日常2
「ただいまぁ」と言う声が聞こえたのは、それから二時間経った午前七時。
彼女にしては意外と短い散歩だった。
「早かったね」
私は尚も布団に横たわっている。
彼女が開けた窓から、下の道を人が話しながら通り過ぎていくのが聞こえた。
会話からして学生だろうか。
「お腹空いちゃって」
彼女はロフトの階段を上がってきたかと思うと、私の顔の横にちょこんと座った。
嫌でも視界に入ってしまう。
私は仕方なく起き上がり、オレンジ色の布団を整えることなく下に降りる。
何かあったかと冷蔵庫を開けるも、そこにはエナジードリンクしか入っていない。
私は冷蔵庫の横にある籠に、山のように入れられたカップ麺を二つ取って部屋に戻る。
彼女は既に下に降りていて、カップ麺を渡すと慣れた手つきで外装のビニールを剥がしていく。
「こんなものばかり食べてたら病気になるんじゃない?」
「お母さんみたいなこと言わないで」
「ごめんなさい。でも、死なれたら困るもの」
「人間はそう簡単に死なないわよ」
「そんなもの?」
「そんなもの」
私はコンロの上にあったやかんを手に取り、それに水道水を注いだ。
そのままやかんを火にかけて、部屋の奥に見える窓から外を見た。
朝の清々しい空気が部屋の空気を一掃する。
多くの人が活動を始める時間。
みんなが目を醒まし活発になる昼間とは違い、この時間の空気は少しだけ澄み渡っている。
「ヒマリ、電話よ!」
彼女は部屋でそう言った。
きっと母からだ。
友達からかかってくるわけがない。
そう思いつつ、音の鳴るロフトに上って携帯を見る。
画面には「母」の文字だけが自らを主張するかのように現れていた。
放っておいてもいいのだが、今出ないと五分毎にかかってくる。
私は仕方なく通話マークを押した。
『おはようヒマリ』
私以外が出ることを想定していない声だった。
もし通話先が男だったらどうするのだろう。
ま、そんなことはないのだが。
「おはよう、お母さん」
『朝ごはんは食べた?』
「今からだよ」
『カップラーメンじゃないでしょうね?』
「違うよ」
『そろそろ学校行ったら?』
「そのうちね」
『今日夕飯来ない?』
「行かないよ」
話題が驚くほど変わる。これが母の特徴だ。
「もう切るよ」
『体には気をつけるのよ』
返事をせず電話を切った。
私は何歳に思われているんだろう。
私は携帯をロフトに置いて下に降りる。
すると、キッチンに彼女が立っていて、心配になるぐらい慣れない手つきでお湯を注いでいた。
溢したら危ない。
「私やるよ」
「これぐらい出来るわよ?」
「火傷したら危ないでしょ」
そっとやかんを受け取ると、私は二つのカップ麺にお湯を注ぐ。
「私は一体何歳に見られているのかしら」
「んー、三歳?」
「バカにしてるのかしら?」
見た目は三歳なんだけどなぁと思いつつ、確実に私よりは年上だ。
しかし、彼女からそんな雰囲気は全く感じない。
カップ麺を部屋の机に置いて、二人揃って床に座った。
そして、静かに箸を持って三分待つ。
けれど彼女は待ちきれないようで、二分経たずに蓋を取って食べ始めた。
食べられないことはないけれど、少し早いような気がする。
カップ麺を食べ終えると、私は外行きの服に着替えた。
と言っても、チノパンにTシャツだ。
あいにく、街中を歩く女性が着ているような、おしゃれな服は持っていない。
我ながら地味だとは思うけれど、グレーの部屋着よりはいくらかマシだろう。
さすがにそんな服で行く勇気はなかった。
「もっとお洒落なの買ったら?」
「これダメかな?」
良いとは思わないが、誰に会っても恥ずかしくない格好ではあると思う。
「今度着物貸してあげるわ」
「モモの着れるかな?」
「サイズの心配は要らないわ。伸縮素材を採用済みよ」
着物に伸び縮みが必要かは疑問だが、着れれば問題ない。
彼女のことだ。
サイズは私用を用意してくれることだろう。
「そろそろ行くわよ」
「うん」
彼女はロフトの下にあるクローゼットの扉を開く。
明るい光が目の前に現れ、私たちは躊躇うことなく足を踏み入れる。
慣れた生活に、私はほっと胸を撫で下ろした。
前を行く彼女の後を追いかけながら、着物はいいな、と憧れを抱いた。