第1話 影の正義
――暗い部屋に、キーボードを叩く乾いた音だけが響いていた。
画面の光が、青年の頬を青白く照らす。
黒いパーカーのフードを深くかぶったその姿は、まるで影そのものだった。
液晶にはSNSのコメント欄が次々と流れていく。
嘲笑、罵倒、誹謗中傷。
そのすべてが、匿名という仮面の下で吐き出された毒だった。
「……いた」
低く呟く。
スクロールを止めた指が、ひとつの投稿をクリックする。
画面が切り替わり、瞬時に複数のウィンドウが立ち上がった。
——IPアドレス取得完了。
——アクセス履歴を逆引き中。
——SNSアカウント紐付け進行。
モニターの隅で、赤い文字が点滅する。
匿名の加害者が、今まさに正体を剥がされようとしていた。
「お前の“盾”は……今日で終わりだ」
青年は、淡々とマウスをクリックした。
次の瞬間、その人物の住所・氏名・勤務先が画面に並ぶ。
そして、その情報は暗号化された経路を経て、とある共有サーバにアップロードされた。
この作業は慣れきっていた。
手を震わせることも、躊躇することも、もうなかった。
ハンドルネームは《ARGUS》。
ギリシャ神話の“百の目を持つ巨人”の名を借りた、ネットの“影の裁き人”。
だが現実の彼は——
午前八時。
大学のキャンパスは、まだ朝の柔らかな日差しに包まれている。
学生たちが談笑しながら行き交う中、神谷蒼真は黒いリュックを肩にかけ、無言で歩いていた。
「おーい、神谷! お前、また昨日も徹夜か?」
振り返ると、同じ学科の友人・長谷川が手を振っている。
茶髪に派手なジャケット、いかにも陽キャな男だ。
「ちょっと作業があってな」
「ゲームだろ? 目の下クマできてんぞ」
曖昧に笑って流す。
作業の正体なんて、言えるわけがない。
一限が終わり、蒼真は廊下を歩いていた。
その時、前方から歩いてくる長身の青年と目が合う。
(……まさか)
背筋がわずかに固くなる。
整った顔立ち、無駄のない動き、そして一歩ごとに漂う威圧感。
彼は迷いなく蒼真の前で立ち止まった。
「やあ、久しぶりだな。神谷くん」
穏やかな笑みを浮かべながらも、瞳は研ぎ澄まされた刃のように鋭い。
——野亜司真。通称《NOAH》。
高校時代、生徒会長として圧倒的な存在感を誇った男。
「……NOAH、か。警察に入ったって聞いたけど」
「今は特別協力員、ってやつだ。捜査の補助や解析を任されてる」
「それは……すごいな」
「いや、君ほどじゃないさ」
一瞬、会話が止まる。
その間に、互いの視線がわずかに探り合う。
——知っているのか。
——いや、まだ決定的ではない。
「じゃあ、また会おう。近いうちに、面白い話を聞かせてやる」
そう言い残し、NOAHは去っていった。
蒼真の胸には、妙なざわめきが残った。
その夜。
蒼真は再び暗い部屋に戻っていた。
キーボードの上を指が滑る。
今日は別の標的——ネット上で噂される「闇バイト」の募集を追う。
『運搬スタッフ募集 日給30万円 未経験歓迎』
添えられた暗号化URLを解読すると、匿名掲示板が姿を現す。
そこには、犯罪の匂いが漂うやり取りが並んでいた。
そして、その頂点にいるらしい人物の名——《BOSS》。
(こいつが……全ての元凶か)
ARGUSの眼が光を宿す。
その瞬間、モニターの片隅に文字が割り込んだ。
《ARGUSへ。お前を見ている——NOAH》
心臓が跳ねた。
これは偶然じゃない。
やはりあいつは——。
次の日の昼休み、学内のカフェテリア。
向かいの席に座ったのは、文学部の後輩・椎名雫。
長い黒髪をひとつに結び、透明感のある瞳がこちらを見ている。
「神谷先輩、最近……夜遅くまで起きてませんか?」
「どうして?」
「なんとなく、そんな気がして。目が赤いですよ」
彼女は少し笑って、ストローをくわえた。
その笑顔が、不意に蒼真の胸を締め付ける。
(……守らなきゃいけない)
だが、その決意は、すでに運命に巻き込まれ始めていた。
夜。
再び掲示板に潜り込んだARGUSは、新人装って闇バイト参加者に接触する。
ところが、やり取りの途中で突然画面が切り替わった。
《ARGUS、次の標的は俺と同じらしいな》
《会おう。——NOAH》
薄暗い部屋の空気は、緊張と覚悟で満たされていた。
蒼真は息を呑みながら画面を見つめている。
《ARGUS、次の標的は俺と同じらしいな》
《会おう。——NOAH》
そのメッセージは、ただの挑発か、それとも警告か。
——否。これは新たな戦いの始まりの合図だった。
深夜の大学キャンパス。
蒼真は人目を避けるように、人混みを抜けて小さな公園のベンチに腰を下ろした。
背後には淡く街灯が揺れている。
スマホの画面を何度も見返しながら、頭の中を巡るのは過去の記憶だった。
『高校三年のあの夏、親友が急に姿を消した』
蒼真はそれを「闇バイト」と呼ばれる闇組織の仕業と確信している。
だが、誰にも言えなかった。
警察も動かなかった。
その代わり、自分が《ARGUS》となり、匿名の悪意を暴き始めた。
「なぜ、あの時……あいつは……」
胸の奥が締め付けられる。
やり場のない怒りと悲しみが、冷静な理性とせめぎ合う。
一方、NOAHは警察庁内の会議室で資料を前にしていた。
彼の立場は特別協力員。
黒幕を追う捜査の最前線にいる。
「《ARGUS》……あいつがどんな人物か、まだ掴めていませんが」
隣にいる刑事が言う。
「彼のやり方は過激だが、情報は正確だ。おそらく高度なハッカー能力を持つ大学生だろう」
NOAHは頷く。
「蒼真か……昔から頭の良い奴だったが、彼がこんな闇に関わるとは思わなかった」
過去の記憶が彼の胸に走る。
高校時代、二人は同じ生徒会に所属し、切磋琢磨していた。
しかし、その距離は今、警察とネットの敵対勢力として引き裂かれている。
数日後。
蒼真はまた暗い部屋で《ARGUS》として動いていた。
闇バイトの募集掲示板に、彼は罠を仕掛けていた。
偽の参加者として登録し、内部情報を得ようとしている。
「……くそっ、簡単には繋がらせてくれない」
幾つもの認証プロセスを突破し、ようやく黒幕の指示らしいログを掴んだ。
その一瞬、部屋の電話が鳴った。
ディスプレイには「未登録番号」の文字。
出るか否か迷ったが、彼は受話器を取る。
「もしもし……」
低く冷たい声が響く。
「《ARGUS》か。興味深い。だが、それ以上深入りするとお前も同じ目に遭うぞ」
通話はそこで切れた。
蒼真の額に冷たい汗が流れた。
確実に、闇の世界は彼に牙を剥き始めている。
翌朝、大学のカフェテリア。
椎名雫が蒼真に差し入れを持ってきた。
「先輩、これ……」
小さな箱には手作りのクッキー。
「ありがとう。でも、最近は……心配かけて悪いな」
「それでも……心配ですよ。何かあったら言ってくださいね」
彼女の瞳は真っ直ぐに蒼真を見つめていた。
胸が痛む。
「絶対に守るから」
その夜、蒼真はついに闇バイトの内部へと深く潜入することに成功した。
デジタルの迷宮を彷徨うように、数々の暗号化チャットを突破し、
そこにいたのは、幾人もの顔の見えぬ悪意の集合体。
「……BOSSの命令は絶対だ。裏切り者は許さない」
チャットは緊迫し、だれもが疑心暗鬼に陥っていた。
その時、画面にメッセージが流れた。
《ARGUS、姿を見せろ》
蒼真は、キーボードを見つめたままゆっくりと指を動かす。
「俺はARGUS。お前らの支配は終わる」
数時間後、蒼真の部屋に突然のノック。
振り返ると、そこにはNOAHが立っていた。
「来たな」
「お前……!」
「敵でもあり、協力者でもある」
彼らの間には暗黙の了解があった。
黒幕を追うために、共闘は避けられない。
だが、ライバルであることも忘れてはいけない。
その時、携帯が鳴った。
警察からの緊急通報だった。
闇バイトの関係者が突然事件を起こし、犠牲者が出たという。
「状況を確認する。俺も同行する」
「……わかった」
二人は互いを警戒しながらも、今は目の前の大きな敵に立ち向かうため、力を合わせるしかなかった。
闇バイトの正体に迫る第一歩。
それはまだ、序章に過ぎなかった。
ARGUSの眼は燃え、NOAHの心は揺れる。
正義と悪が曖昧になる世界で、彼らは何を選ぶのか——。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございます。
第1話では、《ARGUS》という影の正義を掲げる主人公・神谷蒼真と、そのライバルであり協力者でもある《NOAH》との邂逅、そしてネットの闇に潜む「闇バイト」の存在を描きました。
匿名という“盾”の裏に潜む悪意と、正義の形は一体どこにあるのか——。
読者の皆様にもぜひ、一緒に考え、感じていただければ嬉しいです。
今後、蒼真とNOAHの関係や、それぞれの過去に秘められた真実が少しずつ明らかになっていきます。
闇バイトの黒幕を追う緊迫した戦いはもちろん、
人間ドラマや葛藤も深く掘り下げ、皆様に“心から感情移入できる物語”を届けたいと思っています。
もしこの物語に少しでも興味を持っていただけたら、
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また、ご感想やご意見もお待ちしています。
皆様の声が、物語をより良くする力になります。
これからも一緒に《ARGUS》の世界を歩んでいきましょう。
次回もどうぞお楽しみに!