満ちる
「何事も意味を知れば、行く先の方向性が変わってくるはず」
大学二年生の夏は、一年生のときよりも楽な気がするけど、奔走をしてしまう夏でもあると木田光は感じていた。
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一年生の頃に環境に慣れなくては、と必死で頭に入れた大学生のリズム感は、二年生になると習慣化し、案外すんなりと落ち着いていくものだった。
大学なんてのは講義と学期末の試験を頑張れば課題もない長い夏がやってくる。そんな勉学に努めないような考え方も、周りに流されながら一年生のときに理解した。
「夏休み」という約二ヶ月間の休暇は、このままでいいのだろうかという憂わしさを纏った俺の息抜き休暇である。将来の夢がないまま、なんとなくで大学に進学し、流れで夢が見つかると思っていた俺は、さらに人生迷子になってしまっていた。大学という世界は俺にとって想像以上で、あまりにも多方面に広すぎていた。
開けていた部屋の窓からは生温かい風が入ってくる。部屋でまわしていた扇風機の風と合流して威力が若干強くなった風は、机の上に広げたままでいた哲学本のページをめくっていく。本は、ぱらぱらと音を立てていて、まるで風と遊んでいるみたいに軽快なリズムをとっていた。
ベッドで横になって携帯を触っていた俺は、癖のようにSNSを開いて、投稿された写真を見ながら心を少しだけ痛めていた。
大学生になると、いろんな交流が勝手に増えていく。ゼミの人とか講義で席が近かった人とか仲良くなった人の仲良い人とか、友達なのか分からないような人とのSNS交換は日常的だった。どうせこの場だけで、次の日キャンパス内で会ったとしても挨拶なんかしない「SNSフレンド」なのに。そう分かっているのに、楽しそうに遊んでいる写真を見ると「誘われていない」なんて思ってしまう。
既読感覚でいいねボタンを押し、流れるようにアプリを閉じてから携帯をベッドに投げ捨てた。あと数分したら、俺はきっとまたSNSをチェックしてしまうのだろうけど。
お腹が空いてリビングに向かう。母親からの置き手紙を見つけたのは、インスタントラーメンを作り終わったときだった。
「『インスタントラーメンばかり食べないで、少しは外に出なさい』か。母さんはインスタントラーメンの良さが分かっていないな」
インスタントラーメンの種類が多いのは、それほどの良さがあるからだ。そればかり食べても飽きないように、そして、そればかり食べられるようにバリエーションに特化しているのだ。インスタントラーメンの種類と、その基本の食べ方やアレンジ有りの食べ方の豊富さを考えれば、俺が長生きして死んでも全部は制覇できないだろう。ちなみに今日は、味噌ラーメンをつけ麺風にアレンジして食べている。
部屋着から動きやすい服に着替えて、携帯と財布をズボンのポケットに入れて家を出た。
インスタントラーメンばかり食べるなという母親の言い分は無視したが、外に出ろというのには応えようと思った。家にずっといるのは、正直飽き飽きしていたところだった。どうせ家にいても、面白味のない番組をだらだらと見るか、本を流し読みしているか、携帯で心を痛めているかのどれかだったから。
外に出ると生き返る気がした。家にいるよりずっといい。考え事も前向きになりそう。なにより、一日仕事を頑張ったような錯覚になる。
外があまりにも元気だったから、このまま夕方まで散歩がてら走ってみようかと俺らしくない決断をする。一日自分のために働いたような気分を自分が味わいたかったからだ。動きやすい服を着てきたのも、このためだったと自身で伏線を回収した。
歩いては走り、疲れれば歩くというの繰り返しながら河川敷に辿り着く。慣れないことをしたせいか、横腹が痛かった。
空がピンク色をしていた。こんな幻想的な空を俺は見たことがない。夕方のような雰囲気はあるが、昼のような明るさをしている。気になった俺は携帯で空の名称を検索した。
「薄明…光の散乱か」
こういう光は綺麗だよなあと、空を眺めた。
俺は自分の名前が嫌いだった。光と書いて「みつ」なんて、ややこしければ恥ずかしい。光なんて漢字の名前なのに、全くきらきらしていないし、実際は根暗なのが勝手なイメージダウンに繋がるようでつらかった。できるなら、「木田みつ」とひらがなの名前になりたい。気分が落ち込むたびに、俺は毎回そう思っている。
せっかく外にいるのだから落ち込むなんて勿体無いと軌道修正し、薄明の空を気にしながら河川敷を走って行く。
河川敷の地面に男子高校生二人が並んで座っているのが見えた。それだけならスルーしていたけれど、俺は二度見をしてしまった。
その男子高校生二人は話なんかせずに、個々の時間を過ごしていたのだ。一人は携帯を横にして熱心に画面を見ている。きっとゲームをしているんだろうし、もう一人はイヤホンをしているから音楽を聴いているんだろう。
ああ、仲良くないんだろうなと思った。俺みたいに「SNSフレンド」のようなカテゴリにあるんだろうなと。
深刻だなあと勝手に同情していれば、イヤホンをしている方の学生と目が合った。俺はすぐに加速して河川敷を抜ける。気づいたときには薄明の空は終わっていた。それよりも俺は、「制服のズボンの替えはあるのだろうか」とか「尻で小さな虫を潰してないのだろうか」とか「あのあと話もせずに帰ったのだろうか」とあの二人のことで頭がいっぱいになっていた。
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朝起きて、まずはSNSチェックをする。相変わらず心を少し痛めたその後には、夏休み明けの自分の立ち位置を考えてしまう。息抜きをするはずが、もう明け方を気にしている俺は自分に対してのため息をついた。
そういえば成績発表は今日だった。大学のホームページにある掲示板を見れば、『昼に開示予定』と記されていた。インスタントラーメンを食べている頃かと、頭の中で想像する。
今日は母親からの置き手紙がないみたいだった。何度言っても無駄なんだと母親は気づき始めたのだろうか、そう思いながら冷蔵庫を開けると父親の缶ビールが三つほど並んでいた。冷えたビールを美味しそうに飲む父親が頭に浮かぶ。あのビールの味は、俺で言うラーメンのスープのようなものなのだろう。そりゃあ美味しいもんだ。
冷蔵庫のドアを開けたままにしていたため警告音が鳴り響く。俺は慌ててドアを閉めて携帯の画面を触る。時刻は十時半を過ぎていた。
河川敷を走ったあの日から、外に出ることを習慣付けようとした俺の計画は儚く散り、最近は家でだらだらしていた。三日坊主とはこのことだと痛感している。
「ラーメン屋に行こうかな」
どうせインスタントラーメンを食べる俺だから、だったら散歩がてら外に出たそのついでにラーメン屋に行けばいい。このまま家で成績表を一人で見るよりも、慣れない環境で見る方が精神的にもいい気がする。我ながらいい考えだと思った。
河川敷近くのラーメン屋に入る。一人なのにテーブル席を使うのは申し訳ない気がして、カウンター席に座った。
時刻は一一時過ぎ。お客さんは疎らにいるが、ラーメンを食べ終わっていたのか雑談をしていた。六〇代後半でキリッとした印象の店主は仕込みをしながらラジオを聴いている。
初めて来たお店で冒険はしないため、定番と書いてある味噌ラーメンを注文した。店主はすぐに大きな中華鍋で野菜を炒め、茹でた太麺を器に入れたあとに濃いスープを流し込んだ。その上にさっき炒めた野菜たちを存分に乗せれば満足そうにアツアツなラーメンを席へ持ってきた。
「いただきます」
一口食べた瞬間に広がる濃厚さ。俺は明日から、インスタントラーメンを食える気がしなくなった。比べられないくらいに美味しすぎると、人は無口になるものだな。
机に置いていた携帯が揺れた。大学からの成績が開示された知らせだった。
ある程度ラーメンを食べ終わり、机に置いたまま大学のホームページを開いて、成績を見た。失格の文字はなく、評価のランクはバラバラだったけれど単位は全部とれていた。ホッと安心した。アツアツのラーメンの熱で余計に。
「名前、ひかるって言うんだな」
声がした方へ顔を上げると店主が近くで仕込みをしながら画面を見ていた。成績表の上に載っていた学生情報を見たのだろう。
「輝かしい名前だな」
「ひかるじゃないです。みつです。それに、俺に輝かしさとかそんなものないので」
「なんだよ、ひねくれ者だな」
また勝手にイメージダウンされた気がした。せっかく好きなもので気分が上がっているときに名前が邪魔をしてくるなんて。今日にでも、両親に「名前を変えたい」と相談してみようか。「名前を変えてくれないと人生台無しだ」って。
「名前って気にするよなあ」
空気が澱んでいた気がしていたのに、店主は変わらず俺に話しかけてきていた。
「俺の名前は一って言うんだけどよ、若い頃は弄られてたよ。『一なのに、学年順位一位じゃないのか』って。そんで俺は、画数が多い漢字がよかったって今でも思ってるよ。画数が多いってかっこいいだろ」
「かっこいいんですかね。書くのめんどくさいと思います」
「かっこいいに効率なんかあるかよ」
大きく口をあけて笑う店主に、アルバイトらしい従業員が承った注文を伝えると厨房に戻って行った。
何か不思議な気持ちになりながらも、少し残っていたラーメンを平らげてアルバイトらしい従業員にお金を渡した。ワンコインでこの味、常連になるのは時間の問題だと考えながらも店主の人間性はマイナスだと評価した。
店を出るとスズムシが鳴いていた。走って帰ろうかと思ったが、横腹を痛めるのは嫌だったのでゆっくり歩いて帰ることにする。
それにしても、あの店主はラーメン愛が強そうだったなあ。
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母親の見るドラマの音量で目が覚めた。
時刻は一二時を過ぎていて、生活習慣のボロボロさに頭が痛くなった。扇風機をかけているのに部屋が暑い。目覚めたのに眠い。気怠い。そろそろ冷房をつけるべきだろうか。
リビングから流れてくる音が異様にうるさかった。いつもは静かな家の雰囲気も、誰か一人がいるだけでこんなにも賑やかになるのか。環境の変化を改めて知ることができたのは息抜き休暇といえる夏休みのおかげだった。両親がいないだけで静けさが出る空間に、さらに俺がいないとなるとどれだけ寂しげになるのだろう。
習慣化していた携帯は見ずに寝ていた体を起こして壁に寄りかかりながらリビングへ向かう。
「おはよう。こんな時間まで寝られるなんてすごいわ」
コソコソと水を飲もうとしていた俺を雰囲気的に察知したのか、ソファに座ってドラマを見ていた母親はそのまま俺に背を向けて話しかけてきた。
「そうめん作ってあるから食べなさい」
水を飲みながら返事をする。今日のインスタントラーメンはお預けか。それにしても、こちらを見ないくらい釘付けになるほどのドラマなのか。
そうめんとつゆをダイニングテーブルに置いて、母親の背中を避けて対角線上に座る。
母親が見ていたドラマは佳境のようだった。
夜に、真剣な表情の男の人が、眉を下げて微笑む女の人を抱きしめているシーン。一見ロマンチックな気がするけど、俺にはそう思えなかった。
女の人の目には悲しみが宿っているような気がした。抱きしめているから、男の人は気づいていないけれど。
もしかすると、この二人は気持ちの伝わり方が違うのかもしれない。男の人の強い心に女の人は「そうじゃない」と思っているのかもしれない。だって、思いが嬉しいだけなら眉なんて下げないだろう。微笑みだけならば心から幸せなんだなと思えるのに、女の人が愚直に眉を下げるなんて脚本家の「考察してほしい感」が溢れ出すぎていて隠せていない。どうせこの歪みがいつかのすれ違いを招くんだろうと、そうめんをすすった。
『もし、世界が敵になっても守ってみせるよ』
流れてきた言葉にこれだ、と顔を上げた。演者の表情の差などから、二人の気持ちの伝わり方が違うのではないかという俺の見解は、名言のように男の人が発したこの台詞が違和感の全てを回収したと思う。
「世界が敵になるほど対立するって、どれほど嫌われてるんだよ」
「もしもって仮定してるじゃない」
咄嗟に出た俺の文句に、母親は背中を向けたまま返事をした。
「もしもって言うんだから、可能性はゼロじゃないってことだろ?」
「だとしても、その対立性がかっこいいじゃないの」
店主みたいなことを言うなあと思った。あの人は確か「かっこいいに効率なんかない」と言っていたっけ。
「俺が男の人だったら『世界が敵になったら君も敵になれ』って言うし、女の人だったら『そうならないように過ごせばいいのに』って思うよ。好きな人とは無害のまま生きていきたいでしょ」
「あんたはね。でも違うから」
きっと俺の話なんて聞いていないような母親のその声は、俺の意見をばっさり切った。
「でも違う」という母親の言い分にそれもそうだと思い、俺はこれ以上干渉しないように黙々とそうめんをすすっていた。
時刻は午後三時を過ぎている。あれから母親はドラマの余韻に浸りながら少し気合いの入った服に着替えたあと、「日付が変わる前には帰るからみつは先に風呂終わらしといて。父さんにも言っておいて」と言って家を出た。最近会っていなかった会社の仲間とご飯を食べに行くらしい。父親も食べて帰ると言っていたから一人の夜だ。
外に出ようと思った。
今日は散歩もしていなかったから、河川敷へ走りに行こうか。そして、昼に食べられなかったインスタントラーメンの代わりにあのラーメン屋にでも寄ろうか。店主が苦手なもんで気は乗らないが、ラーメンに罪はないし、何よりあのラーメンが俺を手招きしている気がする。
携帯と財布を服のポケットに入れ家を出る。吹いている風を肺一杯に吸い込むと何でもできる気がした。外の雰囲気や景色を見ながら河川敷を目指して走る。
少し暗くなった河川敷は心地良かった。疎な街灯の数に自分が照らされていない感じがして楽だった。
昼に見たドラマの名言を思い出す。
「世界が敵になっても守る」なんて不可能に過ぎないけれど、完璧な敵も存在するとは思えない。世界が敵になるというのは九八:二という圧倒的なものを意味しているのか、或いは六〇:四〇ほどの微妙な差を意味しているのかもわからない。
仮定が実現してしまっても、案外あの男の人の勝算は無きにしも非ずだなと思ったが、女の人の気持ちは根っから変わらないままなのが救われない関係性だなと思った。
水面を見ながら進んで、まるで風になったかのように速度を上げながら走っていると男子高校生二人がボヤけて見えた。
「また来てるんだ」
少し嫌な気分になって走る速度を上げる。深刻そうな雰囲気を見ると周りに流されるばかりの俺が重なってしまうから、出来れば見たくなかったと思いながらも横目で見てしまう。
初めて見たときは個々の時間を大切にしているような雰囲気だったのに、今日は男二人手を掴み掴まれの状態で固まっている。進展があったのだろうか。
いつも河川敷にまで来て何をしてるんだろう、俺の大事なランニングコースなのに。青くさいのだから、青春なんか置いて帰るんじゃないぞ。
もし彼らが深刻じゃなくてあのドラマのように親密な関係だったとして、世界が敵になったら君たちはどうするんだ、とドラマの名言を雑に引用した。
濃い夕方に濃いラーメンの香りが充満している。俺にとってここは天国のような快楽を感じられた。
「ミツ、いらっしゃい」
「どうも」
驚いた。俺の名前を店主は覚えていたなんて。勝手に画面を見て、勝手に俺の名前を知って、次は下の名前を呼ぶなんて。知り合って二回目なのに。店主のパーソナルスペースはどうなってるんだと思った。
へんに「名前で呼ぶな」とは思わなかった。光ではなく光と呼んでくれるなら、別に構わない。「おい」とか「なあ」とかの方がよほど嫌悪を感じてしまう。ただでさえ、「SNSフレンド」のような空っぽの関係が痛いのだから。
注文した味噌ラーメンが目の前に置かれた。俺はこの瞬間が大好きだった。湯気を匂って左右から見たあとにじわじわと感じる唾液。それからどうやって食べようかとか最初に水を一口飲んで潤すべきかとか調味料は何をかけようとか頭でごちゃごちゃと考えながら結局は本能のままに食べてしまう。そこに美味しさがあるのなら、計算や考え事なんて馬鹿げているのだ。
「ミツ、おまえは自分の名前の意味を調べたことあるか?」
目の前で仕込みの用意をしている店主が話しかけてきた。名前の話なんかしたくないけれど、ラーメンが美味しかったので単純に返事をした。
「そのままでしょ。だから嫌なんですって」
「ミツは食わず嫌いしてるなあ」
仕込みの作業を止めて赤い顔をして笑った店主に腹が立った。光って漢字の意味くらい知ってる。だからその意味が自分に見合っていないと言ってるじゃないか。
「意味とか関係あるんですか?大事なのは印象でしょう?名前を見たときに『それっぽい』とか『それっぽくない』とか」
「そう思わせてしまうのはミツなんだよ。おまえが腑に落ちていない顔をするから相手にも伝わるわけで、その選択肢を与えてんのはおまえだよ。ミツが変わる必要がある。だから意味を知る必要もあるんだ」
俺は今どんな顔をしているんだろう。店主とは違う意味の赤い顔をしているかもしれない。眉間に皺が寄っているかもしれない。
「みつって、満ちるからきてるらしいぞ」
「調べたんですか?」
この人はパーソナルスペースが狭いというわけではなくて、ただのお節介焼きなだけじゃないのか。
店主は仕込みの作業を止めたまま俺に向かって「初めて会ったときに今の自分を教えてほしいという顔をしていた」と言っていた。そんな顔はしていない。会って数分の他人に教えてほしいことなんてないのだ。教えてほしいという顔ではなく、むしろ俺の中に入ってくるなという拒否反応は示していた。
「すぐ反論しやがって」
「声に出してましたか?」
「ミツは自分の気持ちが顔に出やすいということを知らないんだな。俺はな、名前を好きになれとは言ってないぞ。意味を知れと言ってるんだよ」
何事も意味を知れば、行く先の方向性が変わってくると店主は言った。続けて「名前には二つの意味がある」と。
「名前には『つけられた人への影響』と『その名前を持つ人の周りへの影響』があると思ってるんだ。ミツは光という文字が自分だけに与えられていると思っているだろうが、周りへの影響もあるんだよ。簡単に言うなら、ミツが光のように輝いてほしいけどミツの光が周りをも照らしてほしいという意味が含まれてる。名前の影響なんて一つじゃないんだよ」
店主は止めていた手を動かしながら「自分と合わないからと嫌いになる必要なんかない」と笑った。
きっと俺が嫌なのは店主が言っていた二つの意味のうちの「つけられた人への影響」だから、それを嫌っていても「その名前を持つ人の周りへの影響」がある限りは名前自体を嫌いになる必要はないということか。
店主の言葉に俺の悩みがガスが抜けていく風船のように小さくなっていくような気がした。今は、人生迷子で流されていくままの俺じゃない気もする。
「それで、俺の名前の意味はなんでした?」
「急に素直だな。納得したのか」
店主は笑いながら作業を止めた。
「光ってのには、輝くの他にも広いって意味があるんだよ。その中には満ちるって意味もある。満ちるには、枠を越えるほどいっぱいになるって意味がある。いろんな表情を見せるようなミツにぴったりだよ」
「でもやっぱり光はないです」
「おまえの光は想像が大きすぎるんだよ。俺のラーメンを見つけて食いに来たお前は、俺にとって嬉しい光だ。光が全部、星のような輝きだと思うな」
「気をつけます」
意地を張ってしまった。
店主の言い分は的を得ている。俺の気持ちがこんなにぎゅっとするなんて、店主も俺のような人間だったのではないかと考えてしまう。似たもの同士というのは引力で出来ているから、俺がこのラーメン屋に来たのも店主との引力を感じたからではないのか。部屋の机上に出したままにしている哲学本が恋しくなる。似ていないもの同士が引かれ合うことはないと、哲学者は思うだろうか。俺は思うよ。もし「似ていないもの同士が引かれ合った」という声が挙がったならば俺はこう言うだろう。
「それは自分も知らない隠れている本質が引かれ合っているのだ」と。
ラーメンは美味しかった。今までで一番だった。器に何も残らないくらい綺麗に食べ終わり、店主にお金を渡す。「ごちそうさまでした」といろんな意味を含めて言った。「ありがとうございました」と店主は言った。
俺は今どんな顔をしているのだろうか。吹っ切れたような顔をしているだろうか。いろんな意味を含めて言ったこと、ぜんぶ店主にはバレていたのだろうか。
店主の言葉に、夏もそろそろ終わるなあと感じていた。
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珍しく早起きをした。部屋の窓を開けると肌寒い風が少しだけ入ってくる。早朝だからか、夏が終わるからか、肌寒さの原因は分からなかったけれど空が綺麗だった。生活習慣を改めることで、この空が見られるのなら改める以外の選択肢はない。
携帯が鳴って画面が光っている。SNSが手招きをしているような気がした。それに俺は溜息をついて、遠い目で見ていた。
部屋は電気を付けなくとも外の光と携帯の光で心地の良い明るさを保っていた。
リビングでは両親がゆっくりしていた。ソファには父親が座っていて、新聞を読みながらコーヒーを飲んでいる。ダイニングテーブルには母親が座っていて、菓子パンを食べていた。母親が俺に気づいて「珍しい。朝ご飯食べる?」と言ったその声で父親は新聞から目線を外し振り返る。
「あのさ」
俺が言わないようなタイミングで話しかけたことに両親は一瞬驚いていた。俺自身も、こんなのらしくないと思ったよ。
「広い世界って怖いんだよ。このまま大学三年生になるってのがちょっと分かんなくて」
俺は早朝に悩みを打ち明かした。一部の悩みを打ち明けると、聞いてほしいと言わんばかりに秘めていたものがとめどなく溢れてくる。その中には俺自身も知らない悩みがあったりする。聞いてもらっていることが気持ちよくて出てきたのかもしれない。
両親は笑いながら聞いていた。母親は「単純になりなさい」と言った。父親は「苦悩することもかっこいい」と言った。俺は「店主みたいな両親だな」と思った。
あまりにも家は賑やかだった。母親が言うように、自分を知りたくなったら誰かに聞けばいいのかもしれない。そして父親が言うように、悩みに苦しむことを不能と思わなければ気分だって上がるのだろう。俺は一人で考えすぎたのだと思った。
これから仕事なのに、なんて顔を一切しなかった両親に愛を感じた。なんだか俺が言うのは薄っぺらいけれど。
朝早くから重い話をしてごめん、と送り出すときに言ったのを「朝一番に親らしいことができたからいいんだよ」と両親は返した。
「みつ、いってくるよ」
「夏休み終わりまで自分らしい過ごし方をしなさい。インスタントラーメンは食べ過ぎないことね」
「うん。いってらっしゃい」
名前を呼ばれることが心地良かった。生まれて初めて、なんて表現をするのは大袈裟なのだろうか。
忘れていたからとか、面倒くさいからと気分で決めていた散歩はいつのまにか習慣化していた。一三時くらいになれば何も思わなくともそわそわしてくるようになった。外に出なければ、河川敷を走らなければ、新しいものに出会えない気がして。
散歩をするというのは、冒険をするという言葉でもあると思う。家へ帰る途中だとか目的地に向かう途中も外を歩いてはいるけれど、それは冒険とは言えない。「家」とか「目的地」とか行き先が決まっているのだから流浪人ではないのだ。
散歩は行き先がしっかり決まっていないから何も考えず外を歩くだけで瞬間的に綺麗なものに出会える気がする。流浪人という冒険者はあてがない。でも終わりはあると思う。いつゴールするのか、それは綺麗なものや自分の興味をひくものを見つけたときだと思うんだ。散歩も俺にとっては引力の予感がする。
空を見上げると数分後には消えてしまいそうな薄明が広がっていた。久しぶりに見た気がする、光の散乱。いつ見ても、特別で、綺麗だなあ。
河川敷をいつも通り走る。暗色に変わりそうな薄明の空を追いかけるように走る。一生辿り着けはしないけれど、この風の匂いや情景を記憶するために俺は必死に走った。いつのまにか風になっていればいいなと思いながら。
いつものあの場所で、男子高校生二人が並んで、イヤホンを分け合いっこしている。それを横目で見ながら通り過ぎる。
俺たちは河川敷の常連者だね。いつも薄明のときに会う気がするよ。二人が青くさいのは変わりないけれど、今までと何か違うね。実は俺も少し違うんだよ。俺も君らも何かに吹っ切れているのかもね。
前を向いて走る。もうすっかりシンプルな色になった空を見上げながら、俺は二周目を志した。
写真が落ちていた。小さなサイズのツーショット。これは証明写真機で撮ったのだろうか。写っていたのは男二人。焦点が合っていないからカメラの位置が分からなかったのだろう。それに、この二人はあの男子高校生二人じゃないか。どうして証明写真機で撮ったのだろう。それに、この『212』と『384』という数字はなんなんだ。
目線を上げれば前の方に二人が歩いているのが見える。落としたことに気づいていないのか。
俺は食わず嫌いを直すために、前を歩く二人に近づいた。男子高校生は意外にも大きかった。いつも一〇センチくらいにしか見えていなかったから少し驚いてしまう。
「これ、落としてますよ」
「大切なものなんです。ありがとうございます」
若干茶色味で、癖っ毛のような髪質の一人が興奮気味に写真を片手で受け取った。もう片方はどうしたんだと見てみれば二人は手を繋いでいた。ああ、なんとも青くさい。
このまま二人を抜かして、二周目を終わらせて帰ろうとしたけれどふと脳内にあの言葉が蘇った。
「世界が敵になったらどうする?」
男子高校生二人は写真から俺へと、ゆっくり目線を上げた。予め答えが決まっていたかのような二人は俺の問いに直答した。
「世界は敵にならない」
「僕らの世界は二人だから」
まさかの答えに愕然とした。対立ばかりにフォーカスしていたから対立なんて必要ないという二人の思考は秀逸だった。二人は互いで築いた小さな世界を大事にしているんだろうなあ。
俺は変なことを聞いたと謝って歩く。それから段々と速度を上げて、今度こそ二人を思いっきり抜かして。
男子高校生二人のような狭い世界を生きてみるのもいいと思った。いや、決心した。自分というものが流されないように小さな世界を自らで造るのだ。まずは俺の心を痛めてしまうSNSのアカウントを消そう。「何かあった?」とか「消したんだね」と言ってくれた人を大切にしようかな。勝手なことをしてもいいだろう。どうせ、互いに「SNSフレンド」だったのだから。
もう随分と走った。後ろを振り向いてもいないことなんて分かっている。そんな常識を無視して来た道を振り返る。当然にあの男子高校生二人はいない。
俺が今まで出会った人にも明日はあるし、それぞれの物語はある。一瞬の仲でも記憶に残ることだってある。別に物語に侵略したいわけでもないし、覚えていてほしいわけでもない。ただ、誰かの物語が俺の光で少しでも照らされていることを願っていたい。俺がそうやって救われたように。
だって俺は、満ちるの光なのだから。
「世界が敵になったら」
私はこの言葉がよく分からない。
現実味がないなあと思うし、世界が敵になったら即死に決まっている。世界が敵になるくらい愛されたくもない。
でもロマンチックに聞こえる人もいるんだろう。現実味がないことが素敵だと思うのか、一緒に困難を乗り越えていきたいと心を揺さぶられるのか。
気持ちの大きさを伝えるためには言葉を誇張しなければならないのだろう。伝えることに盲目になって、それで勘違いが起きてしまうリスクがあることを知らずに。
みつは「世界が敵になったら君も敵になれ」と言う、なんて言っていたけど、これこそ相手を守る言葉だと思う。(ひねくれているけれど、優しい性格をしているなあと書きながら思っていました。)
王道的に使われている「もし、世界が敵になっても守ってみせるよ」なんて、全滅なバッドエンドなのに。仮定時点でバッドエンドが私は見えてしまっているんですよね。
世界が敵になったら、みなさんはどうでしょう。