49
ジャンは今、ニコラの思考の奥にいる。
(ああ、心地いい。これがニコラの思考)
ポーション摂取で触れたその思考の、さらに鮮やかに、手に取るようにニコラの心が分かる。
ニコラの思考は、澄んでいる。澄んだ温かい、水のようだ。ジャンはニコラの心を、泳ぐ。
(あったかい。優しい。切ない。かわいい)
ジャンは夢中でニコラの唇の味を味わう。唇の奥から響く、ニコラの心。
遠くから聞こえてくる、ニコラの心の声。
(ジャン様、ジャン様、嘘じゃないかしら。私は死んでしまったのかしら。ずっとあなたが好きだった。ずっとあなたを考えていた)
(一緒に満月を見たいの。一緒に王都を歩きたいの。一緒に小銭を磨いて、喜びたいの。ああ、ジャン様)
昼も暗い魔の森の、孤独な引きこもりのニコラの日々。ジャンの頃を考えて、心を温めていたニコラの思考が、ぐわん、ぐわんと遠くからジャンの心に直接聞こえてくる。
ジャンは、涙が止まらない。思わずうわずった声が出てしまう。
「‥一緒に王都を歩こう」
ニコラは、驚いて、我に返り、ジャンの腕から逃げようとしたが、騎士の腕の中に囚われたニコラは、体を少し動かしただけで、逃げることなど叶わない。
だが、目の前の包帯の男は、優しい目をしていた。
ジャンは、息を一息吸い込むと、ゆっくりと口角を上げて、噛み締めるように告げた。
「ニコラ、ニコラ、君が好きだ」
包帯の男の優しい目から、大粒の涙が、次々に浮かんでは落ちてゆく。
あの目には覚えがある。
ニコラの父が、最後にニコラに与えた目。
満月の魔女が、ニコラが上手にポーションを作ったときに、ニコラの頭を撫でながら見せてくれたあの目。
ニコラは、怯える事を放棄して、ゆっくりと体から力を抜いた。
「ジャン様、ねえ、なぜ?」
ニコラは心底、不思議だった。顔こそはわからないが、この物腰の優しい、紳士な王都の騎士。
仕事が終われば、王都に帰る。美しく、教養も高い貴婦人たちの間を渡り歩くだろう。
森で一人で暮らす、薬師の小娘などに心を傾けるはずもない。
ジャンは覚悟を決めたように、ため息をついた。
「ニコラ、どうか怖がらないでほしい」
そして、逡巡したように、だが、覚悟を決めたように、シュルシュルと、包帯をとった。
音もなく地に落ちてゆく白い包帯。
(ウソ‥‥)
包帯の下にいたのは、大変な美丈夫の若者だ。
そして、その顔にニコラは覚えがある。
ニコラが、先日「ヤバい」お人認定を下した、ニコラの命の恩人。
‥‥隊長様だ。
ニコラはだが、逃げなかった。
優しい目をしたジャンが、何を口にするか、聞きたかったのだ。
ニコラはきっと、飢えていたのだ。魔女が彼岸の彼方に旅立ったあの日に失った、あの優しい眼差しに。
ジャンは、居心地悪そうに頬を掻く。
うっすらとだけ、あざの名残が見える。ポーションがよく効いているのだろう。
薬師としてのニコラが、満足する。ここまで回復しているなら、ニコラのポーションはもう必要ない。
ニコラの仕事は、成し遂げられたのだ。
ジャンがゆっくり口を開いた。
「ニコラ、私は魔法機動隊の隊長だ。そして、私は思考過敏症という体質を持つ」
ジャンは、ため息をもう一度つく。
ニコラは、ジャンが次の言葉を紡ぐのを、待った。
ジャンは、長い話になる事を感じたのだろう、懐から上質なハンカチを出すと、近くの大きな楠の木の下にひいて、ニコラを座らせた。
一匹の黒猫が、音もなく二人の間を走り去る。
魔女達がデバガメを決め込んでいるのだろう。
ジャンは魔女の物見高さに辟易とするが、気にしている場合ではない。ニコラが先だ。
ニコラは、上質なハンカチの上に座る事に躊躇していたが、恐々と、腰を下ろして、真っ直ぐにジャンを見た。
ジャンはあまりに真っ直ぐなニコラの視線にたじろぐ。
(‥‥だが、許可もなくニコラの思考を覗いたのは、この私だ)
乙女の思考を勝手に読み取るなど、紳士にもとる行為だ。
ジャンにできる、ニコラへのせめてもの償いは、真摯に全てを打ち明ける事だ。
今度は大きなカラスがどこからか飛んできて、近くの松の木に止まる。赤い目をしたカラスは一羽、二羽と増えて、もう10羽にはなるだろう。魔女のデバガメだ。
ジャンはもう魔女の不愉快な覗きなど、気に留めない事とする。
ジャンはニコラの手を取ると、長い身の上話を語り始めた。




