「で、ですね。実は碧様にお願いが御座いまして。」言葉が進むに従ってトーンが下がっていく。

「何よ。男だったらはっきりおっしゃい。お願いって? 」

「じ、実は先輩に頼まれたのですが、その、」

「山田ァ? 」碧が呆れたように言った。「あのバカがまた貴方に無理難題を押し付けたのね。で、今度は何? 」

「えっと、その …… 月読様の生写真を撮ってきてくれと頼まれまして。いや、決して盗み撮りをしようとしたのではなく、折りを見てお願いしようとは思っていたのですが、何分にも部屋の傍には近寄れない雰囲気だったので、その、」

「月読様の生写真? ほっほう。」

 月読の顔を眺めてニヤリ。当事者の月読と言えば、事態の推移についていけず、目を白黒させている。

「あたしのじゃ駄目? 後でお風呂上がりのサービスショット付きで送ってあげるけど? 」

「駄目だと思います。」即答。カチン!ネガのオーラに炎が灯る。

「 …… た・て・わ・き。あなた、今迄に己の不明を悔いた事が無い様ね。」ヒイッという小さな悲鳴。

「僕じゃないですよ! 先輩が、碧様にお願いしたら絶対そう言うから、その時は全力で断れって。大体そんな写真、楯岡様に見つかったら僕まで罰ゲームじゃないですか! 」

「あなたって本当、そういう所の要領だけは良いんだから。」

 全く一体何に使うのかしらね、等とぶつぶつ言いながら左手を一振りする。途端に手品の様に左の掌の中に現れるデジタルカメラ。碧はそれを構えると、呆気に取られている月読に向けてシャッターを押した。

「ちょっ、碧。」続けて松長もパチリ。

「はあい、出来たわよ。」手の中にあったデジタルカメラをポイッと背後に放り投げる。

 碧の背後の障子に当たる寸前に、それは僅かに開いてデジタルカメラを向こう側の空間へと飲み込んだ。

「じゃあ、『害虫駆除』の方、お願いね。私達はもうおいとまするから。 …… あ、そうだ。」何かを思い出した様に碧が言った。

「帯刀、それをあのバカに渡したらついでに伝えといて。」

「御伝言ですね。何でしょう? 」

「『帰ったら、コ・ロ・す』。じゃあ後お願いね。」

 左手を掲げてヒラヒラと振る仕草に呼応する様に、僅かに開いていた障子が静かに閉じられた。呆然とそれを見送る碧以外の二人。

「碧殿、今の者は? 」

 状況の収束を境にして、松長が尋ねた。その問いにほうっと小さく溜息を吐いて。

「藤林帯刀。私の夫の部下であり、『お庭番』次期頭領に御座います。若輩者では御座いますが、腕は確かです。」

「藤林殿の御子息か …… 道理で気配も何も感じぬ訳だ。末恐ろしい逸材だな。で、『あのバカ』というのは? 」

 その言葉に今度はハアッと大きな溜息を吐いて、“どうしても言わなきゃ駄目ですかァ? ”と、松長に視線で訴えてみる。だがその視線を受ける松長が興味津々と言った風情で、逆に碧を見つめていた。観念して口を開いた。

「やはり夫の部下で、山田兵庫と申す者です。本日は此処には呼んでおりませんが。」

「ふむ。して、その者の実力は如何程の者なのだ? 」

 ありゃ、其処に興味を持たれてしまったか。

「強いです。強い上にバカで派手好きでおっちょこちょいなので、此処には呼びませんでした。あの者に任せたら小火ぼやで済む所に油を撒いて、山火事に変えかねませんので。」

「成る程、碧殿をして只『強い』との評価を受けるとは、相当の手誰であろうな。」

「強さだけなら、比類する者は数えるほどしか居ません。まあ、それだけが取り得っちゃあ取り得ですけど。あ、あとは後先考えない所とか、空気読めない所とか。まあ兎に角、どーしようもないバカですよ、あの男は。」

 碧の、山田に対する評価を黙って聞いていた月読が、これ以上は耐えられないとばかりに笑い始めた。驚く松長と、見咎める碧。

「月読様。何が可笑しいのですか? 」

 碧の抗議の声も届かない。一頻り笑った後に、整わない息を其の侭に月読が喋りだした。

「ハァ …… ハァ …… だ、だって、おっ、可っ笑しいんですもの! み、碧がそんな風に、アハハッ …… おっ、怒ってるの …… は、初っめて …… アハッ …… み、見ましたっ! 」

 尚もヒイヒイと息を荒げながらお腹を押さえて笑い転げる月読。釈然としない面持ちで碧が言った。

「ちょっと、月読様。笑い過ぎ。それにこれは怒っているんじゃありません。身内の恥を晒すのが恥ずかしいだけですっ! 」

「だ、だって聞いてると弟の事を喋ってる姉の様なんですもの。」

「んなっ ……! 」そう言うなり絶句した碧に、松長が追い討ちを掛けた。

「そうだな。俺も聞いていてそう思っていた所だ。山田殿は碧殿の弟御の様だとな。」

 あっちゃあっという表情でこりこりと頭を掻く碧。少し困ったような顔をして視線を逸らせる姿を見て、月読は言った。

「碧、ひょっとして、照れてる? 」

「ま、まあ、出来の悪い身内ほど可愛いと申しましょうか、その、えっと、…… 参りましたね、これは。」

「そう言われてまんざらではないといった様子だな。」

「あ、いえ、あのバカとは私が楯岡に勝負を挑んで以来の腐れ縁ですから。まあ、いろんな意味で弟みたいなもんです。」

「そうか、それは一度会ってみたいものだ。どのような人物なのか興味がある所だ。」

 松長の言葉を受けて、碧が真顔で頭をぶんぶんと振って否定した。

「絶対に、お止めになった方が宜しいかと思います。彼の者、戦場しか知らぬ粗忽そこつ者ゆえ、座主様にどのような失礼を致しますか見当もつきません。是非とも其の件だけはご容赦頂きます様。」

「あら、私もお会いしとうございますわ。碧の弟様に。」

「だぁから、弟じゃないって言ってんでしょうが。人の話を聞きなさい。」

 月読の要望を小さな声で却下した時、碧の表情が真顔に変わった。「 …… 終わったようですわ。」

「碧殿。」突然に畏まった松長の声が碧に向けられた。

「実は、碧殿のお力と、山本様の名代としての立場を見込んでお願いがある。」

「何でございましょう。座主猊下。」何事も無かった様に其の申し出を受ける。既に見当はついていた。

「もし、事が成った暁には …… いや、『もし』という仮定は有得んな。『天魔波旬』を斃した暁には是非とも月読と澪の力に成っては貰えんだろうか? 」

「お父様、何を。」

 月読の驚きは当然だった。元々高野山真言宗と金沢宝泉寺は同じ宗派でありながら、其の布教の性格上で意見を違え、遠く戦国時代に分裂してしまった間柄である。過去の遺恨といえばそれまでなのだが、それでも未だに両者の間には深い溝が存在している事は確かである。其の過去の恩讐を乗り越えて手を携えることなど出来ることなのだろうか?

「『天魔波旬』さえ斃してしまえば、あの痴れ者の思惑など瓦解することは明白だ。しかし、俺の亡き後の真言宗を支え、二度とこの様な事が起こらぬ様にする為には、残った者の力では足りぬのだ。頼む。」

 そう言うと松長が深々と碧に平伏した。

「何卒、碧殿を通じて山本様にこの事をお願いしてくれまいか? 俺の今生の頼みだと思って。」

 真言宗の権力を一手に担う座主が一人の女性に平伏している。それは有得ない光景だと月読は思った。しかし其の何処にも違和感が存在しないことにも不思議と疑問は起こらなかった。 それは平伏する松長の頼みを『座主』としての頼みではなく、一人の父親の頼みとして受取っている碧の姿が、余りにも毅然としていたからだろう。暫くの沈黙の後、碧が松長に告げた。

「どうか面をお上げ下さい、座主猊下。 …… 其の事に付きましては拙の様な身分の一存では決め兼ねます故、一度山本に報告した上でご連絡差し上げたいと存じます。ただ、」

「ただ?」面を上げながら松長が尋ねた。其の松長ににっこりと微笑みかける碧。

「月読様と澪様の事に付いては、私めの判断に一任されておりますゆえ、全力で御守りする所存にございます。例え、月読様がどのような立場に置かれたとしましても、それだけは御約束致します。」

 そう言うと今度は碧が松長に平伏した。

「有難い。済まん、碧殿。この様な身勝手な頼みを押し付けてしまって。何と貴殿に感謝すればよいか。」

「いえ、その様な御気遣いは無用に御座います。」静かに面を上げて月読の顔を見る。

「妹と、其の子を守ることに何の遠慮が有りましょう事か。」

「碧、貴方 …… 」

 碧の口から為された突然の宣言。それ以上の言葉は続かなかった。血液が逆流して顔が熱くなる。先程流した物とは違う涙が、月読の瞳から溢れ出た。

「月読様。」膝頭を月読の方にずらして、見つめる。

「月読様が如何に思われようと、私は貴方を妹の様に思っています。そして澪様の事も。だからご安心下さい。この楯岡 碧。一命に代えましてもお二人の御身を御守りしてみせます。―― いいですか? 」ふるふると震えながら碧の顔を見つめる月読。

「 ―― 貴方方は、決して『ふたりきり』じゃありませんからね。」

 碧の言葉に何も言えず、ただうんうんと頷く。

 本当の姉妹の様だ、と松長は其の二人の姿を見て思った。いや、そう感じたのは今ではない。此処での二人のやり取りを見た時にそれは感じた事。今はそれを確信しただけだ。此れこそ神仏のお導きという物なのか?

 最後に我が娘に見えるという段になって、仏様はこの様な出会いをご用意していてくれたとは。此れで俺は何の憂いも無く『天魔波旬』との戦いに赴くことが出来る。後に残った者達が俺達の遺志を引き継いで、そして人の世を、悲しみの無い正しい方向に導いてくれると言うのならば、思い残す事など、もう何も無い。

「月読、いや紗絵。そして碧殿。」もう十分だ。これで存分に戦える。

「此れが今生の別れになるかも知れん。だが最期にお前達と話が出来て、良かった。」

 そこには既に月読の父としての声は無かった。有るのは高野山座主として、最期の戦いに赴かんと決意した、退魔師としての顔。

「皆、健やかに暮してくれ。」そう言って松長は立ち上がった。この場に後ろ髪を引かれまいと、必要以上に早まる足取りを、月読の声が止めた。

「お父様。」手にしたままの起請文を懐に仕舞いながら。

「これは私が預かっておきます。…… お父様が事を成就されたと確認した時に、私自らの手でこれを開くことに致しましょう。それで宜しいですね? 」

「お前 …… 」

 それを渡さぬ限り、月読と澪の安全は保障されない。松長が其の地位を禅譲することによって得られる身の安全を、其の時まで破棄しようというのか、紗絵。

「私とて真言宗に身を置く者。むざむざと敵に身を委ねるほど落ちぶれては居りません。お父様が命を賭けると言うのなら、私も。」

「良いのか? それはお前達の免罪符に等しいのだぞ。それがなければ、お前達は何時までも松田の監視の元で暮すことになる。」

「渡した所で、今の境遇が劇的に変化する事など有りますまい。それよりも、」懐に手をそっと置く。

「これがお父様の遺書と申されるのなら、それは私自らの手で開きたいのです。それまでは誰の眼にも触れさせたくありません。」

 強い決意を感じる。視線を交わすことは躊躇われた。いま、月読を見てしまえば、自分の決意が揺らぎそうな、そんな気が、する。

「心配要りませんわ。」父と同じ感情を抱きながら、努めて押し殺した明るい声。

「私達はもう寂しくありません。こんなに頼りになる、破廉恥な姉が付いておりますから。」

「 …… えっと ―― 」

 今の発言にどう突っ込んでくれようかと考える碧の声。ははっと笑いながら松長は居間の障子を開け放った。


「それが、俺と月読との最期の会話になった。残念な事に、俺の思惑とは正反対の結果を残してな。」

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