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                 傀 儡

   

            へびは女に言った、


           「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると


            あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、

  

            神は知っておられるのです。」




                    ―― 創世記 第三章 第四節・第五節 ――


                







                        序章      創生 




 今宵は満月。大地を蒼白く照らす月の輝きが陰陽の景色を浮かび上がらせる。連日続く昼間の猛暑を冷ますかの如くに差し込む光は、包み込む様な優しさで生き物が生を謳歌する『大地』を照らし出している。

 月明かりにしては少し強すぎる光が生み出す、鮮やかな影。形状の輪郭すらも夜闇に映すその下で、仄かに輝く金色の双眸が僅かな明りを受けて煌いた。

 それは一匹の黒い猫。夜行性を性とする彼がまんじりともせずに睨み付ける先にある世界。怨む様な泣き声を一つ上げて、彼の足は蒼の世界に背を向けた。彼にとっての其の世界は暗闇に紛れて行動する体色の優位性を奪い去る物でしかなかったのだ。そして其の事実は彼の体調と精神に少なからず影響を与えていた。

 彼は空腹だった。放射冷却に伴って、昼間の内に過度に熱せられた地面から立ち上る湿気に不満を呟きながら下生えの影を蹲る様に進む。夜露の滴りで濡れそぼる彼の体毛は天鵞絨(ヴェロア)の様になめされてその下に隠されていた彼の体形を露にする。見た目よりも痩せこけた彼の本能は、其の不快さよりも生存の為の行為を最優先に考えざるを得なかった。

 研ぎ澄まされた全ての感覚が糧を求めて周囲を窺う。彼と同じ様に其の姿を光の中に晒す事を良しとしない、彼よりも弱き者達。同じ様に息を潜める其の存在を、更なる気配の抹消を持って対処しようとして、叶わず。

 彼がここ数年間で磨き上げた狩猟の技術と言う物が、其の夜に限っては何故だか一切通用しない。自らの能力を疑い、自信を喪失した彼は、辺りに聞えない位に、抗議の鼻鳴りを繰り返した。

 飢えに怯える其の黒猫に選択の余地は無い。ならばと美食の欲求を諦めて、食い繋ぐだけに目的を切り替える。この時期ならば此処にはふんだんに存在する筈だ。

 余り美味しい物ではないが、背に腹は変えられない。

 下生えに僅かに開く隙間を通して地面を睨み付ける金色の瞳。拡大する瞳孔が眼球に残る僅かな隙間を埋めて左右に動く。

 其の視界に異変を感じた彼の姿勢が変わった。匍匐を続けてきた彼の身体は意を決した様に起き上がり、自問自答をする様に頸を傾げて大っぴらに辺りを見回した。

 無い?

 見間違いだろうと再び辺りを見回す彼の顔。鋭さを失った金色の瞳に映る事の無い、彼の求める糧の姿。夏の間に其の短い一生を終えて地へと落ちる筈の蝉の死骸ですら、彼の目に届く所には存在しない。

 あるべき物が無い ―― 彼はそれで幾度も夏を乗り越えてきた ―― と言う異常さは彼の心に警鐘を鳴らした。それは野良として生まれ、野良として生きて来た彼自身の野生と呼べる『経験』の警告であった。自分を取り巻く環境の激変は今までに何度もあった。その度に彼はこの能力のお陰で他の個体よりも長く生き長らえる事が出来たのだ。今回とて例外ではない。

 だが後天的に持ちえた『経験』よりも優先する物が彼にはあった。其れは『食欲』と言う生物全てが否応無く与えられる先天的な本能。彼が拠所とした『経験』は空腹と言う信号から齎される『本能』によっていとも簡単に塗り替えられた。

 何時餌に有り付けるか解らない野良の世界において、これは重大な問題だ。しかも狩猟の手段を棄ててまで死肉に手を出そうとした彼の覚悟まで嘲笑う世界。

 孤独をかこつ彼には相談する番いも仲間もいない。故に其の判断は彼自身の選択に委ねられた。だが彼の選択は決まっている。『本能』に逆らうには彼等の種族は進化の過程を余りにも道半ばで留まり続ける存在に過ぎなかった。

 飢えを回避する為の様々な方法に対する回答は、彼自身が持つ『経験』が幾つかの物を齎した。

 この場を離れて人里まで歩き続けて、其処に打ち棄てられた残飯を片っ端から漁るか。だが其の為には自分の縄張りを離れなければならない。相手の縄張りを侵して尚且つ腹を満たして無傷で帰還を果たす。一匹狼で生きる彼が何の助けも無く、大勢の敵に囲まれて其れを成し遂げる可能性はかなり少ない。第一、そんな事をして失敗でもしたら彼の身を襲う飢餓は命の危険を伴って彼自身に襲い掛かるに違いない。其れこそ本末転倒だ。

 では朝までこのまま我慢して、ここを訪れる参拝客から何某かの餌を恵んで貰うか。確かに其の方法の方が前者よりはより現実的だ。必要な物はほんの少しの誇りを棄てる事と、媚びへつらう演技力。『猫』と言う種族に生れた彼にとって其れは容易い事であった。

『人』と言う、彼等の遥か上位に進化の過程を繰上シフトした種は肥大した自尊心をそんな事でも満足させる事が出来る様だ。此方の思惑などお構い無しに餌を与え続ける様は彼の目から見ても醜悪な存在に見える。何よりも自己満足に浸る偽善者の瞳が彼等に降り注がれる事が、彼には我慢できなかった。

 其れに例え彼が其の方法を採ったからと言って確実に餌を恵んで貰える保証は無い。それには彼の体色が『黒』であるという事が大いに関係している。

『黒猫』。中世日本に於いては『福』の象徴として人々から崇められた彼等も明治維新後の文明開化によって流入した諸外国の文化規範によって、其の存在意義を正反対の物に歪められてしまった。西洋に於いては『魔女の御使い』として忌み嫌われ、ほんの一部の国を除いて大いに殺戮の対象にされた『彼等』。其の価値観が充満する今の日本に於いて、彼の様な存在は死なないまでも生き辛い状況に追い込まれつつあった。動物が愛護される風潮が高まる昨今に於いても、『日本人』に刷り込まれた間違った価値観は百年を越えた今の時代に於いても変革の兆しを見せる気配は無い。

 彼の脳裏に浮かんでは消える危機(リスク)回避コントロールの手段が浮かんでは否定され、残った物はいよいよ唯一つになった。其れまで否定するのならば、彼の空腹を満たす機会は運に任せるだけとなる。しかし其れこそ忌避せねばならない感情だった。其れに身を任せたが最期、彼等を召し捕えようとする悪意にすら気付かずにこの場から消えて行った仲間と同様、其の悲劇は彼自身にも与えられる事になるだろう。

 下生えの中からひょこりと頭を突き出して、月明かりに其の輪郭をはっきりと浮かび上がらせる小高い山を見上げる金色の瞳。鬱蒼と茂る樹木が其の内部を覆い隠して、彼の脳裏で打ち鳴らされる警鐘を肯定するかの様に行く手を阻む。

 いつもとは違う気配を孕んだ彼自身の縄張りへ踏み込む事を彼は拒絶しようとする。だが二者択一となった選択肢は、彼から正常な判断すら奪い去っていた。

 一瞬の逡巡を見せた後、本能に負けた彼は意を決して下生えの影から飛び出した。月の光から逃れる様に有りっ丈の力で夜道を駆け抜ける影絵が、其の輪郭すら光に踏まれる事を拒絶して疾走の角度を急転換する。

 曲がった先にある、木々の陰に覆い隠された石段。彼の足は音を立てる事も無く一気に其れを駆け上がった。

 黒猫の姿は翳された闇の向こうへと溶けていく。彼が振り返る事も無く通り過ぎた頭越しに威容を誇る巨大な建造物。嘉永五年(1852年)に落慶を果たした『大門』に掲げられる、一文字ずつ三つに分けられた巨大な表札が有る。

 其処には暗闇に其の色を失いながら『根来寺』と言う文字が刻み込まれていた。


 まばらな木々の合間を縫って敷地の奥へと伸びる其の石段は、彼等の種が備える卓越した運動神経を脅かすほど急峻には出来ていなかった筈だ。だが歩を進める毎に其の足は遅くなり、地面を擦る様に伸びやかだった其の四肢は何らかの異変を感じ取って縮こまっていく。緊張は彼の体から容易に速度と言う物を奪い去って、其れを警戒と言う文字に置き換えた。情報を得る為の瞳は暗闇の中で更に拡大し、存在を誇示する為の呻き声すら上げる事を躊躇わせて、彼の動きは其処で止まった。

 其処は長く続いた石段の最上部。頭だけを擡げながら先に続く闇を見つめる。光源を変えた、昼間と同じ景色を構成する其の坂は何も変った所は見受けられない。

 だが何かが変わっていると、彼の本能は彼の理性に向って叫びを上げた。この先へ行ってはいけないと。根拠の無い其の叫びは彼の渇望を塗り替えて其の決断を翻そうと、手にした絵筆で赤い色を彼の心に書き殴る。

 否定を表す赤に彩られた彼の心。飢えは既に彼の欲求の項目から外されている。だが其の赤を描いたのが右手だとしたら、残った左手が握る絵筆は『好奇心』を示す青。乾ききらない赤色の上から再び書き殴られる其の色同士が交じり合って、彼の心に微妙な迷いを生み出していた。

 見に行くべきか、それとも立ち去るべきか。

 

 彼の足は其の先へと歩を進めた。

 否定の赤、好奇心の青。そして生れた紫の上に塗り重ねられた、警戒を表す黄色。現れた物は彼の体色と同じ黒。其れが彼自身の迷いすらも失わせて、何かに誘われる様に先へと進もうとする彼の行動を決定付けた。

 自分の縄張りを守る為? 其れならば彼の行動はもっと密やかであるべきだ。彼の動きに彼自身の意志は無い。ただ何かに引き寄せられる様にふらふらと歩く姿は、彼自身があれほど忌み嫌っていた月の光の中に其の姿を晒した事すら、彼自身に理解をさせていない様だった。

 狂いを生じた彼の野生。大局を見通す事の出来なくなった其れが、其の役割を事象単位の判断に基準を切り替えて彼の動きを操り始める。

 六の位を持つ彼の感覚が、誘われ続けた足を辛うじて其の場所で止める事に成功した。遮る物無く、其の遥か彼方にぼんやりと巨大な姿を浮かべる大塔の屋根。

 月明かりに浮かんだ其の影に只ならぬ恐怖を感じる、黒猫の本能。無意識下での回避行動。黒猫は本能の赴くままに参道からの侵入を諦め、脇の藪へと滑り込んだ。其の先に息を潜める危険がどんな物かは解らない。だが少なくとも其れの目の届く範囲に自分の姿を晒す愚を犯してはならない、と思う。

 三元素によって生れ出でた澱んだ感情が、彼の背中を尚も後押しして其の場所へと向わせる。其処に近付けば近付くほど彼の中で塗り潰された素の感情が恐怖の雄叫びを上げているのに、彼の耳は其れを無視したまま、澱の導きに従っている。

 お前は知らなければならない、と言う言葉を間断無く吐き出す、彼の物ではない聲に導かれて。

 疑う事すら許されずに足を運ぶ先に徐々に浮かび上がる平屋の建物の影。丑三つ間近の深夜にも拘らず微かの明りの漏れる其処が、彼を絶え間なく呼ぶ者の潜む場所に真違い無かった。

 過度に膨れ上がった不安は彼を其処まで誘った聲に対して遂に抵抗の狼煙を挙げた。正気を取り戻す彼の足が、それ以上の行進を止め様と最後の一歩を踏んだ。

 その場で彼の足は地に張り付いた。目前に広がった只ならぬ景色を視野に納めて。


 白骨の海。未熟な彼の言語野ではそう表現するしかない、景色。

 木々の間から微かに差し込む中天の月に照らされた其の海は蒼白い輝きを放って彼の前に広がる。埋め尽くされた白骨の隙間から覗く地面の欠片も其処には存在せず、累々と積み重ねられた小動物の物であっただろう ―― 其処には恐らく彼の仲間も含まれているのだろう ―― 哀れなむくろは交じり合って、ならされて其処に有る。

 彼の抱いた危惧は予想だにしなかった現実となって彼の前に姿を現した。齎される現実は恐怖に摩り替って、彼の持つ運動神経をの全てを回避の方向へと振り向ける。

 其処は『生』を禁じられた世界。例えるならば『地獄』そのもの。現世を放れた者しか到達する資格を得る事の出来ない筈の世界が、自分の前に確かに、ある。

 総毛が逆立つ。尾まで膨張させた彼の姿は倍ほどに膨れ上がって見える。だが彼の体内に生じた『死』に対する恐怖は其の何倍にも値する。暗闇にも拘らず彼の瞳孔は収縮し、領域を拡大した金の水晶体は闇の中で燃え上がった。

 

 常軌を逸し様とする彼が始めて気付いた其の存在は、『死』の予感に囚われた彼の直ぐ脇に佇んでいた。胸の前に据えられた両手を規則正しく動かして様々な形を作る。彼が彼等と同じ世界に居たならば、其れが『結印』である事に気付いただろう。足元で輝く僅かな光が無ければ彼も彼等の存在に気付かなかっただろう。

 偶然の邂逅は彼にとっての幸運となったように思われた。其処に『人』がいるという事実は彼の恐怖を薄めさせてくれる。恐怖による狂乱に犯されようとしていた彼の精神が、束の間の均衡を取り戻す。だが取り戻した平静は、彼に更なる恐怖を齎した。

 彼の種が遥か古来から携え続ける能力とも言える、鋭敏な聴覚。人の三倍、犬よりも優れた可聴領域を誇る彼の聴覚はその時、何の音も捕えていない事に気が付いた。草木の揺らぎも、風の流れも、そして何より自分の直ぐ傍に立って動き続ける『人』の心臓の鼓動ですら。

 そして彼は其処に押し寄せる無音の波を其の目で捉えた。未だに光を漏らし続ける平屋の建物の方向から流れ出して来る、月明かりに照らされた黒い泥。震えながら地に伏せた彼の目線と同じ高さに其の波頭を上げて、音も無くひたひたと迫り来る波。それは彼の傍に立つ男のくるぶしまで埋め尽くして、目前にまで迫って来た。

 抵抗に身構える彼の体。だが其の泥は彼の目前に達した所で突然、目に見えない壁に阻まれて打ち揚げられた。そして其の深みを彼の目の前に露にした泥の塊が、中に溶け込んだ呪いの瞳を目の前で生を謳歌する彼目掛けて叩き付ける。

 形を持った『死』が彼の目の前で音の無い呪詛を上げて、彼の命を取り込もうと殺到する。対峙した彼は、垂れ流した。失禁だけではなく、彼の中に在った全ての理性共々。

 剥き出しになった本能が奇天烈な叫び声を彼の声帯に呼び込んだ。最早威嚇とも叫びとも付かぬ絶叫が彼の背後の林に木霊して、しかし其の声に応える事の無い異常な環境が彼の恐怖を増幅させた。

 四肢を跳ね上げて後方に跳ぶ彼。そのまま空中で身を捩じらせて彼に襲い掛かろうとした恐怖から目を背ける。逃亡の意志を表す手足は空中を掻き削った儘、其の成果を彼に伝える事は無い。やっとの思いで其の媒体となる地面に手足を届かせた瞬間に、彼の身体は来た時以上の速さでその場から消え失せた。

 彼が生存の為に築き上げた行動原理も経験も規範も、押し寄せる『死』には一欠けらも役に立たない。闇雲に突き抜ける茂みの中から湧き出る鋭い小枝に身を削られながら一目散にその場からの退場を果たす彼の姿は見る間に遠ざかって行く。

 目に見えない何かに塞き止められて張り付いたままの黒い泥は、其処を境界としてそれ以上の侵攻を果たす事は無かった。『人』の足を埋め尽くした筈の嵩は次第に下がり、時間の経過と共に侵食した領域までも収縮させていく。

 泥の下から現れる微かな金色の光。『死』を象るそれらの存在を食い尽くす様に地面へと引き込んで行く其れは、紛れも無く其処に佇む『人』が創り上げた物だった。

 顔の前に垂れ下がった黒布が其の奥の表情を覆い隠して、しかし規則正しく漏れる吐息だけが其の布を僅かに揺らして。其の両手が紡ぎ上げる印と同じ拍動を刻みながら輝きを放つ結界魔法陣の姿が『人』の足元にその正体を現した。

 『観自在菩薩十五尊絶界陣』

 それは正確な八方位に配置された八人の法力僧による、空気以外の全ての事象を封じ込める守護結界。それが根来寺の主要な建立物のある敷地全てを巨大な円陣で取り囲んでいる。不可視の聳え立つ外殻は内部から放たれる『音』と『穢れ』を封じ込め、翻せば其の事実は外部からの浸入を完全に阻止する役目を持つ。

 印を結ぶ毎に足元から放出される法力が、彼の足元を照らす光の源。八人の法力僧を大地で繋ぐ円陣は糸車の様に目まぐるしく廻り、結界を構成している組成が絶えず変化している事を示している。其の変化は梵字と言う形を取って、彼等の足元に紡がれた印と同じ種字を地面へと焼き付ける。

 螺旋の外壁が大気を掻き乱して、何かの前兆を顕わすかの様に一陣の風を巻き起こす。至近距離で起こる旋風が彼らの法衣を吹き上げた。綿毛の様に舞い上がった黒布がその下に隠されていた『人』の顔を光の中に曝け出す。

 其れは『人』とは間違っても呼べない顔形を携えて、其処に居た。

 絶え間なく真言を唱えているはずの口からは声が無く、そして彼らの眼は存在しなかった。有る筈の場所に大きく刻まれた刀傷。其れが刻み付けられてから幾許かの時も経過していない事を証明する様に、涙代わりの『人』の血液が流れ落ちた。


 月下に其の哀れな姿を晒した其の男に名は無い。敢えて言うなら今朝付けられた『乾』という名称が彼の名だった。それ以前に彼等に与えられた物は区分する為だけに付けられた番号。彼は『43』番だった。

 物心付いた時には既に『乾』はある寺の住人の一人だった。彼の周囲には彼と境遇と意識を同じくした子供が百人程は居ただろうか、自分の成り立ちを知り得た一番最初の記憶だ。細かく正確な数を思い出す事は出来ない。只其の記憶と共に自分の脳裏に焼き付いている物は、自分達が何か『大事な目的の為』に様々な場所から拾われて来たと言う事、その場に介した子供達全ての者が両親の顔を知らないと言う点だった。

 其処から僅かな時が流れて、育ての親代わりの尼僧達から引き離されたのは五歳の頃。住み慣れた尼寺を離れて、見知らぬ山の中腹にある急拵えの建物に押し込められた其の日を境に『乾』達の生活は一変した。

 幼心にもはっきりと認識できる日々の修行。課せられる課題はどれも自分達の有りっ丈の体力と知恵を注ぎ込んでも尚余りある、過酷な『試練』。いや『試練』等と言う言葉では生ぬるい。それは彼らの生存を賭けた戦いにも似た物だった。

 例えば回峰行の最中に力尽きて足をもつれさせた何人もの子供達が、底の見えない谷底へと次々に転落した。熊や狼に襲われて、長い時間をかけて喰われた子供もいる。断食の最中に、遂に事切れる者。夜陰に乗じて逃亡を企てる ―― これは多分失敗に終わっているだろう ―― 者。

 月日を追う毎に減っていく仲間の数。あれ程大勢居て、名前も顔も覚えきれなかった其れが二十人余りにまでになった時、疲れ切った彼等の前に老人は訪れた。

 其れは今でも忘れる事の出来ない、とても寒かった冬の日の朝。かじかんだ手を震わせながら、やっとの思いで朝の作務を終えた時に彼らは呼び集められた。

 急いで駆けつけた ―― 何かに戸惑って遅くなるような事があれば、其れは彼等に与えられる課題の過酷さが増す事を意味した ―― 広間に並べられた人数分の卓袱台を見た時の感動は忘れられない。事態を把握し切れずに呆然と立ち尽くす彼らの背後から、優しい声が掛けられた。

「さあ、皆中に入ってお座りなさい。そうすれば冷えた身体も少しは暖まる事でしょう。 …… 此処まで厳しい修行によく耐えましたね。貴方方は拙僧の自慢の息子達です。」

 振り返る彼等の目に映った、目にも眩しい純白の大袈裟を纏った老僧の姿。彼等が其の老僧の姿を眩く感じたのは着衣の白のせいだけではない。出口の見えないトンネルの先に輝く一筋の光を、終わりの見えない旅の終着を知らせる其の言葉を告げたのが其の老僧だったと言う事実から来る開放感に拠る物だった。

 嗄れた心に潤いを与える其の言葉にいささかの戸惑いを覚えながら、彼等は促されるままに思い思いの席に着く。二十余の少年達が全て鎮座するのを待って、老僧は彼等の席の間を静かに割って前へと進み出る。固唾を呑んで見守る彼等の前で踵を反した老僧は、にこやかで、部屋以上に暖かな微笑を投げ掛けて其の口を開いた。

「おめでとう、と心から言わせて貰います。」

 唐突に放たれた其の言葉の意味が読み取れずに、少年達の間にざわめきが起こる。不謹慎にも思われる其の空気を妨げようともせずに、老僧は尚も言葉を繋いだ。

「貴方方は我等真言宗が崇め奉る大日如来様の御心によって選ばれた者。貴方方が潜り抜けて来た試練は、この後貴方方が為さなければならない、貴方方にしか出来ない大切なお役目を果たす為にどうしても必要だった物。此処に集った貴方方全ての、鍛え抜かれた其の体には既に法力僧何十人分の力が其々に備わっているのです。故にこれからは其の力を衆上の為に如何に生かしていくかを学ばなければなりません。今日はその記念すべき第一歩です。」

 言葉を聞いた彼等の反応は様々だった。ある者は喜び、ある者はこれから課せられる新たな修行に思いを馳せて緊張の色を浮かべる。だが其の彼等に共通して言える事は、『生』を掴み取る事の出来た自らの幸運を噛み締めていると言う点だった。

「恐らく今、貴方方の心の中は喜びで一杯の事と思います。でも此れだけは忘れてはいけませんよ。貴方方が今此処に存在していると言う事は、貴方方の代わりに命を落とした大勢の者達が居るという事。お役目を果たす為に大日如来様に選ばれた貴方方の『生』はその他の仲間の『死』によって成り立っています。志半ばで力尽きた彼等の為にも、鋭意努力して修行を収める事を肝に銘じてこれからの修行を続けて下さい。最後まで全うし、人々のお役に立つ。貴方方の其の姿こそが彼等に対しての一番の供養になります。いいですね。」

『選ばれた』彼らは老僧の言葉を飲み込んで、其の期待に心の底から応えようと希望の光を瞳に湛えて、深く頷いた。


 配られたのは一枚の半紙だった。書かれている物は彼等が今迄の修行の合間に覚えこまされた悉曇しったん文字の数々。

「気持を込めて大きな声で詠んでみなさい。きっと面白い事が起こりますよ。」

 老僧に促されて最初の梵字を声に出す。気持の入れ様は解らないが、兎に角。半紙に羅列された十五の文字を次々に。そう言えば声に出して読むのはこれが初めてだな、と『43』番は思った。今までは修行に追われていたのと私語が禁じられていた為に満足に発声する事も儘ならなかったのだ。

 朝靄の漂う小さな本堂から響き渡る、二十余名の合唱。其の息は暖かな室内と言えども寒さに白く染められて吐き出される筈だった。だが彼等が其の目にした物は、光を纏って吐き出される自分達自身の吐息の姿だった。

 青白く光りながら宙を漂う、自分が吐き出した物の正体に驚く彼等。秩序を失いそうになる部屋の雰囲気を察して、老僧が狼狽の声を口々に上げて戸惑う彼等に向って言った。

「驚くのも無理は無い。貴方方が口にした其の文字。其れは神仏を表す言葉であり、貴方方は其れを声に出す事で神仏の力を此の世に『顕現』させる事が出来る『法力』を身に着ける事が出来るのです。」

「神 …… 仏、で御座いますか? 」

 目の前の空間に浮かぶ自分自身の吐息を見詰めながら『43』番は老僧に尋ねた。同じ疑問を持つ全ての者達の目が説明を求めて、同様に老僧の姿に注がれる。

「正確な発声は正確で強大な法力を術者に齎します。最初はその程度の力しかありませんが徐々に修行を重ねる事によって、貴方方の力はより強く、多様化して行きます。其の行き着く先にある最も優れた法力の使い手こそが『退魔師』と呼ばれる存在。貴方方はその道行きの入り口に、今正に立ったのですよ。」

『退魔師』。其の言葉を彼等は何度も耳にしていた。

 神仏の力を我が身に宿して此の世に災いを齎す『仏敵』と戦う、真言宗の尖兵とも言われる存在。彼等の存在無くして今の日本の平穏は有り得ないとまで仏教界で囁かれる、決して表に出てくる事の無い影の守護者達。

 自分達の立った道が『退魔師』となる為の一本道の上だと言う事を聞かされて、彼等の表情は希望に満ちた物へと変化した。

 そうなりたいと心から願って、此処に辿り着いた者達ばかりだったから。


『発声』の修行が始まったあの日から三年の月日が流れる。十五の文字を繰り返し唱え続ける日々。彼等に課せられた日課があの日から変わる事は一度も無かった。変った事といえば、老僧に矯正され続けて正しく導かれた発音が鮮明になる毎に、法力の発生か呼気から全身の到る所に周回を始めたという点だけ。そう、それだけだ。

 だが『退魔師』になる事を夢見る彼等にとって、其れはそれで十分な成果に値する事であった。この繰り返しがやがて自分の糧と成り、あの日老僧が言った通りに広がりを見せた時自分達は完成する。そう彼等は信じ込んでいた。

 毎日繰り返される同じ場所での同じ『発声』と同じ風景。だがある日、自分以外の仲間がどれ程進んでいるのかを知ろうと集中を緩ませて辺りを窺った『43』番は、其処に存在する景色の異変に気が付いた。

 それは恐らく指摘されなければ、若しくは注意深く観察しなければ分らないほど些細な事だった。そして別に集中しなくても他の者以上に法力を練り上げる事が可能になった『43』番だからこそ気が付いた事だった。

 いつも穏やかな笑みを絶やさずに見守る老僧の瞳。毎日此処を訪れる事は無いが、たまに彼等の修行を見届ける日には必ず最後までその場に立ち続ける。好々爺(こうこうや)然とした彼の風体は、其処で退屈な ―― 少なくとも『43』番にとってはそう思える ――

 『発声』を続ける彼等を奮起させた。認められたいと、目に適いたいと思う彼等の心中は『退魔師』になりたいが故に、いつも以上の力を発揮させる。余剰の法力が放出される室内の中で、其の光景を見詰める老僧の姿。

 だが『43』番は確かに見た。穏やかに見える其の顔が一瞬暗く濁りを見せる時がある  ―― 少なくとも彼はそう感じた ―― 事を。老僧が眉を僅かにひそめて見詰める先には、彼ではない仲間の、精一杯声を張り上げて詠唱を続ける姿があった。

 体内を駆け巡った挙句に余った法力は、詠唱を続ける口腔から吐き出されて室内を漂う。そして老僧の視線が捉える彼らの放つ法力は、集中もせずに詠唱を続ける自分と同じ位の漏洩量しか無いのだ。其れはこの三年間で自分と彼等の間に明らかな力量の差が発生した事を意味する。勿論手を抜く事も無く、同じだけの修行をしたにも関わらず、だ。

 当然本人達も其の事は自覚しているのだろう。周りの人間に後れを取るまいと、そうすれば自分が練り上げる事の出来る以上の法力が齎されるであろうと信じて必死に声を張り上げる。だが其の行為は余りにも無意味な物となって現実に現れる。

 其れを成し得る事が出来る要因。其れは持って生れた、資質の部分。


「11番と20番。それと51番の君。」

 老僧から指名を受けた三人の顔が上がる。力が不足している故の脱落を宣告されるのかと不安な表情を浮かべて老僧の顔を見る。だが其の表情は何時もと変わりなく、穏やかな微笑と慈悲を湛えて其処に有った。

 だが気のせいだろうか、と『43』番は思っていた。暖かさを貫き通す言葉の影に秘められた声音の冷たさ。凍えるほど寒い日の朝に思わず握り締めてしまった鉄の感触にも似た怜悧な響きは、『43』番の心に些細な疑いを生み出した。

「心配する事はありませんよ。君達は他の人よりほんの少し、法力を練り込むコツが掴めていないだけです。だからそれ程慌てる事は無い。」

 彼等の持つ焦りを見透かした様に告げられる老僧の言葉。浮かんだ不安は安堵と化して彼等の肉体から解き放たれる。其の表情を見て、老僧は尚も言葉を繋いだ。

「ですが、君達もこのままでは他の人達に遅れを取ったみたいで落ち着かないことでしょう? ですから君達だけ今晩私の元で特別に補習をして頂きます。いいですか? 」

 其の言葉に集まる羨望と嫉妬。遅れているからといって個人授業を受ける事の出来る境遇を羨む仲間達の、心無い言葉が三人に浴びせかけられる。

「貴方方も、御仏に仕えようとする者がそのような事でどうしますか。羨みや妬み、其のどれもが『退魔師』が持ち得てはならない感情の一つなのですよ? 彼等が貴方方に追い付いて来る事、其れこそが私達の更なる力と成り得るのです。力を一つに糾合して事に当たる。其処に貴方達が担うお役目の本質が存在するのです。以後、その様な行為は慎む様に。」

 たしなめる様に叱責する老僧。この三年の内に初めて放たれた其の言葉に、彼等は沈黙を余儀無くされた。静寂の漂う室内を一瞥した僧侶の顔が、外の濡れ縁に控える一人の僧侶 ―― 黒い僧衣を纏い、其の顔までも布で隠したままの ―― を見止めて言った。

「今日の夜、補習を行います。場所を用意して於いてください。」

 無言で頷いた其の僧侶は音も無く立ち上がってその場を後にする。其の姿を見送った老僧が凍り付いた空気を溶かす様な、暖かな声を再び彼等に投げ掛けた。

「さあ、叱責は此処まで。皆もよく精進しないとコツを掴んだ三人にあっという間に置いて行かれますよ。そうなって今度は彼等に笑われる事の無い様に。」

 其れは以前と変わらぬ優しい声と微笑み。与えられる温度が彼らに生れた不安を一瞬にして打ち消した。

「では続けましょう。なに、拙僧が見立てる限り貴方方は大変優秀な生徒です。後幾らもしない内に次の段階に移れる事は間違いないでしょう。その時を目指して頑張って下さい。」

 次の段階。老僧が告げた単語が彼等の心に勢いを与えた。恐らく日々の修行に退屈を託っていたのは『43』番だけではなかったのだろう。希望を与えられた彼らの、梵字を読む声にも力が入る。朗々とした響きは更なる法力の放出を室内に齎し、其れが熱気となって彼等自身の心と身体を温めた。

『43』番は何気無く、老僧の個人授業に誘われた三人の顔を横目で盗み見た。

 興奮覚めやらぬ、上気した面持ちで声を張り上げる彼らの姿が其処にはある。其れを見て『43』番は胸につかえた危惧のかんぬきを引き抜いた。

 自分が感じた心配は杞憂に過ぎない。何故なら自分達はこんなに必要とされているのだ。

 法力の何たるかを教えようとしてくれている、あの老僧に。

 そして救いを求めて手を差し出す世界に。

 希望に後押しされて、更に声量を上げて梵字を読み上げる彼らを穏やかな面持ちで眺めるその老僧。何も変わった所は無い様に、誰の目にも映る事であろう。

 しかし顔の表面に設えられた僅かな面積の瞳の奥。其処だけが誰にも気付かれない様な、鉛の重さを感じさせる暝い輝きを湛えていた。


 ―― 指名された三人が苦楽を共にした『43』番達と同じ世界に存在したと証明出来るのは、其の日が最期となった。そして同時に残された『43』番達が『人』である事を証明できる時間も、その日で終焉を迎えた。


 三人の仲間は消失した。其れを物語る様に三つ減らされた机の数。予め織り込まれた其の事実は確認した彼等を愕然とさせた。まるで始めから其の三人の存在など無かったかの様に整然と並べられた机の並びが、彼等と三人が二度と巡り会う事が無いと言う事を暗に教えている。其れは嘗て彼等の日常に、当たり前の様に訪れていた景色の繰り返しであった。

 部屋の入り口で、それ以上中に進む事を拒む彼等の足。『43』番の脳裏には昨日見た、澱みを思わせる老僧の瞳が鮮明に浮かんだ。

「中に入って席に着け。」

 背後から浴びせられた怜悧な声は、彼等の心を与えられる現実へと引き戻す。反射的に振り返る彼等の眼に飛び込む、白い大袈裟と其れを纏った老僧の姿。戸惑いを覚える彼等の只中で、『43』番だけがその正体に気が付いていた。

 これが本性か。今までの姿は俺達を謀る仮の姿か。

 

 目に見えない何かに押される様に部屋の中へと雪崩れ込む彼等。二十人ほどの若き少年達が只一人の老人の理不尽な命令に抵抗する事無く従う等、世間の常識では有り得ない光景である。

 だが物心の付く前から此処に預けられた彼等にとって、抵抗や反抗などは考えられない事であった。彼等に刷り込まれた徹底的な服従は、彼等の心の中から其の方策の選択肢を奪い去っていた。何より、此処でこの老人に逆らって『退魔師』になる道を閉ざされてしまったら、自分達は一体どうなるのか。

 一晩で蒸発した三人の行く末を思えば、自分達に其の番が巡って来ないと考える事等、楽観論者の愚かな呟きにも劣る。恐らく脱落者の辿る道の行く先は、一つ。

「先ずお前達に伝えておく。」

『貴方方』から『お前達』へ。言葉使いまで変貌した老僧が恐怖で沈黙した彼等の間を割って前に進み出た。足を止めて振り返る事も無く放たれた其の一言。

「今日からの修行は命懸けだ。脱落すれば三人と同じ運命が待っている。」

 説明は必要無い。其の言葉の意味する事を彼等は何年か前まで体験している。寧ろこの三年間の安寧な日々こそが異常だったのだ。

 再び訪れようとする恐怖と忍耐の日々を想像しながら、彼等の誰もが息を呑む。其の音は静寂の中の聲無き合唱となって老僧の耳にまで到達した。

 振り向く老僧の顔が悪意に満ちた笑みを浮かべている。

「何をそんなに驚いている? 蝶よ花よとおだてられて、稀有な力が手に入るとでも思っていたのか。その様な愚かな考えではあっという間に鬼籍に名を連ねる事になるぞ、昨日の三人の様にな。」

 消えた三人の行方を明言する老僧。訪れる死の恐怖に震える彼等の姿を一瞥しながら、老僧は尚も言葉を続けた。

「其れに死と隣り合わせに生きて来たお前達が其れを恐れるなど滑稽極まりない。以前にも言ったがお前達はそうして生き残った者達。お前達の足元にはお前達の代わりに命を落とした者の屍が累々と積み上げられていると言うのに。その事に我が目と耳を覆い隠して口を噤む事に何の意味がある? そんな下らん感傷は今この場に棄ててしまえ。」

「自分達の代わりに死んだ仲間達を思い描く事を、止めろとおっしゃられるのですか? 」

 静寂を破って『43』番は声を上げた。老僧の指摘は至極尤もっともだと思う。だがだからこそ自分達が其の者の事を覚えていなければ、誰が彼等の魂を救い上げてやれると言うのか。死んだ者に感謝をするからこそ忘れてはならないと言う彼なりの矜持が、老僧の発言に異を唱えた根拠だった。

「ふん、やはりこの中で只一人声を上げる事が出来た者はお前だけか。」

 予定と期待を混ぜ合わせた、不気味な声が嘲りの色と共に『43』番に投げ掛けられる。はっとして老僧の顔を見詰める『43』番の目に、あの日見た冷酷な瞳が映りこむ。

「お前の其の意気込みだけは買ってやろう。だがな、この儂の言に異を唱えるにはお前は今だ未熟。己が感傷を否定されて方寸を乱しておるのが何よりの証拠。儂が求める者に成り得るにはまだまだ修行が足りんと言う事じゃ。…… これも機会じゃ、お前達にも教えて置いてやろう。修行が足りんと言う事はな ―― 」

 老僧の言葉が終わらない内に、彼等の身体を強大な力が襲った。其れはまるで彼等の一人一人が見えない巨大な腕に掴まれて、締め上げられる様な感覚。大音響と共に室内を囲う全ての障子が開け放たれて、濡れ縁に鎮座する大勢の僧侶の姿が彼等の目に映った。黒い僧衣と黒い布で表情を隠した僧侶の姿。其れは昨日三人の為に処刑場を用意しろと老僧に命じられて頷いた、あの僧侶の物と等しい形をしていた。

 絶え間無く胸の前で組み続けられる印。其れなりの修行を積んで来たからこそ感じる事の出来る、目には見えない法力の放出。

 これが『退魔師』だと言うのか、これが自分達が思い描いた希望の最終型だと。

 次第に失われて行く体の自由。坐像と化した彼等の姿を見下ろしながら老僧が止めの台詞を呟いた。

「 ―― こういう事にも気づかないという事だ。」


 圧搾されていく空気、そして圧迫される彼等の動きと意識。不随意筋で構成された生命維持に不可欠な器官を除いて、対象となった者全ての動きは封じ込められた。麻痺していく感覚と感情が彼等の意識を追い詰めて、其れは彼等に現実からの逃避を促す。圧倒的な其の力に抗う術を知らない、教わってもいない彼等の肉体は術者の思惑通りに急速に硬直していく。息継ぎも覚束無くなる程の息苦しさを覚えながら、それでもその場に踏み止まろうとする意志を持ちえた『43』番只一人がまるでその場で人型と化した彼等の総代であるかの様に声を吐き出した。

「自分達を …… どうする御積りですか、」

 痺れに震える舌はそれだけの言葉を紡ぎだすのにも『43』番から相応の意識を奪い取る。遠のく聴覚の端に老僧の呟いた感嘆の声を捉える。

「流石だな『43』番。お前だけは見込みがあると思っていた。他の者より飲み込みが早く、生まれ乍らの力も強い。意志もある。この結界の中で喋れるのは、お前の仲間の中では多分お前だけだ。出来ればお前の様な奴に最後まで残って欲しいものだ。」

「ですから、そんな事ではなく、自分達を ―― 」

「慌てるな。」

 語気を強めた老僧の言葉に質問を遮られた『43』番の視線が、声のした方向を見た。既に首も動かず、頭を上げる事すら叶わない。全身の力で両の眼球を掴み上げて無理矢理動かす。其の視界に大写しになった皺だらけの掌が映った。紛れも無い、其れは老僧の右の掌。何時の間にか『43』の正面に移動した老僧は『43』番の目の前にしゃがみ込んで、嘲りを込めた哂いを『43』番に叩き付けていた。 

「お前達の自由を奪っている術は『歓喜天縛鎖包円呪』と言う結界法。数ある結界術の中ではそれ程威力のある物では無い。だがこの術の最大の利点はな ―― 」

 そう言うと『43』番の眼前に翳された老僧の掌がぼう、と微かな光を上げた。

「この結界内で、他の術を副作用無しに使えると言う点じゃ。打ち消したり、高めたりと言う陰陽の制約に囚われない、中庸の位置にある唯一の結界法。じゃがそれでもこれから儂がお前達に施す『契約』を果たす為には十分過ぎるほどの威力を持っておる。」

「『け …… い、や、く。』」

 空間に満たされる拘束の意志を持った法力が遂に『43』番の意識を犯し始める。老僧の存在の気配だけを意識の中に止めて、『43』番は其処に染み込んで来る老僧の言葉だけを知る事しか出来なかった。

「そうじゃ。其の言葉こそがお前が儂にした質問の答え。 ―― お前達は『次の段階』に入るのだ。」

 動き出す指。象られる印。

「実の所、お前達の法力はもうそこいらの法力僧では太刀打ち出来ない程、十分に練られておる。しかしながらお前達が成し遂げなければならない、課せられた『お役目』を全うする為にはまだ程遠い。」

 老僧の左手が『43』番の肩を掴んだ。意識の殆どを他の仲間達とほぼ同じ深度に眠らせつつある彼には其の感触すら知る事が出来ない。だが其の力は老人とは思えない位に力強い事が傍目からも理解が出来た。

「物事には何事にも順番と言う物が有ってな、足りない物を補う為には其れなりの代償が必要となる。お前達に足りない物が力だというのなら、先ずは其の力は放出される出口を一つずつ潰してしまわなければな。」

 老僧の右手の光る指先が『43』番の顔を額から顎に沿ってなぞった。やがて其れは顎を滑り落ちて、喉仏の在り処を示す僅かな膨らみの前で停止した。

「先ずはお前達の声を絶つ。」

 力を込める指先。切り開いた訳でもない。抉った訳でもない。『43』番の肉体が柔らかな泥人形にでも変ったかの様な錯覚を覚える程、印を表した老僧の指先が何の抵抗も与えられずに其処へ突き刺さった。

 大方の感覚を失っている『43』番の表情が苦痛に歪む事は無く、そして確かに体内に捻じ込まれた指の間から溢れ出る筈の出血も無い。光を湛えた老僧の指先が彼の薄い皮膚を透かして蠢いているのが分かる。やがて其れは動きを止め、手首の動きに同調して大きく捻られる。

 何かが其処で断裂する、気味の悪い音が静寂を破った。

 其の音は肉を通じて『43』番の耳にも届いた。恐怖に拡大する瞳孔、事態を把握しようとする意識。だが我が身に降り懸った異常を感じ取る事は、術に制圧された彼には不可能であった。

『声を絶つ』とはどういう意味だ、この男は今、自分に何をしたのだ?

 其の答えはやはり目の前の老僧によって示される。ゆっくりと引き抜かれた老僧の指に纏わり付いた、肉の塊と小さな白い骨の欠片。ぶら下がったままの其れを、老僧は無言で彼の目前に翳した。拡大したまま焦点を合わせる事の出来ないモザイクの視界の中に映った、嘗て彼の物であった、彼の舌と声帯。

 返せと言う、無言の要求を尻目に、老僧は既に傍らに控えていた黒衣の男の差し出す木箱の中へと其の肉を無造作に投げ捨てた。蓋が閉じられ、護符による封緘ふうかんの為された其の箱を男が大事そうに抱えて立ち上がる。滑る様な足取りで部屋の外へと走り去る僧侶。そして入れ替わりに新たな箱を携えて、入室を果たす別の僧侶。

「此処より持ち去られたお前達の体の一部にはこれからある処理が施される。それがさっき儂がお前達に言った『契約』の証じゃ。無論『契約』と言うからには其れなりの効力が発生する。結んだお前達には今以上の力を保障しよう。だが万が一お前達が良からぬ考えを持ち、儂の命に逆らおうとしたならば、お前達には其れ相応の罰が与えられる事になる。」

 そう言うと老僧は代わりに入室した僧侶が手にしている木箱に向けて九字を切った。封緘の為の護符が其の行為によって閃光と共に消滅する。箱を取り上げ、封印の解かれた箱の蓋を開けると其処には『43』番の物と同じ形の、違う所有者の物が印を刻まれて安置されていた。

 印を結ぶ老僧の右手。呟く真言はその舌の表面に刻まれた物と同じ真言。まるで読み上げるかの様に、老僧が言った。

「ノウマク サマンダ バザラダン カン。」

 紅蓮の王、不動明王真言。

 発火。そして延焼。発動した法術は容易く其処にあった物体を燃え上がらせた。其れと同時に老僧の側で木箱を携えてきた黒衣の僧侶が炎に包まれる。其れは只の炎ではない。神仏の力を宿した其れは、体積の違う二つの物体を同時に焼き尽くした。箱の中の舌が灰になった瞬間に黒衣の僧侶も時を同じくして灰になる。ロトの妻が神との誓いを破ったが為に塩の柱にされたという『聖書』の中に記述された故事の様な結末が、老僧と『43』番の前に景色として再現された。

 燃え尽きて、煙と悪臭を放つ白い灰の堆積物を横目で眺めながら、老僧が言った。

「これがお前達が犯した罪に与えられる罰。お前達が此処から後戻りをする事は許されない。こうなりたくなければ精進に励む事だ。」

 嘲りの含みを湛えた声音が「43」番の耳朶じだを打つ。心の底から湧き上る怒りだけが術によって固定されて、そのまま時の止まった彼の意識の中に残った。

 時を止めた瞳に宿ったままの怒りの色を認めた老僧の表情が変った。振り撒き続けた嘲笑は消え、憂いを込めた瞳が其の怒りを受け止めようと『43』番の瞳を見詰める。

 憐憫れんびんさえ思わせる表情を浮かべて、老僧は溜息混じりに言葉を吐いた。

「其の怒りも、憎しみも、悲しみも。」

 何かを回想する様に、深く静かに瞼を閉じる。

「総てを主の力にするのだ。この修行の行き着く果てにある、お前達に課せられた使命はそれほどに熾烈で、過酷な物だ。」

 棄て台詞を残して立ち上がる老僧。足元に創り上げられた偽りの坐像の姿を其の目に焼き付けようと、固く結んだ瞼を開いて見下ろした。

「じゃからお前達に命じる。 …… 必ず生き残れ。お前達が儂を怨むというのなら其れは彼岸にて必ず受け付けよう。その時まで其の怒り、決して忘れるでないぞ。」

 踵を反して『43』番の目の前から立ち去る老僧。自分に言い聞かせる様に、誰に語り掛ける事も無い言葉が、其の口から漏れ出した。

「多くの罪を飲み込んでも尚、為さねばならない目的。儂はそれを遂げる為に今日まで生き長らえて来たのだ。」


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