ダゼゾボ
帝都の貧民街に、ごくありふれたぼろ屋があった。ある男が、その家の窓に紙くずを投げ入れて足早に去って行った。貧民街に漂うよどんだ空気をさも厭わしそうに。
「ダゼゾボ、紙くずが降ってきたぞ」
紙くずを拾った少年は、貧民街には似つかわしくない整った顔立ちをしていた。だが薄汚れていて、栗色の癖っ毛もぺったりしている。長らく洗っていないようだ。
ダゼゾボと呼ばれた男は、少年から紙くずを受け取ると平らに広げた。そこには文字が書いてあった。ダゼゾボは文字を辛うじて知っていたが、文を読むのにはいつも苦労していた。難しい単語は分からない。だが、この紙に書かれていた文は難しくなかった。
「ナルファストの子を殺せ」
それだけだったからだ。
ダゼゾボは考え込んだ。命令を実行するのは簡単だ。首に腕を回して少し力を入れるだけで、目の前に居る小さい命の火は消える。刃物を使うと部屋が汚れるから、窒息死させるのがいいだろう。頸椎をへし折るのでもいい。
血を見るのは平気だが、後片付けが面倒だ。面倒だからといって放っておくと臭くなる。臭いのは嫌だ。
さっさと済ませよう。
だが、ダゼゾボは伸ばしかけた手を止めた。昔のことを思い出したからだ。そのときも、命令に従って対象を始末した。一瞬で終わる簡単な作業だ。
問題はその後だった。「やはり殺すな。連れてこい」と言われた。しかし既に殺してしまった。すると殺したことを責められなじられ、激しい拷問を受けた。殴られようが蹴られようが、殺してしまったものはどうにもならぬ。命とはそういうものだ。殺したら生き返らない。それだけの「モノ」だ。
今回はどうか。殺した後で文句を言われるのは詰まらぬ。このガキの命などどうでもいいが、殴られるのは嫌だった。
ダゼゾボにしては長考した後、「様子を見る」ことにした。いつでも殺せる。ならば本当に殺す必要があると分かったときで十分間に合う。ならばまだ生かしておいた方が得ではないか。
学のない自分にしては名案のような気がしてきた。
ダゼゾボは貧民街で生まれた。親の顔は知らない。誰なのかも知らない。物心がつくまでの間、誰が育てたのかも知らない。貧民街で餓えて半死半生だったというのが最古の記憶だ。それ以前のダゼゾボを知っている者がいるのかどうかすら知らない。
その後どうしたのかも覚えていない。次の記憶は、生きるのに必要なものを盗んだり殺したりして手に入れている自分の姿だった。誰に教わったというわけではないが、相手の懐に飛び込んで短剣で喉を切り裂くという殺し方を身に付けた。ダゼゾボの貧相な体では長剣は使えなかった。
人はよく、「傭兵は人間のくずの成れの果て」などと言う。傭兵自身もそう言っていた。だがダゼゾボに言わせれば、傭兵が務まる分だけ傭兵どもは上等な人間だ。
ダゼゾボは傭兵すら務まらなかった。
傭兵というのは気ままな一匹狼のようなものだと思われているが、人間関係が重要な世界だ。酒を酌み交わし、冗談を言い合って関係を深めていなければならない。それができない人間は爪はじきにされ、損な役回りを押し付けられる。
陣形の最前列は最も死亡率が高い。報酬も高いから、あえてやりたがる者もいることはいる。しかし大部分はあぶれ者に押し付けられる。ダゼゾボはいつも最前列に立たされた。生き残ったのは、単に運が良かったからだ。歩兵陣の最前列などに殺しの技術など関係ない。
こうして、傭兵すら務まらずその世界から足を洗った。そのときの雇い主に殺しの個人技を見込まれ、単独の汚れ仕事を請け負うようになった。
何人殺したのか覚えていない。そもそもダゼゾボは数を数えられない。文字をいつ覚えたのかも分からないが、文字は命令を読むのに使えるので重宝している。
今の雇い主のことは何も知らない。以前と同じなのか、違うのか。一人なのか複数なのかも知らない。仕事が終わると、窓から銀貨が投げ込まれる。それだけだ。
ナルファストでは、ロンセーク伯を殺すか、脅せと命じられた。殺してもよかったが、ロンセーク伯は強そうだったので逃げた。一緒にいた二人も含めて皆殺しにすることは可能だったが、そうすると間違いなく怪我をした。怪我するのは嫌だった。
次にサインフェック副伯を殺さずに脅せと命じられた。だが先に公妃を見つけ、その美しさに邪心を起こしたのは失敗だった。サインフェック副伯を脅すという目的は達したので問題ない。
最後がティルメイン副伯の誘拐だ。皆、ティルメイン副伯を見つけることすらできずにいた。一方、ダゼゾボは探すことさえしなかった。
ティルメイン副伯を連れ出したのは公女だという。ならば公女を監視していればいずれティルメイン副伯のところに行く。そう踏んで、公女を探した。公女は派手に動き回っていたから簡単に見つけることができた。公女の後を付けていると、予想通り公女がティルメイン副伯の居場所に案内してくれた。時間はかかったが簡単な仕事だった。
他にも公女の後を付けている一団がいた。傭兵時代に知り合った、小刀を使う厄介なヤツが交じっていた。ヤツに気付かれるわけにはいかないので、尾行は少し難しくなった。
面倒なのはその後だった。意識を取り戻したリルフェットは泣く、わめく、抵抗するの連続で手を焼いた。何度殺そうとしたことか分からない。だが殺すなという命令だったので、我慢した。殺しをこんなに我慢したのは生まれて初めてだった。
抵抗したらメシを与えない。これを繰り返して、服従させた。「ごめんなさい。もう抵抗しません。何か食べさせてください」と言わせてメシを与える。何度か繰り返したら抵抗しなくなった。
しかし今後は問題だ。これまでは「生かしておく」ことで報酬を得ていたが、殺せと命じてきたからには生かしておいても報酬はもらえない。
なぜこのガキを養わなければならないのか、と思うと腹が立ってきた。いっそ殺してしまおうか、と考えてまた最初の考えに逆戻りした。そうだ、生かしておくのだった。
仕方がない。食い扶持くらいは自分で稼がせよう。盗みや殺しの技術を教え込めば便利かもしれない。




