記憶 その1
スウェロント領を併合したことで、カーリルン公の権力は大幅に強化された。
統治体制の整備はこれからだが、スウェロント配下にあった領主や騎士500人強がフロンリオンに上り、改めてアルリフィーアに臣下の礼を取った。アルリフィーアは彼らの所領を安堵し、主従関係を確認し合った。
500人強の領主や騎士とその家臣から成る4000の旧スウェロント軍は公爵軍に組み込まれ、公爵軍は約1万になった。南部3郡の合計9000とほぼ互角となり、後背の憂いなく南部に侵攻できる体制が整った。
こうなれば、ロレルがしゃしゃり出る必要もない。後はカーリルン公の家臣に任せておけばよい。ロレルは城の中庭の木の下で惰眠をむさぼっていた。
アルリフィーアの心中は複雑であった。ロレルによって感情を激しく揺さぶられ、泣かされ、怒った。思い出すだけでイライラムカムカする。初めて会ったとき、もっと平手を食らわしておくのだった。何なら、もう一度張り倒したい。あの死んだ魚のような目に指を突っ込んでくれようか。
だが、冷静に整理してみると話が変わってくる。男に生まれればよかった、男に負けない君主にならねばと口では言いつつ、女であることに甘えていた。女なんだから許されるという意識があったことは否定できない。家臣たちも、侮るつもりはなかったのだろうが、結果としてアルリフィーアが女であることを理由に甘やかしていた。女には無理だという意識を持っていた。
その中で、ロレルだけがアルリフィーアのことを女ではなく1人の君主として扱った。女なんだからできないとは思わず、アルリフィーアならできると思ってくれた。アルリフィーアという個人を最も尊重していたのはロレルだったのではないか。
癇に触る物言いが気になるが、全体としては感謝すべきなのではないかと思い始めた。やはり癇に触る物言いが気になるが。
感謝を伝えようと思ったら、ロレルがどこにもいない。まさか、フロンリオンから出ていってしまったのか。
焦ったアルリフィーアは、ロレルを捜して宮殿の中を走った。止まるときや曲がるときは、磨き上げられた大理石の廊下をツーッと滑った。足を開いて、がに股で均衡を取るのがコツだ。子供のころからこうして廊下を滑るのが大好きだった。彼女は誰よりもうまく滑れると自負していたが、廊下を滑る者などそもそもアルリフィーアしかいない。
デシャネルはアルリフィーアが廊下を滑るところを見つけるたびに「淑女のやることではない」と言って彼女を叱ったが、デシャネルの教育はこの通り徒労に終わった。
宮殿の中を走り回り、1階の廊下をツーッと滑っていると、中庭で眠りこけているロレルを発見した。
「や! ここで会ったが百年目。今こそ感謝を告げてくれようぞ」と、鼻の穴を膨らませて意気込むと、そっとロレルに近づいて、そっとロレルの顔をのぞき込んで……両頬に平手打ちを食らわせた。
「ほれ起きよ。いつまで寝ておる。起きろというのに」
「痛! 何、何です?」
ロレルが目を開けると、破顔したアルリフィーアの美しい顔が目の前にあった。真夏の木漏れ日のような、優しくて柔らかい、そして鮮烈な笑顔だった。
「む! ちとたたき過ぎたかのう」
「公爵は優しく起こせないんですか?」
「そうしようと思ったのじゃが、顔を見たら何やらムカついてのう」
「……で、何です?」
「ロレルに礼を申さねばと思うてな」
「礼!? 折檻じゃないですか」
アルリフィーアは笑った。ただこうして話をしていることが、何だか楽しくて仕方がなかった。




