第三十三話 - 消えゆく世界で
ゆらりゆらりと、心地よく揺れる柔らかな感触。
日の光に照らされて、眩しさに開きかけたまぶたを閉じる。
「レイズ、起きて」
優しい呼び声に意識を浮かび上がらせようとするが、背中に当たる柔らかな何かがずぶずぶと沈み込ませて浮上を許さない。
「起きて」
聞きなれた呼び声。しかしその声が……声の主のことを思い出せない。
どうしてだろうか?
そんなことを思うと同時に強く揺さぶられた。
「いつまで寝ているつもり! 早く起きて! このままじゃ――」
ふっ、と影が落ち、荒波に呑まれて慌てて浮かび上がって目を開くと、
「はっ――!?」
最初に寝ぼけた意識が捉えたのは、自分を食い殺そうとする凶悪な海龍の牙だった。
一瞬にして覚醒した意識は、すぐに戦闘状態へと意識のスイッチを切り替える。
世界を自分というフィルターを通して観測し、自分だけの現実として再構築して干渉を開始。
「固まれ!」
己が望む現実を押し付け、相手の干渉力を上回る力で現実という事象を改変する。
たった一言で数百メートルもの巨躯を誇る龍が暗い水底に姿を消してゆく。
本来であれば、龍族はそれイコール最強であると言われるほどだが、法則の適用外の存在からしてみれば脅威ではあるものの対処可能な敵である。
「…………どこだここは」
端的に表すならば世界の空白地帯。すべての航空機、船舶、浮遊都市、監視衛星、その他の目が届かない海域。もっと簡単に言うならば、危険すぎて誰も見ようともしない海龍の巣の真上。
妙な流れに下を見れば浮かび上がってくる無数の黒い影が見える。
「……えっと、まあ、なぁ? いつものことだよなぁこれ」
とりあえずどうするか?
レイズの場合はこうだ。まず海上に飛び上り、百メートルほどの厚さに海を凍結させる。並みの魔法士には不可能な芸当だが、例外クラスの為難なくこなせる。とかく、相手が海の中から仕掛けてくるのならば仕掛けることができなくしてしまえばいい。……ただし、広範囲にわたって凍結させるということは海流を妨げ水温を極端に下げる為、気候やその他環境への被害は計り知れないものとなる。
ちなみにこれも毎度のことではあるが、魔法による環境へのダメージはどこかで規格外の魔法士が"治す"のが定例となっている。いくら猛者と言えど、好き勝手して世界が壊れてしまうと生きていくのが辛くなるからだ。
「ったく……俺はなんでこんなところに???」
記憶がぐちゃぐちゃだ。最後に何をしていたのかすらも思い出せず、かといって記憶喪失や混濁といった感じはしない。このまま空中に胡坐をかいて座り込んでも魔力切れの心配はないが、いつまでもこんなところに居たくはない。
龍が相手だ、数分もあれば氷を砕いて襲い掛かってくるだろう。負ける可能性は低いがそれでも厄介なやつらの相手をしたくないのだ。
帰ろう、そう思って飛び始め、ふと、どこに? と思って動きを止めた。
「俺……どこに帰ればいいんだっけ……」
帰ろうと思える場所があったはずだ。だというのに、どうしてもそれを思い出せない。
おぼろげに記憶の彼方に垣間見えるのは、空を飛ぶ白き城。幾重にも張り巡らされた見えない護り、多種多様な種族が集まる例外的な浮遊都市。
懐かしさと淡い想いが溢れてきて、思いの源が出てこない。
ただふらふらとあてもなく空を駆け、青から蒼に、紅碧、紫へと日が沈んで空が変わっていく。
やがて黒に染まり始めた空に、青く輝く一つの光が煌めき始める。それはぽつぽつと増えていき、近づくほどに空を飛ぶ街のシルエットをはっきりさせる。青に照らされた白い浮遊都市。
ふと、自然と思考の奥底からどこかで聞いたこと、見たことが有るような無いような単語が湧いてくる。
ソフィア、アーカーシャ、アストラル、ソーテール、アンゲロス、インコンプリート、メサイア――
「……ティア、メティ」
ぽろっと口から零れ落ちた誰かの名前は、誰だっけ? と、意識する間もなく無意味な思考の中に掻き消えていった。大事な、大切な思い出がぼろぼろと、ではなく気付かない内に風化して消えていく絵のように、それが加速されたように褪せていく、消えていく、消されていく。
ふらふらと飛び続け、浮遊都市がはっきりと見えてくると強烈な懐かしさと嫌悪感と、ようやく帰ってきた、そんな感覚が溢れだした。
「アカモート……」
一番大きな浮遊島、メインランドに降り立とうと進路を変更すると同時に、明確に接近の意思を示したからか魔法による通信が入った。正面方向右斜めに光学系魔法で顕現された青いディスプレイに『SOUND ONLY』と表示される。
「こちら、FCアカモート。不明魔法士、それ以上の接近をするのであれば所属と飛行目的を明かせ。返答なき場合は敵性と見なす」
「俺は……ただ、帰りたいだけなんだ」
「…………。繰り返す、所属と飛行目的を述べよ」
ただ、安心できる場所に帰りたいだけなんだ。そう思い、それだけで飛び続け、アカモートから四つ、なにかが飛び立った。
ゆっくりと水平線の彼方に姿を沈ませていっていた太陽が消えると、サファイアカラーの軌跡を描きながら飛来するものがはっきりと分かった。
「最終警告だ。ただちに進路を変更せよ、さもなくば攻撃を開始する」
全身を白い鎧に身を包み、頭部から垂れ下がる翼の形をした飛行ユニットから青いエネルギーを放出しながら迫るのはアカモートの騎士団。二人が魔装銃を装備し、二人がタワーシールドとロングソードを装備して迫る。
シールドは障壁を展開するための補助具が組み込まれ、ソードもその延長線上までも切り裂く専用魔法が組み込まれたもの。魔装銃は使用者の実力に寄らず、最低限必要である均質な攻撃力を実現させるものだ。軽装甲であれば数枚重ねたところで貫通してくる。シールドの方も体当たりで機動兵器を行動不能に陥らせることはできる。
「白騎士……天使の……」
浮かび上がる端から記憶が薄れ、消えていく。
「各自、攻撃を開始せよ」
それを最後に通信は途絶し、まだ数キロも距離があるというのに前方で発砲の光りが瞬いた。通常の歩兵部隊の交戦距離は、現在においては長くとも一キロとされているが、どうも彼らにとっては違うようだ。
魔法を使用する戦闘では作用対象、領域を認識できる距離がそのまま交戦距離になるが、例外は対象物を定義せずに放つ投擲や射撃系統の魔法。
そして、それがどうしたと真正面から受け止めて無効化するのがレイズ。意識が戦闘モードにシフトすると自然と無意識の障壁が存在を主張する。
普通の魔法士が同時に使えるのは一桁が限界だ。しかしレイズは無意識で三桁、そして意識して複数人で長い時間を掛けて詠唱するほどの高ランク魔法を無詠唱で連発する。キャパシティも処理能力も通常から見れば桁外れ、しかし通常でない者たちから見れば、何でもできるが全部が全部中途半端な万能野郎。
最強の部類の中ではかなり下の方に位置するのだ。高ランク魔法を扱えるが特化した者が扱う最高ランク魔法には敵わない。しかし今は問題にはならない。
そんじょそこらの装甲ならば貫徹する魔法弾を正面から無効化し、尚且つ高速戦闘用に複数の飛行魔法をマルチキャストして瞬間的に音速越えの移動を伴って狙いを逸らす。
「野良の戦術魔法士なのか?」
「防御特化? やけに固いが」
距離が詰まってくると一度の高速移動で照準を躱しやすくなる反面、突撃してくる騎士の追尾と魔装銃の追い打ちに動きが制限され始める。真正面からすべてを受け止めたところで余裕があるとはいえ、そんな戦い方をしているといつかどこかで失敗をする。
音もなく撃ち出された魔法弾が、空気を切り裂きながら飛来し障壁に弾かれ、突撃してきた騎士を躱すと視界外から残る一人が仕掛けてきた。
ロングソードに込められた魔法が目を覚ます。白銀の剣が、桁外れに濃密に圧縮された魔力を纏い、刀身の周りに薄く長い透明な青の刃を象った。
細く長いソードが仮想の刃を纏って大剣に変わる。その青い閃光が一瞬煌めいたときには、恐ろしい速さで斬りつけられた後だった。
騎士の刃はレイズの障壁を一枚だけ、一瞬だけ切り裂いた。破壊されながら再生する障壁との魔法的な摩擦で、その刃はボロボロになり、障壁の干渉力に負けて強制的に破壊された魔法は再展開されることがない。
「ちぃっ……団長を呼べ」
「もう呼んだ。なんだそいつは……」
包囲しつつも距離を取って射撃を仕掛けてくるが、レイズが意識してさらに展開した障壁に、綺麗な波紋が立つばかりだった。
「俺は、こんなことがしたいんじゃない……。うっ、くそっ! 忘れられるか! 誰だよ、俺になにをしやがった!」
感情の爆発に伴って、安定的な還流状態にあった障壁の力が一気に解放され、莫大な光とノイズをばら撒く。巻き込まれたならばしばらくの間は魔力中毒か強引に魔法を消し飛ばされた反動で動けなくなるほどの領域ができあがり、それでもその空間に押し入ってくる存在があった。
「レイズ、貴様は護るべき民の近くでなにをやっているか!」
一喝。その一喝は、悪いことをして大人に叱られた子供が背筋に感じるギクリとするあの感覚をレイズに走らせた。
「ナイトリーダー?」
それが誰なのかは分かる。だが名前が出てこない、どういう経緯で知り合ったのかは覚えている、だがそのもととなった誰かのことが思い出せない。
「大天使メティサーナ様直属の我らを甘く見るな」
ゴバッ! と空気が押しのけられた音と共にナイトリーダーが視界から消え、後ろから来ると振り向くが、直後にガントレットに覆われた固い拳の一撃を頬に受け、ぐわんぐわん視界が揺れて意識が落ちた。
「以上、戦闘を終了、帰投せよ」




