決 意
「その後、月読に会えたのは出産から一月ほどたった一月の中旬だった。場所は掛川に在る、放置された荒れ寺だ。」
「お主も、良くその様な外道に頭を下げれたものだな。」
感心した様に赤塚が言った。それは今まで知らなかった松長の、人としての一面を垣間見た事への素直な感想だった。
「奴の申し出を受ける、という起請文をその時に月読に渡すと約束すると許してくれたよ。奴にとっては二人の事よりも『高野山の座主』の地位に就く事の方が重要だから、ある程度の融通は利いた。二人きりで会う事が出来たのも、奴の欲のお陰かも知れん。」
松長が赤塚を見た。話の内容による物なのか、それともこれから行おうとする行為への迷いなのか、松長の瞳は明らかに揺れていた。
「俺は迷っていた。此の侭奴の言い成りになって、古儀真言宗を奴の手に委ねてしまうのか、それとも奴に逆らって二人を取り返し、『創生の法要』と真言宗総てを失うのか。…… 人という者は悲しいものだ。どれだけ修行を積んでも、己の事すら解っておらん。」
『傀儡の儀』が終わった直後に、赤塚が覚瑜に言った言葉と同じ事を、松長は言った。
「考えた挙句に、俺は二人を奴に預ける事にした。…… 座主として、先人達の築き上げたこの真言宗という教えを自らの我侭な欲望によって失う事なぞ出来ない。例えどんな外道が座主の座に付いたとしても動かすのは執行部の役目。奴が如何に二人を操ろうともそうそう思い通りに出来る物でもないしな。奴が座主に納まる前に執行部の権限を強化してしまえば、奴の思惑を水泡に帰することが出来る。」
「うむ、確かにな。お主の古儀、儂の新義、智山派、豊山派。合わせて何千人もの僧侶を一人の男が独裁できるとは思えん。何の裏付けがあってそこまで言う事が出来るのか。」
そこまで喋った赤塚が、ふとある事に気付いた。
「そうか、天魔波旬。奴が絡んでいるという事なのか? 」
松長が赤塚のその声に、静かに頷いた。
「そうだ。例え手を施したとしてもその者が存在する限り、運命が変わることは無い。ならば法要が始まるまでに「天魔波旬」を滅ぼさなければならない。俺は月読に会って、星宿の相談と、今二人が置かれている事態を説明しようとした。」
「その為の『星宿の儀』だったのだな。長谷寺で開かれていたのは。」
赤塚の声を聞いて、松長は何かを思い出す様に目を閉じた。
「その荒れ寺の境内に上った時、娘は既にそこに座って居った。朝日の中でな。 ―― 我が娘ながら思った。何と美しい姿なのかと。」
「先に着て居ったのか。」
境内に立ち尽くす松長を前にして、月読は濡れ縁に座ったまま三つ指を突いて一礼した。「御久しゅう御座います。お父様。」
肩より長い黒髪が朝日を浴びて艶やかに輝く。西陣織には珍しい、白地に七宝 ―― 金糸で象った円を七個所で重ね合わせて繋いでいく ―― の柄を僅かにあしらった留袖を正しく着こなして静かに座っている姿は、荒れ寺の景色の中に在ってもこの世の者とは思えない程に美しかった。
「済まん。産後の肥立ちも間も無いのに、この様な寒い所で待たせてしまったな。」そう言うと右手にぶら下げた水筒を掲げた。
「特製の甘酒だ。是非お前に飲ませたいと思って持ってきた。お前の味には敵わんかも知れんが、なかなかに俺の自信作だ。一緒に飲もう。」
「はい。お心遣い有り難う御座います。」
にこやかに微笑むその顔が松長の亡き妻を思わせる。
その様な顔で俺を見てくれるな。これからお前に告げねばならない事を思うと、心が、痛む。
「その様な所ではお父様もお寒いでしょう。さあ、どうぞお上がりください。甘酒は私の近習の者に暖めさせましょう。」
「 ? お前一人で来たのではないのか? 松田住職とはその様に約束をした筈だが。」
警戒の韻を含んだ声音に気付いた月読が、再び微笑んだ。
「心配要りません。この者は山本様の所より私に遣わされた手の者です。 ―― 碧、座主猊下です。ご挨拶を。」
月読が傍らに視線を遣ると、何時の間にかそこに一人の女性が立っていた。
見た目に、月読よりも五歳ぐらい年上だろうか? 黒の友禅の留袖を身に付けたその姿は月読とは違った意味で美しく見える。しかし何より松長が驚いたのは、そこに存在すると言う気配を全く感じさせなかった事に在った。『碧』と呼ばれた女性が月読の傍をすり抜けて、松長の前で跪いた。
「楯岡 碧と申します。松長座主猊下にはお初にお目に掛かり、光栄に存じます。」
「なんと! 」
松長は驚きを隠せなかった。「道順殿の細君か! しかし何故お主がここに居る? 『お庭番』女衆の頭領がわざわざ月読の警護とは誠に有り難いのだが、これではどの様に御婆様にお礼申し上げれば良いか、正直迷うぞ。」
「いえ、その様な事お気遣い無く。私め如きが月読様の下に遣わされたのは山本の判断に御座います。力無き者には御座いますが精一杯お役目勤めさせて頂きます。」
「何をその様な謙遜を申すか。」松長もその場に跪き、碧と視線を交わした。
「こちらからも礼を言う。我が娘と孫の為にここまでして頂けるとはこの松長、感謝の極みだ。御婆様にもお主の口からそう伝えてくれ。…… しかし、よくぞ他宗の寺になぞ忍び込めたな。一体どのような手を使ったのか。」
「碧はあの子の乳母として私が雇い入れました。山本様の手の者と知ったのはその後の事だったんですよ。」月読の楽しげな声。
それを最後に聞いたのは何時の頃だっただろう。
「いえ、私めも月読様に先んじて娘を産みましたが故、その様なお役目なら潜り込み易いのではないかと山本が直々に手を廻したとの事。運良くここに至った次第に御座います。」
「ほう、お主も娘をな。 ―― つくづく済まん。その様な大事な時期に乳母などさせて。」
そう言いつつも、視線が碧の胸元へと伸びた、その時だった。
「座主猊下。」碧の声のトーンが変わった。
「 …… ひょっとして、エッチい事考えてます? 」
呆気に取られる松長。すぐさま月読の声が飛ぶ。「碧! あなた、何てこと言ってるの!? 」
朝の荒れ寺の風景には全くそぐわぬ、そして未だかつて松長が聞いた事の無い、我が娘の声だった。それが一層驚きを増幅させる。
「えー。だってぇ、座主様ったらあたしの胸をチラ見したんですよぉー。これって立派なセクハラだと思いませんかぁ? 月読様ぁ。」
「セ、セク、」
二の句も告げられない松長を尻目に碧は立ち上がった。何時の間にかその碧の手に、松永の持っていた水筒が移っている事に驚く。驚きの連続でその場にしゃがみ込んだ侭の松長の手を取って立ち上がらせる。
「さあ、座主様。こんな所で立ち話もなんですから、積もる話は中で致しましょう。今すぐ甘酒を暖めてお持ちしますわ。」
手を取った侭、本堂の階段の方へと松長を導く。
ふと月読の表情を伺うと、これもまた松長が今迄に見た事も無い顔で、碧を睨み付けていた。
「碧? お願いだからお父様の前でだけはちゃんとしててって言ったわよね? 」憤懣遣るかた無いといった風情の月読に向かって、碧は言った。
「しましたよ? しました。うん、した。」
「最初だけでしょうが! 」殆ど漫才の突っ込みに近い勢い。
「もう、ちゃんとした所をお父様にお見せしないと、お心を煩わすかもと思って貴方も連れて来たって言うのに、これでは逆効果だわ。」
「何をおっしゃいますか。座主様にこんなに元気な月読様をご覧になる事が頂けて、乳母たる碧としては本懐に御座いますよ。」けらけらと快活な声で笑う。
「本当でしたらお孫様も連れて来る予定だったのですが、直前で見咎められましたので急遽御在院頂きました。」
「見咎められた? 松田住職にか? 」
「はい。あの御仁、」そこに快活な響きは無い。「我らから見てもなかなかに油断がなりません。普段はバカ住職の仮面を被っておりますが、裏に相当な業を抱えている様に見受けられます。」
「お主は大丈夫なのか? 娘や孫はともかく、」そう言って松長は月読の顔を見た。自分の言が月読の気に障ってしまったか、とも思ったが、月読も松長の言葉に同意して頷いていた。「お主の身に万が一の事が在ったら、俺は御婆様や道順殿、娘子に申し訳が立たん。如何様にも謝れんぞ。」
「ああ、その点はご心配無く。バカの扱いは夫の部下で慣れております故。 ―― それにしても本当に無念に御座います。すくすくと育ったお孫様の顔を一目、座主様に見せとう御座いました。」
「それ程元気に育っておるのか? 」
「はいぃ、それはもぉ。」ニヤッ。
ちらりと月読の顔を盗み見る碧。それに気が付いた月読の表情が引き攣った。
「生まれた時は命も危ぶまれたお孫様が必死に生き延びようと、あっちのお乳こっちのお乳と吸い付いてそれはもう見事な飲みっぷり。まだお体は御小さいですが、日毎に逞しくご成長 ―― 」
「 …… みぃどぉりぃぃ。あ ・ な ・ た ・ ね ・ えぇ。」真っ赤な顔で立ち上がる月読。
次の瞬間、松長も惚れ惚れとする様なスピードで彼女の両手が雷帝印を紡ぎ上げた。体の周囲を黒のオーラと共に電撃が迸る。流石の松長も失念していた。彼女も稀有な力を有する法力僧の一人であったという事に。
「そぉこに直りなさいっ!! 」
バシイィィンン!! 指を差した場所に電撃が放たれ、床板に小さな穴が開いた。
「今日という今日はもう勘弁なりません!! 貴方にはこの月読直々に正しい礼儀作法という物を骨身に叩き込んであげますっ! 大人しくそこに座りなさいっ! 」
その月読の立ち振る舞いにいよいよ呆気に取られている松長の背後に「うっひゃあ」と言いながら碧が回り込む。
「月読様、月 ・ 読 ・ 様。座主猊下。お父様の御前ですよ。あんまり熱くなられると、」
「か ・ ん ・ け ・ い ・ あ ・ り ・ ま ・ せ ・ ん! いいからそこに座りなさいっ! 大体、それを言うなら貴方こそ! お父様の目の前で「あっちのお乳こっちのお乳」等とふ、ふしだらな言葉を使うなんて! 寧ろお父様のご覧になってる目の前で、貴方のその乱れに乱れた居住まいを調 ・ 教! して差し上げますっ! 」
「それを言うなら矯正ですってば。派手に間違ってますって。」
「お黙りなさいっ!! …… いいですわ。貴方がそこに直らないのなら、そのままお父様の後ろに隠れてなさい。雷帝縛鎖でふん縛ってここに引きずり出してあげますからねっ! 」
印を結ぶなり、月読の足元から光が伸びて、松長の体を迂回して碧の体に絡み付こうとした。
碧の手が目にも留まらぬ速さで印を結ぶ。
途端に碧の立っている足元の朽ちた床板が生き生きと蘇り、板から伸びた新芽が電撃を弾き返した。五行の相剋に基づいて放たれるカウンター、木遁の術。
「こらあ! 防ぐなあっ! 」
「いやいや、無理ですって。そんなプレイ、夫にもされた事がないんですもの。」
「その減らず口も、駄目えっ!! 」
松長の至近距離で繰り広げられる法力と忍術のせめぎ合い。月読の繰り出す様々な系統の縛鎖術の尽くを、相剋の術で対応する碧。先に息が切れたのは月読の方だった。
「あ、あ、貴方と言う人は …… 」そう言って肩を落す月読を、松長の肩越しに覗き見る碧。軽くウインクを返してくる。
「もう!! 」松長の顔をきっ、と睨み付ける。思わずたじろいだ所に追討ちの声。
「お父様!お父様からも何かおっしゃってくださいっ! この人ったらいつもいつも私と澪を捕まえては、からかってばかりで!! 少しは乳母らしくなる様にお叱り下さいっ!! 」
くるりと後ろを振り返ってまじまじと碧を見る。悪戯っぽく微笑む碧に向かって思わず、言った。
「凄いな、お主。」
「ちがーうっっ!! お父様、叱って! 褒めてどうするんですかぁっ!! 」
抗議の罵倒を背中に浴びて松長は月読の方を振り返った。
込み上げてくる。何かが込み上げてくる。何だろう、この感覚は? 横隔膜を擽られるような、脇腹を優しく触られるような、久しく味わった事の無いこの感覚は? 駄目だ、我慢できないっ!!
大声で笑った。笑いが心の底から迸り出た。そして止まらない。
何と楽しく、嬉しい事か!! 松長の発する歓喜が声の波となって、朝靄の中にある荒れ寺の空気を一新させる。余りの大声に、控えていた傍御用の栄俊までもが境内に上がって来ていた。勤めに入って二十余年。未だかつて見た事も聞いた事も無い『座主猊下』のその姿を目の当たりにして、驚愕の余りに立ち尽くして見つめた。
その姿に、呆気に取られたのは月読もであった。『高野山の座主』候補 ―― 生まれた当時はそうだった ―― の娘として生まれてきて二十余年、この様に笑う父親の姿を見た事が無かった。腹を押さえて破顔一笑するその姿には、『座主猊下』と呼ばれる唯一無二の僧侶の姿は無い。
だが何故かその姿が微笑ましく、そして逞しく思えた。一時は恨んだ事もあったが、やはり憎む事はできない。やはりこの人は『座主猊下』である前に、私の父『松長有慶』という一人の人間なのだから。
「やっと笑われましたわね。座主様。」笑いの収まりかけた松永の背後から、碧の明るい声が響いた。
思わず振り返ると、満足げな表情を浮かべて。「駄目ですよ? 」右手を上げて人差し指を左右にちっちっと振る。
「折角の親子の再会。しかも水入らずなのですから。離婚して親権を取られた娘に久しぶりに会う様な、情け無ーい父親みたいな顔をしていては、月読様も心配なされますでしょう? …… 月読様も、」松長の背後から顔を覗かせて、言った。
「そんなにしゃっちこばった顔をしていては駄目ですよ? 少しは母となってお強くなった所を座主様にお見せしないと。」
「いや、もう十分だ。これ以上強くなったら俺でも敵わん。」
「お父様っっ!! 」今度は羞恥で顔が赤くなる。その姿を見届けて、松永の背後からひょっこりと姿を現す碧。
「さあ。お互いウォーミングアップも済んだ所で、奥に参りましょう。簡単ですが居間に設えましたので、ここでお話するよりは暖こう御座います。そ・れ・に。」碧の手の中の水筒が二つに増えていた。
「やっぱり親子ですわね。同じ事を考えていらっしゃったなんて。」そう言うと境内に未だ立ち尽した侭の栄俊にも声を掛けた。
「お坊様もいかがですかぁ! 御相伴に預かりませんかぁ!? 」
思わぬ誘いに栄俊は狼狽した。座主猊下と月読様がいらっしゃる場所に御同席!?
「い、いや拙僧めはご遠慮申し上げます。斯様な場所に私などが同席する等、滅相も無い。」
「堅い事言わずにーぃ。どうせ三人で飲んでも余っちゃうんだからーぁ。いいでしょ? 座主様。」振り返る碧に軽く頷いて、松長が言った。
「栄俊、お主も来い。ここは寒い故、風邪を引く。それに月読特製の甘酒もある。手前味噌だが俺の自慢の逸品だ。是非飲んでやってくれ。」
『座主猊下』に『是非』と言われては『是非』も無く。栄俊は一礼するとそそくさと濡れ縁へと足を運んだ。上がった所で碧が栄俊に声を掛けた。
「そうだ、人数が増えたからお坊様。奥に言って座れそうな座布団を探してきて頂けないかしら? あとお二人を居間にお通ししてね。お・ね・が・い。」
「碧っ!! 僧侶に向かって色目を使っては駄目えっ! 」
月読の叱責を「あっはっはっ」と高らかに笑っていなすと、碧はそのまま奥へと消えていった。後に残った栄俊が「では私も」と言い残して、碧に仰せ付かった役目を果たしに、真っ赤な顔をして奥へと続いた。
「ははっ。まるで旅館の女将と使用人のようだ。俺の言う事しか聞かぬ栄俊をいとも簡単に修めるとはな。」
「お父様っ!! 」二人きりになった事で我に返った月読がその場に平伏した。
「数々の御無礼、誠に申し訳御座いません! あの者には私めの方から後できつく、きつーく言い含めます故、どうかご容赦頂けます様! 」
「許すも許さぬも無い。それどころか碧殿のお心使いに感謝せねばな。」
「は? 」言葉の意味に驚いた月読が思わず面を上げる。
「さあ、立ちなさい。ここは碧殿の言う通り、確かに冷える。奥へ言って話そうではないか。」座った侭の月読の手を取って立ち上がらせる。
「有り難う御座います。しかしお父様が許されても、今日は私が許しませんっ! 碧には後で十分な罰をあたえますっ! 」
「いや、月読。それには及ばん。」この子は一体何処まで強くなったのか?
長谷寺に蟄居を命じた時の面影など微塵も無い。いや、幼き頃から引込み思案で他人と触れ合う事も殆ど無かったこの子を、一体どのような魔法を使ってこの様な強い人間に仕立て上げたのか? 怒りの収まらない我が娘を見ながら、松長は苦笑した。
「お父様? 人の顔を見て何を笑ってお出でですか? 」見咎めて抗議する月読の声が苦笑を破顔に変えた。それを見てぷん、と頬を膨らませる我が娘。
全く。お前がそんな顔をするとはな。お前を産んで直ぐに他界した妻に見せてやりたい!
「お ・ 父 ・ 様!! 」声音が変わった。これ以上怒らせてまた法力勝負になったら洒落にもならん。
「済まん済まん。つい嬉しくなってしまった。お前にそんな一面が在ったかと思うとな。それを見出してくれた碧殿には恐れ入る。」
その言葉に月読は顔を赤くして俯いた。そのまま静かに頷く。
「それにお前、碧殿を罰するなどと言うが、どうするつもりだ? なかなかに手強い女性だぞ、あの者は。」
「はあ、それを考えるとまた頭が痛く ―― と。」そこまで言って、月読は松長の言を不思議に思った。尋ねる。
「お父様。あの者をご存知なのですか? 」
「ああ。噂だけは良く知っておるが、こうして見えたのは初めてだ。」月読の肩にぽんと手を置いた。それは良い味方を得たと言う肯定の証。
「あの者はな、『風魔の鬼百合』だ。」
「鬼百合だなんて、まあ。」松長の前に暖めたばかりの甘酒を置きながら、碧は頬を赤らめた。月読が彼女の通り名の真偽を問い正したのだ。
手にしたお盆で顔半分を隠しながら答える碧を見て、「あ、これは聞いてはいけなかった事か。」と、自分の浅慮な行為に後悔が過ぎる。
「そんな可憐な通り名を付けられていたなんて。恥ずかしいですわ。」
「あなた、今何語を何に翻訳したの? 」やっぱり。少しでも後悔した自分が甘かった。
「鬼百合って花、知ってる? 貴方の背丈より遥かに大きくて、オレンジ色に黒い斑点の花を咲かせるのよ。『可憐』何て言葉とは程遠い花よ。」
「おお。」お盆を床に置いて、ぽんと両手を打つ。
「それはまた派手な花ですね。返って私を評するにはぴったりの花じゃありませんか。真夏の真っ青な空に一輪で咲くオレンジの大輪。ああ、まるで今長谷寺に居る私の様な。」
「何だ。知ってるんじゃない。」そういうと目の前に置かれた、米麹の香りが仄かに漂う甘酒を啜った。
陽が少し上ったとはいえ、頃は年が明けて松の内が過ぎたばかり。冬の外気に晒されて冷えた体に染透る様に、松長の作った甘酒は美味しかった。隣に置かれた二色の白玉団子にも手を伸ばす。ほんのりと暖められた団子に擂った黒胡麻と緑大豆のきな粉が塗された物が二つ。甘酒には不釣合いに見えるそのお茶請けも存外に旨い。
「これは碧殿が? いや、実に美味であるな。」「いえ、拙僧もそう存じます。」口々に賞賛しながらそれをパクつく。
月読だけは碧に対してばつが悪いのか無言で、しかし口元を緩めながら食べていた。
「箱根の二子山に『甘酒茶屋』という場所が御座いまして。本来ならば搗き立ての餅を使うのですが、こんな所ですから今回は白玉で代用致しました。」
「成る程。お主の地元の物であったか。道理で。」その感想ににっこりと微笑むと、碧も自分の席に就いて甘酒を啜った。
「碧殿。お主の様な物が月読の傍に就いていてくれて大変有り難い。此れからも月読と澪の事を宜しく頼む。」そう言うと松長は碧に向かって一礼した。驚いた栄俊が慌ててそれに続く。 その姿に臆する事無く、落ち着いた所作で碧が三つ指を突いて頭を垂れる。月読から見てもそれは、普段の碧からは考えられないほどに正しい礼儀作法だった。
「お父様、碧を余り付け上がらせないで下さいね。私は兎も角、澪の事まで碧に任せたらどんな子に育つ事か。…… そうだ、思い出した。」手にした湯飲みを置いて、松長の方に向き直る。
「この間も碧ったら酷いんですよ? 私にお願いがあるって言うから何の事かと思ったら、『子が生まれたら夫が留守がちになって、ちっとも構ってくれない。きっとどこか他の土地に女でも出来たに違いない。何とか元通りにならないだろうか? このままでは生まれたばかりの子供が不憫で不憫で …… ちょっと、何笑ってるの? 」碧を睨む。
松長が見ると、既に面を上げた碧が月読の話を聞いてくすくすと笑っていた。
「まあ、いいわ。…… 涙まで流して訴える物だから私も可哀想になって『吉祥天の呪法』を掛けてあげようとしたのです。そしたら碧ったら何をしたと思います? 」
「『吉祥天の呪法』と言えば、アレだな? 出会う者総てを魅了してしまう『魅惑の真言』であったか。いや、流石に尼僧のみに修法を許された物ゆえ、詳しくは解らんが。」
「おっしゃる通りです。女人の呪法の中でも秘儀に相当する物です。…… 私が術を放ったその瞬間に、事もあろうに『キャァーッ。やっぱりこわいーっ』て言って澪を盾にしたんですよ。」
「ほう。」
その時の碧が執った行動に松長は興味を抱いた。本来ならば赦されるべき行動ではないのだが、何の意味も無く『お庭番』女衆の頭領たるものがそんな事をする筈が無い。「それで? 」
「それからが大変でした。一目でも澪の姿を見た僧侶達がわんさと離れに押しかけて来て。可愛がって頂けるのは有り難いのですが、あれでは澪の体が持ちません。」
「いいではないですか。女は人だかりが出来るほど持て囃されて初めて一人前。まだ生まれて間もないのにあのような事になるのなら、ご成長された暁にはきっとこの世の男性総てに愛される女性に成長いたしますわ。」
「何を人事みたいに言ってるの? 第一貴方、あの時笑いながら澪を盾にしたでしょう? あれはどういう事なの? 」
「だってせっかくの素材が勿体無いじゃないですか。月読様のお美しさと『魅惑の真言』。それにこの碧の色気が加わればこの世で落ちない男性など皆無。そうは思いません? 栄俊殿。」
そう言って、側の栄俊に流し目を送って同意を促す。送られた当の栄俊は返答に困った挙句に、主である松長に助け舟を求めようと視線を送る。
しかし松長の意識はそこには無かった。何かを深く考え込んでいる。
「ちょっとぉ、碧。」言い咎めようとした月読の言葉が、松長の膝を打つ音で遮られた。驚いて松長を見る月読と、栄俊。碧だけが悠々と甘酒を堪能している。
「なるほど、そういう事か! 流石は『風魔の鬼百合』と呼ばれるだけの事は在る。」
「お父様、今の話と鬼百合とどう関係が ―― 」
尋ねる月読の言葉を遮って、栄俊に鋭く目配せをする。栄俊の方も既に何かを察していたらしく、「では拙僧はこれにて。」と言い残して、そそくさと退出した。後に残る部屋の静けさ。一瞬前とは打って変わって、寂寥さえ感じさせる空気が部屋の中を漂った。
「月読。『鬼百合』の花言葉を知っておるか? 」尋ねられて考え込む月読。少し間を空けて、言った。
「『賢者』ですわね。」
「そうだ。『鬼百合一輪、城一つ』と代々詠われた通りの見事な戦略眼だ。いや、恐れ入った。」一頻り感嘆すると、月読の方に向き直って、言った。
「月読。今お前がこの者を連れてここに来ていると言う事は、今お前の置かれている状況を全て察していると言う事と考えて良いな? 」
「はい。」居住まいを正して言った。
「最初は信じられませんでしたが、今は違います。私と澪がお父様に対する人質であると理解しております。」深深と一礼する。
それは一時の感情に流されて高野山の裏法要の情報を洩らしてしまったと言う事への反省と、自分達の存在が高野山の座主たる自分の父親の立場を危うくしていると言う事実に対する反省。何よりも自分の匿われた場所があの『天魔波旬』と何らかの関係を築いているという事が、自分の見識が甘かったという点において、反省の色をより一層深くさせていた。
「碧殿はな、澪を守る為に態とお前にその術をかけさせたのだ。…… そうであろう? 碧殿。」松長のその問いに、真顔で頷く碧。
「長谷寺はいわば敵地。万一の事が在りましても私一人では月読をお守りするので手一杯になるやも知れません。そこで真言の力をお借りしまして、敵に澪殿を守らせようという所存に御座います。」
「それで、術がかかったばかりの澪を連れ出して寺の皆に見せて回ったという訳ね? …… そうならそうと言ってくれれば、素直に澪に術をかけたのに。」
「いえ。我らはあの寺では常に監視されておりますが故、偶然を装う必要が在ったのです。いつも通りのバカ騒ぎの最中の事故としてなら、連中も気が付きますまい。」
「まあ。」驚く月読。「では、貴方の普段の立ち振る舞いも演技って事なの? …… ってちょっと待って。その『バカ騒ぎ』とやらの中には私も入ってるの? 」
「勿論に御座います。一日も早く月読様のお心を晴らし、」ニヤッ。またあの嫌らしい笑いだ。
「奥に秘められました『地』を引っ張り出す事が私めのお役目のございます。」
「ちょっ。あなた、」碧の方を振り返る。反論しようとする月読を松長が制した。
「ああ、良い。それは俺も十分に堪能させてもらった。俺のみならず、天上の妻も今の月読の姿を見れば、さぞかし喜ぶ事であろう。この子がこの様に明るく振る舞える日が来ようとは、夢にも思わなんだ。碧殿にはどれだけ礼を施しても足りん位だ。」
「お父様 …… 」亡き母を引き合いに出されては、降参するしかない。月読はそのまま松長に向かって深く一礼した。
「で、碧殿。お主がここに居ると言う事は、御婆様は全てご存知であると思って良いのだな? 」松長の問いに静かに頷く。
「はい。私、楯岡 碧。本日は宝泉寺、山本祥子の名代としてこの場に参上仕りました。以後の私の発言は全て山本の判断とお考えになって宜しいかと存じます。」
「うむ、すまん。お主にも金沢様にも何かと面倒を掛けるが、今一時、この松長の我が侭につきあってくれ。」
「御意に御座います。座主猊下。」
背筋をぴんと伸ばして平伏す碧。鮮やかに一礼するその姿を見て、月読はやはりこの者が只者ではないと言う認識を新たにせざるを得なかった。
「さて、月読。」そう言うと松長は懐から一通の書状を取り出して月読の前へと置いた。
「早速ではあるが、これを受け取ってくれ。」
それを手に取る月読。表面には『起請文』の文字。裏を返すと其処には月読も良く知る、権の一位から成る執行部の僧侶の面々の名前がずらりと記載され、夫々の名前の横に血判が押捺されていた。
「お父様、これは?」只事ではない、物々しい書状の雰囲気に何かを感じ取ったのか、怪訝な顔をして月読が尋ねた。
口篭もる松長。その答えは松長に代って碧の口から告げられた。
「月読様が松田住職と婚姻され、次期座主に就任する事をお認めになる書状に御座います。」 その言葉に愕然とする月読。手にした書状を取り落とす。不確かだった寂寥が現実の重荷を携えて、沈黙と共に部屋中に広がった。
「お父様? ……今、何と? 」途切れ途切れにしか言葉が出ない月読の顔を、憐憫と憂いを込めて見つめる。
「其処まで知っておったとは。流石に女衆筆頭だけの事は在る。…… 如何にも。碧殿の言った通り、そういう事だ。」
「 ―― 何と言う事を。」思わず声が震えた。
「私達如きの身の安全の為にお父様が御山を捨てると!? そんな事をしてはなりませぬ! 在ろう事かお父様の後を、あの蛇蝎の如き外道に明け渡すなど以ての外! この様な論外の書状など、今私がこの手にて破棄いたしましょう!! 」
取り落とした起請文を再び取り上げ、両手で破ろうと手に掛けた時、碧の手が素早く月読の手に、止める意志を持って宛がわれた。キッと碧の顔を睨みつける。
「その手を離しなさい、碧。如何に乳母の貴方とて、こればかりは止める事相成りません! 生き恥を晒すばかりか、我が怨敵である『天魔波旬』の軍門に下るなど、例えお父様の御言い付けでも在ってはならない事です! その様な事に為る位なら、いっそ澪共々に命を絶って御山にお詫びするのが筋と言う物! さあ、その手をお離しなさいっ!! 」
「月読様。」碧の手は月読の手に宛がわれた侭。頭を振る。
「どのような事が在っても、その様な事をお父上の前で言ってはいけません。親にとって、それ程哀しい事はないのですよ? 」
「何をその様な衆上の如き物言いを! 碧、貴方もそれ程の立場の者なら我々の有り様とて解る筈です。この世全ての平穏を願い、人々を迷いから解き放つ為に我らは御仏と契約し、その力を借りて人々を虐げる『魔』を退ける尖兵となるべき宿命を持つ者。それが我ら真言宗の僧侶であり、退魔師と呼ばれる者達なのです。」
震える声が碧と松長もろ共に震撼させて、朝靄の煙る境内の空気を変えて行く。
「多くの戦いの中で命を落しながらも思いを馳せた『明日』という貴重な物を、私と澪の自我で灰燼に帰せとでも言うつもりですかっ! 」
喚きながら碧を見つめる月読の瞳から、涙が一筋。
このお方は解っているのだ、と碧は思った。自分が私生児を孕んだしまった事。一時の気の迷いで敵に其の身を委ねてしまった事。生まれた我が子が法要の有資格者であると言う事。自分達の存在が真言宗を存続の危機に晒していると言う事。其の全ての事が最早取り返しが付かないと言う事。
取り返しが付かないのであれば、せめて一死をもって大罪を赦すべきではないのか? それが今まで自分を支えてくれた父親を始めとする多くの人々に対するけじめと言う物ではないのか?
其の気持ちは月読と同じ立場である自分にも良く解る。だが、一度人の親になってしまった身の上であらば、其の考えを貫いて良い物だろうか?
「月読様。澪様を御懐妊された時に、自刃の権利は失われております。この意味が解りますね? 」懐から懐紙を取り出して月読の涙を拭いながら、優しい声で言った。
「月読様が、今迄に落命した法力僧と同じ明日を望むのなら、それは澪様に他なりません。例え法要の洗礼を受ける事無く『摩利支の巫女』を名乗る事になろうとも、其の舞台に立ってしまった以上は、澪様は真言宗に在籍する全ての信徒の希望とならねばなりません。それを成し遂げる事こそ今の貴方様の、義務で御座います。」
「そんな事は分かっています! ですが私も澪も、お父様を礎にして迄その様に成りたいとは思いません! 」再び手に力を込めようとする月読。今度はその手を松長の声が止めた。
「本当にそう思っているのか? 紗絵。」
紗絵。それは自分の本当の名前。得度を受ける前に父母に付けて貰った本当の。
「それを正しい事だと? 」
月読の心の表層を穿って深奥にまで届くその言葉。それは尚も続けられる。
「澪が生まれた時、俺は命を奪おうとした。自分の立場と、お前の名誉を護るためにな。母たるお前が俺と同じ所業を為そうと言うのか? それは ―― 」
「 …… 分っています。お父様。ええ、そんな事は、はっきりと。」
間違っている。そして自分に嘘を付いている。
法要の有資格者となってしまった我が子がこんなにも愛しい。しかしそれは他の有資格者の子を持つ母とて同じ事。自分だけがそれを免れて、母たる幸福を手にすることは赦されない。父を、多くの赤子を犠牲にした後に立つ指導者など何の価値もありはしない。そんな事になるのならいっそ死んでしまいたいとも思う。
でもそれは嘘だ。それは心の底に潜めた願い。澪だけは助けたい。親として、母として。
それは別れる時にあの人と交わした約束。
「そうだ、紗絵。それでいい。」
全てが言葉にならずとも、その気持ちこそが明日への力になる。月読の本心を確認して、松長は安堵した。これでいい。これで心置きなく ――
「紗絵。実はもう一つ頼みがある。これは我が娘としてではなく、『お役目の者・月読』に対する座主としての、最期の命令だ。」
はっとする月読。懐紙で涙を拭い、身なりを正して松長に正対する。
「座主猊下、なんなりとお申し付け下さい。この月読、如何なる御言いつけもお受けいたします。」
平伏する月読と碧。面を上げるのを待って、松長は静かに告げた。
「長谷寺で『月読の法要』を開いてもらいたい。『天魔波旬』の存在する正確な場所を調べるのだ。それがどんな場所でもかまわん。一点に特定してくれ。」
「長谷寺で、で御座いますか? それ程精緻に渡る法要であれば、寧ろ御山で開いた方がより正確に判明すると思われますが。」
「いえ、月読様。」碧の声。「今、月読様が御山に戻る事は出来かねます。恐らく松田が何事かを勘繰って来るでしょう。それに、」
松長に以後の発言の了解を視線で確認する。
「御山の内部に内通者が居ると思われます。今は敵の居る御山よりも、味方の多い長谷寺の方が何かと都合が良いのですよ。」
「内通者ですって!? 」驚きを隠せない月読に、松長が言った。
「誰かは分らんが、恐らくな。以前に松田がそんな事を匂わせて居った。そんな訳で今は御山より長谷寺に居る方が安全なのだ。あの盆暗もまさか自分の寺でそんな事が行われているとは夢にも思うまい。」
「成る程『盆暗』ですか。確かにあの男は金と女にしか興味の無い御仁ですからね。」
恐らく内偵を進める内に何か確信を得たのだろう。碧が何かを嘲笑った。
「分かりました。日時は此処では決められませんが、長谷寺で法要を行うことにいたしましょう。しかし、参加する僧侶は如何いたしましょう? それ程に大掛りな物でしたら三十人ほどの僧侶が必要になりますが。」
「澪様にお願いしましょう。」
「え …… 澪に? 」にこりと笑う碧の顔を怪訝に眺める月読。
「なあに、澪様の正式なお披露目という事で僧侶達に集まってもらうのです。陣の中に入った所で発動させて、トランス状態にしてしまえば後は何とかなります。あの盆暗は、その日に私の配下の者を使って別の場所に足止めしておきましょう。」
「よし、ではそうしよう。碧殿にはお手数を掛けるが段取りの方、宜しく頼む。」
頭を下げる松長を見て、月読は何かしら違和感を感じていた。何だろう? お父様のこの雰囲気。何時もの重厚な存在感とは違う、感じた事の無い開放感。
「お父様、」違和感の発生源を確かめずには居られない。
「お伺いいたします。『天魔波旬』の詳しい位置を知って、一体どうなさるおつもりですか? 」
鼓動が高まる。座主自らがそれを知る必要性の意味。回答は一つだけ。
「 …… 『天魔波旬』を冥府に屠るのだ。お前達を守るために。」