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時のない家  作者: まきの・えり


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2 時の流れるままに

 2 時の流れるままに


 僕が今不幸なのは、幸せというものを少し知ってしまったからかもしれない。


 何もしないでいると、月日の流れるのが早い。

 僕が高校に入学してから半年以上が過ぎた。

 僕は完全にノイローゼだ、と思う。精神病だ。強迫神経症だ。

 僕は一ヵ月ほど夜間高校に遅刻しながら通うと、また全然行けなくなった。中学の時と同じだ。

 夜間高校に行くことを決め、試験を受け、合格発表を見に行き、高校に通い始めた頃が、多分今までの人生で一番充実して幸せだったのかもしれない。けれど、そんなことも忘れてしまった。

 僕は生まれてからずっと不幸だったような気がする。幸せだったことなんか一度もないような気がする。それでも、まだ、今の不幸に比べれば以前の方が幸せだったと思える。

「お前なんか死んでしまえ」とお母さんに言われた。

 僕はいつもいつも不安なので、いつもいつもお母さんと話していたい。いやがられても嫌われても話していたい。

「オレはお姉ちゃんが死んだらいいと思う」と本気で言う。

「アイツなんか邪魔でしかない。いつも、オレの邪魔ばっかりする」

 お母さんは呆れ果てた顔で僕を見る。

「それやったら、あんたは、もっと私の邪魔をしているでしょ」

 お母さんは、僕が高校に通い始めてから、ガサッと痩せた。僕は、元々食べても食べなくても、痩せたままだ。親父と同じだ。親父の親父と同じだ。


 僕は、中学三年の時、これから先、一生学校というものとは縁がないんだと思っていた。

「これ、押し入れを整理していたら出てきた」とお母さんが言った。

「何?」

 見ると、僕の住んでいる地域の高校の案内書だった。

「近所に二つも夜間高校があるんや」とお母さんも驚いたように見ていた。

 その時、僕とお母さんは、同時に同じことを考えた。

『夜間高校にだったら行けるんじゃないか……』

 それは、『登校拒否』という、長くて暗い闇の中にともった、たった一本のろうそくみたいなものだったのかもしれない。

 中学二年の時から、完全に学校に行けなくなった僕は、ずっとずっと、出口の無い暗いトンネルのような世界の中でうずくまっていた。

『夜間高校』というのは、僕にとっては、行く先を示してくれる海図みたいなものだった。

 僕は、勉強をしたこともないし、本もあんまり読まないので、そういうことをどう言っていいのかわからないけれど、突然、目の前に現れたRPGの世界の地図みたいだった。

 僕とお母さんは、『ドラゴン・クエスト』や『ファイナル・ファンタジー』にはまったみたいに、その地図の世界に、はまりこんだ。

 僕は、在籍だけしていた、中学三年後期の試験を受けた。

 自慢ではないけれど、全然勉強はしなかった。

 勉強をする気になったんだ、と思って、僕に勉強を教えようとしたお母さんは、僕の目の前で、何度目かの挫折をした。

 お母さんは、高校の先生だったことがある。きっと、いい先生だったんだろうと、僕は思う。お母さんには、教えるというより、生徒と一緒に何かを作り出す力がある、と思う。

「センセは、本当はセンセと違うやろ」と生徒達に言われたらしいけれど、そういうフツーの先生には無い、変なパワーがある。ただ、その力も、僕には無効なだけだ。

 お母さんには言えないけれど、お母さんは、僕なんかから見たら、変にセンセイくさい。

 自分では、私は、教えようと思ったことはないのよ、生徒と一緒に何かを作っていきたいだけなのよ、と言っていたけれど、他の学校の先生と一緒で、自分が一番正しいと思っているし、自分が正しいと思っていることを、僕に(生徒に?)押しつけようとする。本人が気付いていないのが、一番の問題だと思う。どの先生より、僕にとっては、充分以上にセンセイしている。

 あの可哀相な私の息子を何とかしなくちゃ、あのどうしようもない私の息子に何かを教えてやらなくちゃ。

 お母さんにとって、僕というのは、永遠に、『どうしようもない、可哀相な、私の息子』なんだ。

 僕は、そのことを、本気でイヤだと思っているけれど、そう思ってもらっていないと何もできないので、一人で荒れるしかないのだ。

 僕は情け無い。僕は悔しい。けど、何もできない。

 僕は、お母さんの操り人形じゃない。けれど、そうでないと、一人では何もできない、哀れな、『お母さんの息子』なんだ。

 夜間高校に入学するまで、僕は完璧にお母さんに気にいられている息子だった。

 中学の先生と相談して、高校の下見に行き、お母さんと一緒に説明会に行き、そして、ほんの少しだけ、お母さんに言われる通りに『勉強』し、それから、奇跡のように、朝遅れずに高校に行って、入学試験を受けた!

 そして、0点でなかったら全員合格する、と言われた通り、無事! 合格した!

 僕は、自分が非常に好きだった、その期間だけは。

 僕は、自分が本当に嫌いだ。自分で自分を嫌いだ、と言ってしまったら、誰にも好かれない僕だから、無理をして、自分が好きだと思おうとする。

 そして、僕の一生で、初めて入国したのかもしれない、『夜間高校』という名の『幸福の国』は、僕が入学したとたんに、鎖国した。

 多分、僕が、今まで同様に、『鎖国』したんだ。


 夜間高校は夕方から始まる。きちんと通っていれば、毎日給食も出て、毎月一万円のお金をもらえるらしい。きっと、元々貧しい家庭の子供達が行く高校だからなんだろう。

「仕事やと思って通ったらいい」とお母さんは言っていた。

「技術も身につけてもらえて、お金までもらえる、こんないいことはないのよ」

 それは、そうかもしれない。

 お母さんは、そのお金をためておいてくれると言った。四年間で四十八万円。ちょっとした大金だ。

 それは、本当に、いい話かもしれない、実現すれば。

 しかし、高校に通う時間になると、僕の心は、急に弱りだす。色々なことが気になって仕方無くなる。

 教室の場所がわからなかったらどうしよう、一人場違いだったらどうしよう、トイレに行きたくなったら困る。

 その前に、自分の部屋のことが気になってくる。

 何もかもがキチンとしていないと不安だ。何度も何度もドアを開けて、部屋の中を確認する。何度も何度も確認する。

「今まであんまり外に出ていないんだから、学校に行って戻ってくるだけでいい」とお母さんは言っていた。

「そしたら、徐々に体力がついていって、考え方も変わるし、行動範囲も広くなるし、今までだったら思いつかなかった考えだって浮かんでくる」

 それは、その通りかもしれない。

 最初は一時間遅れて行っていた学校に二時間遅れ、三時間遅れて、行っても仕方の無い時間になると、行くのが無駄だと思える。

 どうせ、用意しているうちに遅れてしまうんだから、用意しても無駄だ、と思う。すると、段々用意もしなくなる。

 そうして、五月の連休の終わる頃には、全然学校に行く気はなくなっていた。

 いや。行く気はある。行く気はあるのに、行けないのだった。

 多分、『これが(僕に残された、最後の)一番いい道』なのに、その道をすら通れない自分に腹が立っていたのだと思う。詰まらないことで、お母さんに当たり散らすようになった。お母さんが、倒れるんじゃないか、と思えるほど弱っていたのも不安だった。

 僕が学校に行かないので、当て付けに弱って見せてるんだ、と恨んだ。すると、余計にお母さんに対して腹が立ってくる。

 とにかく、僕は、お母さんと話していたい。もう、何が何でもどうでもいい。とにかく、いつまでもいつまでも話をしていたい。

「もう、いい加減にしてよ」とお母さんも、ついには怒鳴る。

「もうちょっとだけ、話をしよう」と僕はお母さんを引き止める。それも、お母さんの腕をきつく掴んで離さない。離したらお母さんは自分の部屋に行ってしまう。お母さんの姿が見えなくなるのが不安だ。テレビを見ていても、コマーシャルごとに、お母さんの部屋をのぞく。寝ている時も、ちゃんとお母さんが寝ているかどうか確かめる。

「頼むから、いい加減にして」とお母さんは言う。

 僕は昔から不安なんだと思う。こんな僕に愛想をつかして、お母さんがどこかに行ってしまうかもしれないのが不安なんだと思う。僕を置いて、どこかに行ってしまって、二度と帰ってこない。

 それでいいんだ、と僕もどこかでは思っている。こんなヤツに、一生支配されて生きていくのはイヤだ。

 けど、僕の心は、すぐに不安で満員になってしまう。わけのわからない不安。理由なく喉まで上がってきてしまう不安。

 僕は、どうしていいのかわからなくなる。どんなことをしても、お母さんにしがみついていたい、と思う。しがみついていなくてはいけないんだ、と思う。

 だって、何もかもが怖いんだ。何もかもが不安なんだ。僕には、どうしようもないんだ。

 僕は幼稚園に入園する前から変わっていない、とお母さんは言う。僕自身は凄く成長したと思っているのに。他のヤツラに比べたら物凄く成長していると思う。それなのに、お母さんの目には、僕は幼稚園児みたいに見えるのか。

 時々、何もかもどうでもいいように思う。

 どうせ、地球は滅んでしまうんだし……オゾン層はどんどん薄くなっていて、宇宙線が強くなる……大気も水も汚れていて、人間以外の生物はドンドン滅亡していく……

 僕は人間に生まれたことを、他の生物に対して、申し訳なく思う。けど、僕には何もできない。僕には、神戸の中学生みたいに、行動する力さえない。同じようなことをしたいとは思わないけれど、頭にきた時には、お母さんを殺してやる、と思ったりする。

 死んでしまえ、と思う。どこかに行ってしまえ。消えてしまえ。

「お前なんか、死ね! 死ね! 死ね! メッチャむかつく。死んでしまえ」

「死んだ、と思って」とお母さんはウンザリしたように言う。その言い方に、僕は、今まで以上に、腹を立てる。お母さんが、僕のせいで不幸だと思っているのがむかつく、僕と話をしたがらないのがむかつく、僕が望むほど僕のことを大事に思っていないのがむかつく。

 誰一人として、僕のことを愛してくれないのが、ありのままの僕を認めてくれようともしないのが、一番むかつく。


 夏休みの終わる頃、僕は旅に出ようと思った。お母さんは、用事で一週間ほど家を空けていた。僕は、動かないといけないと思っていた。ずっと思っているけれど、身体が家に貼りついたように動かないのだった。

「オレ、旅に出る」とお母さんに言ったら、「あ、そう」と答えた。

「オレが旅になんか行かれへんと思ってるやろ」

「別に。行きたかったら行ったらいいやん」

 僕が、旅に出ようと思うほど、自分の人生を思い悩んでいることを、お母さんに知ってほしかった。けれど、言っても無駄なようなので、それ以上は、何も言わなかった。

 お母さんが帰って来る日の朝になって、僕はようやく準備ができて、家を出た。

 お母さんに、やっぱり旅になんか行けないヤツ、と思われたくなかった。そんな目で見られるぐらいだったら、死んだ方がマシだと思った。

 朝、出掛けようとして、準備していると、「何してんの?」と、僕の大嫌いなお姉ちゃんが言った。

「オレ、タビに出るわ」とちょっとカッコをつけて言った。

「どこに行くの?」

「そんなん、決めてない」

「今日、お母さんが帰って来る日でしょ? お母さんが帰って来てからにしたらいいやないの。お母さん、あんたが、今日、旅に出るって、知ってるの?」

「言ってある」

「帰ってきて、あんたがいなかったら、お母さん、凄く心配するよ」

 アイツ、心配なんかするか、と思ったけれど、言わなかった。

「私はバイトがあるけど、毎日ちゃんと、お母さんに電話するのよ。ほんとよ、わかったわね?」

「うん、わかった」と僕は仕方無く答えた。

 僕は、何度も何度も玄関のドアが変でないか、電気がちゃんと消えているか、家中がきちんとなっているかを確認してから、家を出て行った。

 かなり用意に時間がかかったけれど、一人で家を出られたというのが、嬉しかった。

 毎日毎日、外に出たらいいんだ、と思いながら、気がついたら、翌日になっている、気がついたら一週間、一ヵ月、半年が、一年が経っている……という生活をしていた。

 テレビを見て、漫画を読んで、セガサターンやプレステをして、毎日がいつの間にか終わっていく。

「あんたの生活はお爺さんの生活よ」とお母さんに言われると、むかつく。

 僕は年寄りは嫌いだ。臭いし汚いし、いるだけでむかつく。

「オレは若いんじゃ。年寄りと一緒にするな。オレは、年寄りが嫌いなんじゃ」

「何で?」

「臭いし、汚いからじゃ。あんな汚いもん、家の中に閉じ込めといたらいいと思う。外に出てくるな。恥ずかしくないんか」

「……あんたも年寄りになるのに。それに、それだけ言うだけ、あんたはお年寄りと会ってないでしょ」

「会ってなくても嫌いなんじゃ」

「具体的には、誰が嫌いなの?」

「道歩いてる年寄り全部じゃ」

「面白いお爺さんもいるし、可愛いお婆さんもいるやない。全部嫌いなの?」とお母さんに言われると、グッと返事に詰まる。

「オレは、あのババアが嫌いなんじゃ。何で、アイツは家に来るねん。何の用事もないのに、何で来るねん」

 年寄りが嫌いだという話から、突然、お祖母ちゃんのことに、話が移った。そうだ、その通りだ。お母さんの言う通りだ。ボクは、母方のお祖母ちゃんや、親父の両親しか年寄りは知らない。後は、自分が勝手に考えた『年寄り』というイメージだけだ。

「私のお母さんやからでしょ?」

「お前かって、ババアのことは嫌いなはずじゃ。アイツ、自分のことしか考えてない」

 そう言ったとたんに、お母さんの考えていることがわかる。

「オレと親父は違うからな。別人やからな。オレとババアも、ぜんっぜん似てないからな、覚えとけよ。オレは、自分以外のことも全部考えてるからな」

 僕は、お母さんに優しくしなかったババアと親父が大嫌いだ。お母さんにイヤな想いをさせるヤツラ全部が嫌いだ。そして、お母さんと親しいヤツラも……全部嫌いだ。

 僕がお母さんと話したいのは、僕だけがお母さんの味方で、僕だけがお母さんを大事に思っていることをわかって欲しいからだ。他のヤツラなんか、お母さんをイヤな目に合わせるか、お母さんを利用しているだけだと知っているからだ。お母さんは、バカだから、いつもヒトに利用されている。けれど、お母さんはバカだから、そのことに気がつかない。僕だけが本当のことを知っていて、いつもハラハラしている。そんな無料のことで、ヒトのために動くなら、もっと僕のために時間を使って欲しい。僕が起きている時に、お母さんの時間を全部使って欲しい。

 時々、お母さんは、朝の四時や五時まで話をしてくれる。僕は、その時間がすごく嬉しい。お母さんが楽しそうに話してくれると、それだけで顔がニヤケてしまう。それどころか、お母さんと喧嘩した次の日に、内心ビクビクしながら顔を見た時、ニコニコしてると、涙が出るほど嬉しい。

「オレほど不幸な人間はいない」とその少し前に一人で思っていたことを訴えても、「あんた、顔、笑ってるよ」とお母さんに言われてしまう。

 どうしても、お母さんの顔を見ると笑ってしまう。涙が出ながら笑ってしまう時もある。僕を幸せにするのも、お母さんなら、僕を不幸のドン底に突き落としたまま、平気な顔をして、自分の部屋に行ってしまうのも、お母さんだ。僕には、他に誰もいないんだから。友達や恋人どころか、ほんの知り合いでさえも。いない。

「あんたは、暇な時間を潰したいだけでしょ?」とお母さんに言われる。

「私は、用もないのに、何時間もつぶされたくないのよ」

「何で、用がないねん。お前と話したいいうのも、用やないか。息子と話ぐらいしたれよ、母親なんやから」

「あんたと話してるだけで、生活ができるのならいいけど、生きていくには、しないといけないことが沢山あるのよ。それに、ハッキリ言ったら、あんた達、子供がいるからしないといけないことが多いのよ。一人で生きているんだったら、何の必要もないことも、一杯しないといけないのよ」

「お前、オレを脅迫してるんか。そう言うたら、オレが黙ると思ってるのか。お前は、オレから逃げてるだけやろ。きちんと話をしろよ」

「一応、事実を言っただけ。ま、こんなことをしていたら、いずれ、家賃も払えなくなるし、そしたら、この生活も終わり、いうだけの話やけど」

「そしたら、オレはどうするんじゃ」

「自分で考えてくれる? 私もできるだけのことしかできないから」

「お前は、オレを追い詰めて嬉しいんか。お前が部屋に行った後、オレがどんな絶望を味わうか、知っててやってんねんやろ」

「私は、あんたと違って、そんなに未来に時間がないから、一時間一時間が大事なのよ」

「どーせ、部屋でゲームするだけやろ」

「わかってる? あんたと話してると、一日のエネルギーのほとんどが無くなるのよ。どんどん元気もなくなって、それを何とかするために、ゲームするわけ」

「ゲームしかしてないくせに、偉そうに言うな、このクソババア。自分が勝手にゲームしてるんを、オレのせいにするな。小説かて、全然売れてないくせに、金にならんことばっかりに時間使うな。ちゃんと仕事を探せ。パソコンで仕事しろ。ゲームするために、パソコン買ったんか、ええ? クソババア。金捨てたようなもんやな。金ないんやったら、パソコン返して、金返してもらえ」

 自分でも、不愉快なことばかり言ってることはわかっている。お母さんが、僕以外のことに、時間を使うのが耐えられないだけだ。ボクよりもっと大事なものがあることが耐えられない。

 知っている、僕は、自分のことしか考えていない。お祖母ちゃんよりもっと、親父よりもっと。僕が他の人達のことを考えるのは、お母さんに知って欲しいからだ、僕が、そういう立派な人間だということを。認めて欲しいからだ、僕が、お母さんにとって、立派な息子だということを。素晴らしい未来のある、きちんとした息子だと認めて欲しいからだ。したいことも、しなければいけないことも、何一つできなくて、毎日毎日確認ばかりしている人間だと、それだけの人間だと思われたくないからだ。だって、友達一人もいない僕にとっては、お母さんだけが、この世の全てだからだ。お母さんにダメな人間だと思われたら、それだけでダメになってしまうからだ。お母さんに邪魔な人間だと思われたら、それだけで、この世の全てにとって、全世界のありとあらゆるものにとって、邪魔な人間になってしまうからだ……


 どこに行こうか、と僕は考えた。

 お母さんは知らないけれど、一応、親父やお祖母ちゃんから、小遣いはもらっている。

「お母さんは、小遣いもくれへんのか」と親父に言われると、お母さんの悪口を言っているみたいなので、腹は立つけど、一応「うん」と答える。

「ひどいよなあ、子供に小遣いも渡さんなんてなあ。お姉ちゃんにもやってへんねんやろ?」

「さあ、オレは知らんけど」

「やってへんみたいやなあ、お姉ちゃんだって、買いたいものとかあるやろになあ」

「バイトしてるから、いいんと違うん?」

「けど、それやったら、何のためのバイトやねんなあ」

「けど、お姉ちゃんは、電話代とか高いみたいやし」とつい、お母さんをかばってしまう。

「……そんなに、生活キツイんかな。」

「さあ、オレラがいるし、キツイんとちゃう?」

「けど、そんなこと、子供に心配させてもなあ。まあ、お前に言っても、しゃーないけどなあ」

 親父と一緒にいると、お母さんがコイツと別れたのは正解だったと思う。ちょっと買い物に行ってもイライラして、僕は心の底から疲れてしまう。親父からはしょっちゅう電話があるけど、一緒に出掛けるのは、月に一度か二度だ。僕は、お母さんみたいに辛抱強くない。

 親父を嫌いではない。親父のお蔭で、僕は、この世に誕生した。親父がいなければ、僕もいなかった。

「そやけどなあ、アイツ、ほんま、最低やで。買い物の途中で、急に怒り出すんやもん。それも、誰にもわからん怒り方やで」

 他に言う人もいないから、お母さんに言うと、お母さんはあんまりいい顔をしない。

「お前かって、アイツが嫌いやから別れたんやろ? 殺したいほど嫌いやったんやろ?」

「別に」とお母さんは言う。

 僕は、多分、こういう風に言ったら、お母さんは喜ぶと思って言ったけれど、あんまり嬉しくないみたいだった。お母さんに対して、後ろめたい気持ちもある。何か、親父と共通の秘密を持ってしまったみたいな。

 お母さんは、最初の頃、僕が親父と出掛けるのをイヤがっていた時、「イヤでなかったら、会ったらいいのよ、あの人は、あんたのたった一人のお父さんなんだから」と言っていた。

 多分、僕は、心の奥の方で色々考えたと思う。お母さんのこういうところは、僕は尊敬するし、好きだ。けれど、理解できないし、嫌いだ。

「あんたは、私の息子なんだから、あんなイヤなヤツには、絶対会ってはダメよ。あんなヤツに会ったら、私、あんたのこと、子供やと思わへんからね」と言ってくれたら、僕は、お母さんをトコトン軽蔑するだろうけど、今よりもっと落ち着くと思う。

「ワハハ。そうでしょ? アイツは、そういうイヤーなヤツなのよ。これで、よーくわかったでしょ? もう二度と会ったらダメよ」と言ってくれたら、会うにしろ会わないにしろ、どんなに楽だろうか、と思う。

 お母さんは、いつも僕に判断をまかせる。考えることもすることも全部だ。それが、僕にとって、お母さんのダメな息子にとって、どんなに辛くて厳しいことだということを知っているのだろうか。僕が、自分の裁量で、自分の親父を計り、自分の母親を計るということが……自分の人生を計るということが……

 僕が、神経症みたいなのになったのは、多分、お母さんのせいだと思う。本当だったら、大人が判断してくれていいはずのことを、子供の僕にまかせる。僕は、いつまで経っても、無力で小さな子供なのに。

 僕は、世の中に出て行ったこともない幼い子供だ。それなのに、自分で自分のことを全て判断しなければいけない大人だと思わされている。

 だから、今は、今だけは、ほんの少し逃げていたい。多分、お母さんは、そういうことを全部知っていて、やってるんだろうけど、僕にも、ほんの少しの逃げ場が欲しい。

「私も、あんたと一緒だったのよ」とお母さんはよく言う。

「あんたよりひどかったかもしれない」

「オレの苦しみが、お前にわかるか」

「みんな、そう思ってるのよ。自分の悩みや苦しみだけが、この世で一番って」

「お前の悩みなんか小さいものやろう。お前は、今、別に何にも悩みがないんやから」

「他人の悩みは、みんな、そう見えるみたいやね」

「お前は、何でもわかってる顔をして、オレをバカにしてるやろ」

「そんなつもりはないよ」

「お前は、オレをバカにしてる、バカにしてる」

「それは、あんたが、自分をバカにしてるから、そう思うんと違うの?」

「何で、オレが自分をバカにするねん。お前がバカにしてるからやろ」

「ハッキリ言って、私はあなたをバカにはしていない。けれど、何で、そんなにバカにされてると思うの? あんたが他の人をバカにしてるから、それが自分に戻ってるだけと違うの?」

「おお、オレは、他のヤツラをバカにしてるよ。バカにしてるよ。皆、バカばっかりやないか、オレ以外の人間は」

 本当は、他の誰でもなく、僕が、僕本人がバカなんだと、心の奥底から思わせてくれるお母さんに対して、憎しみ以上の感情がわく。

「お前は、お前は、そこまで、オレを追い詰めて、ほんまに、嬉しいんか!」


 少し、家を離れるだけで、心の中に、ほんの少し切ない解放感が広がってくる。

 ほんの少し、家から外に出るだけで。頭ではわかっている、そんなことぐらい。

 心が、少しだけ、淋しい。

 お母さんのいない場所に出た、という淋しさだろう。これは、多分、幼稚園に入った頃から感じていた気分だ。

 不安だ。どうすればいいのかわからない不安だ。全てを決めて、全てを支配している人の手の中を離れた不安だ。それと、幼稚園の昔にはない、ほんの少しの解放感。

 親のない子になったような、解放感。そして、それが、自分の不安の根源にあったとわかる。いつも、親のあるような、ないような子供だった自分。


 僕は、いつも、不安だった。

 いつもいつもいつも、不安だった。

 今では、それが、不安だったとわかるけれど、いつも、少し目を離すと、誰もいない荒野に自分一人がいる。周りに味方は一人もいない。周り中が、敵だ。

 敵だなんて、わかる年齢じゃない。

 とにかく、いつも、危ない場所にいることはわかっていた。

 夢を見る。

 いつも誰か知らない人間に背後から追い掛けられて、全身の毛穴が開くほどの恐怖感を感じる。そいつは、いつまでもいつまでも追い掛けてくる。そして、背中を刀のような鋭い刃物で、ズタズタにされる。恐怖と痛みのために、僕は、泣き、叫ぶ。しかし、どれほど、泣いても叫んでも、誰も助けには来ない。

 汗ビッショリになって、目が覚める。

 目が覚めても、ここがどこか、わからない。まだ、身体中の毛穴が恐怖を覚えている。

 そんな時、僕には、誰もいなかった。

 その夢の気分は、現実にも続いていて、僕の毛穴は、恐怖を覚えきっている。または、現実が、夢に繋がっていただけかもしれない。

 僕は、誰にもできることができなくなった。

 つまり、学校に行けなくなったのだ。

 誰でもが呼吸をするみたいに、平気でできる唯一のこと。学校に行くことが、できなくなった。

 首を締められてるような気がする、学校にいると。

 それと、何かもっと大事なものから離れていく気がする。

 記憶というものがある以前から、何となく知っているもの。

 空気かもしれない。学校は、空気がうすい。

 多分、僕は、弱い魚だから、空気の少ない場所では生きていけない。

 でも、だからと言って、空気のあるところで生きていけるとも思わない。

 そういうところが、どこかにあると仮定しての話だけど。


「ワハハ、祖母ちゃんの家か」とお母さんは笑うだろうから、連絡は取らなかったけれど、あのクソババアは、キッチリとお母さんに電話したみたいだった。

 旅に出た最初の日は、お祖母ちゃんの家に泊まった。

 昔からむかつくのは、お母さんには、何か特殊な情報網でもあるみたいに、僕のした悪事の数々が、すぐに筒抜けになることだった。何で、僕の周りのヤツラも、また、その親や、事件に全然関係ない近所のおばちゃんまで、お母さんに僕のしたことをばらすのか。

「お前、みんなに頼んでたんやろ」と言ってみたけど、「ええ? 何のこと?」という詰まらない返事が返ってきただけだった。僕は、その時、コイツは、本物のバカだと確信した。

「ええ? 何のこと言ってるの?」とまだ言うので、「お前、何でか知らんけど、昔から、オレのしてること、全部知ってたやろ」と言った。

「オレ、お前にだけは、知られたなかったのにな」

「私だってよ」とバカは答えた。

「だって、私の知らんところでやってくれてたら、私に関係ないやんか。それをいちいち報告されたら、私かって、謝ったり、反省したりせなあかんやん。すっごい迷惑やったわ」

 その時、僕にもわかった、このバカに連絡した人達の気持ちが。コイツ、言われるまで何も気がつかへん、ほんまの生まれつきのバカやったんや。そやから、どんな人でも、コイツには何でも知っていることを教えてやらないといけない、という気になったんやろう。

 僕の不幸は、こういうバカな母親の元に生まれ、こういうバカな母親に育てられてしまったということだ。

 ま、僕は、何もかもを、コイツのせいにしたいだけだということも、知りたくないのに、知っている。


 お祖母ちゃんの家の近くにある、お城の公園に行って、ずっとベンチに座っていた。

「お祖母ちゃん、もう、帰るからね」と祖母は言った。

「何で、こんなところにジッとしてるんだか」

 僕の態度に呆れ果てたといった様子だった。

 いいんだよ、帰ってくれたら、と僕は思った。けれど、どこかで、一人で置いていかれたくない、とも思っていた。僕は、大抵のことに、そうして欲しいというのと、そうして欲しくないという、二つに引き裂かれた気分を抱く。

 お母さんに構って欲しいのと、お母さんが構いたくもないんだったら、構って欲しくない、という二つの気分だ。話をして欲しいけど、イヤイヤするのならいらないわい! という気分だ。けれど、心の奥底をのぞけば、イヤイヤでも、お母さんに話をして欲しいと思っている。それを、お母さんが、してくれないだけだ。だから、僕には、お母さんを恨むということしかできない。

 

 僕は、一人で噴水を見ていた。凄いなあ、と思っていたわけではない。誰かがそばにいれば、凄いなあ、と言っただろうし、凄いなあ、と思ったかもしれないけれど、一人きりになると、噴水も自分と同じに見えてくる。

 何のために、水吹いてるねん。誰か見てくれる人のためやろう。誰も見てくれへん時に水吹いて、お前は空しくならへんのか。

 淋しいヤツやな、噴水は。そして、そのことばは、そのまま、自分に返ってくる。

 榊原さんとどうして知り合いになったかは、よく覚えていない。

 僕と同じように、噴水の前にいる人を、しばらく景色のように眺めていた。多分、相手の方も、僕と同じように、僕のことを観察していたんだろう、と思う。話し掛けたのは、多分、相手の方だ。僕は、知らない人に話し掛けるような技量を持っていないんだから。

「一人?」

「はい」

「一人で、ここまで来た?」

「いいえ」

「ここで、何してんの?」

「別に」

 答えながら、自分で自分がイヤになっていく。何で、もっと、ちゃんとしたことが話せないんだろうか。

「まあ、僕も、別に何もしてないけどね」と僕と同じように、ボソボソと口の中で何かを言う声が聞こえていた。少しだけ、大人の相手に親近感を抱く。

「ちょっと、噴水が綺麗かな、なんか思ったりして……」と言いながら、もっと気のきいたことが言えない自分に腹を立てていた。

「ちょっと疲れたら、ここに来ることにしてるんだけど……」

「はあ……」としか、僕には言えない。

「ここなら、会社の人はいないし、好きにパソコンが触れるからね」

「へえ、パソコンやるんですか」

 お母さんが今年の春にパソコンを買ったので、僕もインターネットとかをやったことがあった。

 僕がいつまでもパソコンを触っていると、お母さんは、「いい加減にしてよ」と言った。お母さんにしたら、ほんの一時間ぐらいパソコンに触れさせてやろう、と思っていたみたいだけど、やりだしたら、やっぱり、何時間でも触ってみたかった。

 パソコンのバーチャル・シティに行った時は、僕が、ストーカーみたいに他の人につきまとったりするので、町中の人に嫌われてしまい、僕が画面に登場するだけで、「来た!」と言って、逃げられてしまったりした。

「いい加減にしてよ、私がストーカーだと思われるでしょ」とお母さんが言った。

 そして、それ以来、お母さんもバーチャル・シティには行かなくなったみたいだった。

「やっぱり、話をするなら面と向かってがいい。二回しか行ってないけど、バーチャル・シティでは何か物足りない。というか、全然詰まらない。慣れてないからかもしれないけど、話していることも詰まらない」

 太鼓だって叩けへんし……と言っている心の声が聞こえた。

 お母さんのことは、僕にはわからない。時々太鼓を叩く。僕が、旅に出た時も、佐渡島まで太鼓を叩きに行っていた時だった。何で、太鼓なんか叩いて面白いんだろう、僕にはわからない。パソコンぐらいならわかるけど。

 だから、お母さんみたいな原始人にパソコンは似合わんよ、と僕は思う。

『猿にでもわかるパソコン』という本を本屋で見掛けた時、周りの人が驚くほど笑ってしまった。パソコンを操作しているお母さんを思い浮かべたからだ。


「けどね、大変なんだよね」と見知らぬ相手は言った。

「僕の持ってるパソコンには、企業秘密が一杯詰まってるから、十二桁の暗唱番号でロックしているんだよね」

「へえ」何となく凄い話だな、と僕は思った。

「こういう風にジュラルミン・ケースで保護してるでしょ。けど、これだったら持ち運びが簡単だから盗まれるケースも考えられるでしょう」

「そうですね」と僕は、わけがわからないまま、答えた。

「だから、十二桁の暗唱番号でガードしてるんだよ」

「へえ、凄いですね」と映画の登場人物に接したような気になって、僕は言った。言い方に心がこもってなかったかもしれないけれど、本気で驚いていた。

「けど……」と僕は恐る恐る言った。

「ケースごと盗まれて、ケースを開けられたら、どうするんですか?」

「その時はね、」と相手の顔に、お母さんみたいな表情が浮かぶのを、僕は見た。

「自動的に、暗唱番号が変わるんだよ。だから、誰にも、企業秘密は盗まれない」

「けど……」と僕は言った。こういう突っ込むクセは、お母さんの影響だと思う。

「暗唱番号が変わってしまったら、自分でもわからなくなるんじゃないですか?」

 ハハハハハ、と相手は笑った。

「十二桁ぐらいの暗唱番号だったら、一瞬で記憶できるから」

「へえ、凄い」と僕は、わけもわからずに感心した。僕は、どういうことも、覚えるというのが、本当に苦手だったし、覚えようとしたこともないから。

 そして、その日から、僕は、その榊原さんという人の家にお世話になることになった。本当に、凄い人だった。

 榊原さんは、コンピューターで大手らしいアップル社というところの顧問だった。

 色々な話を教えてくれた。

「元々は……MITって知ってるかな?」

「……すみません、知りません」

「アメリカのマサチュウセッツ工科大学のことなんだけど、そこで、コンピューターの勉強をしたの」

「へえ」凄いな。

「それで、卒業してから、しばらくは、IBMに勤めていたんだけど……IBMって知ってる?」

「……いいえ。すみません」

「いいよ、謝らなくても。コンピューターの会社なんだけど、そこで研究している時に、アップル社の社長を車で送る仕事があったのよ。××さん(覚えられなかった……)っていうんだけど、その時は、ああ、これがアップルの歴史を作った人かって、カンドーした。それが縁で、アップル社に引き抜かれたの。けど、僕は、あんまり働くのが好きじゃないから……研究の方が性に合ってる。だから、顧問という形で働くようになったんだ。ニューヨークに家があるんだけど、今は、休暇で、日本に来ている」

 へえ、凄い人なんだ、と僕は思った。

 僕も、自分のことを色々話したけれど、榊原さんの話を聞く方が面白かった。

 公園にいる時に、お巡りさんが来た。榊原さんはフツーだったと思う。

「あの免許証は、実は偽造なんだ。僕は、カナダ国籍だから、日本の免許は持ってないんだよ。それで、親父に偽造してもらった。ほら、生年月日が違うでしょ?」と、お巡りさんがいなくなってから、免許証を見せて言った。

 奥さんとの出会いも凄かった。

「言ってみたら、政略結婚だね。僕と家内は、偶然出会って好きになったと思っていたけれど、実は、それが仕組まれたことだったんだ。親同士が、仕組んだんだよ。かみさんは、マイクロソフトの(「知ってる?」「いいえ、知りません、すみません」「いいよ、そんなの」)社長秘書だったんだけど、ま、かみさんのおじさんが社長だった関係でね、偶然、おじさんを送る時に、僕のことがわかったみたいで、結婚した後で、ああ、仕組まれた結婚だったと知ったけど、ボク達は愛し合ってたし……ま、いいか、っていう感じかな」

 榊原さんと一緒に行ったところは、奈良県だと教えてもらった。榊原さんのお祖父さんとお祖母さんが住んでいる大きな家のガレージを改造したみたいだった。

「セイちゃん、ラーメンでも作ろうか?」と僕がいる間、何度もお祖母さんが言っていた。

「うるせい、クソババア!」と榊原さんが言って、僕は、それも凄いな、いいな、と思った。

 僕だって、お母さんや、お姉ちゃんや、お祖母ちゃんに、何も聞かず、何も言われないうちに、「うるせい、このクソババア!」「やかましいんじゃ、クソブス!」「黙って向こうに行け、このボケがあ!」と言ってやりたかった。

「アメリカの学校は、飛び級というのがあって、僕は、日本で言ったら、高校一年の時に、大学の医学部を卒業したんだよ。だから、今、京大の医学部で教えている。アメリカの資格は、日本では通用しないんだけど、一応、医学博士なんだ。実力だけはあるから、医学部の講師として教えてるけどね、時々、あんまり若いから、インターンと間違われたりするんだよ」

「へえ……」と僕は感心するばかりだった。

「僕のお母さんは、小説家で、けど、全然売れてなくて……」と言った時に、「へえ、日本の出版社だったら、僕のおじさんが趣味で経営してて、○○書房とか××社とか、文芸△△とか、僕自身は詳しく知らないけど、紹介ぐらいならできると思うよ」

 僕は、その時、この出会いは、天からの贈り物だと思った。凄い出会いだけど、どこかで、意味の無い出会いかもしれない、と思ったりしていた。僕が感心して、感動して、驚いて、それで、終わり。

 けど、この話を聞いた時、僕の心が踊った。

「こ、今年の四月ぐらいに、お母さんが、小説を完成させて、それで、出版してくれるところを探してるんだけど……」何か力になってもらえませんか?

「ああ、それなら、どこか、紹介しようか?」

 僕は、何とか、乞食みたいにお願いせずに、お母さんと榊原さんが接触する方法を考えようとした。

「オレのこと、お母さんは、心配してるかもしれへんなあ」と言ってみた。

「僕が、電話した方が、君のお母さんも安心するってこと?」と、榊原さんには、スッカリ見抜かれてしまっていた。

 榊原さんが、お母さんに電話した時のことは、ハッキリ覚えている。僕は、非常に複雑な気分で、ドキドキドキドキしていた。

 後で考えてみれば、二つの方向でドキドキしていたんだと思う。

 一つは、僕が自分自身の力で知り合った榊原さんの方向。お母さんが失礼なこととか、バカだとすぐに見抜かれるようなことを言ったらどうしよう……榊原さんに、キミのお母さんって、程度低いね、と思われたらどうしよう……と思う方向。

 そして、本当に、もっともっと恐れていたのは、お母さんの出方。お母さんがどう思うだろうか、僕が友達になった大事な人、本当に凄いこの人のことが、お母さんに本当にわかるだろうか。

 わかってくれ、わかって欲しい。僕が好きになったように好きになって欲しい。僕が驚いたり感心したりしたように、同じように、驚いたり感心してくれ。頼む、頼むから、同じように思ってくれ。この喜びを共有してくれ。

 電話からは何もわからなかった。

 榊原さんとお母さんは、意気投合したみたいだった。けれど、それは、『みたいだった。』と思うしかないことだった。

 

 ピンポーン

「はい」とお母さんの声が聞こえた。

「オレ」

 僕は、得意な気分を半分以上抱えて、自分の家の玄関に立っていた。

 僕の連れて来た人は、アップル社の顧問で、奥さんは、マイクロソフト社の社長秘書、そして、お母さんの本の出版を左右できるかもしれない人だった。


 僕は、いつもと同様、絶望の淵にいた。

「言おうか、どうしようかと迷ったんだけど、やっぱり、本当のことを言った方がいいと思ったから」とお母さんは、僕にとっては、裁判官のように言った。

 寝耳に水ということばを習ったことがあるけれど、僕は、どこかで、こういう答えを予期していたようなところもある。起き耳に水かもしれない。

 だって、僕のすることに、満足いくようなことがあるはずがないから。

「榊原さんが、アップル社の顧問だという確率は、十のうち、八ぐらいはあると思う。榊原さんの奥さんがマイクロソフト社の社長秘書だという可能性も同じぐらいあると思う。榊原さんが京大の教授だという確率も同じぐらいはあるし、柔道とか空手で黒帯の確率も同じだと思うし、国籍がカナダでニューヨークに住んでいる可能性も同じぐらいはあると思う。ヤマギシの土地の所有者だという確率や、気功で人を癒せるという確率も同じぐらいあると思う。けれど、その全部が本当だという確率は、その全部を掛け合わせた値になるから、限り無くゼロに近くなると思うのよ」

「お前は、榊原さんの言ったことが、全部嘘やと言いたいんか」と僕は言った。

「あの人の言ったことが全部嘘で、あの人が嘘つきやと言いたいんか」

「全部嘘だとは言わないけれど、全部本当の可能性よりも、全部嘘の可能性の方が高いとは思っている」

「オレは、そんなこと、信じへんぞ。あの人が嘘なんか言う人に見えるんか」

「見えない」とお母さんは言った。

「だから、凄く怖くなった。どこかで、平気で嘘をつく人は、平気で人を殺すかもしれない、と思ったから」

 その時、僕の心に、黒い黒い疑いの心が生まれた。いや、本当は、どこかで、最初から疑っていたのかもしれない。だって、自分さえ、信じられない僕だから。

「オレは、信じへんぞ。オレは、榊原さんを好きやからな。オレは、榊原さんを信じてるからな」

「それは、別に、いいのよ」とお母さんは言った。

「私は、直接の被害さえなかったらいいのよ」

 お母さんが言うには、僕に榊原さんのことを言ったのは、二度と自分の家に来ては欲しくないかららしかった。

「お前は、そんな小さなことで、あの人を疑うんか。自分が迷惑やという詰まらない理由で、一人の人を嘘つきにするんか」

「そうよ」とお母さんは平然と言った。

「自分にさえ迷惑をかけなかったら、別に、どこで何をしててもいいのよ。あんたが、あの人と友達だと思うことも、うちにさえ来られなかったら、外で会うのも、別に構わないのよ」

「そしたら、オレは、別に、榊原に殺されてもいいと、お前は思ってんのか!」と僕は言ってしまった。僕は、お母さんの差し出した踏み絵を踏んでしまった……

「あの人が、殺人者になるという可能性は、あの人が嘘つきだという可能性よりは、ずっと低いのよ」とまで言われて、僕は、友人を失ったことを実感した。

 榊原さんは、ボクを家まで送ってきたついでに、家に十八時間ぐらいいた。僕の母親は、それがイヤだというんだ、僕の友達に、家に一日いてもらうのがイヤだと言うんだ。

 いいよ、いいよ、いいよ。

 そう思いながら、僕は、母親の見方に感応していく。

 パソコンでゲームをしながら、It’s a three.って言ったのよ。数には、『a』はつかないのよ。元々、彼の英語の発音は日本人なのよ。

 一番驚いたのが何だと思う? 今日、会議があるって言ってたのよ。それで、パソコンでバンバン何か打ってるわけ。何打ってるかには興味がなかったんだけど、あんまりしつこくバシバシやってるから、ちょっと見たのよ、見なければよかったと思ったわ、私としたら、会議の資料は英語かドイツ語か、そうでなかったら、せめて、日本語か、そうでなかったら、ローマ字ででもやってて欲しかった、というのがあるの。

「何、やってたと思う? パソコンで?」

「何やねん!」と僕は、もう聞きたくなかった。

「延々と、『1』と『0』を打ってるの」

「それは、オレも、榊原さんの家で見たで。それを、英語に変換してたみたいやで」

「そうして欲しかったと思う。私は、『1』と『0』を打ってるのを見て、思わず、『何、やってんですか!』と言ってしまったの」

 それで、榊原さんは、「会議の資料を作ってるんですよ」と答えた。

「これが読めるヤツがいるから驚くよね」と言ったらしい。母親が黙っていると、「僕も読めるけどね。」と言ったらしい。

「これが、あなたの名前」と1と0を打ち込みながら、詰まらないことも言ったらしい。そして、母親が言うには、「アッ! 4入っちゃった!」と言って、1と0の合間に入った『4』を消していたらしい。

「あれね、会議の資料なんでしょ。中に、私の名前が入ったままだったのよ。なぜか、消去しなかったの。ま、それはそれでいいかな、と思ったんだけど、会議の資料作ったんなら、印字するか、メールで送るかしないと役に立たないから、『それでいいんですか?』ってきいたのよ。けど、印字する気配もメールで送る気配もなく、『これで会議の資料ができた』って言うの。へえ、きっと、記憶力がいいから、頭に入ってるんだ、と思ったわけ。こんなこと言って、悪いかと思うけど、とにかく、帰って欲しかったから、最初、昼に会議があると聞いていたから、お昼に焼きそばを作ったのよ。そしたら、全然帰る気配がなくて、夕方までパソコンでゲームしてるでしょ。『ナイト・セッション』というのがある、その意味わかりますか? と言われて、意味はわからないけど、とにかく、夕方には帰ってもらえると思ったから、もう、帰らないと『ナイト・セッション』に間に合いませんよ、と言ったの、そしたら、携帯に電話が入って、非常にチャチな話をしていたんだけど、私に話す時には、『円』単位が『ドル』単位になってるの。もう、本当を言えば、そんなことどうでもいいのよ、とにかく、無事に、この家から出て行ってくれたらいいんだから。それで、ようやく、出て行ってくれる時に、『この小説の入ったのは、もらっていきます』と言って、フロッピー・ディスクを手にしてるわけ。私としたら、え? いつ、私の小説をパソコンからダウンロードしたの? ネット上で見てただけで、ダウンロードなんか全然していなかったし……と思うわけ。だって、どのデータにしろ、ダウンロードしてないことだけは見ているから。そして、後から見たら、持って帰ったフロッピーは、2DDなの。パソコンのデータは、2HDでないと、ダウンロードできないのよ。2DDは、今使っているワープロ用のフロッピーなの。それを、何でわざわざ持って行くのか、理解できないし、私も持っていかれたら困るのよ」

 ボクは、それを聞いて以来、パソコンに触って、『1』と『0』を目茶苦茶に打ちながら、「あ、『4』打っちゃった!」というギャグを、自己嫌悪に陥りながら、飛ばすようになった。

 実際、『1』と『0』だけを打っていると、手の加減で、つい『4』を打っちゃうのだった。

「オレは、榊原さんを信じてるからな」と口では言いながら、僕は、自分の大切な夢を、また、お母さんに壊されてしまった、と思っている。

 

 僕が、今、必要以上に不幸なのは、幸せというものを、ほんの少し知ってしまったからだ、と思う。

 僕が榊原さんと一緒にいた何日かの間だけは、本当に、心の底から、幸せだったからだ。多分……生まれてから初めての幸せ。

 その幸せを、僕は、母親の手で、目茶苦茶に壊されてしまった。

 その幸せの思い出さえも……


 僕の心の奥底から、徐々に徐々に育っていった感情がある。

 よく知っているようで、あんまりよく知らない感情。

 前々から気付いていたけど、気付かないふりをしていた感情。

 ……それは、殺意だ。


 けど、僕は、それをお母さんに向けることはできず、ウワアアア! と叫びながら、鋏でドアや襖をズタズタにするばかりだった。



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