君のアクセサリーになりたい
一介の企業勤めにしかし過ぎず、人よりも背が高い以外取柄もない凡庸な僕。そんな僕が待ち合わせしているのが今月もハイファッション雑誌の表紙を飾っている彼女だと誰が思うだろう。ただの荷物持ちならまだしも、その枠を超えて恋人と言ったらどれくらいの人が信じてくれるだろう。僕も正直信じられない。そんな僕は最近、彼女に不相応な自分が次第に嫌になってきている。嗚呼、君の一軍アクセサリーになりたい…
ラナンキュラスを詰めた小ぶりのバスケットをテーブルの上へ、刊行されたばかりのハイファッション誌は右手に抱えたままで左手に持っていた革鞄を隣の椅子に置き、最近ようやっと常連になれたカフェのテラス席に座る。
「おはようお客さん。何にする?」
今日も変わらず白髪交じりの髪をびしっと後ろへ撫でつけて、黒ベストに白シャツ姿の制服を着た店員さんがメニュー表を持って来た。けれど彼はメニュー表を脇に挟んだまま腰に手を当てて、ニヤニヤ笑みを浮かべながらこちらを見下ろしている。
「…いつもので」
常連の特権である「いつもの」の合図。僕もついにその言葉で通じる客になれたと自負していたが、そうあからさまに待たれると今まで憧れていた台詞を言う自分が途端に恥ずかしくなる。
「はい。かしこまりました」
顔を見ずとも店員さんがニヤついているのがわかる。店員は「ふふん」と笑みを残して去って行った。
いやー、恥ずかしい。高級仕立てのイブニングドレスに身を包む女性を引き立てられるようないい熟年男性になるためには、カフェの一つや二つくらい「いつもの」で通じる常連になりたいと思ってはいたのだが・・・その目標を初回でつい言ってしまったのは失敗だった。
緩んだ口を隠すように、そっと頬杖をついて自然に口元を押さえる。今からでも店を変えようか・・・いや、それこそ恰好悪いか。それに、ここのフレンチトーストが食べられなくなるのはあまりに惜しいな。あの甘すぎない、けれど満足感たっぷりのフレンチトーストのおいしさ。成人した男がフレンチトーストなんてと今までは避けていたが、一度人目を盗んで客と通行人の少ない時間帯に食べてしまってからあの味が忘れられない。大人の男らしさを演出するために頼んでいるそこまで好きでもないコーヒーよりも先に「フレンチトースト」の言葉が出るくらいはここの味に魅了されてしまっている。今日も人通りが少なく、テラス席は自分一人、人目を気にせず食べられる絶好の機会ではあるのだが、今日は食欲よりも男らしさの演出を優先して食べるのはよしておこう。
…いや、まてよ。ここ最近は毎度コーヒーとフレンチトーストのセットで頼んでいる。もしフレンチトーストと付け合わせにコーヒーを頼んでいる客と認識されていたら、終わりじゃないか!自分の目指す紳士という言葉からはほど遠い間抜け具合に思わず両手で頭を覆った。
やらかした。頭を抱えながら心の内で唸っていたその時、遠くから革靴の足音が耳に刺さる。その瞬間すぐさま両手を膝上におき、背筋を伸ばして、体内から稚気を吐き出すように深呼吸をした。さっきから一人で笑ったり、頭を抱えたり、あまりにも格好悪い。ここは紳士らしく読書でもしよう。そう思い立ってすぐさま脇に抱えていた雑誌を見たが、自分が買ったのは新聞でも経済誌でもなく、ファッション誌。いい男になるという道のりは、まだまだ遠そうだ。
表紙にはファッション誌の名前と、現在ファッション界を席巻しているクチュールメゾンによる新作イブニングドレスに身を包む一人の女性。
上半身が写った彼女が身に包むのは、腰元を細く絞り、ふんだんに布を使ったフレアスカートという形の総レースドレス。そのレースは単純なパターンを繰り返す機械織りのレースではなく、大小種類異なる草花が咲き乱れる複雑で分厚いレース。その複雑で精緻なデザインはまるで経糸に絹糸、緯糸には生花を織り込んでいった織物のようだ。
それだけでも十分美しいのだが、さすが素材にお金と手間を際限なくかけてつくられたオートクチュール。花モチーフの縁や線の上をなぞるように小さなクリスタルスパンコールが縫い付けられている。きっと動くたびに小波立つ水面のようにきらきらとまばゆく輝き、光の花模様が浮かび上がるのだろう。総レースというだけで贅沢なのにスパンコールで縁取る。白地に白のレース、クリアスパンコールというこの上ない贅沢。それゆえに「無駄」「過剰な贅沢」といった言葉も投げかけられそうだが、そんな野暮な文句はそのドレスを身にまとってモデルが一回転すると一瞬にして吹き飛ばされるだろう。
モデルのタイトに結いあげた漆黒の髪波は波打ち、まるで闇にかすかな月光で輝く夜の海のよう。その闇夜を照らす月は三日月らしく、結い上げた髪には湾曲する真珠のラインをダイヤモンドが挟むようにセッティングされたエグレットがつけられている。
18世紀から19世紀にかけてかけて王侯貴族の間で流行した髪飾りをエイグレットというが、これはヴィンテージ品か、コスチュームジュエリーか、後で彼女に聞いてみよう。三日月型のエイグレットというのはよくあるデザインらしく、月の女神の化身といわれても頷いてしまう美麗な貴婦人を描いた肖像画の頭部に注目すると、頭上に輝く三日月をつけていることがたびたびある。三日月は月の女神ディアナの象徴。美神の象徴を身に着けることに臆することもなく批判されることもない美女にだけ許されるデザインだ。
じゃあこのドレスのインスピレーションの元は美神の一人であるディアナ?でもドレスのモチーフは輝く千花模様。ドレスだけ見れば花の女神フローラと言ったほうがいいだろう…いや違う。ああなるほど、そういうことか。エイグレットの三日月は美神ディアナのような美女という暗喩ではなく、総レースの花を照らす夜空の月という意味なのかもしれない。まるで縦長の風景画を見ているような心地になる技巧と工夫をこらしたコーデに思わず感嘆のため息がこぼれる。頭に輝くエイグレット以外には宝飾品はなく、首も腕も、そして指輪といったアクセサリーもない。すべてはその夜景を引き立てるためか…
「お客さん、ファッション誌の人かい?」
顔を上げると、いつの間にかあの店員さんがコーヒーをもってきていた。
「え?」
「男がファッション誌を読むなんてなかなか無いだろう?お客さん、そういう類の仕事の人かい?」
「いえいえ、安月給の会社勤めです」
「意外な職業。そういうスーツの男は経済紙や新聞を読むもんだからな」
「あまり上昇志向はないもので」
「これまた以外、いい背広だからてっきり出世頭かと思っていたよ」
「身なりを整えるのは最低限のマナーですから。でも…もし僕が女性だったら、もっとお金を稼ごうと邁進していたでしょう」
きっと僕が女性だったら、きっと着道楽に生きていただろう。お金とクローゼットがいくらあっても足りない人生。でも生憎僕は男として生を受けた。若造にしてはスーツの仕立てが良いのは、父親が紳士服の仕立て屋のオーナーだから。そんな父親の息子が下手な仕立てのジャケットを着ようものなら勘当される。
老舗のテーラーなだけあってスーツに対する目は厳しく、外食しようものなら料理に対する「おいしい」の賛辞よりもほかの客のスーツの文句をいうような頑固者。
「そんなスーツを着るならうちで仕立てたものを着ろ」
会社勤めに際して適当なスーツを選ぼうとしていた手を叩くように、父親はスーツ一式をタダで揃えてくれた。厳格でスーツに対する過激思想ばかり叩きこまれた記憶しかなかったが、なんだかんだ言って息子想いの優しい父親。出世払いで恩を返そうと思っていたが父はそれをきっぱりと断った。「うちのスーツを着て猫背になろうものなら勘当だからな」そう言って背中をバシッと叩かれた。どうやら自分は背の高さを見込まれ、実家の広告塔としてテーラーメイドスーツを着せられているらしい。
「へーそうかい。てっきりその表紙のファッションモデルの付き人かと思ったよ」
「え?」
「ずいぶんと前に、そのとびぬけた美人さんの後ろで買い物袋を抱えて追いかけるお客さんを見たことがあったんだよ」
「ああ…」
「てっきりその本はあの美人さんに表紙の出来栄えを確認するためにと手配を命令されたもので、その花も華の無い寂れたうちの席じゃ不機嫌になるから、せめてでもと急いで用意したのかと思っていたんだが」
「付き人っていうより、使い走りじゃないですか」
「違うのかい?」
そう言って店員さんは大口で笑った。
「そうですね…正解です。今も昔も変わらず荷物持ちをしてます。けど…叶うことなら僕は彼女の一軍アクセサリーになりたいんですよね」
「一軍アクセサリー?」
頭をかしげる店員さんに、一度口をつけたカップを受け皿に戻す。
「…どれだけの美女でも、身にまとうもの、身に着けるものが粗品だと元来の美しさは大きく損なわれます。陶磁器のように滑らかな手には、朝は絹かラム革の手袋、夜はパールやダイヤモンドのジュエリーを。砂時計のような体には、流行遅れな化学繊維の野暮ったい服より、最高級のメゾンによるオートクチュールのドレスを。恋人だって同じです。どれだけの美男でも、ヒモ男や多情な男は黄ばんだニスのように女性の美しさを大きく損なわせるでしょう?」
「確かに、美女には美男だ。その表紙の女性には、演技派のハリウッド俳優や、ギリシャの海運王ぐらいじゃないと釣り合わない。確かにそういう紳士たちは美女にとって最高級のハイジュエリーだな」
「そうですよね…だから僕のこの想いは高望みなんです」
自立心と気の強さを色濃く表すような弧を描くきりっとした眉。切れ長にマスカラで強調された長いまつ毛に包まれた、虎目石のごとく輝く茶色の瞳。まるで彫金が見事な銀のペーパーナイフで紙を切るように、人々の胸を感動で切り裂く。僕もそんな彼女の信奉者の一人だ。ほか信奉者たちと違うところと言えば、ガーネットのように輝く赤い口紅を塗った唇のチークキスが一度もないのに、なんの飾り気もない朝露に濡れた薔薇のような素の唇で唇にキスされたことがあることだろうか。
「僕は一介の会社勤めです。それにくらべて彼女は一時間の撮影でも大金を稼ぎ、有力ファッション雑誌では表紙の常連。僕では、彼女が身にまとうような一着数十メートルのシルクを使用した数百万のドレスや、名だたるメゾンのジュエリーにあしらわれた宝石の輝きにも負けてしまうでしょう」
「お兄さん、このモデルさんが好きなのか?」
「…」
「はい」とも「いいえ」とも言えず、ただ笑みを返すと、店員さんは眉をしかめて腕を組む。
「相手はどうなんだ」
「一応恋人なので相思相愛なはず…です」
「それじゃいいじゃないか。どれだけの才能や成功に財力を手にしている男でも負かすことが可能なのが愛情だ」
「…男女間の愛情ほど脆いものはありません」
「なるほど。だから一軍アクセサリー、つまり生涯愛用される殿堂入りアクセサリーになりたいってことか」
地味で凡庸。大した才能も財力もない。それどころか甘いものが好きで女性もののファッションを見るのが大好きという男らしさとはかけ離れた性格。その並みの男よりはファッションに精通しており、男のゆえに力があって荷物持ちにはうってつけだった僕が母の付き添いで行った百貨店で偶然彼女と出会い、意見を聞かれ、運よく彼女の好みに添った意見を言えたから今がある。「無難に合うから」そんな一時の気分でよくつけているだけのファインジュエリーの気分だ。
しかしアクセサリーとは身に着けられることを至上の幸福とする無機物。一時でも彼女のそばに居られるなら…それでいいじゃないかと思わなければならない。指輪だったり、バッグだったりを送ったこともあったが、そんな彼女の財力で事足りるようなことはするものじゃない。求められること以上のことをするものじゃない。飽きられて捨てられたとしても、抵抗もせず泣き言も言わずに黙って受け入れよう。
「づけづけと聞いて悪かった。今日はタダで飲んでいってくれ」
「…ありがとうございます」
去っていく店員さんの背中から目を落とし、少し冷めたコーヒーに口をつける。あー…やっぱり苦い。何度飲んでも慣れない味だ。
「やっぱりフレンチトーストもいるか?」
顔を上げると、数歩先で足を止めた店員さんが肩越しにこちらを見ていた。
「ん-…今日は遠慮しておきます」
「そうか」
優しい店員さんだ。「ありがとうございます」と心の中でその背中にかけたその時、遠くからコツコツと高らかに鳴り響く足音が近づいてくる。どうやら彼女が来たようだ。
今日は音が響くハイヒールの靴。どうやら気分が悪いらしい。彼女は気分が悪い時に興味もない男からお茶に誘われるのを一番嫌う。そんな時、彼女はあえて靴音が高いハイヒールをあえて選び、男のよこしまな思惑も町中の視線もハイヒールの高い足音で華麗に踏みつぶす。
顔を上げると向こうからブラックのスカートスーツに身を包んだ彼女が歩いてきている。ラベンダーカラーのパウダーをうっすらはたいて白さを引き立てた鎖骨をかすかにのぞかせるショールカラーに、七分袖のジャケットをウエストあたりで共布のベルトでしぼった上半身。脛が少し見える程度のロング丈スカートは、ギャザーではなく、こっくりとしたAラインがでるようにパターンを引いた構築的なスカート。シンプルなリトルブラックドレスは装飾がなさすぎると喪服となり、逆に装飾過多になるとせっかく黒でくっきりと浮かび上がらせたAラインが台無しになる。絶妙な足し算と引き算が求められるリトルブラックドレスだが、やはり彼女は完ぺきだった。ショールカラー、七分丈の折り返したカフス、そして腰もとについたポケットの口布に、豊満な艶を浮かべる黒いシルクサテンの生地をあしらっている。装飾をあえて極限まで削ぎ、生地を変えてメリハリをつけるとはお見事。さすがハイファッションモデル。手にはレザーの白手袋。そして頭にはホワイトサテンのピルボックスハットをわずかに傾けるようにかぶっている。
彼女は僕を見つけると、足早に近づいて目の前で立ち止まる。
「仕事お疲れ様」
「…」
彼女は僕を見下ろして黙ったまま動かない。何かあったのだろうか…美人の沈黙は気迫があって、おもわず後ずさりしたくなる。
「あ、そうだ」
沈黙が怖くて、その沈黙を破って彼女の口から出る言葉が怖くて、ラナンキュラスのバスケットを手に取る。
「行きつけの花屋で見つけたんだ。簡単に咲く安い花だけど、薔薇の花ほど重みがないし軽やかなオーガンジーみたいに華があって、それになんだか桃みたいなグラデーションがおいしそうだったんだから買っちゃった」
そう言ってラナンキュラスの花を一輪撫でる。果汁を感じるような瑞々しいグラデーションは食欲を誘う。でもこうまじまじと見ると、ラナンキュラスより薔薇のほうがよかっただろうかと思ってくる。八重咲きで確かに華がある花ではあるが、同じ八重咲のオールドローズとくらべればちんけな花である。彼女というハイファッションモデルにはふさわしくないのではないだろうか…
「ふふ」
悶々と立ち込める後悔の念を吹き飛ばすような笑い声に顔をあげると、彼女はあきれるように目をつむって笑みを浮かべていた。
「貴方くらいよ、おいしそうだったからっていう理由で私に花を贈るのわ」
「え?」
そういって彼女は固い蕾がほころぶような柔らかな笑みを浮かべた。いつも意志の強さがにじみ出た冷たいとも傲慢とも見えるそのきりりとした顔が、愛に満ちた女神のように見えた。
「さあ、いくわよ」
しかしそんな顔もほんの一瞬。すぐにすんと口角は横一文字に戻り、すっと僕の隣を通って行った」
「え?あ、はい!」
急いで鞄と雑誌、そしてバスケットを抱え、店員さんに「ごちそうさまでした」と声をかけながら彼女を追いかける。
「あなた、どうおもう?」
「え?」
追いついたとたんにそう言われて、僕は彼女の胸元につけられたブローチを見る。ブラックのジャケットに合わせたのは、無難ともいえるイエローゴールド。彼女のようなハイファッションモデルが鍍金なわけがなく、きっと純金なのだろう。しかしそのブローチは決して見栄や価値をまとっているような下品さはない。なぜなら硬質なはずのイエローゴールドは乙女が結んだような柔らかい蝶結びをしたリボンの形をしているからだ。金色のサテンと見まがうように柔らかそうなのだが、リボンの縁をなぞる縫い付けられたようなレースが透かし彫りを施したホワイトゴールドの地金とメレサイズのダイヤモンドで表現されているのだから貴金属であることには間違いない。イエローゴールドの部分にはあえて艶を抑えるように極細の筋線を彫るサテン仕上げが施され、より金属感を排除した本物の布らしいリボンのブローチだった。
「普段の君からしては控えめに見えなくもないけれど、そのささやかなリボンモチーフがブラックのアクセントになっているのは間違いないね。リボンって言ったらコーデがフェミニンに傾くモチーフだけれど、熟練の技巧と繊細なレースをあしらったようなホワイトゴールドの透かし彫りが君の確かな知性と品性を引き立てるし、こっくりしたAラインのエレガントな女性らしさとも共鳴している。流石だね」
「違うわ」
「え?」
「私、場違いな形かしらって話よ」
え?…ああ、なるほど。高級住宅街や格式高いメゾンが軒を連ねる通りを歩けば完璧なコーデだが、この下町の外観や待ちゆく人のファッションレベルがまったく君に追いつけていない。
「そんなことはないと思いますよ?」
「っふん、そうかしら」
そう言って彼女は僕からわずかに視線を遠ざける。
「僕のような安月給の男が毎日通えるカフェというものは貴女のファッションが映える白亜の高級街とは段違いですから。そんな場所を待ち合わせの場にしてしまった僕の過失です」
「…」
「目立つのも浮くのも当然です。ほかの人がめかしこむことをしていないんですから」
「貴方みたいにめかしこむを悪い意味で使わない人は初めてだわ」
「めかしこむというのは、場所や人への敬意であり、人を不快にしない配慮です」
「私に集まる視線には不快の目線もありそうだけど」
不快…僕には理解できない感情だけど、布地をふんだんにつかったオートクチュール、ないしプレタポルテといった高級服やそれを着ている人を妬み僻み、不快という感情を覚える人間がいるということは知っている。確かにさっきから彼女に集中する視線の中に、そういった類の視線がないとは言えない。
「貴女のような素晴らしい装いは、クチュリエのドアボーイが脱帽して店に入れてくれる絶対的な美貌と天才的なファッションセンスをもち、クチュリエに通え、お金を落とせてようやっと見れる新作コレクションレベルのもの。それを幸運いも居合わせただで見れるのに、不快な目で見るほうがどうかしています」
なけなしのお金を払ってでも、高級レストランを待ち合わせ場所にすればよかった。財布が空になっても、君が不快になるよりは幾分もましだ。
「ふふ、あなたって本当に変わっている」
「…よく言われます。そのせいで職場でも周りから浮いてます」
「あら、なら私たちは似た者どうしね」
君はそう言って笑った。確かに、街中でも浮いてしまうファッションセンスに、他のモデルの追随を許さない美しさをもった君と、会社では浮いてばかりの僕、同じというのはおかしいだろうと思う自分もいるが…似ていると言われて少し嬉しく思う。
「来週の約束、仕事が入ったから無理なってしまったわ」
「え」
「ガラの同伴の仕事が入ったの。だからごめんなさい」
「…」
アクセサリーを目指すなら自我を持ってはならない。君の装いで規律を乱すような出しゃばりは禁物のように、恋人である僕が彼女のルーティーンや仕事を乱してはならない。だけど先々週からのデートの約束をそうきっぱりと反故にされると、少し心にくる。
「その埋め合わせと言ってはなんだけれど、今度の新作のコレクションのショーに貴方も来る?」
「え!?いいんですか?」と、木の枝を見せられた犬のように喜ぶべきだろう。でも今は新作コレクションの言葉も響かない。君に見合ったオートクチュールのドレスや肌身に触れるコスチュームジュエリーにさえ嫉妬を覚え、クリスタル製のスパンコールのまばゆい輝きにも、いらだちを覚えるだろう。
「あなたがよければなのだけれど」
「…」
「どうしたの」
「…残念ながら僕はドアボーイに摘まみだされないようなスーツは持ち合わせていないので」
そういうと君はすぐさま顔をしかめた。
「気が変わったわ」
「え」
「あなたに荷物持ちをしてもらおうと思っていたけれど、今日はテーラーにいくわ」
「え?」
「無いなら誂えるまでよ」
「…」
「それに、ちょうど信頼できるテーラーが目の前にあるわ」
その言葉に顔をあげると、目の前に本当にテーラーがあった。お気持ちばかりの小さなオーニングの下、ガラス張りの向こうには今日もグレーやネイビーといった控えめながら決して地味ではないその瀬戸際をしっかり見極めた品のある三つ揃えが並んでいる。そこはまぎれもなく実家のテーラーだった。
「あなたのお父様のお店なんだもの、腕も目も間違いないわ」
そういって彼女は前に踏み出す。
「何しているの」
「僕、言いましたっけ」
実家がテーラーだなんて言った覚えがない。なのにどうして。
「さあ?」
彼女はただその一言ではぐらかすと、口角をくいっと上げて優雅な微笑みを浮かべながらドアノブを引いて中に入った。
「おや、リリーさんーーと、久しぶりだなロジェ」
とても愛嬌がいいとは言えない頑固な気風が健在の父は今日もきっちりと三つ揃えに身を包み、首からメジャーを引っ提げている。
「た、ただいま…です」
「お久しぶりですお父様。突然で申し訳ございませんが、スーツを誂えたくて」
「おや、誰のだい」
「嫌ですわお父様、私がお父様に仕立てを頼むのはロジェ一人です」
「はっはっは、まさかロジェがこんなにきれいで、愚息一筋の女性を捕まえるとは思わなかった」
「先に捕まえたのは私ですわ。間違ってでも手放すつもりはありません」
「おや、これはたまげた。さて、スーツといってもご用向きで変わってくるんだが」
「今度の私がモデルを務めせてもらう新作コレクションのショーに」
「それはそれは、こんな下町の小さなテーラーとクチュールメゾンのイブニングドレスが張り合えるかどうかわからないが、リリーさんの頼みなら仕方ない。ちと派手目に行ったほうがいいか…」
そういって父親は、生地の見本帳を取り出す。
「ロジェは顔がいいが抜けているところがあるからなー、派手に攻めるとかえってうろちょろするロジェが目立つな。時期はいつ頃だ?」
「8月です。花冠がテーマです」
「うーむ…ではこの色がいい」
そういって何冊もぱらぱらと見開いては違うと吐き捨てるように閉じていく見本帳から一枚の生地を指さす。それは藪の陰色のようなかすかに紺色をはらんだ黒だった。
真剣なまなざしで生地を見つめる君は、感触を確かめるために左手の手袋を外す。その瞬間、君の薬指がきらりと輝く。ダイヤモンドの青白い輝きでも、稲穂の輝きに似たゴールドの照りでもない。陽光を捕らえたような淡いシャンパンゴールドをサテン仕上げで艶を抑えた彫金も宝石もあしらっていないシンプルな指輪。できる限り肌になじむような色を選び、艶を抑えた仕上げに、君の魅力がほかの男の前で目立たないようにとひそかに願いを込めて僕が送った指輪。
「それ…」
こぼれた僕の言葉に二人は指輪に注目すると、父親は鼻で笑う。
「なんとも役不足な指輪だな」
「それでも、私の一番大切な指輪です」
そういって君は、指輪をそっと撫でて恍惚の笑みを浮かべた。初めてみた。外出には手袋、仕事ではメゾンのハイジュエリーの指輪を身に着けているところしか見たことがなかったから、てっきり捨てられたか箪笥の奥にしまわれているものだと思っていた。
「僕に、身合うかな」
抑えきれず本音が漏れる。
「腕利きで貴方が赤子のころからみてきたお父様が選ぶのだから絶対に会うわ。それに背の高いあなたならーー」
「こんな僕でも、君の隣に身合うかな」
抑えることができなかった涙とともに、怖くて聞けなかった思いがこぼれた。
「私があなたを選んだのよ。あなたが嫌じゃないなら、いてくれないと困るわ」
そういって君はしわひとつないハンカチで僕の涙をぬぐった。
「馬鹿なことを言うんじゃないよ」
父は肩が脱臼するような勢いで背中を叩く。
「男だったら胸をはって背筋伸ばして愛する女をエスコートしな!」
涙が止まらない。長年抱えて大きくなっていた思いが、まるで口元から手を離した瞬間にぶーと音をたてながら飛んでいく風船のように去っていき、その面白おかしさに笑みまでこみあげてくる。
よかった、こんな僕でも君の隣にいていいんだ。気づくと僕は君を固く抱きしめていた。そんな僕に対して、オートクチュールの服にしわがつくことなど気にもせずに君は優しい口づけをした。
※noteさんのほうでも同名義、同タイトルで投稿しています




