透明な虹 ①
病気の表現を含みます。
【行きたいところが、あるんだけれど】
目の前に据えられた画面に表示される一文を、ボクはもうしばらく見つめ続けている。
静かな視線で紡いだ文章は、あとは発声を許可するボタンを押すだけで、ボクの声になる。微かに動く指先が触れる場所にボタンはあった。
今日は雲一つ浮かばない青空で心地が良い。ただ、あと一歩の決心がつかないのだ。
ボクの車椅子から少し離れたソファの上で、蒼葉は春昼の暖かさに微睡んでいる。
束の間の穏やかなときを邪魔したくない。そう思うと、ボクの願いはとんでもなく身勝手な気がした。
思い悩むと無意識のうちに呼吸は浅くなる。
喉に繋がれた呼吸器から送られる空気のリズムと、自分の呼吸が合わずにボクは小さくひとつ咳込んだ。
「琥珀……?大丈夫か」
当たり前のように、蒼葉はボクの変化に気が付く。眠たげな装いは吹き飛んで、真剣な瞳がボクの顔を覗いた。
「苦しい?」
顔色を変えないボクに、それでも蒼葉は確認してくれる。
「……良かった」
ボクが僅かに首を振れば、蒼葉は安心したように微笑んだ。
呼吸すら自分の力では、ままならない。
何をするにも、機械や人の手が必要になってしまった自分の身体が嫌になる。
気遣うような蒼葉の視線も苦しくて、ボクは瞼を閉じた。あれほど見つめ続けた画面のことなど、忘れて。
「なあ、どこに行きたいんだ。言ってみろ、どこにだって連れて行ってやる」
しまった、と思ったときにはもう遅い。
心の内で慌てても、身体はそれを映さない。ボクは緩やかに目を開けた。
「そんなに焦らなくてもいいだろう」
些細な感情の機微を捉えて、蒼葉は笑った。そうして、ボクの指先にあるボタンに触れた。
指を震わせるだけの、ボクの弱々しい抵抗はすぐに負ける。
〈行きたいところが、あるんだけれど〉
機械の声が、空気を揺らす。ボクはもう、諦めた。
〈蒼葉は?具合〉
「俺は平気だよ。いつもと変わらない」
蒼葉の身を案じてみても、ボクには彼を助ける術がない。こうして尋ねることだけが、ボクに出来ることだ。
最も、蒼葉はきっと、もしも、今まさに胸が痛くてもボクには明かさないタイプだけれど。
「それで、行きたいところって?」
寄り道をしたつもりでも、話はすぐ元に戻される。
「言ってみろ」
少し前に聞いたのと同じ、強くて優しい声がボクを促した。
花と線香の香りが、鼻腔を掠める。懐かしい眩しさが、頭の中で煌めいた。
一見するとガラス張りのような、壁一面に並んだ小さな扉は水晶で出来ている。
数多の涙を吸い込んで、その透明度は増すのだろう。あの場所を訪ねるたび、ボクはそんな風に感じていた。
あそこには、父さんと母さんが眠っている。どうしても悲しくなって、切なくなって、いつだって頬は濡れる。
皆の言う、会いに行くという感覚が、ボクには馴染まないのだ。
桜の木が蕾を付ける頃。ボクがひとりきりになった季節。
年に一度、哀傷に耐えてあの場所を訪ねることを決めたのは自分だ。
「まあ、いいや。支度するぞ」
視線を動かさずにいるボクに、蒼葉は眉を下げてそう言った。
固まったままのボクを見つめて、頷く。その場で膝を折ると、車椅子に乗せられた機械たちを確認し始める。
「服はそのままで行けるか。上着はあれを……バッテリーはこの前充電してあるから……」
ボクの傍で、ポツポツと呟く声が聞こえてくる。
どこへ行くかも、何をするのかも、分からない蒼葉はそれでも本気のようだった。
ボクを待たずに、時は流れる。想いを伝えたいと思うたび、ボクだけが置いてけぼりになるような気がする。
そして、鼓動は早まる。ボクは精一杯に視線を動かした。
〈待って〉
ボクの声は、蒼葉の動きを止めた。
〈会いに行きたいんだ〉
いつまでも馴染まない表現を敢えて選んだ。
〈父さんと母さんに〉
勢いで連ねた言葉は、感情を持たず無機質に響く。
それでもきっと、この声のなかに蒼葉は心を感じてくれている。
「そうか。どのくらいかかるんだ」
時計を確認しながら、蒼葉が言ったのはそれだけだった。
身勝手すぎるボクの自信は、いつだって裏切られない。
次回へ、つづく
どうしても長くなってしまいそうだったので、超短編の連作として書こうと思います。
二人の旅路は次回に繋げます。
先日、マシュマロを届けてくださったお方へ。
とても温かいメッセージをありがとうございました。
嬉しくて何度も何度も、読み返しています。
失いかけていた創作意欲が復活しました。
読んでくださっていることを願って、こちらでお礼をお伝えいたします。




