巡回バス
彼は自分の職業に誇りを持っていた。
入社以来ずっとハンドルを任されている、巡回バスの仕事だ。
いつも同じ時間に発車し、寸分の狂いもなく各停留所に停車していく。
もちろん時刻表通りに発車する。そしてバス停を巡回していく。
時計回りの男。
正確に巡回し、且つこれまた正確に停発車する彼は、いつしかそう呼ばれるようになっていた。
多少のアクシデントに見舞われようとも、彼はその遅れを瞬く間に修正していく。
碁盤の目のように通りで区切られたこの街を、彼は毎日寸分違わず巡回していく。
それはやはり時計の針を見るかのようだ。
実際街の幾人かは、巡回バスが通る時間に合わせて生活のリズムを刻んでいた。
朝の巡回バスが通った。学校に出かける時間だ。
昼の巡回バスが通った。買い物に出かける時間だ。
夕の巡回バスが通った。夕食の支度をする時間だ。
もちろんバスを利用する人間なら尚更だ。このバスに乗っていれば、遅刻しない。このバスにさえ乗れば、家族との約束の時間に家に帰れる。
時計の針に乗るがごとく、人々はバスの巡回にその身を任せて暮らしていた。
運転手はそれを誇りに、何十年と同じ巡回バスを運転した。
「そんな職業運転手が、何故事故を?」
事故の処理にあたった警察官が、その部下に振り返って訊いた。
「それが運転手の定年退職を記念して、家族でドライブに出かけたそうです」
「出かけたって言っても、家の車庫出たところだがな。それで」
「運転手は不測の事態を避ける為に、家では事故を恐れて車は乗らなかったそうです」
「勘が戻らなかったってか? それでも大小が逆だろう? バスが久しぶりなともかく……」
警察官は軽くへこんだ左のバンパーに目を落とす。事故と言っても、物損のみ。死人はおろか、怪我人もなし。
だが名物運転手の事故は、近所の野次馬を一息に集めていた。
「車の大小の違いは、私には分かりません。ですが……」
「ん?」
「ですが、いつもとは逆にハンドルを切ったら、失敗した。それは何となく分かります」
「はぁ?」
「時計回りのバスは右折しかしませんからね。何十年振りかの左折で、慌てたんじゃないですか」
警察官とその部下が振り返ると、運転手は気恥ずかしげに視線をそらした。
それは癖がついているのか、実に自然と右を向いた。