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「隊長! やめろ、危険だジャン!!ジャン!!やめろ!!!」
リカルドの絶叫する声が少しずつ、少しずつ、遠くなってゆく。
暗い思考の海に、ジャンは身を投げた。
海の表面は、大嵐だ。
「美味しい!!」
大波の正体は、ニコラの感情。
チョコクリームが、信じられないくらい、美味かったのだ。
ニコラの大きな興奮の、感情の波を、リカルドは微笑みながらたゆたう。
(可愛いなあ・・)
ジャンは、微笑んでしまう。
この銭に汚い、心の優しい娘は、パン一つで、心をここまで喜こばせている。
だが、ニコラが、ニコール伯爵令嬢のままであったなら、こんなパンなんか、食べ飽きて見向きもしないような生活を送っていただろう事を思うと、ニコラの今の厳しい状況に、心が痛む。
ひとしきりニコラの純朴な喜びの感情に身を遊ばせると、ジャンは心を決めた。
思考の波の、その奥に広がるニコラの思考の深い海。思考の海の海面までならば、ジャンは安全に触れることができる。だが、思考の海にジャンの精神を明け渡す行為は、大変な危険を伴う。
ジャンは、少し躊躇ったが、そのままニコラの思考の海の底に、潜り込んだ。
ジャンは、自らを守る肉体の壁も、心の壁も、少しずつ消えてゆくのが感じる。
思考に同化するには、自らを、自らたらしめている全てを放棄して、思考の持ち主の残した波動と一体にならなくてはいけない。
(今精神汚染の魔法をかけられたら、俺は終わりだな)
ジャンは、己がなぜこんな危険な真似をしたのか、少し信じられない気持ちだ。
もしニコラの思考の奥が邪悪な攻撃的なものであれば、ジャンは自らを守る術を何も持っていない。
精神にどれだけのダメージを受けるのか、それは思考の持ち主次第だ。
ここまでの他者の思考の奥に行くのは、ジャンは、実は初めてだ。
それだけ、大変危険な行為なのだ。
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暗い海の中、何も聞こえてこない。何も見えてこない。
ただ、ジャンは、体が、疲れて疲れて、重く感じる。
(これは、日中に相当量の魔法の放出があった時の疲労だ・・こんなに疲労してるのに、残りの魔力で、ポーションを作ったのか・・・一体日中に何があったんだ)
暗い思考の海の奥に到着したようだ。
そこから、恐怖の感情が、水泡となって、暗い海をたゆたっているのが見える。
水泡は細かく震えている。ニコラの心が、震えている。
ゆっくり、浮き上がってくる水泡のような感情の泡を、ジャンは一つ手にした。
黄色く光るその水泡は、ニコラの思考。
(怖い、怖い)
振動から感じるのは、ニコラの怯え。
ジャンは思わず、そっと水泡の一つを胸に抱きしめる。
「・・・・やあ、ニコラ、こんにちわ。そんなに震えて、何を恐れているんだい?」
赤ん坊をあやすように、ジャンは胸に抱いた水泡に、優しく語りかける。
水泡は沈黙を続ける。ジャンは、何も言わない。
水泡と、ジャンは暗い海で、じっと漂い、やがて水泡とジャンは溶け合い、一つになった。
ゆっくりと、ゆっくりと、水泡が持っていた思考が、ジャンに伝わってゆく。
(大切な、おばあちゃんとの約束を破ったわ。私は市で魔法を発動させたの。子供が危険に晒されていたんだもの。怖い、怖い。私は殺されてしまう)
そして暗い海が一瞬で光となり、映像が広がって、ジャンの目の前に広がる。
ニコラの細い足首に巻かれていた、魔力抑制のアンクレットが、小さな白い手によって引きちぎられている映像だ。
色はついていない、白と、黒でできた映像。
そしてその後発動する、大型の魔力。これはニコラが発動させた、防御の結界だ。
(やはり、リバーが市で見たのは、ニコラだった・・!)
そして、映像は拿捕された男の顔になる。男はニコラの顔を見て、何かを叫んでいる。薬物の中毒者の顔だ。
急に、また映像は変わり、次は産気づいた女と、その女が産んだのだろう、生まれたての子供の顔。
安堵する、疲弊したニコラの思考。
(お産の世話をしてて、こんなに疲弊していたのか・・そんな大仕事の後で、俺の為にポーションを作った・・)
そしてまた急にニコラの思考は、赤い瓶に戻る。
あたりはまだ暗い。
朝になる前から、ニコラはポーションを作っていたのだろう。
(この瓶を届けたら、すぐに魔の森に戻らないと・・・魔力探知にかかってしまったら、私はきっと・・)
「ニコラ! ニコラ!! 出るな! 森から出るな!!!」
ジャンは大きく叫ぶと、ニコラを止めようと、ベッドの上で暴れ出した。
隊員たちが、バッとジャンの体を押さえ込み、自己を失った暴れ出すジャンを拘束する。
リカルドが、ポーションを中和する薬品と、眠剤の強力なものをリカルドに無理やり注ぎ込む。
「ニコラ!!!!!」
両手両足を拘束された感覚と、何かのポーションを強制的に流し込まれた感覚だけ、ジャンには理解できた。
その後、ジャンの意識は暗転する。




