白銀①
「いてて……」
真は自分の部屋で右頬を抑えながら苦虫を噛んだような顔をした。
「ったく、シグレのやつ本気で殴りやがって」
櫂音の裸を直視してしまい、シグレは怒り沸騰。容赦のない鉄拳制裁が下された。
色エネルギーのないシグレの拳でもそれは頬が赤くなるほどだった。
「兄さん、入りますよ〜」
ノックと共に鈴のように穏やかな声が聞こえてきた。
これは天使の声かな? 違った。我が妹の柊 柑奈である。
「おお、いいぞ」
右頬を抑えているため、少し小さめの声だが柑奈はそれを聞き取り中へと入ってきた。
「兄さん、怪我は大丈夫ですか?」
家に帰った頃は真の怪我を見て慌てふためいていたが今では落ち着いてきて、いつもの感じに戻ってる。
「はい。これで冷やしてください」
ベッドに座り袋に入った数個の氷を渡してきた。
ありがたくそれを受け取って頬へくっつけた。
「にしても、やりすぎじゃないか。ただの打撲だ。唾でもつけときゃ治るよ」
「ダメです! 痣になったらどうするんですか」
まるで喧嘩をして帰ってきた息子を叱る母親のようだ。一発ノックアウトで負けましたけど。
「わかった、わかった。言う通りにするから」
「ならどうしてこうなったか教えてください」
一瞬、部屋の空気が変わった。
柑奈の目も何かおかしい。その目には恐怖すら感じる。
すぐに答えなくては怪しまれてしまう。しかしシグレのことはできるだけ話したくない。
だがなんと答えよう。適当に階段で転んだと嘘をついてしまおうか。
いや、あの目では嘘がつけない。ついたら包丁でグサッと刺してきそうだ。それに階段で転んでこんな怪我はしない。
仕方ない。少し心苦しいが注意をそらしてこのことを忘れさせよう。
「いや〜、もっと他の話しようか。そうだ駅前に新しいケーキ屋さんができてたぞ。明日にでも行くか?」
「…….」
何も帰ってこない。
大抵の女子は甘いものが好きだからこういうのに反応すると思ったんだがハズレのようだ。
「う〜ん。そうだ蓮香にたこ焼き奢る約束してたんだよ。よかったら柑奈も一緒にどうだ」
確か柑奈と蓮香は同じクラスで仲がいいらしい。友達の名前が何かしらの反応はあるだろうという長期戦を覚悟しての牽制だ。ここで流れを掴む。
「兄さん、蓮香さんといつの間に仲良くなったんですか?」
「ん? ああ、そうか柑奈には話してなかったか。あいつには色々とお世話になっててな。そのお礼によくたこ焼き奢ってるんだよ」
といっても実質は蓮香の姉である霧香の怒りを鎮めてもらい、そのお礼にたこ焼きを買わされているだけだ。
「そうなんですか。兄さんは私の話より蓮香さんのことの方が大事なんですね」
「いやそんな事ないぞ。お前の話だっていくらでも聞いてやる」
「ならどうしてこうなったか教えてください」
振り出しに戻ってしまった。
結局、階段から落ちて下にいた銀九の胸に飛び込む形となってしまい、それに怒った銀九に殴られたと説明した。
柑奈は銀九を信頼しているのでなんとか信じてくれて部屋へと帰って行った。
その後すぐに真は携帯を開いて銀九にメールを送った。内容はもちろん、今ついた嘘をバレないようにするためのものだ。
翌日の朝。
いつものように朝食を取り、外へと出た。昨日と違うのは玄関の目の前に銀九がいたことだ。
「やぁ、二人ともおはよう」
短い銀色の髪で黄緑色の目が特徴的だ。肌は櫂音のように艶があり、とても柔らかそうだ。しかし残念なのは柑奈よりも膨らんでいない胸だ。
親が親なので将来性は十分にあるのだが、今は一切に変化する様子などない。
「どうしたんだい真」
ジロジロ観察しているところを妙に思ったのか銀色は真の顔を下から覗き込んだ。
真から見ると銀九は上目遣いになっておりその綺麗な瞳に吸い込まれそうだ。
「い、いや何でもない」
頭をブンブンと振り、遠のいた意識を生き返らせる。
「それより銀九さん。昨日は兄さんが迷惑かけました」
柑奈はペコリと頭を下げた。真がついた嘘を信じて、兄の愚行を謝っているのだ。
なんとできた妹だろう。本当に自分の血が繋がっているのかと疑問に思うほどだ。
「いやいや、あれは悪気があったわけじゃないし、真も反省してたからもう気にしていないよ」
メールで伝えておいたので真の望み通りの答えを出した。
「にしても、昨日は日直で大変だったでしょ」
このまま突っ立ったままだと遅刻しかねないのでゆっくりと学校へ歩き出した。
「そうだね。ここの高校はちょっと変わってて日直の仕事が多いけど苦ではないよ。みんなの役に立ってると思えばいいんだよ」
「流石ですね銀九さん。兄さんとは全然違いますね。見習ってくださいよ兄さん」
なんか出来の悪い息子をもつ母のようだ。しかしあまり否定はできない。
頭がそれほどいいわけではないし、部活をしているわけでもない。
「あ、そうだ日直」
この会話で真はあることを思い出した。今日は日直の仕事があるのだ。
「兄さん速く行かないと」
「そうだよ真。僕たちのことは心配しなくてもいいから行きなよ」
二人とも真よりも急いでいるように思えた。だがもちろん真も心中穏やかではない。
それは日直が二人制なことにある。もう一人はあのドリルお嬢様、苗島 霧香だ。時間的にかなりギリギリだ。
仕方なく二人を置いて走り出した。まず携帯を開いて霧香へとメールを送り始める。
すまん日直のことすっかり忘れてた
遅いですよ真さん。もう鍵は開けておきましたからあと三秒で来てください
待て! 何処かの大佐でも、もっと時間くれるぞ
私をあんなのと一緒にしないでください
わかった。とりあえず二分ほど時間をくれ。それぐらいあれば何とかなる…….気がする
わかりました。それで来なかったらどうなるか私は責任をもちませんからね
最後の一通を見てすぐに携帯をポケットにしまい込み全速力で高校へと向かった。
「一分五十八秒。ギリギリですわね」
教室の中にいる霧香は時計を見ながらタイムを宣告する。その手には箒が持たれていてとても不釣り合いな組み合わせだ。
というのも日直の仕事はまず鍵を開け、教室を軽く掃除、黒板も綺麗にしてチョークが足らなければ職員室に行き補充するのが決められているからだ。
この後も毎回汚れた黒板を綺麗にして、移動授業の場合は消灯もする。他にも小さい仕事がほんの少しだけだがある。
こんなにも面倒なので学校ではこれは生徒に対するいじめなのではないかという声も上がってきているほどだ。
だが今回に限って霧香はなる気満々だ。
掃除を始めて四、五分ほどだろうが教室はピカピカになっている。
「今日は何かあったけ」
これといって学校行事はないし、喜んで掃除をする性格でもない。
「あら、知らないんですか? 今日このクラスに転校生が来るんですよ」
「それは知らなかったな。にしても変な時期に転校してくるもんだな」
「親御さんの事情があるんですよ。それぐらい察してあげてください」
「ふ〜〜〜ん。でもそんなことでウキウキしてるなんて幼稚だな」
「ほ、ほっといてください」
トレードマークのツインドリルが彼女の感情を表すように回った……ように見えた。
それにしても転校生、その言葉は銀九と初めて出会ったことを思い出す。銀九も同じように櫂音さんの仕事の事情で転校してきた。少し変わっていたので最初の頃はクラスに馴染めていなかったが今回の転校生は大丈夫だろうか。
「心配だな〜〜」
真が持つ黒板消しの動くスピードはいつもより三倍ほど早くなっていることに自分自身では気づいていなかった。