第四十話 - 日常への入口は遥か遠く
浮遊都市アカモート。
その仮想空間は現在クオリアAIヴァルゴの管轄下であり、白で統一された清潔感のあるものだ。構造体の高所から随処を伝って清水が流れ渡り、人通りも多い賑やかで明るい場所。
しかしそこは仮想空間の分類の中では最も危険であり安全な場所。
なぜか。
理由はとても単純だ。
一切の制限がない。
ただそれだけだ。
通常の仮想空間であれば幾重にもリミッターが掛けられ、プログラムの実行権限やオブジェクト、リソースの使用、ストレージ内部に保管できるアイテム、そのほかにも様々なものに制限が掛かり、感覚の伝達すらも制限される。
それほどまでに制限を掛けなければいけないのは、仮想空間の大部分の管理がAIから『心』をシミュレートできるクオリアAIへと移行したからだ。もちろん『心』という曖昧なものを演算するために処理能力のリソースは大量にそちらに奪われ、旧世代AIよりも処理速度は劣る。しかしそれでも仮想、偽りで再現される感覚は本物と変わらないほどになる。
偽物でありながらも本物の感覚を受け止める。もしも仮想で死を経験したら? 偽りの死の信号が脳まで届いてしまえば精神、心が死ぬ。
単なる電気信号ではあるが、それが人の脳の活動。
たった一つ、ほんの一瞬、死という信号が流れてしまえばそれだけで仮想の死が現実になる。
バイタルはフラットに。脳死、フラットライン。
それを防ぐためのリミッター。死を再現させる状況を起こさないための制限。
アカモートの仮想空間には一切ない。
お蔭で仮想空間で現実を体験できる。現実で動くことができない者が仮想で思うがままに動き、また現実では魔法を使わない限り到底不可能な動きをしたり、またその練習をしたり。
便利ではある。
反面、制限がないということは街中で突発的に戦闘が起こる事もあり得るのだ。
『アカモートへ接近中の不明機を感知しました。ログイン中の民間人には一分後に強制ログアウト処理を行います』
クリティカルアラートと共に機械音声のアナウンスが流れ、いきなり眼前にウィンドウが開く。
「はぁ……まったく」
レイズ・メサイア。現状、この世界では存在しないはずの者として扱われている彼はウィンドウを払いのけながらログアウトプロセスを立ち上げた。ウィンドウ越しに見える雑踏はもはやいつものことだと、まったく慌てることもなく仮想からログアウトしていく者たちばかり。
なんでいつもこういう非日常が向こうからやってきて巻き込まれるのだろうか、思いながらも進んで戦いに飛び込んでいきたい気分でもなく必要もないためにさっさと離脱してしまおうとする。
仮想での戦闘は仮想に適応した者が強い。力がどうこうの前に仮想への適性、そして世代の壁が立ちはだかる。
レイズは今ヘッドギア型の端末を使って仮想世界にダイブしている。これは仮想への適性が低い者、そして第一世代と呼ばれる者たちが使う方法だ。コンソール経由のためディスコネクトによる死亡はまずないが、戦闘行為などの激しい処理が必要な場合は意識の伝送が追いつかず、思うように動けない。
わざわざ不慣れな場所での戦いなどしたくはない、もっと言えば進んで戦闘に参加したくない。
グリッドに包み込まれ、感覚の消失と同時にログアウト処理が意識を仮想から切り離していく。
仮想の青い空を見上げ、ふと吹き抜けた風に視線を下ろせば見覚えのある黒髪が見えた。
ログアウト処理を待つために立っている人の間を縫うように駆け抜けていた黒髪の少女は、レイズに気付くと何かを言うために口を動かした。しかしそれはログアウト処理に重なって聞こえることはなかった。
だが、レイズには唇の動きだけで『助けて』と言っているのが分かった。
見覚えがあるがあの少女が誰なのかは分からない。どこで見たのかすら思い出せない、ずっと昔から一緒にいたはずなのに。
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白髪の青年、レイズが現実の世界に戻ってきたとき。
開け放たれた窓から六畳の部屋に警報が流れてこんでいた。壁に掛けられたデジタル時計は18時を示し、気温や湿度まで表示していた。
他には誰もいない部屋。アカモートの浮遊島の中でも取り分け小さい居住島の隅の方にある寮の一室。アカモートが雇う傭兵などが一時的に住む場所だが、レイズはとりあえず住所があればいいという理由から安いここを選んだ。
航行場所の関係で日没寸前の空、少々肌寒い空気を感じながらレイズはヘッドギア型の端末――仮想空間へ意識を送り込んでくれるそれを外さずにすぐさまダイブプロセスを実行する。しかし先ほどの警報と同時にログイン制限が掛かったのか通常権限での仮想への没入が禁止されていた。
あの子は一体誰だ?
助けを求めてきたのはなぜだ?
とにかくまずは合流しないといけない。仮想空間へは潜れず、通常権限ではアクセスポイント、接続者数の検索はできても接続者のパーソナルデータまでは閲覧できない。
そうなれば個人の権限ではどうにもできない、アクセス権限の付与されている端末からでなければ。
ヘッドギアを乱暴に脱ぎ捨てると、カーゴパンツに長袖シャツといういつもの格好で靴を履いて玄関から……ではなく窓から飛び出す。いちいち浮遊島をつなぐ転送陣を辿っていくよりも飛行魔法で飛んだ方が早い。転移魔法を使えばまだ早いが、アカモートでは不意の魔法攻撃に備えて常にジャマーが働いている。
もしものときのためと渡されていた無線機のスイッチを入れ、魔法で送信される市街状況の情報を光子操作魔法で創りだしたウィンドウに展開する。
「ナイトリーダー! 仮想の状況は!?」
『敵勢力は不明、仮想守備隊は壊滅』
「かいめっ――敵の数は?」
『サウスゲート側に三機、ノースゲート側に十機。機体スペックが異常に』
『はいはーいアカモートのみなさーん』
いきなり通信に女の声が割り込んできた。
『なっ!? いつの間に』
焦るナイトリーダーの声に市街状況を確認すれば、仮想の市街エリアに侵入者を示す光点が複数あった。
『プロっつうのは入ったことすら気づかせんもんだぜぃ? そゆ訳でこちらがどの程度かは分かっただろう』
『お前たち、状況は分かっているんだろうな?』
『えぇもちろん。主要戦力であるスコール、ワースレス、レムナントがロスト、またイリーガル、あなたも戦闘ができる状態ではなくミラが消息不明。いわゆる初めての大ピンチってやつですね』
『あーあぁ……強いね、あのマルチセカンド』
『現状勝てる見込みはなくすでに戦力もない、どうする? イリーガル』
『まとまっていればストラクチャごとやられる。散れば各個瞬殺される……好きな方を選べ。もはやこの戦いに意味などない……あの改変は一体なにをするために……』
『言っても仕方ないよ、イリーガル。あいつさえ生きていればまだなんとかなる』
『アカモートの市街エリアではぐれたが』
『…………、』
『来たよ』
『さあ、死の鬼ごっこの始まりだ……』
突然無線機越しに骨ごと肉を叩き斬る音が響き、少女の苦痛に歪んだ声が聞こえた。
『オルレア!』
『死……ぬの? こんな、こんなところで……まだ死にた――』
続いて固いものを砕く音が、そして柔らかい何かがびちゃりべちゃりと飛び散る気色悪い音が。
「なんだよ……ついさっきまで何もなかったのにアカモートでなにが起きている!?」
『がっ――ばはっ……』
『マグノリア、チッ、くそがっ! 止血用のキットは!』
『腹を貫通、もう諦めなよ。どうにもできないからさ』
『あの黒い機体……シャドウウルフのカスタム機、クロード・クライスか』
ジュワッ! と肉を焼く音が響いた。
『野郎、確かスコールに恩があったんじゃなかったのか』
『さあな、いま確かなのはあの仮想での戦闘兵器シェル、クロードは敵だということだ』
『イリーガル! ミディエイターは出せないのか』
『破壊された』
『んなっ……シルファは』
『あいつは強いやつに靡く。あっちにいるとうことは、つまりそういうことだろうさ。自分で主を決め、主と認めた者にはなんの躊躇いもなくすべてを委ねる、そういうやつさ』
『ねえ、死んだら、どうなるのかな……』
『アザレア、まだ言うのは早い』
『でもさ』
連続して放たれる砲撃の音、風を切り裂く音にすべてがかき消され、通信回線が静まり返った。
『レイズ、聞こえるか』
「あぁ、通信良好……」
『お前はこの件に関わりたいか?』
「…………、」
『ならばいい。見なかったことにすれば普通の暮らしもできるただし――お前がそれを許せるのならば』
助けを求める者を見捨てることができるのなら。
救世主、メサイアと呼ばれるほどに様々なことに介入したこともある。そのときに何か抱えていることがなければ進んで非日常に飛び込んでいっていたあの頃。
ふと自分で自分に問いかけていた。『助けて』を聞かなかったことにしてもいいのか? と。
「ナイトリーダー」
『なんだ?』
「今の仮想空間の状況は」
『やる気か? 一人で』
「ああ、助けてって言われたからな。ここのIDを持ってない黒髪の女の子に」
あの人混みの中でただ一人だけ、周りはウィンドウを開いている中で彼女だけが警告表示のウィンドウを展開していなかった。それが何を示すのかといえば、外部の者でありアカモートのAIによるサポートを受けられない非正規のログインを行っていることの証拠だ。
『ならば行け。メインタワー上部、会議室の端末のセキュリティを落としておく。勝手に使え』
「ありがとう、ナイトリーダー」




