転生した悪役令嬢は平民になりたいのに今世では幼馴染の義弟が許してくれません
誤字・脱字報告ありがとうございます。
一部修正しました。
父が女の人と少年を連れてきたとき、少女は幼いながらに家族が増えるのだとわかった。見るからに少女よりも幼い少年に、弟の存在ができるのだと思うと、口の端がむずむずとする。
身を屈めて目線を合わせてくる女の人は優し気で、父が取られる不安よりもなくしていた母性への憧れに胸がときめく。
「よろしくね」
少女は緊張で震える手で、差し出された手を取った。温かな手の温度が胸に染みるようで、少女の顔がふにゃと笑顔になる。女の人はその様子に安心したように息を吐く。
続いて挨拶を促すように女の人は後ろを振り返り、少年へと目くばせをした。
「さ、挨拶して」
背中を押されて少女の前に出された少年は、気まずそうに視線を右へ左へとさまよわせる。緊張が伝わったようで、きゅっと少女は服の裾をつかんだ。
顔を赤くして言葉にならない声を出している少年を、女の人も父も不安そうに見守っている。
「お、お前なんか姉じゃない!ぶーーーす!!」
空気が絶対零度へと下がった瞬間だった。
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少女のクロエは遠い昔を思い出していた。今よりも遠く、終わってしまった昔の記憶。
心地よい風が吹き抜けるガゼボの中、クロエはカップを傾けて喉を潤す。鼻を抜ける香りに目を細め、ほぅと一息ついた。ゆったりとした仕草と静かさをまとう佇まいは少女らしさを残しながらも淑女の姿となっている。
プラチナブロンドの髪色は毛先がくるりと巻いている。もう少し伸びて癖が強くなれば強固なドリルヘアとなるだろう。ライムグリーンの瞳は釣りあがっていて、実年齢よりも高く見せる凛々しさがあった。
傍に仕えている侍女はティースタンドに焼き菓子を添えたあとクロエの後ろへと下がった。
「姉さん。何のんきにしてるの。もうすぐ入学だよ」
ガゼボへと歩いてくるのは毛先にクセを残したボルドーの髪に、レモンイエローの瞳の少年だ。少年――レナードの声に、クロエが席を立ち、カーテシーで出迎える。
「レナード様。ようこそいらっしゃいました」
クロエの向かいにレナードが座れば、侍女がさっとレナードの前に紅茶を置いた。
「ここはいいわ。貴方は下がって頂戴」
よくできた侍女だなぁと思いながら、クロエは侍女に声をかけてガゼボから離れさせる。
初めてのことではないのか、侍女はすっと離れていく。離れたのを見送ってクロエはレナードに向って口を開いた。
「そもそも始まらないとどうしようもないよねぇ。それに私は平民になったっていいし」
ぷくと頬に空気を入れたクロエは、ティースタンドに置かれた焼き菓子を口に放り込む。
その姿は淑女からはかけ離れているものの、注意をする人間は当人のクロエが先ほど追いやったばかりだ。
「ねぇ、それにしたって、前世ではあんなに姉さんっていうのを渋ったのに、今世では姉さんなの?今世は本当に他人なのに」
「それは……。姉さんって呼ばないと色々抑えられなさそうなんだよ」
「失礼じゃない?レナードがいないところではきちんと淑女してるってのに」
抑えられないというのは今の態度を言っているのだろうか。侍女の小言がレナードから出てくるとはクロエは思わなかったが、下着をそのまま洗濯機に入れていたときには懇々と怒られたものだ。
後ろめたい気持ちにクロエは目線をレナードから流した。
「はあ~~。まぁ、いいけど」
心の底から不満を表現するようにため息を吐き、レナードは頬杖をつく。
「来月から始まる『どき魔』下手したら姉さんは平民になるだけじゃすまないんだからさぁ、もっと気にしてほしいんだけど」
「自分が悪役令嬢っていまいち自覚がないんだよねぇ。いじめなんて時間の無駄の極みをするわけない」
間延びした語調はクセなのか、ぽいぽいと焼き菓子を口に放り込み、口をとがらせるクロエ。
口の中に広がるバターの風味を味わいながら、クロエは今までを振り返った。
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クロエとレナードは転生者だ。前世では義理の姉と弟の関係だが、今世では幼馴染という関係になっている。
小学生になる前に父と母が再婚し、共に暮らすようになったが、頑なに前世のレナードは1個年上の前世のクロエを姉だとは呼ばなかった。けれど、弟の存在を喜び、姉と呼ばせたいがために、姉以外の名前で呼ばれた際は無視、あるいはおやつを没収された子供のような顔でじっと見つめることを繰り返した。
結果、折れたのはレナードだった。
そんな2人だったが、高校を卒業したころ、クロエに1人のストーカーが現れた。
昼夜問わない電話やメッセージ、後を付けている気配、ポストに投函される手紙の山。
クロエのストレスが限界に達するのは当然といえる。
おびえて部屋からでなくなったクロエを守ろうとレナードはストーカーを特定し、深夜の公園で呼び出した。
自分の行為を咎められ、なおかつレナードが義理の弟だと知っているストーカーは怒りのままにレナードへと襲い掛かったが、予想外はその場にクロエが現れたことだった。
2人の記憶はそこで途切れている。
眠りから覚めるようにクロエの意識が浮上したとき、『伯爵家令嬢クロエ・キティ』となっていた。滝のように流れ込む『伯爵家令嬢クロエ・キティ』の記憶と人格はクロエの脳内をかき混ぜているようで、クロエは3日寝込んだ。
目が覚めた後は、現状を整理し、3歳児であるクロエ・キティに転生したのだと理解した。
その後クロエ自身は何の問題なくのびのびと過ごしたつもりだったが、高校卒業の学力、精神年齢は異質で、家庭教師の間で噂となり、天才児と言われていたことにクロエは気づいていない。
6歳になった頃、キティ家で行われた茶会でレナードとクロエは出会った。
レナードとクロエは顔を合わせた途端、脳裏に前世での出会いがよぎり、震える声でレナードが「姉さん……?」と呼んだ。声を聞いて、クロエはレナードに抱き着き、子供のように大声で泣きだした。
大人たちは、子供らしくなくわがままも言わないおとなしかったクロエが、涙と鼻水を流しながら異性に抱き着いている姿に目を剥いて、おろおろと周りを取り囲んでいたが、レナードも静かに涙を流してクロエを強く抱きしめ返していた。
離れそうにない2人を見かねて、大人たちは別室へと連れていき、落ち着くまで見守る。なぜ泣いているのか、何もわからない大人たちは宥めることもできない。
落ち着いた頃には子供の体力が限界だったのか、穏やかにすぅすぅと眠りについた様子に大人たちは胸をなでおろした。抱き合いながら泣き出し、安心したような顔つきで眠る姿は揉めたわけではないことを表していたからだ。
後日改めて顔を合わせたクロエはレナードが『公爵家令息レナード・ユースタス』に生まれ変わっていたことを聞く。クロエと同じように3歳の頃に転生したようだ。
2人で思い出話に花を咲かせ、懐かしい話に涙をにじませた頃、この世界が『どきどき魔法学園~約束の木の下で~』という乙女ゲームの世界であることに行きついた。
『どきどき魔法学園~約束の木の下で~』は前世のクロエが乙女ゲームにハマっていた時にレナードにも押し付けて遊んでいた1タイトルで、通称『どき魔』と呼ばれている。
乙女ゲームのようにシナリオや好感度イベントをこなす傍ら、バトル要素がありフレンドと協力して戦うレイド要素もあったため、クロエは乙女ゲームにもかかわらずレナードを巻き込んだのだった。
クロエ・キティは『どき魔』の中で悪役令嬢、そしてレナードは攻略対象の1人である。
クロエは悪役令嬢らしく、ヒロインをいじめ抜き、卒業式に断罪される。
平民へ落ちるルート、国外追放ルート、そして最悪なのは禁断の魔法に手を出し消滅させられるルートが用意されていた。
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腕を組み、うーんと唸るクロエはテーブルの下で足を組んだ。
18歳の前世から転生し、数年経った今は11歳だ。
「平民になるとレナードとはもう会えなくなってしまうのは寂しいけど、18年も一般人だったんだし?今更貴族様を続けるよりはマシだと思うんだけどねぇ」
「はあ?」
頬杖をついていたレナードはクロエの言葉に、喉奥から絞り出したような低い声を出す。
周囲の気温が下がったように感じるが、クロエはそのことには気づかない。
「自分でホットケーキすら焼けないくせに何言ってるのさ」
「な、なに。前世の話でしょ?生まれ変わったんだからホットケーキだってなんだって作れるよ。作ったことないけど」
目を細め、クロエを睨むように見つめるレナードに、居心地悪そうにクロエは足先を揺らす。
貴族令嬢がキッチンに立つ機会などあるわけもなく、クロエは前世で作り出した、外側は丸焦げなのに中は生焼けのホットケーキを思い出した。それでも父は娘の作ったホットケーキを美味しい美味しいと食べていたが、お腹を壊していたこともクロエは忘れていない。
「まぁ、そこは僕に任せておいてよ。今埋めてるところだから」
「何を?」
「さぁ?」
睨むような目つきから、悪戯を画策している少年のような顔で紅茶に手を付けるレナードに、クロエは首をかしげるものの、その答えは返ってこない。
昔からレナードはクロエに多くを語らないところがあったので、今回もまたそれかと問い詰めることはしなかった。
レナードはクロエの不利益になることをしたことはない。
出会った頃はあんな小生意気なことをいっていたのに、一緒に暮らしているうちにレナードはクロエを過保護かというくらいに支えてくれた。男運の悪いクロエの露払いをしていたことなど、鈍いクロエは気づいてすらいない。
「とはいえ、僕ではどうにもできないルートもあるんだから、何か対策を練らないと」
「対策っていってもねぇ。私が何もしない。ってだけじゃない?」
クロエだって、レナードと離れることは良しとは思っていない。ふとした時に傍にいないのは寂しいことだと、転生してから再会するまでの3年間でイヤというほどクロエは味わった。
話を聞いてくれるのも、ゲームに誘っても文句を言いながら付き合い、そして引っ張ってくれるレナードは弟のはずなのに、クロエにとっては頼もしくてなくてはならない人だ。
(でも……だから……)
クロエは一度異常な愛をその身に受け、命をなくした身である。しかもレナードを巻き添えにしているのだ。自身の命の重さと、愛情というものの理解ができないでいる。
それよりも、クロエはレナードをまた巻き添えにしてしまうことのほうが怖いのだ。
(イレギュラーを起こしちゃうよりも、ルートに沿ってシナリオ通りに身を決めてしまうのがいいよねぇ)
その結果、クロエは平民になったところで、レナードが不幸になるよりも百倍もマシだし、消滅させられてもいいとさえ思っていることはレナードには黙っている。
「僕がそんなことにはさせないから」
レナードはすべてを見透かしたように釘を刺した。
その言葉にクロエはわかっていて黙っている。
手を濡らすクロエのものではない血の温かさは、生まれ変わった肉体でも残っていた。
「そういえば、明日。王宮のお茶会に呼ばれたよ」
王妃主催のお茶会だ。
元々呼ばれているのは公爵家レベルの貴族で、クロエが呼ばれるはずもなかったが、天才児と噂されているクロエの元には招待状が届いていた。
受け取った時、クロエはシナリオが始まったことを理解した。
「シナリオの仕込み、なのかなぁ」
「どうするの?」
仕込みなんて言葉が正しいのかわからないけれど、ゲーム内でクロエはどのルートでも入学時王子の婚約者という立場だ。
ゲームを開始した時に、伯爵家の令嬢が王子の婚約者なんてありえるのかねぇ、と思っていたものである。
「行くしかないでしょ。断る権利がないもん」
仮病を使う、という手がなくはないが、クロエはシナリオに沿って一番マシなルートに身を決めることを一番としている。そのためならルートの仕込みに逆らう必要もないだろう。
「ふぅん」
何かを考えているようにクロエに向けていた視線をずらし、一点を見つめているレナードの姿を、クロエは深く追求することはなかった。
王子の婚約者になることはゲームシナリオの前提条件ともいえるのだった。
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煌びやかな王宮で行われる茶会は立食形式のガーデンパーティの様で、クロエは庭へと案内された。
色とりどりでいて、落ち着いたように配置された花に囲まれた庭は、見ているだけで1時間は満喫できそうだ。
けれど、趣旨に沿えば、ただ1時間庭を眺めていることなど許されるわけなく、クロエはアイスミントのドレスに身を包み、楚々とした態度で挨拶を進めていく。
当たり前だが、クロエよりも身分が上の令嬢たちに、精神年齢が18歳のクロエは胃がねじ切れそうな緊張に包まれている。
(役員に囲まれて食事する平社員ってこういう気持ちなのかなぁ)
挨拶で伯爵家令嬢だと告げる度に、場違いの令嬢がどうしてここに?という目で見られている。淑女の笑みを絶やさずに、クロエは視線の意図など気づいていないという白々しさを崩さない。
ただでさえ異質な存在なのだ。クロエは前世で目立つとろくなことにならないと高校の女子グループで学んでいる。今はただ、令嬢たちの機嫌を損ねないように微笑み続け、余計なことはしない言わないに限る。
「クロエ・キティでございます。どうぞ、よろしくお願いします」
深く関わらないように、けれど失礼のないように、細心の注意を払いながらクロエは挨拶の後の雑談も少なくなるように進めていった。
仕込まれたカーテシーを幾度か繰り返し、クロエは必要な挨拶を終えたことを感じる。
クロエは後は壁の花にでもなっていようと、パーティの隅へと気配を殺して下がり、一息ついた。
(そういえば、王子はまだ来てないのかな。挨拶めんどくさいけど、そもそも王子の婚約者にならなきゃいけないんだよねぇ)
なりたいわけではないが、ならなければシナリオの前提条件を満たせない。
ぽやーとパーティを眺めながら、クロエはちらりちらりと会場を見渡す。確か王子は金髪に、紫色の瞳だったと思う。
ゲームでは幼少期のスチルは少なかったため、髪色と雰囲気で判断するしかないが、この会場では見当たらない。
なりたいわけではないので、王子に媚びるというアプローチをしようとは思わないが、まぁ、そこはゲームの強制力に任せよう。何とかしてくれるだろう。とクロエは楽観視している。
さすがに18歳の精神年齢で子供に恋愛的に好かれようと媚びるのは、プライドや矜持的なものが阻んでいるようだ。
上手くいくだろうか……。と思いながらぼんやりとクロエは会場を眺めていると、黄色い声が沸き上がった。視線を移せば、令嬢たちが固まっている集団が見える。ちらりと見えた金色の髪の毛に、王子が現れたのだと察することができた。
身分の高い令嬢から挨拶をしていくので、クロエはゆっくりとした足取りで集団へと向かっていく。
一歩一歩踏み出す度に、子供とはいえ王族へ挨拶をするのだと実感が押し寄せてきて、ドキドキと11歳の慎ましやかな胸が高鳴る。
目の前の令嬢が1人、また1人と下がっていき、ついぞクロエの番がやってきた。
クロエは手のひらに人の字を書きたい衝動を必死に抑えて、ドレスの裾をつまみ、カーテシーをする。
「伯爵家のクロエ・キティでございます」
「君が噂のクロエ嬢?レナードからよく話を聞いているよ」
(……なんでレナードがいるの?)
思わず声を出さなかったのを褒めてほしいと、クロエは強く思った。
カーテシーから視線を上げれば、王子の隣に立っているレナードの姿に息を飲んだし、王子の言葉に目を瞬かせる。
(王子とレナードが知り合いなんて知らなかったけど。っていうか、学園で知り合うんじゃなかったっけ)
ゲームでは王子とレナードはただの学友だったはずだ。馴染みの友人のような間柄ではない。レナードが埋めているといったのはこういうことなのだろうか、とクロエは考える。
「レナード様にはよくしていただいております」
クロエはそっと目を向けて、何を話しているのか気になっているぞ、と伝える。わかっているだろうに、レナードはどこ吹く風だ。
落ち着いて王子へと目を戻せば、平たい紙や画面で見ていたよりも艶のある鮮やかな金髪に宝石のような紫色の瞳、子供ながらにスッと高い鼻。なるほど女性受けしそうなくらいに輝いた顔つきだと、クロエは納得した。
(さすが王子だ)
「いきなりレナードが来たいって言いだしたのはこういうことだったんだね」
「あら、レナード様が?」
にこにこと人好きのする笑顔で、何か言いたそうな王子の様子に、クロエは内心焦った。
(誤解されてない?)
2人きりの時はあんなに気易く話しているし、姉さんと呼ばれているが、レナードは身分が上の存在である。誤解です、などと思いあがったようなことを一介の伯爵令嬢のクロエが言えるわけもない。
「秀才だと聞いているんだ。今度チェスでもどうかな」
「もったいないお言葉ですわ」
明確なクロエへの誘いに、場の空気がざわっとした。クロエが天才児だという話が貴族の中で噂されていることはクロエは知らない。
「ニコラス殿下。あまりクロエ嬢とばかり話しておりますと他の令嬢を焦らしてしまいますよ」
屋敷の侍女や両親はレナードがクロエのことを姉さんと呼び続けるのを、初めこそ首を傾げていたし、レナードは公爵家から注意されたそうだが、公の場ではクロエ嬢と呼ぶために注意するものはいなくなった。
ストーカーに怯え引きこもっていた前世の名残で出不精のクロエは、久しぶりにレナードから名前を呼ばれたことに胸の中がむずむずとする。ごまかすように、そういえば王子の名前はニコラスだったなぁと思い意識を逸らすことで淑女の笑みを保つ。
「じゃあ、クロエ嬢。またね」
王子の隣から、クロエの隣へと移動したレナードを王子は愉快そうに見ている。どことなく気恥ずかしいクロエは淑女の微笑みを絶やさないけれど、そわそわとした。
クロエの様子をどう思ったのか、王子はスッと手を取った。
あ、と思うヒマもなく、手の甲に押し付けられる柔らかな感触。
それが手の甲へのキスだと認識したと同時に、声にならない悲鳴が周囲を包んだ。
クロエは頬を染め固まり、レナードは口の端がひくっとしていた。
王子と友人の公爵家令息のレナードに特別に目をかけてもらっている伯爵家令嬢が、王子から親愛の口づけを手の甲に受けたとなれば、クロエが注目の的になることは当たり前で、クロエとレナードはそそくさとキティ家の屋敷に戻ってきていた。
「……シナリオの強制力恐るべし」
あと顔面の威力ってすごい。とクロエは声に出さずに胸の中でつぶやく。
所詮は子供だ。子供に言い寄られたって、18歳の自分はかわいいなぁくらいとしか思わないとクロエは思い込んでいた。
ところが実際にキスを受けた際、クロエは思わず胸をときめかせてしまっていた。手の甲に触れた唇の感触はいまだに残っている。
「何簡単に攻略されちゃってんのさ」
「されてない。されてないよ」
いつものガゼボで紅茶と焼き菓子を用意してもらったあと、人払いを済ませた瞬間、クロエはテーブルに突っ伏した。
その姿に先ほどの淑女は見る影もない。
自分で言っておいて不服なのか、憮然とした態度のレナードに、クロエは突っ伏したまま首を振った。
「っていうか、レナードいつの間に王子と仲良くなったの。聞いてないよ」
「言ってないからね」
恨めし気に顔を上げるもののレナードはいつもクロエからの追及は聞き流す。
(王子からの興味はあるのかなぁ。でも、クロエ個人よりも『レナードの友達のクロエ』に興味があるだけな気がする)
そもそも王子はレナードとクロエの関係を誤解している節が見られた。その状況では王子はクロエを婚約者には据えないだろう。
「……ねぇ。王子、絶対誤解してるよ」
「そうだね」
レナードはしれっとした態度のままだ。
このままではシナリオの前提条件である王子の婚約者になれそうにないというか、レナードだって婚約者を探しにくくなる。なのに、会場での注目を考えれば、クロエは考えることを放棄したくなる。
「レナードはそれでいいの?」
「別に」
別にってなに。と問いかけると何かが壊れてしまいそうで、クロエは突っ伏した顔を上げられない。
クロエはゲームではレナードと一緒にできるレイドを楽しんでいたが、もちろん乙女ゲームなのだから、推しキャラはいた。
その推しキャラは王子ではなかったがため、クロエは王子の名前をあまり覚えていなかったのだ。
頭をずらしてチラリと見上げると、レナードが紅茶を飲みながらクロエを見ていた。
(王子の顔は美しいと思うよ。でも、美術品の美しさで、眺めるにも恐れ多い気がする。例えばさらさらとした髪の毛よりもクセのついた髪の毛で、甘い顔つきよりも……)
クロエはテーブルに額をこすりつけた。
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数日後。
淡いブルーのドレスを身にまとい、クロエは王宮へと赴いている。
チェスの誘いは社交辞令だと思っていたのに、ガーデンパーティの翌日、王子からの招待状が届いたことにクロエは驚いた。
保守的な両親は欲がなく、それどころか王族の招待状には悩んでいる様子さえ見えた。クロエも先日の王子の様子を思いだせば、面倒としか思えず、自室で1人になった時に大きなため息を吐いた。
レナードに連絡する間もなく、あれよあれよと日程が決まり、当日を迎えたのだった。
文官を務めている父の馬車にともに乗せてもらい、王宮の入口で騎士に連れられてクロエは一室へと案内される。
「やぁ。待っていたよ」
「ご拝謁賜り光栄でございます」
「ここでは無礼講で構わないよ。クロエ嬢は僕の客人なんだから」
一室は王子の執務室だったようで、クロエはその歳でもう執務室を与えられるんだなぁと現実逃避の考えでどうにか胃がねじ切れるのを抑えている。
執務室の中には護衛を担っているのか、騎士が扉の傍に立っていた。
「僕のことはニコラスと呼んでね」
「では、ニコラス様と」
クロエは手の甲への感触を思い出し、頬がうっすらと染まりそうなのを何とか抑え込むように視線をテーブルの上へと向ける。
窓際に配置されたデスクは王子の仕事用のようで、デスクの前には足の低いテーブルと、テーブルをはさむように2人がけのソファーが置かれていた。
テーブルの上にはチェス盤が置かれ、駒がセットされている。王子に促されるまま、クロエと王子が向かい合うようにソファーに座った。
「チェスは得意?」
「嗜む程度です」
前世で引きこもっている間、クロエはパソコンでチェスに熱中していた。
オンラインとはいえ、人と関わることに恐怖があり、まともに打つことができないため、クロエの相手はもっぱらNPCだった。
前世を思えば、子供とはいえ人と向かい合えるなんて、転生したこの数年でクロエは回復したものだとほっとした。
(いつまでもあの事に捕らわれていてもダメなのよねぇ)
「先行どうぞ」
「はい」
ポーンを手に取り、クロエはこつんと進めた。
「レナードから僕とのことは聞いた?」
「いいえ。レナード様はいつも大事なことは教えてくれないのです」
駒を進める軽い音が執務室に響く。
オンラインで打つときにはない音が楽しくて、クロエの手は軽い。
「僕の側近候補なんだ。知ってた?」
「……」
クロエが高校卒業程度の知力を持っているということは、レナードは高校2年生程度の知力を持っているということ。
現在の年齢を思えば、レナードの能力が評価されるのは当たり前ともいえるし、レナードの父もまた王宮で勤める文官だ。
どうしてそんな大切なことを言ってくれないのか、とクロエは眉を顰めそうになった。
「君の話はよく出ていたよ。レナードに次ぐ、いや、それ以上に天才児だってね」
「……?」
クロエは自分の評価なんてものは知らない。
引きこもりのため、クロエが出なければいけない茶会は限られていたし、両親もそれでいいと許してくれている。
「買いかぶりです」
「そうかな?」
クロエは王子のルークを1つ手元へと移す。王子はそれを見て、楽しそうに目を細めた。
「でも、その度にレナードが露骨に話を逸らしたり、ダメ、だなんていうものだから。面白くて」
「ダメ、ですか……?」
何がダメだというのだろう、とクロエは首を傾げる。
お返しとばかりにクロエのルークが王子の手元へと移った。
こつんこつんと会話の合間に進めていくチェスが奏でる音が心地よくて、クロエの緊張がほぐれていく。
「うん。秘蔵っ子なんだなって思って。それでこの間の茶会に呼んだんだ」
「それは……」
(王子実はだいぶ意地悪なのでは……?)
『レナードから話を聞いている』とはかけ離れているような話と、レナードの様子を知った上でクロエに招待を送ってくるのが意地悪なのはクロエにもわかった。
「レナード様は心配性なのです。昔から」
前世からレナードは自分を守ってくれた。両親が不在の時はご飯を作ってくれたし、引きこもっていた時は、クロエが顔を出せなくても一日一回必ず様子を見に来てくれた。
前世を思い出して、解けていた緊張も相まって、クロエの口元が緩む。
(ずっと、守られているっていってもいいのかなぁ)
11歳の小さな胸の内がむずむずとするばかりだ。
手が止まっている王子に気づいて、クロエはチェス盤から視線を上げる。
王子の美しい顔がほんのりと色づいて固まっていた。
「ニコラス様?いかがなさいましたか」
クロエが首を傾げて問いかけると、王子ははっとしたように、慌ててチェス盤へと向かい合った。
「いや、何でもないよ。レナードがご執心なわけだ」
「……あの。ニコラス様。それは誤解でして」
レナードは別に、と言ってはいたが、それは良くもないという意味でもあるのだろう。今世のクロエたちはまだまだ幼い身だ。婚約者を急いで流さないといけないというわけではない。けれど、誤解は解いておくに越したことはない、とクロエは声をかけた。
「私とレナード様は……その……恋仲というわけではないのです」
「ふぅん?」
王子は信じてないだろう笑顔で、なおかつ楽しそうな声色だ。
(これは何をいっても聞いてくれなさそう)
誤解を解くことは諦めるしかないのだろうと話を打ち切ることにした。
クロエは胸の内でため息を吐く。
「ふふ、チェックメイト」
クロエのキングの前でこつんと音が鳴る。
前世でNPC相手とはいえ、あんなに鍛え上げたはずなのに負けた。負けた事実にクロエはショックを受ける。落胆するクロエは淑女の姿がはがれかけていた。
「ねえ。じゃあ、僕が婚約者に名乗りでてもいい?」
「えっ」
チェス盤をみて、頭の中で反省会をし始めてしまったクロエは、王子の言葉に気の抜けた声を上げてしまう。
「ダメ?」
「え、えーと」
シナリオの前提条件は王子の婚約者だ。ならば、ここで受けるのがいいというのはわかっている。クロエはわかっているはずなのに、頷くことができずに、言葉にならない声を紡ぎ続けた。
クロエの頭の中でレナードがしれっとした顔で紅茶を飲んでいるのがひどく忌々しい。
「冗談だよ。でも、考えておいてね」
それはどっちなんだ。と言えるわけもなく、クロエは無言になった。
王子が騎士に目くばせをすれば、少し時間をおいて、侍女が紅茶を運んできた。
香りの高い紅茶はクロエの屋敷で飲む紅茶よりも美味しくて、これが王宮御用達、と思った。
そう思わなければ、先ほど頷けなかったことが頭から離れなかったからだ。
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翌日、クロエの屋敷に現れたレナードはやけに不機嫌そうだった。
クロエは屋敷に帰ってきてから、ふとした時に昨日のことを思い出し、悩み続け、その結果寝不足だった。
寝不足で回らない頭ではレナードが不機嫌なことにも気づかないでいる。
レナードとクロエは慣れたように、ガゼボに通され、侍女は紅茶と焼き菓子を残して去っていく。
クロエは昨日王子と話していた時にレナードの姿が頭から離れなかったことを引きずり、レナードの顔を見られないでいる。
「……昨日、王子と会ったんだって?」
「……うん」
その時ようやくレナードが不機嫌で、さらに原因はそれか、とクロエは気づいた。
連絡がレナードにできなかったのだ。きっと、昨日クロエが帰った後に、王子から話があったのだろう。
「……王子と婚約するの?」
レナードの顔を見られないクロエは、じっと紅茶を見つめていた。
茶色の紅茶に映る自分の顔の情けなさに、クロエは身が縮まる思いだ。
「だって、私と王子が婚約しないと、シナリオが……」
クロエだって、そうしないといけないとわかっているのだ。それなのにどうしてなんであの時頷けなかったのか。その自問自答がクロエの脳内を埋める。
「変にシナリオを狂わせるより、沿ったほうがいいでしょう?私は……」
言葉はレナードに言うよりも、クロエ自身に言い聞かせるようだ。
その様子に気づいているレナードはクロエの言葉を遮らずに、言葉を促し続ける。
「もう、私はレナードを失いたくない。あの時だって、私のせいなんだから」
手に残る温かな血の温度を顔に押し付けるように、クロエは顔を手で覆う。
(あの時を、忘れるわけにはいかない。忘れてはいけないのに)
「はあ~~」
泣き出しそうなくらいにクロエは言葉を詰まらせていたのに、レナードは詰まらないものを聞いたときのようなため息を吐き出した。
ため息に顔を手で覆ったままのクロエはびくっと体を震わせる。
立ち上がり、隣へと座るレナードの気配を感じて、クロエはそろりと顔から手を離してレナードを見上げる。
「あのね。姉さん。僕は今のこの現状が悪いと思ってないよ」
「えっ?」
クロエは目を丸くした。
ストーカーを自分でどうにかすることもできず、巻き添えにして、そして生まれ変わったというのに、レナードはそれでもいいと、そういうのか。
「姉さんが平民になるなら、僕も平民になるよ。そんなことさせるつもりないけど」
数日前にクロエが話したことを、レナードは今更何てことないように話す。
クロエの肩に、再会した時よりも幾ばくか大きくなった手が回されて、引き寄せられる。クロエとレナードの頭がこつんと当たった。
「僕はね、姉さん」
すり、とボルドーの頭がプラチナブロンドの頭に擦り付けられる。
ボルドーの毛が絡まるような感触がなんだか心地よくて、クロエは目を細めた。
「今世だと義理だとしても姉弟なんて縛りがないんだ。悪いなんて思ってない」
「そ、それって」
クロエの頭にふわっとした柔らかいものが触れる。
それは数日前にクロエが手の甲に感じたものと同一で――。
「だから、姉さんもちゃんと考えておいてね」
王子には僕から言っておくよ。そう言ってガゼボを去っていくレナードを、クロエは顔を赤くして固まったまま見送った。
レナードが見えなくなってから、クロエはテーブルに額をこすりつける。
「……対策かぁ」
クロエは必至に乙女ゲームの詳細を思いだそうと記憶を探る。
その姿はシナリオ通りに身を任せるといった、投げやりな考えは霧散していることは明らかだった。
「姉さんが、向けられる恋愛感情が怖くなっても仕方ないと思って色々我慢してたのがバカみたいだな」
レナードは馬車の中でごちるようにつぶやいた。
思い返せば、王子からのキス、求婚、恋愛感情を彷彿とさせるものに対して、クロエは怯えや恐怖はないように思えた。
レナードは怖かった。
もしレナードの感情をクロエが気づいた時、あのストーカーを連想してしまうのではないかと。そうなれば、クロエとどんな関係であれ一緒にいることはできないし、笑顔をだって向けてもらえない。
でも、そうじゃないのなら。
「とりあえず、王子を締めなきゃなぁ」
馬車の中で、レナードはひどく楽しそうだった。
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