龍と少女と夜の話
「はふぅ……」
その日の夜、セレナは村近くの泉で、お風呂に入っていた。
大人が数人入れるほどの巨大な桶は、この村の周囲にある巨大な木から作られていると、老婆――村長のローヴが説明したのを思い返しつつ、セレナは思い切り身体を伸ばして空を見上げた。
天にあるのは月と、この世界でも天上に光り輝く巨大な輪、界門。
「遠くに来ちゃったなぁ」
セレナはポツリと呟いた。
この世界に来て早一週間以上。だが、その前まで自分は界門都市アルカフィアで聖女として活動していたのだ。
今思えば、着るものも食べるものも、それこそ寝るときなんて固い地面ではなく、ふかふかのベッドの中で寝ていた頃はなんて幸せだったのだろうか。
だが、そんな環境から良くも悪くも飛び出させてくれたのは、記憶喪失を名乗る変な少年で。
「これが風呂か!」
少年、クロの事を思い出していたセレナの耳に、ウキウキした声が聞こえてくる。
――え?
セレナがそう思った時、風呂の外に立て掛けられた小さなはしごが軋む音が聞こえ、黒い髪が飛び出してきた。
「うわっ!? 熱気が……これが、風呂かっ!」
湯気に目を細め、指先をお湯に浸けて「おお、熱い。でも水浴びと何が違うんだ?」などと呟きながらクロの身体が完全に立ち上がり――それを見る前にセレナは全力で後ろを向いた。
「おお? おおお? おーっ! これは……」
いい……と、ほぅ、とため息を吐きながら湯に身体を沈めたクロは、そこでようやくセレナの方を向き、首を傾げた。
「おい、なんでそんなに身体を縮めてるんだ」
「はい!? なんでって……そんなことも分からないの!?」
セレナが顔だけわずかに後ろを向かせると、そこには自分と同じくらいの年頃の少年の無防備な胸元――そこまで見て、セレナは耳まで赤くして顔を戻す。
そんなセレナの行動を、キョトン、と眺めていたクロはセレナに向かって中腰で歩いてみた。
「近寄るな馬鹿っ!!」
「斧出すなよ!? そんなに怒ることか!?」
龍神器がクロの前髪を掠める。
片手で胸元を隠し、顔を真っ赤にして唸るセレナを見て、流石にマズいと感じだクロは、ゆっくりとセレナから距離をとった。
「……普通、女と男は一緒にお風呂に入らないの」
「……え、そうなの?」
「そうなのっ! なんでそこだけ知らないのよっ!?」
セレナが叫ぶと、クロは虚空を眺めて記憶を探る。
「いや、だってなぁ? 人って温泉ってところで皆で風呂に入るんだろう? 昔、ささやきから教えてもらったぞ」
「……神龍様ェ」
形容し難いうめき声を上げ、セレナが頭を抱える。
クロの言う龍が神龍と同じかどうかは分からないが、同じような存在だった場合、クロの言っていることもよく分かる。
龍にとって、人は自分で創り出した子や孫にあたる。つまり、龍の視点から見れば人の男女差なんて些細な問題だし、龍の覚えている風呂が大昔のものだったら、もしかしたら今のように男女で分けたりしていなかったのかもしれない。
――だからといって、中途半端な知識を与えないでくださいっ。
「……俺、出たほうがいいか?」
「もういい。でも、こっち見ないでよ」
「おう」
クロはセレナに背中を向け、夜空を見上げてみる。
「トントン拍子に話が進むな」
「急になんのこと?」
突然変なことを言い始めたクロに、セレナが怪訝そうな顔をして尋ねる。
「お前を誘拐してから、今までが嘘みたいだ」
どこか遠くを見ているようなクロの呟きに、そういえば、自分は彼のことを何も知らないのだ、とセレナは気がついた。
「ねぇ、あなたはアルカフィアに来るまでどうしてたの?」
「なんだ急に」
怪しむように声色が低くなるクロ。
彼の声を聞いて初めて、自分の言ったことに気がついたセレナは、慌てて誤魔化そうとするが、背中を向けていたクロは彼女の様子に気づかずに、空を眺めながらポツリと呟いた。
「そうだなぁ……俺が目を覚ましたとき、原っぱのど真ん中だったな」
クロの話が始まったため、セレナは止めようと伸ばした手を戻し、身じろぎして姿勢を正す。
「すっげぇ目が痛くてさ、それで目が覚めたんだよ。身体を起こしたら見知らぬ平原。草と木と、空飛ぶ鳥と。すっげぇ寂しかったな」
「寂しい? 一人だったから?」
寂しい、と言う言葉にセレナが質問すると、クロは腕を組んで唸り声を出す。
「いや、一人だったからじゃないんだよ。なんと言うか……あるべきものが無いっていうか、居てほしかった人が居ないっつーか……なんだろう? でも無性に寂しくて、でも嬉しくもあったんだよ。なんかよく分かんないけど、胸が高鳴るって言うの? なんか、そんな感じでさ」
よく分かんないけど、と呟きつつ、クロは腕を後ろについて空を眺める。
「それから、虫食ったり魚食ったり。くっそ不味くてな。でも食べないとやってけないからさ。そんで何かを探して歩き回ってたら夜になってな、ふと気がつくと地面に倒れてて辺りが明るくなってて。あのときは眠るってことが分かってなかったから、すっげぇ焦ったな」
クツクツと喉を鳴らして笑うクロ。
懐かしむように、楽しそうに思い出すクロとは違い、セレナは彼のその時を思って下を向いていた。
クロは楽しそうに語っているが『寂しい』という言葉がセレナの胸を抉る。
記憶を失って、見知らぬ土地に着の身着のままで放り出されるなんてどんな気持ちなのだろうか。人にも会えず、あてもなくさ迷うのはどれだけ心細いだろうか。その時を生きるために味も分からず泥水を、
「おい――おいっ!!」
「――あぇ?」
気づけばセレナはクロに顔を両手で掴まれて、無理矢理彼と顔を合わせられていた。
「どうした、どこか悪いのか?」
「え? あ、いや……」
へにゃっと眉尻が下がって、心配そうにしているクロの顔を見て、鼻の奥がツンとするのを感じ、セレナは自分がどんな表情をしていたのかを察した。
しかし、なんと説明すればいいか分からず、かと言って心配している彼の手も払えず、頬から伝わる熱に何も言えずにいると、クロは「ごめんっ」と一言言ってセレナの膝裏に腕を通した。
「ひゃっ!?」
「お前は人だしな。疲れたら熱出したり体調崩すんだろう? お前の体調のことを何も考えてなかった。使いこなすだの言っといてこの様だ」
「えっ、いや、その……えっと……」
体調が悪い訳ではない、とセレナが言う前にクロはセレナを抱えて風呂を飛び出し、彼女の身体にどこからか作り出したボロ布を被せながら変身。
尻尾に器用に二人分の服を引っ掛けて走り出す。
『しっかりしろよ』
「別に体調悪くないんだけどぉ!?」
『嘘つけ! 顔悪かったろ!』
「あれはその……」
『言いよどむのが証拠だ』
「あれは……ああもう!!」
あなたのことを想像して泣きそうになっていた、などと素直に言えるわけもなく。
完全に彼女が体調不良だと思い込んでいるクロを見て、なんて言えばいいのよ! と心の中でセレナは叫ぶ。
『こらっ、余計な体力を使うな!』
「……私のことは私が一番分かるんだけど?」
『そういうのはキチンと出来てから言えよ、まったく。人は弱いんだから』
ブツブツと呟くクロの言葉を聞いて、セレナの心に何かがストンとはまり込んだ。
クロがセレナを心配する理由は、彼女が人だからだ。
人は弱い、という言葉は、自分が人ではない視点からこちらを見ている証拠だった。
その視点は? 彼のこれまでの言動と、記憶喪失という状況、そして彼の持つ変身能力を思い出して、セレナは思考の海へと沈んでいく。
急に黙り込んだセレナを一つの目で見たクロは、『ようやく落ち着いたか』と胸を撫で下ろして、ローヴのいる屋敷に向け足を早めるのであった。