変身
ちょうど午後二時を回った頃、街には四月の陽気があふれており、街ゆく人々もどこか軽い足取りだった。
明の自宅――二階建ての このあたりではごく平均的な一軒家、その玄関の前では明の顔なじみが彼の事を待っていた。
「明まだ帰ってこないのか? メッセージ見てねえのかよ」
「まあ九古君、そう文句ばかり言っても仕方ありません」
明の友人の鍋野と九古である。三人は小学校からのつきあいで親友同然でありそれと同時に今夜の依頼人でもあった。
九古は家の蔵で見つかった怪しげな霊力を放つ壺について明に調査を頼んでいた。その依頼の件で明に渡したいものがあったのだが、ちょうど留守の時間だった。
「クソ、俺に除霊できんのならあいつの手も借りずに済むのにな……」
拳でてのひらをパチンと鳴らし悔しそうな顔をする九古。言葉より先に手が出る喧嘩っ早い性格である。
「九古君……君は前にも妖怪に素手で立ち向かっていったじゃないですか、明君もかなり大変だったんですよ。そもそも妖怪と言うのは――
鍋野はいわゆるオカルトマニアであり、そのことになると眼鏡を上げ饒舌に話す。彼は高校生ながら様々な除霊用の装置を開発しており、明の心強い味方となっていた。
「あー分かった、分かってるよ……――ってアイツも帰ってきたみたいだな」
いつものように始まった鍋野の長話から視線を道路に流した九古は、くたびれた様子の明の姿をとらえた。
「おーい! 明ァ!」
「……ってアレ? 鍋野と九古じゃん。仕事は夜だったハズだろ?」
予想外の人物の登場に明は目を丸くしたといった様子だった。
「よう明、今日の件でよ蔵で面白いものを見つけてな、ナベがお前に見せたほうが良いって言ったんだよ。臭いのは勘弁な」
そう言いながら古くかび臭い紙切れを手渡した九古。
「これは……呪符じゃないか。あんまりベタベタ触っていいものじゃないぞ」
「大丈夫ですよ明君、細心の注意を払って取り扱いましたからね」
「いや、それでも危ないぞ。……ん? 確かにこれは」
急に表情が曇った明。その変化に気づいた九古が問いかけた。
「おい、何かまずいのか?」
「いや、中々タフそうだなって思ってな」
おそらくこの呪符は壺の妖怪を封じる役割の一端を担っていたのだろか……そこから感じ取れる残留霊力は今回の敵の手強さを物語っていた。壺の発見により中身が刺激されたのだろう、その呪符の様子ではあと三日ほどで壺から飛び出してきそうであった。
「その言い方からすると今回もまた妖怪との戦いとなるのですか?」
「まあ。そんなところだな。安心しろって、大したわけじゃない」
「……って言う割には顔色悪そうだな。大丈夫か?」
「ああ、やっぱり分かるか?」
「確かに先ほどから明君、思い詰めたような表情をしていますしね」
友人の手前取り繕ってはいたものの、その疲労感は隠せなかったようだ。
「どうしたんだよ?」
「いや……まあな。ちょっと困った事があってな」
「勿体ぶんなよ明。俺たちで良けりゃ力になるぜ。ただでさえお前は霊媒師で大変なんだからよ」
「……悪いが今回のは言えないな」
その明の言葉に、九古は明らかに不機嫌そうな顔をした。
「いけませんよ九古君。霊関係の事柄は迂闊に他人には話してはならぬのです。当事者以外に話すだけでも悪霊の霊力が高まり、より複雑な事柄になってしまう恐れがあるのです」
「鍋野の言う通りだ。悪いな、気持ちだけ受け取っとくよ」
「あー、オカルトってのは面倒臭くて頭が痛くなってくるぜ」
「……たぶんお前だけだぞ。とりあえず俺のことは心配すんな。あの壺の件もな」
「それなら良いけどよ……」
「明君、くれぐれも気をつけて」
「ああ、大船に乗ったつもりでいろよな」
* * *
「ただいまー……」
自宅の居間に明の低い声が響いた。まだ昼の三時前であったが彼には既に夕方ごろに感じられた。
低いテーブルの上にビニール袋を置き、一息ついてから今晩の決戦の準備に取りかかった。霊符、念珠、霊気の込められた木刀、そして対悪霊のための特注の黒装束。明の仕事に欠かせない相棒達であった。
これから、壺の悪霊の程度を具体的にはかろうと、黒装束に袖を通し念珠を手首に取りつける。あんまりに霊力を込めると呪符を介し壺の妖怪を刺激する恐れがあるので慎重に調べた。
ほんの二、三分で調査は終わり、明は一息ついた。確かに相手は手強いのだが彼の力なら十分に退治することができるだろう……――ただ、懸念材料は存在した。明の体調の事である。例の少女の影響で明の力は少なからず乱れていた。
そこで明は、余計な考えを排除し自らの気を鎮めるために八卦鏡を用いることにした。鏡の前で瞑想することにより、心身ともに落ち着け、霊力を高めることができる。明は八卦鏡の前の椅子に深々と腰かけた。
耳を澄ますと、閑静な住宅街からはわずかながらに子供の声が聞こえる。明は目を閉じ、自らの精神を深い水の底へと閉じ込めた。
一瞬、彼の背筋に悪寒が走った。――まるで道路の真ん中で大型ダンプと目が合ったような……骨も震える感覚であった。
おもわず眼を見開き、明は驚愕した。鏡の隅、明の後ろにあの少女の姿があった。
(うそだろ、まだ昼間だぞ!)
明の体は金縛りに遭い指先一本動かすことすらできなかった。その少女の体からは彼が抵抗できないほどの強力な霊力が放たれていた。
頭がガンガンと鳴り、鼓動音が早くなる。――少女は明に向かってゆっくりと歩いてきた。
明は必死に抵抗したのだが、ただその様子をながめる事しかできなかった。
さらりとした長い黒髪、小さな顔。巫女のような服に袖を通し、その白く細い足をひたり、ひたりと歩ませる。
徐々に意識が朦朧としてゆく……消えゆく意識の中で、明は初めて少女の声を聞いた。
「これからあなたの身に起こることは、決して他の人には話してはならないわ……明」
慈愛の込もった、どこかで聞いたことのあるような声であった。