美味しいご飯になんて絶対に負けない邪龍の奴隷ちゃん
「2000万リンダ、それ以上はありませんか? 希少な竜人、さらには古時代の産物です。職業柄、私は何度となく『この世に2つとない」と口にしてきましたが、今回ほど自信を持って言えることはありませんよ」
始まりはいつだって唐突だ。
世界の始まりがそうだったように、世界の終りもまた唐突なのだ。
ぐるりと眺めると、薄暗い会場には身なりの良い者たちがひしめいている。人間が上位種を飼えるという暗い悦びを楽しんでもいた。
「2800万、3000万リンダ。どうやら今宵は歴史的な落札額となりそうですね。こう言うと上の者に怒られるかもしれませんが、私まで楽しくなってまいりました」
会場からは笑い声がさざめいて、それに俺は不快感を覚えながらカツコツと通路を歩いてゆく。
彼らの目当てはこれだ。壇上にはライトが降りそそぎ、絹のシーツなどで飾られた空間は、まるで花が美しく咲き乱れているようだった。
舞台の中央を飾るのは、まだ幼い少女。
これもまた定番だ。あまねく人々の欲は、すべて「美」に集結されるんだよね。だって自分が醜いから。
などと思いながら靴を鳴らして歩き続ける。
ボタタと落ちた血に何人かが気づいたみたいだけど、お客様、会場ではお静かにと人差し指を口に当てる。
「4000万リンダ。それ以上はございませんか?」
舞台はどうやら最高潮らしい。庶民にとっては信じがたい金額が飛び交っており、それが皆を高揚させる。しかし俺はというと仏頂面で競売に参加しようとしている。
「では、4000万リンダで落さ……」
――ズシッ!
言葉を遮るように重い音を響かせると、会場にいる皆の目を集める。そして転がり出たものに、息を呑む音、そして小さな悲鳴がさざめいた。
すみませんねぇ、上流階級の皆さま。薄汚い血でまみれた首なんかを持ってきてさ。
「西方に巣くう魔の王の首だ。言うまでもなく、これには多大な報酬金がかけられている」
あっけにとられた司会者に、にやっと俺は笑いかける。
お前も落札額を喜んでいたんだろ? だったら笑えや。
「5000万リンダで、その子を買う」
ひくりと引きつりながらも、しかし男はプロらしく無理やり笑顔に変えた。へえ、やるじゃん。
§
ぐずぐずと鳴き続ける子供をじっと俺は見つめる。
その子は大粒の涙を拭くのに忙しいらしく、しゃがんで顔を近づけても気にしていない風だった。
「あのさ、良かったら名前を教えてくれない?」
そう問いかけると、涙を拭くまぎわに大きな瞳を向けてきた。桜の花が混じったような色は、どこか春という華やかな季節を連想する。しかしその子はあいも変わらず泣き続けており、美しい瞳をゆっくり眺めることは許されない。
諦めてその子と同じように石階段に座り、暮れてゆく西の空をただ眺めた。
「なんで夕暮れって寂しくなるんだろ。ガキのころ、保育園で親を待っていたのを思い出すからかな」
さびれた区域とあって人通りは少なく、そんな姿を気に留める者はあまりいない。ふと見あげる先には「競売所」なる看板があり、ときおり客らしき者が往来する。
泣き続ける子供と青年という組み合わせは、彼らの好奇心を誘う。あまりじろじろと見られたくないので早く立ち去りたいのだが、名も知らぬ娘はまだ泣き続けていた。
信じがたいが、彼女は俺の奴隷だ。
奴隷などということに関わることは一生ないと思っていた。忌まわしいとさえ感じている。しかし結果は真逆の「ご主人様」と呼ばれる立場になったらしい。
その証拠となる「奴隷の首輪」を少女は嵌めており、ひっくと嗚咽をひとつ漏らす。再び見上げてきた瞳は、やはり宝石のように美しかった。
「えーと、俺はサトウ。もし良かったら君の名前を教えてくれる?」
「……プリシア、です」
ぐすんと鼻を鳴らして教えてくれた。
おっけ、プリシアちゃんね。名前まで可愛いなんて罪だねぇ。なんて冗談を言っている場合じゃないか。
「えーと、帰るところある? 知り合いの人が近くに住んでるとか」
しばし考える様子を見せて、ふるふると少女は首を横に振る。もしかしたらと思ったけどさ、そう都合良くはいかないか。
ふうん、そばかす跡があるんだな。髪の毛は羊の毛のようにふわふわで、少しでいいから触ってみたいなと思った。
「俺、女の子を束縛するのって嫌いなんだよね。どこかに行くのもここに留まるのも自由。遊びたいと思ったら遊んでいい。だけどその首輪だけは人前で絶対に取らないで。君を守るものだから」
「はい、サトウ様」
悩むことなく少女はそう口にして、その瞬間に驚いた顔をする。いまのは奴隷として定められた「服従」の効果であり、彼女の選択ではない。
しかしこの場合、涙をほんの少し引っ込める効果があった。
「だから命令はこれでおしまい。たくさん泣いたし、お腹空いたんじゃない?」
そう言われて初めて気づいたのかもしれない。女の子はお腹を手でさすり、くうと可愛らしい音を立てる。わずかに頬を赤くする可愛らしさに、つい俺の頬は緩む。
「なにか食べたいもの、ある?」
「…………あったかいの」
そうかそうか、プリシアちゃんはあったかいのが好きか―と俺の顔はさらにほころぶ。どうしよう、この子めっちゃ可愛いね。
思えば女っ気のない暮らしをしていたし、それはこの世界でも元の世界でも変わらない。いいんだよ。小さかろうが特大のワケアリだろうが、可愛いものは可愛いんだしさ。
「ん、もうこんな時間か。買い出しに行ったら遅い時間の食事になるな。あったかいもの、あったかいもの……さて、なににしようか……」
そう言って悩む俺を、少女は不思議そうに見つめてくる。今夜の献立を考えているだけなんだけど、そんなにおかしい?
この辺りでは食堂で飯を食うのが一般的だ。どこも安いしまずまずの味だけど、せっかくならとびきりのご馳走を用意したい。
なので指先に念を込めると、それで四角く宙をなぞる。するとその形に線が走り、光が漏れて、奇妙なことに空間がゆがむ。開かれたその先には、元の世界……少々古びてはいるが伝統的な日本家屋が広がった。
「だいぶ前にさ、この世界に送られたんだ。なんやかんやとひどい目にあい、なんやかんやで戻る力を得た。以来こうして行ったり来たりの毎日だ。そう聞くと、ちょっと楽しそうな生活じゃない?」
やはり少女は不思議そうな顔をしていたものの、理解できない話には涙を引っ込めるという効果があった。もうひとつ、伸ばした手をつかみ返してくれるというおまけつきだ。
一歩、真新しい畳の香る室内に彼女は入る。それを見て俺はニッと笑いかけた。
「ようこそ日本へ、プリシアちゃん。異国情緒をたくさん楽しんで」
ぱちくりとまばたきする愛らしい様子は、とてもじゃないけど禍々しさなどみじんも感じられなかった。だけどそんなのただの勘違いだし、世界を滅ぼすと予言された子なんだよね。ぜんぜんそうは見えないけどさ。
§
湯気のこもった部屋で、ぷうっと少女は息を吐く。
薄汚れていると思ったのはお湯をかけるまでで、洗い流すとぺかりと光り輝くような肌に変わる。
「ん、やっぱり別嬪さんだ。じゃあ今度は湯船を楽しまないとな」
「ひゃあ!」
うっへっへ、悲鳴を上げても遅いぜ。
日本のお風呂は極楽だからな。このためだけに元の世界に死に物狂いで帰ってきたとも言う。しかし本日は喜ばしいことにゲストがいるので、自慢話はまた今度だ。
脇を抱えて持ち上げると、ざんぶと湯船に沈ませる。やっこいし軽いし、たとえ幼くても一緒にお風呂に入れてちょっとだけ嬉しい。
ほぉぉーー、と少女はたまらなそうな息を吐く。
うちのお風呂の良いところは、大人でも脚をうんと伸ばせることだ。広いお風呂ってのは一度味わうともうやめられないんだぜ。
「サトウ、サトウ、これはなに?」
くんくんと小さな鼻で匂いを嗅いでいる様子に、俺は笑いかけた。なんか知らんけど、子供と一緒にいると笑顔になることが多いな。
「草津の湯だ。そこは日本でも有数の湯元でさ、一日にドラム缶23万本くらい勝手にドバドバ沸く。なら、ちょっとくらいもらったって怒られないだろ?」
ま、ズルというか窃盗に当たるけどさ。ただし決して誰からも訴えられないのでセーフという自分に甘い判定だ。
向こうの世界と往復できるようになり、いくつかのズルを俺はしている。その内容については追い追い分かるだろう。
見上げれば湯気は格子を抜けてゆき、また新鮮な空気が入り込む。まさかこんな山中に覗きなど出ないだろうし、見たいなら見ろという開放感をいさぎよく優先した造りだ。
はあ、ふう、と女の子はため息を漏らす。よほど気持ち良いらしく、瞳をとろんとさせていた。
なんとなく大丈夫そうな気がして、首輪の留め具を後ろから外す。奴隷の首輪から解放されて、女の子はさらに心地良さそうな顔つきをしていた。
「寝ちゃだめだぞ。ぶくぶく沈んじゃうし……っと、いいよ、別に尻尾も出したって」
そう言うや、ずるんと生えてきた太い尻尾。それは白い鱗に覆われていて、ぼーっとした様子の女の子はこくんとうなずく。
「サトウ、怒らない?」
「怒らない。俺の屋敷だし、客人はもてなすのがこの国の流儀だ。実はここは変わっていてさ、しもべ妖精までひっそりと住んでいる。可愛らしい邪龍ちゃんが遊びに来たって、だれも驚かないんだぞ」
そう言って小さな鼻にちょんと触れる。
少しびっくりした顔をして、それから桜色混じりの瞳をまた眠そうな感じに戻す。そのあいだも背中をパキパキと鳴らしており、鱗状のものを広げてゆく。
「へえ、エナメル質というかつるつるだな。龍というより蛇っぽい感じ?」
そう言いながら遠慮なく触っていると彼女は振り返り、じいっとピンク色混じりの瞳で見つめてくる。
「サトウ、ぜんぜん怖がらない」
「まあ、鱗くらいなら別に。あの世界には不思議なことがたくさんあって、宝石の涙を流す子もいるんだぞ。もちろん夢やおとぎ話じゃない」
小さな子はまばたきを繰り返し、尚も俺を見つめてくる。恐れられることを恐れていたのか、ほうと安堵の息を吐く。
ざぱりと湯を分けて、まだ小さな羽を少女は広げた。
「ふぅぅ。サトウ、ここ気持ちいい」
「そうかそうか、気に入ったか。羽を伸ばすって言うしさ、一日の疲れを癒すには、やっぱり風呂だって昔から決まっているよな。俺も大好きだぜ」
もっと楽に過ごそうと思ったのだろう。ごろんと寝返りを打つと少女は抱きついてくる。翼にぶつかるものがなくなり、伸びをするように羽を広げていた。
間近で見る表情は俺まで気持ち良くなるほどで、汗の浮いた額に手をかけると小さな角まで生えつつあった。
「そこは触らないで、サトウ。少しくすぐったいわ」
「あ、ごめんごめん。俺ってデリカシーが足りないみたいだからさ。気になることがあったら、すぐにそう言って」
視界いっぱいにその子はうなずいて、それから肩に顎を乗せてくる。
うーん、やっこいし軽いし、気持ちよさそうな息づかいを聞いているだけで癒されるぅー。うーん、たまらん。
すう、ふう、という吐息を聞きながら、日本の夜はどんどん更けてゆく。
かつて世界を二分する大戦が起きた。
勝者と敗者を定めるために要した犠牲者は、終結して10年経とうとも規模を把握しきれない。
だが、多大な犠牲を払っても平穏は訪れなかった。あまねく死により目覚めた者がおり、それはひっそりと成長して、やがては世界を終焉に向かわせる存在……らしい。
もしかしたら醜く愚かな人間を、神様は見限ったのかもしれない。
などと占い師の言葉を思い出しながら、ごしりと少女の髪を拭く。
まだ湯船の心地よさが残っているらしく足元がおぼつかず、大人しく拭かれながらも倒れないよう俺にしがみついてくる。
尻尾と羽の水気を丁寧に取りながら、にこりと俺は笑いかけた。
「気持ち良かった?」
「すごく良かった!」
ぱっと弾けるように返事をする様子に、思わず俺は笑ってしまう。それにつられてか少女も口をあけて笑い、尖った犬歯を見せてくる。
まいったね、この子ったらとんでもなく可愛いよ。はっきり言って卑怯なくらい。
「パジャマと浴衣、どっちがいいかな。その前に、こっちをどうするかだけど」
ちょんと羽をつつきながら、もやもやと頭のなかでパジャマと浴衣を思い浮かべる。すると羽と尻尾が邪魔をして、ぶぶーっという電子音、そしてでっかいバツマークが俺の頭のなかでついた。
「ま、体型に合わせて服を選ぶのも女の子の楽しみでしょ。幸い服はたくさんあるしさ。えーと、下着、自分で履ける?」
そう言いながらしゃがみ、近くに置いていたパンツを手にする。
恥じらいを感じるような相手じゃないけどさ、下着はまた別かなぁ。困った顔を見られてしまい気恥ずかしいが、少女はひとつ首を傾げると、悩む様子もなく俺の肩に手を乗せてきた。履かせろという意味らしい。
なんだろ、これ。するんと下着に足を入れてくるだけなんだけど、妙にどきどきする。俺のストライクゾーンから大幅に外れた相手なのに、この微妙な背徳感というか、いけないことをしている感がある。ひとことで言うなら犯罪臭がする。
「サトウ? 顔が赤い?」
「男の子も複雑なんだよ、色々とね。さて、お風呂上がりの飯の美味しさを教えてあげないとな。覚悟してろよ?」
そう笑いかけると、お風呂上がりでピンク色の肌をした女の子は、きょとんと瞳を丸くしていた。
§
お風呂上がりの飯って、いろいろ定番というか楽しめるものはあるけどさ、やっぱり温泉街の食事は洗練されていると分かるんだよね。
代表格は温泉卵。
とろっとしたあの濃厚さを楽しんで、きゅっと酒で締める。このシンプルな味わいこそ温泉の醍醐味だと人々は口にする。またテーブルを飾るにぎやかな品にも目を輝かせるだろう。
ただし、喜んでもらえるぶん温泉宿の料理には手間がめっちゃかかるんだよねー。
「やっぱり遅い時間になっちゃったな。もうお夜食の時間になっちゃうぞ」
釜で米を炊いて、揚げ物の準備をして、ついでの品なども用意する。あの小さな身体だしたくさんは食べれないだろうけど、竜族は底なしだとも聞く。量の加減がまったくつかめない。
などとキッチンで格闘していると、素足をぺたぺた鳴らしながら小さな子が近づいてきた。そのまま俺の裾を握ってくる白ワンピの子が可愛らしくて、お母さんは忙しいからあっちに行っていなさい、なんて言えないな。
「おいでおいで、美味しいぞ」
そんな怪しい誘いにも関わらずプリシアは背伸びをしてくる。小さなおくちを開いて、艶のある鮮魚の刺身をつるんと口に含む。
「っ!」
中トロの良いところはこれだよね。
つるんとしたなめらかな食感であり、舌に乗るなり脂が溶ける。数回噛むだけであっけなく形を失い、甘いとさえ思える味わいが喉を滑り落ちる。その豊かな味わいに少女は瞳を輝かせる。
「ふぁーっ! これ、美味しいっ!」
両手の指をにぎり、ぱあっと顔を輝かせるのは反則だ。どうしたって俺は「そうだろう」と言って笑顔になっちゃうし、本当は漁師さんが偉いのに誇らしい気持ちになる。
もっともっととせがんでくる様子に笑いかけて、お行儀悪くも指でつまみ、唇に近づけてみると少女は指ごとぱくんと食んできた。
もー、本当に可愛いなぁ。これっぽっちも子供に興味なかったけど、胸がきゅっと締めつけられてしまう。
「じゃあお行儀悪いついでに、ここでご飯を食べちゃおうか。どうせ俺の家だし、だれからも怒られないんだし」
そうと決まったらお食事開始だ。釜の蓋を取ると湯気が舞い、たっぷりのダシを吸ったお米が現れる。一粒一粒に艶があり、食欲をそそる香りがぷうんとキッチンに漂う。
炊き込みご飯みたいなもので、温泉地気分を味わうためにも鮭のハラミや刻み海苔を散らす。最後に子供の大好きなイクラを乗せると実に食欲をそそる色彩に変わる。
「はい、あーん」
あーんと口をあけるのと一緒に、なぜか背伸びしてくる。
そしてひとくち噛んだとき、ぷつんとイクラがつぶれて瞳を見開いた。
分かる分かる。これ、ほんと凶悪なんだよな。ぷつ、ぷつ、と小気味よく大粒のイクラが潰れて、それがお米にほどよく絡んで旨味を増す。それを海苔の風味が助長して、もはや鼻から洩れる息さえ香ばしい。
「~~~……っ!」
ほっぺたを押さえてプリシアは立ち尽くす。そしてなぜか分からないけど俺のシャツをつかんで抱きついてきた。うわ、尻尾めっちゃ振ってる。なにこの可愛い生き物。
「サトウ、なにこれ美味しいっ」
「抱きついてそう言われると、なんだか俺が美味しいみたいだな。プリシアもお酒が飲めたらもっと楽しめるだろうけど、これだけは大人の楽しみだ」
そう言いながら中トロに醤油をつけて、極上の味わいを楽しんでから黄金色のキンキンに冷えたビールで流し込む。くぅー、これこれ。喉や胃を脂でコーティングしてからのズドンという麦の味わい! はい、美味しさドストライク!
「だぁー、美味いっ。たまんねーな、こりゃ」
俺は醤油とワサビを少し多めにつけるほうが好きかなー。不健康かもしれないけど、やっぱり醤油は美味しいよ。年を取れば取るほどそう思うし、魚の煮つけなんて反則級だもん。
などと堪能しながらも次の肴ができあがる。
揚げたての天ぷらも温泉宿の醍醐味で、さくっとした食感だけはぜったいに外せない。べちゃっとした天ぷらを食べたときなんて泣きそうになるし。
「これを天つゆに漬けて……はい、あーん」
あーんと声を出して、尻尾を振り振りしながらプリシアは待ち構える。先ほどの食事ですっかり味をしめたらしく、頬をほんのりと染めている。そのおくちで、さくっと海老天は小気味よい音を立てた。
衣はたっぷりの天つゆを吸い、それが海老の香ばしさと共に溢れてくるんだ。じゅっと唾液が溢れるようだったろう。少女は綺麗な瞳を見開いて、まじまじと俺を見つめてくる。
なら俺はこう問いかけるしかないよね。
「美味しい?」
「っ! 困っちゃうくらい美味しいっ!」
唇を指で隠して、とすとすと足踏みしながらプリシアはそう言う。光沢のある長い髪をたくさん揺らしており、ほほえましいったらない。
この年頃の子供って、本当に正直だよね。味に対しても温泉に対してもそうで、与えたぶんをそのまま全身で表してくれるみたいだった。ぱあっとさらに光り輝くのを感じたよ。
もぐもぐと夢中になって食しており、たまに「はやく」と言うように見上げてくる。そして俺を逃がさないようにしているのか、しゅるりと尻尾が巻きついてきた。
胴体を一周させてから少女はようやく気づいたらしく、ぼっと顔を赤くさせる。
「こっ、これはちが……!」
「お、いい度胸だ。なら今夜はプリシアのお腹が真ん丸になるまで食べさせちゃうぞ」
そう笑いかけながら唇についていたお米を指でぬぐってやる。むにぃっとやわらかく弾んで、まだ顔が赤いままのプリシアは瞳を逸らす。
「いやよ、そんなの。サトウはちょっとだけいじわる」
一緒に過ごすとひとつずつ新しい顔を見せてくれる。不機嫌というよりは困ったような顔をしているけれど、温泉卵の入った小皿を近づけると綺麗な瞳はそこに吸い寄せられる。
「温泉に入ったらこれを食べないといけないんだぞ。はい、あーん」
ひな鳥がそうするように、あーんと言いながら口をあける。そわそわと楽しみで仕方なさそうに頭を揺らしており、瞳はすっかり俺ではなくスプーンに向けていた。
温かくてホッとする味。それこそが温泉卵の醍醐味だ。
とろりとした食感をそのままに、口のなかで味わいが溶けだす。その優しい味わいに少女の頬から口元まで緩んで「んふー」とたまらなそうな声を漏らす。ぱっと指で隠したけどもう遅いぞ。
「そっか、プリシアちゃんは、あったかいご飯が好きかー」
「す、好きとかじゃ、なくて……ホッとするの」
焦った様子が可愛らしくて、うりうりとつつくと少女はむくれた。
「やっぱりサトウは意地悪。嫌い」
ぷいと顔を逸らされて、しかし俺は慌てるでもなくちょっとだけ嬉しかった。子供らしい顔を見れたし、もう夕刻に見かけたときのように泣く様子はない。
彼女は「言い過ぎたかな」と言うように、ちらりと瞳を戻してくるけど、それよりもまだしっかりと絡みついたままの尻尾を気にするべきじゃない?
竜にも個性がある。
狂暴であったり人と話すのが好きだったりと様々だ。
では、この絡みつく尻尾にはどんな意味があるのだろう。
寝室に移り、温かいベッドに包まれるやすぐさまプリシアは眠りについた。たくさん泣いて疲れたのだろう。
「それは分かるけど、この尻尾はいつ外れるんだ?」
胴体を一周する尻尾はゆるむことなく、結局のところ添い寝を強要されてしまった。
しかし問いかけるべき相手はすやすやと眠りについており、ただのひとりごとになってしまう。どうやら彼女は羽毛たっぷりの布団をお気に召したらしい。
しかし暑い。
子供特有の高い体温で、俺まで汗をかきそうだ。
そういや小さいころは寝汗をかいたっけな。そう思いながら布団を少しどかして、ひんやりとした夜気を入れる。
そのとき巻きついた尻尾が目に入り、ふと気づいた。
「収集癖、かな?」
光り物を集めることに無心する竜がいるらしい。
その竜は、きっと大事なものに囲まれて、ほうと幸せそうな息を吐きながら眠りにつくのだろう。まだあどけないプリシアのように。
ならたくさん見つけるといい。
そして大事なものに囲まれて、心地よい眠りにつくといい。
「……サトウ、寒いわ」
そう眠そうな声で言い、ゆっくりとした動きで俺におおいかぶさってくる。鎖骨に形の良い鼻を当てて、すう、ふう、と温かい吐息がくすぐってきた。
催促されたのだから、俺も大人しく眠りにつくとしよう。
そう思い、温かいお布団にもぐりこむ。
おやすみなさい、邪龍ちゃん。
また明日ね。
夜半、プリシアは目を覚ます。
月明かりが障子を照らしているので視界には困らない。
鮮やかな色をした瞳をわずかに開いて、それから小さな鼻でクンと匂いを嗅ぐ。
男の匂いだ。まだ慣れない匂いであるものの、そのうち気にならなくなる予感がある。しかしプリシアは嗅ぐことをなかなかやめず、寝入っている男の首に鼻を押し当てた。
わずかな体臭を吸い込み、肺いっぱいに満たす。その行為にどんな意味があるのかは己にも分からないが、プリシアは長い時間をかけて男の肌の匂いを嗅いでゆく。
世界にはたくさんの竜が現存する。
不思議な力を持ち、その気になれば多くの人々を滅ぼすこともできるのだが、なぜかそれをしない。優しいわけではなく、単に人に興味がないのだ。
しかしプリシアはというと色づいた唇を押し当て、また深く深く息を吸う。
意味のない行為などでもなく、どくんと体内で音が響く。どくんどくんという音はなおも続き、そして開かれた瞳は極彩色に変わっていた。
「…………変な人」
あごの下に口づけをしながらそう言葉を漏らす。どこか身体の感覚もおかしくて、指を何度か握ったりしながらプリシアは瞳を閉じてゆく。
たぶんこれは竜にとって本能的なものだ。収集したお気に入りをあちこちから眺めて、気が済んだらまた眠りにつく。
手に入れたばかりのせいで興奮はなかなか冷めず、小さな胸を高鳴らせてプリシアは熱っぽい息を唇から漏らした。
幼い彼女は、竜の本質というものをこれから学ぶ。
ただ、はっきりと分かっていることもある。それは、もしもこれに手を出す者がいれば、世界ごと焼き尽くしてしまうだろうという予感だ。
お気に入りの上に寝そべり、プリシアはようやく眠りについた。