第3話:伯爵リサンダーの登場
部屋の空気が重く感じられた。
俺の前に立っていたのは、絶対的な権威を振るう男だった。
エレノアの父、クレールモン・デュ・リサンダー伯爵は、背が高く肩幅が広く、貴族らしい服装は完璧に仕立てられていた。
銀色がほのかに混じった金色の髪が、厳格で計算高い顔を縁取っていた。鋭い氷のような青い瞳は、獲物を分析する捕食者のように俺を見つめていた。
俺は黙って、エレノアの後ろに立ち、彼女が毅然とした態度を取るのを見守った。
「この……使用人」
伯爵はゆっくりと、低く落ち着いた声で言った。
「どこから来たのだ?」
エレノアはためらわなかった。
「町の外れで彼を見つけました。ひどい怪我をしていたので、連れてきたのです」
伯爵の表情が暗くなった。
「何だと?」
「連れてきたのです」
と彼女は繰り返し、落ち着いたが強い口調で言った。
「彼は死にかけていました。そのまま放っておくわけにはいかなかったのです」
二人の間に沈黙が広がった。
そして、ゆっくりと伯爵は俺に視線を戻した。
俺はたじろぐのをこらえた。
この男は力を持っていた。
ただの貴族ではなく、戦いを経験し、おそらく兵士たちを率いてきた男だ。
その立ち姿や、一瞬で俺のすべてを分析する様子からそれがわかった。
彼は危険だった。
「名前は何だ、小僧?」
伯爵が尋ねた。
エレノアはあまり話さないよう警告していたが、無視する選択肢はないとわかっていた。
「……クロードです、ご主人様」
と俺は答え、少し頭を下げた。
長い間、沈黙が続いた。
「そして、どこから来たのだ?」
その質問だけ答えるのはためらった。
エレノアはリリーに、俺が海の向こうの外国人だと話していた。
同じことを言うべきか?嘘をつくべきか?
エレノアがかすかに動き、俺の前に少し立ち、そして気づいた——彼女は心配していた。
それが俺に必要な答えだった。
「……遠くからです、ご主人様」
と俺は慎重に言った。
「遠い国から」
彼の目が細くなった。
「どの国だ?」
俺は声を落ち着かせるよう努めた。
「俺の……言葉ではその国を何と呼ぶのかわかりません、ご主人様」
エレノアがすぐに介入した。
「それは私たちの地図には載っていない小さな国です。だから彼の言葉が時々変に聞こえているのです」
それはリスクだった。
しかし、伯爵はすぐには反論しなかった。
彼は長い間に俺を観察し、それから腕を組んだ。
「お前は私がこれまで見たどの男とも違う」
俺は表情を変えずにいた。おそらく肌色についてのだろう...
「……はい、ご主人様」
伯爵は鼻で息を吐いた。
「ふん。そして、お前にはどんな技能がある?この家に何の役に立つというのだ?」
その質問には不意を突かれた。
技能?
俺はこれまで大学生だったが、社会人としてとある小さな会社で働くことは最近はじめたばかりの2ヶ月間目になったんだ。
今までの俺の「技能」は、エッセイを書くこと、コーディング、サッカーをすること、......そして、インターネットで政治について議論することだった。
どうやら、それらのどれもここでは役に立たなそうだ。
エレノアは俺が答える前に口を開いた。
「彼はまだ回復中です、父上。でも彼は強いですし、私が直接彼に奉仕の仕方を教えます」
伯爵の視線は俺に留まり、懐疑的だった。
「そうか。それなら見せてもらおう」
そして、彼はドアに向かって歩き出した。
「エレノア、後で話がある」
そう言うと、彼は去っていった。
ドアが閉まる音がした瞬間、俺は息を吐き出した。
「彼は怖かったよー」
エレノアは胸に手を当ててため息をついた。
「危なかったわ」
俺はベッドに座り、足が震えているのを感じた。
「本当に、怖過ぎだったんだ!エレノアのお父さんは...」
彼女はくすくす笑った。
「ええ、父上は人にそういう影響を与えるの」
俺は首を振った。
「いや、君にはわかってない。あの男は俺を見透かしていた。彼はただの貴族じゃない——命令するのに慣れた男だ」
エレノアはうなずいた。
「彼は若い頃は将軍だったの。軍隊を率いたことがあるわ」
俺は息を吐いた。
「ああ。それなら納得だ」
それまで黙っていたリリーがふんっと息を吐いた。
「わたしはまだあなたを信じていないわ」
俺はメイドの方を見上げた。
「ああ。それはわかってる」
エレノアはメイドに微笑んだ。
「まあ、リリー。彼はうまくやったじゃない~」
リリーは俺を横目で見た。
「ふん。それはこれからですよ」
俺は反論しなかった。もっと大きな心配事があった。
.
.....それにしても、リリーと言うメイドは自分の主人に向かってなら言葉を敬語で飾ったが、ただの『雇われたばかりの使用人』である新参者の俺に向けて話す言葉ならば、ため口で喋っているようだ。
まあ、それは仕事場での年功序列から考えても妥当だろう......
............
その日の午後、エレノアは俺を台所に連れて行った。
そこは忙しかった。
使用人たちが野菜を刻んだり、火にかかった鍋をかき混ぜたり、豪華な食事を準備したりしていた。
焼き肉と焼きたてのパンの香りが空気に満ちていた。
「ここであなたは働くことになるわ」
とエレノアは言った。
俺はまばたきした。
「え……何だって?」
彼女はにっこり笑った。
「だって、家事の技能を学ぶ必要があるでしょう?」
料理はしたことあるが、ここではどんなものを調理すれば良いかまだ座学の知識も出来ていないのにいきなり実践でというのは流石に俺も抗議したかったが、すかさずにリリーが俺に包丁を渡した。
「これを刻みなさい」
俺の前に積まれた野菜を見た。
……どうやって正しく刻むのかわからなかった。
故郷では、主に母の手伝いをしてナイジェリア料理——ジョロフライス、エグシスープ、ぺースト状のヤム——を作っていた。
しかし、中世風の台所で野菜を刻むこと?それは俺の専門外だった。
俺はニンジンを手に取り、不器用に切ろうとした。
すぐに、指を切り落としそうになった。
「やめて!」
リリーが包丁を奪い、恐怖の表情を浮かべた。
「何もできずに自分を殺すつもり?」
エレノアはくすくす笑った。
俺は頭を掻きながらため息をついた。
「ああ、台所仕事は俺には向いてないみたいだ」
エレノアは考え込むように唸った。
「それなら……あなたの故郷の料理を作ってみたらどうかしら?」
俺は驚いて彼女を見た。
「ナイジェリア料理を作ってほしいって?」
彼女はうなずき、熱心に言った。
「え?...『ナイジェリー、ア』?それはあなたの国の名前?...」
「え、ええ、...まあ、そうだ」
「まあ、それなら本当に素敵な国名ね~!まるで田舎の子供たちが貴族様に拾われて上品に育った後の養子の名前みたいね~、ふふふ....。では、もしそれができるなら、ぜひあなたの国の料理を食べてみたいわ」
俺はためらった。
ここにある材料は違った。トマトも、マギーの調味料も、パームオイルもない。
しかし、隅に何かを見つけた——ヤムだ。
小さなアイデアが頭に浮かんだ。
「……何か作れると思う」
...........
一時間後、俺はエレノアの前に一皿を置いた。
必要なものはすべて揃っていなかったが、なんとか茹でたヤムと軽いソースに近いものを作った。完璧ではなかったが、故郷の味が少し感じられた。
エレノアが一口を食べた。
彼女の目が大きく見開かれた。
「これは……」
俺は息を止めた。
そして——
「美味しい!~」
彼女は明るく言った。
俺は安堵の笑みを浮かべた。
「簡単なものだよ。故郷ではもっとスパイスを効かせるけど——」
「気に入ったわね、これ~!」
彼女は微笑んで言った。
リリーもためらいながら一口食べ、それから不承不承にうなずいた。
「……まあ、悪くないですね」
エレノアは笑った。
「ほら?あなたはもう役に立ってるじゃない」
俺は微笑み、少し気が楽になった。
この世界に来て初めて、俺はただ生き延びているだけではなかった。
故郷の一片を共有していたのだ。
立派なナイジェリア人としての代表者の役割を果たせていたのだと。