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異世界恋愛系(短編)

最後を決めるのは、あなたではなくて私なのだけれど?

 王妃ヘスターは希代の悪女として、処刑されようとしていた。なぜこんなことになったのか、ヘスターにはさっぱりわからない。わからないことが、もしかしたらヘスターの罪なのかもしれなかった。


 ヘスターは学のない女だ。そもそも、王妃になるような身分の人間ではない。田舎貴族どころか、ただの片田舎に住むごく平凡な平民の村娘に過ぎなかったのだ。特筆すべきことは、遠い街から引っ越してきた綺麗な男の子スチュアートと仲が良かったということくらい。


 それでもヘスターは、その男の子と一緒に大きくなり結婚できる自分は世界で一番の幸せ者だと思っていた。大好きなスチュアートのためにお料理を頑張ろう。スチュアートと自分の誕生日、それから新年を迎える日にはふわふわの白パンも食べられたらいいな。そんなささやかな希望を抱きしめて、ふたりは寄り添っていた。


 そんな未来が崩れ去ったのは、村でささやかな結婚式を挙げた翌日のこと。スチュアートを迎えに来た王都の騎士団から、彼が高貴な血を引いていること、早逝した国王と王太子の代わりに王座に就くのだと知らされた瞬間に、ヘスターの幸せは壊れてしまった。


 スチュアートを迎えに来た騎士たちは、彼とヘスターが既に婚姻済みだと知ると、大層難しい顔をした。この世界で離婚は不可能だ。神殿で誓いを行えば、神の名のもとに婚姻は承認される。なかったことにはできない。


 唐突に騎士の剣が迫りヘスターは覚悟を決めたが、命を落とすことはなかった。彼女の身は、スチュアートの母の形見である加護の指輪が守ってくれたのだ。その指輪は亡くなった国王からスチュアートの母に贈られたものらしいが、取り上げようにもヘスターの指から外れることはなかった。


 結局ヘスターは故郷に残ることなく、スチュアートの正妻として王都に帯同することになる。図々しい田舎女と蔑まれたが、ヘスターは気にも留めなかった。ヘスターはわかっていたのだ。スチュアートを迎えに来た時でさえ、不意打ちで殺されそうになってしまった。彼と離れてしまえば、どうせすぐに殺されるに決まっている。一緒に行っても死ぬ。一緒に行かなくても死ぬ。それならば、最期の時までスチュアートの隣にいよう。それが自分のたったひとつの望みなのだから。


 しかしヘスターは甘かった。確かに彼女は平民なりにいろいろと考えて行動していたけれど、悪辣さではどうしても貴族には敵わない。彼女はスチュアートと一緒に王都に引っ越してから数年の後に、国王をたぶらかした希代の悪女として処刑されることになってしまったのである。


 一体何が起きたのか、意味がわからなかった。何せ罪状は、横領。王国の財政難はヘスターが無駄な贅沢をした結果起きたのだという。そんなはずはない。城に連れてこられてからというもの、ヘスターは基本的に軟禁状態だった。数度社交の場に出たことはあったが、すぐにお声もかからなくなった。食事も日に数度差し入れが行われるのみ。


 初めのうちはスチュアートもヘスターの元を訪れていたが、それもしばらくするとなくなってしまった。いくら幼馴染とはいえ、王都の高貴な女性と比較すれば粗が目立つのだろう。そんな風に心ない者は噂したが、ヘスターはそんなことちっとも構わなかった。ただ心配なのは、スチュアートがちゃんとご飯を食べているか、ちゃんと夜眠れているか、それだけだったのだから。


 処刑が決まってからも、国王となったスチュアートはヘスターの前に姿を現わさなかった。代わりに当日、彼女を最も敵視していた宰相とその娘である侯爵令嬢が品のない笑みを浮かべて特別席に座っていた。処刑は庶民の娯楽とはよく言ったものだけれど、うら若き乙女が堂々と見学に来るのはいかがなものだろうか。


 詮無きことを考えつつ処刑人の前にひざまずき、そっと首を垂れた。スチュアートが誉めてくれた髪の毛も、斬首の邪魔にならないように短く切られてしまった。そういえば冤罪の処刑の場合、守りの指輪はどうなるのだろうかと思っていたヘスターは、最期の瞬間に驚きに目を見張ることになる。なんと、守りの指輪はその加護を発動しなかったのである。


 ころころと転がったのは、ヘスターの首か、それとも加護を失った指輪か。スチュアートのことなど、恨んではいない。けれどもしも可能ならば、スチュアートに自分のことをどれだけ愛していたのか聞いてみたいと思った。



 ***



 そうして死んだはずだったのだ。ところがヘスターは天国でも地獄でもなく、不思議な洋館の前で意識を取り戻したのである。小さくお腹が鳴った。一瞬生垣のベリーに手を伸ばしかけて、慌てて引っ込める。さすがに故郷のような田舎ならばともかく、こんな立派な屋敷のものをつまみ食いしたら怒られるに違いない。それに辺りには、何だかとても美味しそうな香りが漂っていた。


 王宮に着いてからヘスターは少しずつ食事を摂ることができなくなっていった。もともと王都風の食事は脂っこくて苦手だったのだが、嫌がらせで冷めきったものばかり出されてうんざりしてしまったのである。毒見があったにもかかわらず、毒殺されかけたのだって一度や二度ではない。久しぶりに感じる食欲は、足を動かす原動力となった。


 洋館の中の様子はどうにもうかがえない。取次ぎをお願いできそうなひともいない上、空腹感は強まるばかりだ。玄関の扉をたたいても、応答はない。失礼しますと声をかけて扉を開けば、そこは小さなレストランだった。


「そこで何をしている!」

「きゃっ!」


 せっかくだからと足を踏み入れようとしたヘスターだが、彼女は入り口からつまみ出されてしまった。唇をとがらせてふりむいたヘスターを見下ろしていたのは、怪しげな仮面をまとった男。奇妙にねじれた角が目を引く。


「私は、お腹が空いたので……」

「いつここへ? どうやって中に? まさかもう、何かその辺りのものを口にしてしまったのか?」

「……いえ、お腹は空きましたけれど、まだ何も食べてはいません」


 生垣のベリーに手が伸びかけたことを思い出しつつ、ヘスターは答えた。なぜか疑わしそうに彼女を見下ろしながら、仮面の男は入口の扉を指さした。


「出て行きなさい。君は、客人ではない。いずれ時が来たならば、君のための予約はこちらで入れておこう。心配はいらない。この屋敷の前の道を左に向かって真っすぐ歩けば、君の故郷に辿り着くはずだ」

「私、帰る気はありませんけど? 故郷とか言われてもねえ」

「は? まさか記憶がないのか?」

「とりあえずお腹が空いているのですから、ケチケチせずに食事を出していただきたいのです」

「ひとの話を聞いていなかったのか?」

「聞いていましたが、空腹には勝てません。客として迎えいれるには身分が足りないということであればお願いです、働かせてください! そして私に食事を!」

「いや、だから」

「お願いします! 

「本当に、君というひとは……。はあ」


 そういうわけで、半ば無理矢理ヘスターは従業員として働く権利を手に入れたのだった。



 ***



 洋館には毎晩、さまざまな客が訪れる。ここは夜だけ開店するレストランらしい。どうやって予約を受け入れているのかわからないが、夕焼けが色濃くなり、辺りが闇に包まれると、どこからともなく客人がやってくる。


 ここでは、どんな料理だって注文できる。屋敷を訪ねてくる人々も老若男女さまざまだ。時にはヘスターが見たこともないような国籍の人々だってやってくる。どんな時でも、レストランの席は満員御礼だ。そして不思議なことに、屋敷の主人は膨大な客のための料理をひとりで準備してしまう。


 ヘスターが許されているのは、裏庭から野菜を収穫すること、野菜の下ごしらえを行うこと、そして食器の後片付けをすることだけ。仕上がっていくさまざまな料理の香りに、ヘスターは毎度生唾を飲み込んでいた。何せ、収穫した果実の汁さえ口にしてはならないのだ。一度、手についたものをなめとろうとしたときに、激しく叱責された。残念ながら押しかけ住み込み従業員のヘスターにまかないは出てこない。恨めしそうに食器を洗いながら、ため息を吐く。


「そんなに食事がしたいのなら、さっさとこの屋敷を出ていけばいいだろう。以前も説明した通り、一本道をまっすぐ戻れば君の故郷に帰れるのだから」

「私はずっとここにいたいんです。それはそれとして、こんな美味しそうな匂いを嗅ぐだけなんて、拷問としか思えません! 私だって味見したいです」

「自分で望んでおいて拷問とは人聞きの悪い。まったく」


 そう言いながらも、屋敷の主人はヘスターに向かっていくつかの果実を投げてよこしてきた。桃のような林檎のような、見たことのない果物は屋敷の裏庭にあるものではない。ヘスターが口にして良いと許可が得られているのは、この果物だけだ。


「いい加減、私にも食事を出していただけませんか?」

「文句があるなら、食べなくても構わないが?」

「ありがとうございます! 美味しくいただきます!」


 エプロンでさっと磨いてから、そのままかぶりつく。皮を剥く必要もなく、甘く瑞々しい。何度食べても毎回驚きたくなる美味しさに目を細めながら、彼女はふっくらとした唇をなめあげた。



 ***



 ひっきりなしに客が来るとはいえ、食事を客人たちに提供することにも慣れてきた。嬉しそうに食事をするお客さまとの会話も弾む。少しばかり残念なのは、リピーターとなるお客さまがひとりもいないことだろうか。誰もが心の底から満足そうに帰っていくが、もう一度店を訪れる機会はないのだ。食後のお客さまが軽やかな足取りで進んでいく姿を、ヘスターはただ静かに見つめていた。


 そんなある夜、王妃時代のへスターを苦しめた宰相と娘である侯爵令嬢が館を訪れる。薄汚れてはいたが、間違いない。一方の宰相と娘は、ヘスターを見ても彼女が王妃であったことには気が付かないようだった。


「儂が食事を希望しているのだ。席が空いておらずとも、作るものだろう」

「そうよ、そうよ。お父さまを一体誰だと思っているの!」

「こちらではどのような国からいらっしゃっても、どのような地位に就いていらっしゃっても、みな平等でございます。そして大変申し訳ございませんが、あなた方はお客さまたりえないのです」


 なおも食い下がろうとする宰相と侯爵令嬢は、洋館に足を踏み入れようとした瞬間に弾き飛ばされた。まるで雷に打たれたかのように悶絶している。屋敷の主人はその姿を無言で見下ろすと、そのまま扉を閉めてしまった。重厚な扉だが、完全なる防音とは言いがたい。しつこく、食べ物を出せと騒ぎ立てているふたりだったが、それもしばらく経てば静かになった。


 ようやく諦めたのだろうかと思いきや、今度は裏庭で何やら騒がしい音が聞こえてくる。客人に詫びを入れながら、裏庭に向かう主人をヘスターも追いかけると、予想通り宰相とその娘が裏庭へと侵入していた。かつての上品な姿が信じられないほど獣のような勢いで塀を乗り越え、畑の野菜や木々の果実を食べようとしている。けれど彼らが手にした瞬間に、木々も草花もことごとく枯れ果ててしまう。そして水でもいいから飲みたいと井戸に手を触れた瞬間、水さえも干上がってしまうのだ。


「何度も言わせるな。貴様らは客ではない。自分たちのふさわしい場所もわからんのか?」

「ふざけるな! 儂らを何だと思っている!」

「救いようのない屑だが? さっさとこの場所から離れればよいものを、これ以上自分を煩わせるならば」


 そして何をどうしたのか、宙から見事な剣を取り出す。大剣を構えようとした瞬間に、ヘスターは主人に近づきそっと自身の手を重ねたのだった。



 ***



「おやめください」

「君はなぜ止める?」

「だって、これはあなたの役割ではありませんから。そうでしょう?」

「僕の役割ではない? そんなことが許されるなど」

「この手は、みんなを喜ばせる美味しいお料理を作るためにあるはずです。あんなひとたちを、斬るためではなく」


 見覚えのある大きな剣は、恐ろしいほど刀身を光らせている。死神の大鎌を想起させる凄味があった。大剣を強く握り過ぎて白くなってしまった男の手を撫でた。彼の手の握ったまま、わめきたてる宰相と侯爵令嬢の後ろを指さす。


「あれは、一体」

「扉が、開いている……」


 ヘスターの指さした先にあったのは、日頃彼女が近寄ることを許されていない物置小屋だった。この扉を開く鍵は屋敷には存在しないと仮面の男から聞いていたはずなのに、固く閉ざされているはずの物置小屋の扉には隙間ができている。なぜだろう、普段は気にもならないこぢんまりとした物置小屋が、不思議なほど重々しく見えた。やがて音もなく開いた扉の向こうには、一面の業火。離れていても顔が歪むほどの熱風が押し寄せてくる。


「ヘスター、こちらへ」

「あっ」


 名前を呼ばれたかと思ったら、そのまま背に庇われた。熱風と一緒に火の粉が飛んできたのだろう、鮮やかな色が夜を切り裂いていく。


「お前たち、儂らを助けんか!」

「いやあ、離してえっ!」


 避難したヘスターたちを見て慌てて扉から離れようとする宰相と侯爵令嬢だったが、彼らが逃げ出すことは叶わなかった。熱風と炎に交じって中から伸びてきたのは、無数のひとの手。闇夜を溶かして創り出したかのような奇妙な手によって、あっさりと彼らは捕まえられ、扉の中に引きずり込まれる。やがて囚われの彼らを業火が呑み込んだ瞬間、扉は勢いよく閉まり、再び内側から鍵のかかる音がした。


「どういうことか、説明してもらえますよね?」

「……いや、君が知る必要のないことだ」


 静かに見上げてくるヘスターに、屋敷の主人は口ごもる。彼は自身の仮面を手でおさえつけると俯いてしまった。ヘスターは腰を両手に当て、やれやれと肩をすくめてみせる。


「いい加減にしなさいな、スチュアート。あなたが話したくないようだったから黙って待っていたけれど、これ以上詳しい話を拒むようなら、押し倒してでも詳細を確認するわよ。これ以上、あなたに背負い込ませるなんてまっぴらごめんだわ」


 その言葉を待っていたかのように、真っ二つに割れた男の仮面が地面に転がった。



 ***



「一体いつ記憶を取り戻したんだい? いつから僕だと気が付いていた?」

「あら、私、記憶喪失だなんて言った覚えはないけれど? 私はただ、ここの料理が食べたい、それがダメでもここにいたい、故郷には帰りたくない。どうか店で雇ってくれと話しただけでしょう? それに、角が生えたくらいであなたがわからなくなるわけないでしょうが。化け物に変身したって見つけてあげるわ。本当にお馬鹿さんなんだから」

「ああ、そうだな。僕は間違ってばかりだ。君は昔からそういうひとだった。本当に自由で、頑固で、自分が納得できなければ絶対に従わない」


 ヘスターの回答に呆然としながらも、スチュアートはどこか懐かしそうな眼をした。


「この屋敷は、彼岸と此岸の境に存在している。天国に向かう者が、最後の晩餐をいただくためにね。未練が消えることで、永遠とも思える長い階段も羽のように軽い身体で苦も無く上ることができるそうだよ」

「つまり、ここでの食物を口にすれば現世に戻ることはできないのね」

「だから君には、この地の食べ物を口にさせるわけにはいかなかったんだ」


 ヘスターのために用意されていた果物は、本当に特別なものだったのだろう。それこそ、死に近い場所にいてもぎりぎり死なずにいられるような。狂おしいほどの飢餓感さえも癒してくれるような。


「物置小屋に近づかせなかったのは?」

「地獄の門の選別基準は不明だからね。うっかり呑み込まれたら困るだろう?」

「私をあの宰相やご令嬢と一緒にしないでちょうだい」

「だが、あの地獄の門は僕のことを呑み込んではくれなかった。まったく、基準があいまい過ぎる」


 頭が痛いと言いたげに額を押さえるスチュアートを見て、ヘスターはふっと口角を上げた。


「殺すしか救いがなかったのなら、殺して罪に問われるはずがないでしょう?」

「……君はどこまで知っている?」

「あの国のお偉いさんが、信じられないほど下劣で悪辣だということくらい」

「なるほど、完璧な理解だ」

「ねえ、私のこと今でも好き?」

「当たり前だ。君がまだここを訪れていないと知ってどれだけ僕が嬉しかったか。天国行きの権利を捨て、この屋敷の主人に成り代わり、君の訪れを待つくらいには君が好きだ」

「その返事が聞きたかったの」


 にこりと微笑むヘスターは、本当に幸福そうだった。


「君は、現世には戻りたくないんだよね?」

「ええ。大切なものは、もうあそこにはないから」

「それなら今夜は腕によりをかけて最後の晩餐を作ろう。天国できっと幸せになっておくれ」

「……スチュアート、あなた、一体何を言っているの? 最後を決めるのは、あなたではなくて私なのだけれど? 私、あなたのいない天国になんて行かないわよ?」


 スチュアートが目を瞬かせた。


「天国に行く権利を捨てたと言っていたけれど、あなたはずっとこの屋敷の主人をしなくてはいけないの?」

「基本的には未来永劫。あるいは、僕のように奇特な人間が交代を申し出た時には、役目から解放されるかもしれない」

「なら、ちょうどよかったわ」

「何を言って」

「最後の晩餐を食べて、天国に行くのでしょう? ということは、最後の晩餐を食べなければ、好きなだけここに留まることも可能ということよね?」

「いや、ヘスター。ここは、最後の晩餐を食べるための特別な場所で……」

「だからね、何度も言っているけれど、私はどこかへ行きたいのではなく、あなたの隣にいたいのよ。あなたが食べる最後の晩餐を、私も一緒に食べたいの」


 それはずっと昔からの、ヘスターの変わらない願いだ。それにもしかしたら、いつか昔のスチュアートのようにこの地に留まることを望む者が出てくるかもしれない。それまでレストランの店長さんと従業員として楽しくお仕事しましょうねと微笑むヘスターを、スチュアートは静かに抱きしめた。



 ***



 死んだ後、ひとはどうやって天の国に行くのか。善き行いをしてきた者は天の国へ行くことができると言われているが、具体的にどのような行程を辿るのかについては、複数の言い伝えがある。


 ある地方では三途の川を渡し舟で渡るといい、また別の地方では大きな門をくぐるのだという。だが、わたしが体験したものはそれらとは全く異なるものだった。わたしが見たものは、三途の川でもなければ大きな門でもない。片田舎にありそうななんとも可愛らしいこぢんまりとした洋館だったのである。


 洋館の後ろには空まで続く長い階段があった。ぼんやりとそれを眺めていたわたしは、天啓のようにその階段を上らねばならないと認識した。しかし、足を進めようとしたわたしの前には、物静かそうな美丈夫と快活な美女が現れたのである。一体彼らは何者なのか。首を傾げるわたしに向かって、美女はにこやかに教えてくれた。


 彼らの用意してくれる料理を口にすれば、何の憂いもなく天の国へと昇っていけるのだという。


「こちらではお客さまの思い出の味を、最後の晩餐としてお出ししております。亡きお母さまの得意料理から、今はお店を畳んでしまった懐かしの定食屋の限定メニューまで。リクエストには可能な限りお応えいたします。お客さまの御希望はお決まりでしょうか?」


 なるほど、天国へ昇る前に最後の晩餐を振る舞ってもらえるのか。わたしの辿り着いた場所は、なんとも親切な天国への入り口だったようだ。しかし、何を食べようかとあれこれ悩んでいたところで、無情にもわたしは屋敷から外に出されてしまった。


「お客さま、申し訳ございません。お客さまは、手違いでこちらにいらっしゃっているようです。料理の提供は難しく、また改めてお越しいただければと」

「そんな!」

「どうぞよい人生を。次回お越しの際には、たくさんの思い出をお聞かせくださいね」


 読者諸君がどのような天国を信じているかわたしは知らない。だが最後の晩餐については考えておいた方がよいだろう。万が一、あなた方がわたしと同じ天への道へ向かうことになった時のためにも。もしかしたらあの場所は、わたしのような食いしん坊がたどり着く食いしん坊の天国への階段なのかもしれないが。


(とある新聞のコラムより抜粋)



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