龍と聖女の事情
少し調子の外れた鼻歌が聞こえる。
彼が目を開けると、何かが彼に覆いかぶさっていた。どうやら、なにか固いものに頭を預けて横になっているらしい。
暖かく生きた臭いに目を細め、彼は覆いかぶさっている物を押しのけようと手を上げた。
むにゅん
手に余る柔らかい感触が彼の手を刺激する。
ある程度の固さを持ち、手の中で変形するそれはとても心地よく、彼はその正体を知るために五指全てで柔らかいものをしっかりと揉みしだく。
「そろそろ起きてくれませんか?」
と、何かを堪えるような声が聞こえて柔らかいものが離れていく。
声に従って彼は身体を起こすと、その場で大きく伸びをして周りを見る。
屋根のようになった岩の天井と岩の壁。明るい方を見れば、青々と茂る草木が見える。
どうやら、自分は高い場所の洞穴にいるらしい。状況を整理した彼は、今度は声の聞こえた方を見る。
背中に流れる錆色の髪と、大きな蒼い瞳。素朴な顔立ちは、野に咲く草花を思わせる。
しかし、そんな印象を与える顔立ちと違い、身につけているのは、日陰にいて尚輝く純白の衣。
一瞬、彼女が誰か分からなかった彼だったが、少し頭を巡らせて、ああ、と彼女の正体に思い至った。
「聖女か」
「聖女かって……なんでそんなに気が抜けているんですか」
くぁ、とあくびをする彼を見て、彼女は「それより」と不審そうに彼を見て言う。
「貴方、人だったんですね」
「人? ……ああ、これか」
彼女に言われて、自分が人の姿に戻っていることに気づいた彼。
人になると必ず身に纏っている、黒い布と、ボロボロの黒い外套。
化け物に変身した時には黒く巨大な手足は、白くもなく黒くもなく、長さも人並みか少し長い程度。摘んだら見える黒い髪に、今は見えないがきっと赤い目もあるはずだ。
「なあ、聖女の住んでいた場所で俺みたいなやつっていたか?」
「俺みたいなって、化け物に変身する人ということですか?」
彼が頷くと、聖女は親指に顎を当てると首を傾げる。
彼女が知っているのは、自分の故郷とアルカフィアだけだが、そんな力を持つ人とは出会ったことがなかった。
と、そこで彼女は思い出す。彼とは違うが、彼と似通った存在と戦ったことがあったと。
「俺と同じ?」
「ええ、厳密には違いますが……。お役目の最中、貴方のように長い手足に尻尾を持つ者と戦ったことがあります」
「そうか……ところで、お役目って何だ?」
「え……?」
「だから、お役目だ。宗教なんだから、祈るのが仕事な筈だろう。なんで戦うってことになるんだ?」
意味がわからないぞ、と言われ、彼女は口を戦慄かせながら彼に聞いた。
「あの……まさかですが、私がどんなことをしているか知らないんですか?」
「ああ」
「聖女が何かも知らない?」
「ああ」
「神龍教は?」
「お前がいた組織だよな」
「それ以外は?」
「知らん」
記憶喪失だからな、と言われて、彼女はあんぐりと口を開けてしまう。
「えっと……つまり、何も知らない、と」
「言っただろ、記憶喪失だって」
「いや、でも、えぇ……」
何を聞いても分からない、と言う彼に、親指に顎を乗せて眉を寄せ、どうしたものか、と頭を悩ませる彼女。
「お前はどうなんだ?」
「私ですか? ……もしかしたら私のことで分かるものもあるかも知れませんし……」
言い訳を立てながら佇まいを正すと、彼女は彼を真っ直ぐ見て言う。
「私の名前はセレナ。神龍教で聖女と呼ばれ、お役目を果たす日々を送っていました。神龍教は?」
「知らない。しんりゅうきょう、名前からして、龍を神として崇めてるのか」
「はい。神龍教は、四天龍とも呼ばれる、この世の理を司る神龍様を崇拝している宗教です。それじゃあ、聖女がなにか知ってますか?」
「いや、知らない」
そもそも、聖女と普通の女の何が違うんだ? と首を傾げる彼に、彼女――セレナは愛用の戦斧を虚空から取り出して言う。
「神龍教における聖人は、龍に選ばれた者のことを言います。つまり、龍神器に選ばれた人のことです」
斧頭には、透明な珠を囲うように均等に配置された、赤、黄、青、緑の珠がある。
そして、鱗や棘のような装飾と、龍の爪や牙を思わせる分厚く大きな刃。
少女が振るうには刺々しく大きすぎる戦斧だが、セレナはそれを片手で持ち上げて彼に見せる。
「そして龍神器に選ばれた聖人は、界門から来る悪魔たちと戦い、これを撃退することで平和を守っているんです。これが、先程から話している、お役目、というわけです」
「……あの騎士たちじゃ駄目なのか?」
戦うだけなら、か弱い少女よりは鍛えられた騎士たちのほうが頼りになるだろう。
彼の言葉に、セレナは首を振っていう。
「確かに、騎士たちに任せることもできますが、騎士たちでは抑えられない悪魔も多いのです。そうした敵には、龍神器でなければ太刀打ちできません」
「……龍の力が宿ってるなら、そうか。ん? でも待て。あの騎士たちも龍の力を使っていただろ。火の玉とか」
「法術のことですね。確かに、騎士たちの法術は強いですけど、でもそれだけで勝てるほど悪魔は容易くありません」
「そんなに強いのか……だからお前が選ばれた聖女として戦うというわけか」
「はい」
悪魔というのがどれほどのものか彼にはわからないが、龍神器は龍の身体が変化したものだ。
それだけの力があれば、大抵の敵は倒すことができるだろう。
しかし、彼には分からないことがある。
「分かりましたか? 私の役割が」
「それは分かったけど、悪魔ってなんだ? 戦ってるってことは、お前たち神龍教と敵対してるんだろ? なんで敵対してるんだ?」
龍の力は強力だ。だからこそ、そんな力が必要な悪魔という敵が気になってしまう。
そんな彼の問いかけに、セレナは困ったように眉尻を下げて言う。
「それは……分かりません」
「分かりません? どういうことだ」
戦っているのに戦う理由が分からない。セレナの言葉が理解できず首を傾げると、彼女は眉間にシワを寄せ、躊躇うように言う。
「神龍教では、悪魔とは界門を通ってやって来る異形の者。人々を誘惑し、堕落させ破滅させるものである、と教えられています。でも……」
「でも?」
「……悪魔がそういうものには見えないんです」
最初はそう見えていました。戦斧を見つめ、セレナは呟いた。
「緑の肌、赤い肌、鱗、獣、多くの悪魔を見ました。そして、あの日見たんです」
それはいつものようにお役目を終え、残党狩りに参加した時のことだという。
悪魔の逃げ込んだ森の中を探索していると、複数体の悪魔の死体を発見したのだ。
折り重なるように倒れた人型の悪魔たち。その中に、同じ装飾の施された腕輪を嵌めた悪魔がいた。
手を繋いで死んでいたというその悪魔たちを見て、彼女は疑問に思ったらしい。
「私達は何をやっているのだろう?」
「はい。私達は悪魔のことを、秩序を破壊する者として殺してきました。ですが、あの人たちを見て思ったんです。本当に悪魔はそういうものなのか? あの悪魔にも、家族や恋人、大切な人がいたんじゃないかって」
誰に聞いても、悪魔とはそういうものだ、としか教えられません、と俯いてしまうセレナを見て、彼は腕を組んで唸る。
本当に悪魔は悪魔なのか。自分達のお役目にはなんの意味があるのか。そう疑問を抱いてしまったのだろう。
だが、聖女という立場にいる以上は悪魔を擁護することもできないし、質問してもそれに答えてくれる人はいない。
そこまで考えて、彼は「ああ」と納得したように呟いた。
「だから俺に攫われたのか」
彼の呟きに、こくりと頷くセレナ。
そうか、と彼が呟き、眉間にシワを寄せて小さく唸る。
険しい彼の顔を見て、セレナも自然と口を閉じてしまい、彼の唸り声だけが洞穴に響く。
それから、険しい表情のまま唸り続ける彼にセレナが声をかけようとして、しかし躊躇って口を閉じるということを何度か繰り返したとき、大きな音が響いた。
「ん?」
ぐぅぅぅ、と彼の唸り声を超える低音の響き。
音を聞いて顔を上げてみれば、セレナが首まで真っ赤にして肩を竦めていた。
お腹が鳴ったのか、と思ったのも束の間、それより大きな音が彼のお腹から鳴り響く。
彼女もそうだが、自分もお腹が減っていたらしい。彼の頬が緩んだ。
「あれこれ考える前に、まずはご飯だな」
「ご飯って……」
「まあ待ってろ。たぶん、ここは俺のほうが詳しい」
不安そうなセレナに背中を向け、「待ってろ」と言うと彼は洞穴の出口へ歩いていく。
陽の光が彼の目を刺激し、思わず目を細めて手をかざす。
外に出た彼を待っていたのは、緑覆う大自然だった。
青々と育った木々と、遠くには山脈が見える。その奥にわずかに見える赤いものはなんだろうか? 煙が上がっていて、まるで燃えているようだ。
ここがどこか分からない。だが、彼はこの光景に既視感を覚えていた。
「俺は、何なんだろうな?」
誰に問いかけるでもなく呟いて、返ってくる風の音に苦笑する。
神龍教、悪魔、龍神器、そして自分の記憶。
知っているのに分からないことだらけで、まるで虫食いのように穴だらけ。
自分の記憶に関係している筈のささやきは、セレナを誘拐したっきり全く聞こえなくなってしまった。
本当に自分勝手なことだ、と独りごつと、彼は岩棚を飛び降りて森の中に入っていくのであった。