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時のない家  作者: なおき


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時のない家


 1 時のない家


「……だから、学校に来いよ」

「そうよ、何で休んでるん?」

「学校は面白いぞ」

「うん」と僕は言った。何で突然、見たこともないクラスメイトが家に来るんだろうか、と思いながら。僕はパジャマのままだった。クラスメイトは体育用のジャージを着ていた。同じような恰好だ、と僕は思った。

「家で何をしてるん?」と女子が言った。名前はまだ知らない。

「テレビ観たりとか、ファミコンしたりとか。今は、セガサターンやってるけど。漫画読んだりとか……」

 さすがに、お母さんと話したりとか、というのは言えなかった。

「学校に来いよ」とちょっと顔のいい男子が言った。顔はいいけど、髪型は決まってるけど、コイツあんまり賢くない、と僕は思った。さっきから同じことばっかり言っている。

「一人で家にいても退屈やろ」ともう一人の男子が言った。

「うん」と僕は答えた。多分、退屈かもしれない、けど、そうでもないかもしれない、と思った。

「学校に来いよ」と顔のいいヤツが、また同じことを言っている。

「何で?」と僕は尋ねた。一人でいるよりも、ちょっと退屈だった。オレの髪型、まだ鏡で見てないけど、変と違うやろか、と別のことを考えていた。やっぱり、鏡を見てから顔を出したらよかった。 


 ピンポーン、とチャイムの音が聞こえた。時計を見たら、昼の十二時五十四分だった。

「お母さん?」とお母さんの部屋を覗くと、お母さんはまだ寝ていた。どうしたらいいのかわからなかったから起こそうか、と思ったけれど、お母さんの唯一の楽しみが、寝て夢を見ることだったので、やめた。お姉ちゃんもまだ寝ている。僕もチャイムの音で起きたばかりだった。いつの間にか、家族全員が、僕と同じような生活パターンになってしまっている。

 何も考えずに玄関のドアを開けると、ジャージを着た三人組が立っていて、僕と同じクラスだと言った。僕の部屋の中には誰も入れたくなかったので、家族三人分の靴の散乱した玄関で、最初は立ったまま、しばらくすると疲れてきて、しゃがみこんで話を聞いていた。

「とにかく学校に来いよ」

「何で?」

「友達が待ってるから」と女子が言った。

 友達なんかいないけど、と言おうかどうしようか、と迷った。そんなことを言ったら失礼かもしれない、と思う。

 僕は中学二年で転校してから最初の三日しか学校に行っていない。最初の三日で身体が学校に行かなくなった。だから、多分今は中学三年だったけど、自分のクラスが何組かとか、教室がどこにあるのかとか、クラスにどんな生徒がいるのかとか、何も知らなかった。

 学年の変わった時に、新しい担任の先生が前の担任の先生と一緒に家に挨拶に来た。前の先生とは、その時には友達になっていたけど、一度も学校に来いとは言われなかった。勉強の話もクラスの話も出なくて、一緒にパズルを作ったり、映画を観に行ったり、スケートに行ったりした。

 僕たちはずっと友達だ、と先生は他の学校に転校することになった時に言った。担任だった時とは違って、滅多に会えなくなったけれど、先生と僕は、たまに、映画に行ったり、遊園地に行ったりして一緒に遊んでいる。先生といると、僕は全然退屈も緊張もしないし、何を話しても疲れない。先生と会って遊んで帰った日から三日間ぐらいは、何となくふわふわしたいい気持ちでいられる。何を見てもニヤニヤと顔が笑ってしまう。僕は先生が好きだと思う。そんなこと、恥ずかしいから誰にも言えないけれど、僕は、先生が好きだ。剥げていても、太っていても、カッコよくなかっても、僕は先生が好きだ。


「お母さん、学校に行って来る」と僕はまだ寝ているお母さんに言った。

「ふーん」とお母さんは寝たままで言った。

「お母さん、顔だけ出して、友達によろしくお願いしますとか、挨拶した方がよくないか?」と僕は言った。

「面倒くさい」とお母さんが言った。

 挨拶ぐらいして欲しいな、と思ったけれど、ま、いいか、と思って、僕は私服に着替えて、学校に行った。学校に来たのがどれだけぶりか思い出せなかったけれど、下足室の場所は覚えていた。

 何だか学校にいる僕というのが現実とは思えなくて、夢を見ているような気分で、一時間だけ教室に座っていた。それから家に帰った。

 僕を呼びに来た三人は、学校に着くと僕には話しかけなくなって、他の生徒とばかり話していた。誰も僕には話しかけて来なかった。

 帰る時、転校生? という女子達の囁き声が聞こえていた。

「坂口君、ちょっと」と担任の先生が追い掛けて来た。

「あのね、やっぱり他の生徒の手前もあるから、学校に来るんなら、制服を着用してもらえないかな」

「はい」

「制服が……イヤなら、ジャージでもいいけど、持ってるね?」

「はい」

「じゃ、また明日」

「さようなら」と僕は言った。

 家に帰ると、お母さんがカレーを作って待っていた。

「オレ、何か、カレー食いたくない」と僕は言った。

「あ、そう」とお母さんは言って、一人でカレーを食べ始めた。

「オレも食う」と言うと、「どれぐらい?」とお母さんはきいた。

「フツーぐらい」

「フツーって、どれぐらい?」

「お母さんのぐらい」

 起きてから何も食べてないからか、慣れない学校に行ったせいか、胃の辺が気持ち悪かった。こんな時にカレーなんか食べられない、と思ったけど、食べ始めると、三杯もおかわりしてしまって、食べる前より気持ち悪くなった。

「オレ、食い過ぎた。気持ち悪い」

「あんたは、動物をやめてるから、どれぐらいでおなかが一杯になるのか、わからへんのでしょ?」とお母さんが言った。

「オレは人間や。動物と違う」と言ってから、「わかった、わかった。人間も動物の一種やもんな」と先に言ってやった。

「当たり」とお母さんは言った。

「オレ、明日から学校に行くわ」と僕は言った。

「あらららら」とお母さんが言った。

「オレが学校に行って、嬉しくないんか?」

「別に。私が学校に行くわけと違うから」

「けどな、オレな、今日学校に行ってもな、居る場所ないねん。誰も話しかけても来いへんしな……」

 僕は、学校に着く前の自分の密かでささやかな夢を思い出していた。

 僕の周りをクラス全員が取り囲む。特に女子が。それから、家で何をしてたん?とか、何を考えてたん? とか色々な質問をされて、皆が僕が学校に来たことを喜んでくれる。

 坂口君ってかっこいい、とか、頭いい、とか言われる。先生にも、よく来たな、と褒めてもらい、お母さんも物凄く喜んでくれる……けど、現実ときたら……

「そらそうやわ。ずっと学校に行ってないんやもん、居る場所なんかないのが当り前やない。誰もまだあんたのことを知らんのやから、話なんかあるわけないやん」

「お前、」と僕は言った。

「自分がどれだけムカツく人間なんかわかってるか? 何で、そんなイヤなことばっかり言えるねん」

「ほんとのこと言ってるだけ」

「……めっちゃムカツく。いつもお前がオレをムカツかせてるんやろ。原因はお前や。お前の顔見てたら、ムカツいてくるんや」

「それやったら、顔見なかったらいいやん」

「オレがな、オレがどんな気持ちになるかなんて、お前は全然わかってない。オレが、オレが……待て。どこ行くんや」

「トイレ」

「トイレばっかり行くな。このクソババア。クソババア、クソババア、クソババア」と言いながら、トイレのドアを蹴ったら、ドアがへこんだ。

 水洗の水の流れる音がして、トイレのドアが開いた。

「ドアが壊れた」と僕は言った。

「ドアが自分で勝手に壊れるわけないでしょ。あなたが蹴って壊したんでしょ。どうするの」

「ここ出る時、いっぱいお金取られる?」と僕は心配したけれど、自分の貯金で弁償するつもりはなかった。

「あーあ」と言って、お母さんは自分の部屋に入った。

「何も投げるなよ、壊すなよ」と僕は言った。お母さんが本気で頭にくると、物を投げることを知っていたからだ。一番怖かったのが、CDダブルラジカセを壁に投げつけて、壁がへこみ、ラジカセがガタガタに壊れた時だ。あのドッカーンという地震のような音が怖かった。自分が物をドカンと蹴るのは怖くなかったが、お母さんが物を投げるのは怖かった。僕みたいに怒り狂わずに、フツーの顔をしたまま、突然物を持ち上げる。そして、投げる。そんな時、コイツ、頭が変なんや、と思ってしまう。そして、僕が変なのは、コイツの子供やからや、と思う。

 僕は、自分の部屋に入って、ジャージを探した。買ってから一度も着ないうちに学校に行かなくなったので、まだビニール袋に入ったままだった。

 偶然はない、と僕は思っている。起きることの全部がうまく繋がってる、と思っている。

「学校そのものは行っても行かんでも、どっちでもいいと思う」とお母さんは言っていた。

「けど、同じ年齢の友達は必要やと思う」

 僕も、それは思う。

 三年の二学期に、お母さんは朝から晩までの仕事を辞めて、僕を色々なところに連れて行くようになった。

 舞踏というのを観に行ったり、ヒーリングとかいうのの説明会に行ったり、フリー・スクールというのを見学に行ったり、ヨーガというのに行ったり、ボクシング・ジムに行ったり、絵画教室に行ったり、変な宗教やら心理学の場所に行ったりした。

 お母さんの連れて行ってくれるところは、フツー(というものはない、というのは知っているけど)のところではないと思う。

 僕はよそで泊まったりできないと思っていたけど、電車がなくなって、舞踏や音楽をやる人達と一緒に、一度だけ泊まった。僕は一人場違いな感じで、緊張していたけど、大人の人の話を聞いたり、綺麗な女の人を見たりして、全然退屈しなかった。

 UFOを見た女の人と一緒に話をして、僕より三つぐらい年上だと思っていたら、僕より倍以上も年上だったので、ショックだった。けど、今までに会った、女の人の誰よりも可愛いと思ったから、凄く好きになった。

「マユミちゃんと付き合いたいなあ」と家に帰ってから、お母さんに言った。 

 お母さんには、何でも話してしまう。お母さん以外に誰も何でも言える人がいないからだろうけど、オナニーのこととかも言ってしまう。僕は、小学校四年生の時から、一人エッチをしている。

「ふーん」としかお母さんは言わない。僕は、何で、こんなことをお母さんに言ってしまうのか、自分でもわからない。

「こんなん、フツー、親には、特にお母さんには言わんよな」と自分で自分を疑う。

「フツーっていうんがどんなことかわからへんけど」といつもお母さんは言う。

 お母さんには、アダルトビデオのことも、エッチなことも何でも言ってしまう。だから、別に友達がいなくてもいい、と思うけど、恋人は欲しいと思う。

 僕は、恋人を、凄く凄く、自分よりも大事にすると思う。

「マユミちゃんと付き合ったらいいやん」とお母さんは簡単に言った。

「けど、オレなんか……歳が下やし……」

「そんなん関係ないでしょ? マユミちゃん、遊園地好きやから、電話かけて、一緒に遊園地行こうって言ったらいいやんか。絶対、断らへんと思う」

「そんな……女の人とそんなガキクサイとこ、行きたない。それに、そんなことで電話なんかできるか」

「それやったら、しゃーない、諦め」

「お前なんかな、お前なんかに、オレの気持ちがわかるか」

「当たり前やん、あんたとは別人なんやから」

「お前は、オレの母親やろ。母親やったら、息子の気持ちがわかるんが当然やろ」

「当然なんて、わからへんわ。私、自分のこと、別にあんたの母親やと思ってへんし」

「お前になんか、お前になんか、何言っても無駄や」と言いながら、何でも話してしまう。ずっとずっとずっと、一日中話していたいと思う。

 アトランティスやムー大陸のこと、UFOや宇宙人や宇宙のこと、前世や来世のこと、チャネリングや超能力、脳の使われていない八十%~九十%の部分のこと、家族のこと家庭のこと、友達のこと学校のこと、恋愛のことエッチのこと、舞踏やパントマイムのこと、映画のこと、ファミコンやプレステやセガサターンのこと、漫画のこと、宗教や神様のこと、そして、僕自身のこと。

「私は、あんたのこと、どこに出しても恥ずかしくない、立派な人間やと思ってるから、色々なところに連れて行って、私の知っている人達に紹介してるのよ」

「オレ、立派?」

「立派」

「オレ、ちゃんとしてる?」

「凄くちゃんとしてる」

「オレ、変でない?」

「全然変じゃない」

『オレは、お母さんにとって、どこに出しても恥ずかしくない、立派な人間=立派な息子』というフレーズが、僕の頭の中で鳴り響く。

「だから、家にばっかりいて、他の人達に、あんたのいいところや凄いとこ、賢いとこやカッコイイとこなんかを知られへんのは、あんたにとっても、他の人達にとっても、本当にもったいないと思う」とお母さんは言った。

「うん。オレも思う」

 僕も、本当にそう思った。それでも、夜中の一時に目が覚めたら夕方の四時まで起きてて、次の日の夕方の四時まで眠る。夕方の四時に目が覚めたら次の日の昼まで寝ている。

 全然ごはんを食べてない日があったり、全然外に出ることのない日が何日も続いたりする。

 テレビを見てビデオを見て漫画を読んで、ゲームソフトをする。時々思い出したように、朝起きて夜寝て、夕方自転車でコンビニに行ったりする。

 毎日の生活自体は以前と変わらなかったけれど、身体の奥の方で何かが変わろうとしているのはわかっていた。

 心の中の方にばっかり向かっていた僕のエネルギーが、身体の外の方に流れ出そうとしている。

 そんな時に、本当にタイミングよく、顔も名前も知らないクラスメイトが玄関に現れたのだった。

 偶然というのはない、と僕は思っている。


「学校に来いよ」と言い続けるヤツは、確かに頭はよくないかもしれないけど、『学校に来いよ』ということばと、そのことばに宿った生命というかエネルギーみたいなものに、僕は心と身体を動かされたみたいだった。

『ことばには生命が宿っている』といつもお母さんが言っていた。

「ことばはエネルギーの塊なんだから。だから、悪いことばを使う時は、気をつけなさい。悪いエネルギーは相手によりも自分に戻ってくるんだから」

 お母さんてアホちゃうか、と僕はそれを聞いた時に思ったことを覚えている。


「学校に来いよ」

「うん。私服でいいかな?」

「何でもいいから、学校に来いよ」

 それで、いつものように、色々と考え過ぎて動けなくなる前に、一緒に学校に行ったのだった。

 学校には、教室には、自分の居場所も何もなかったけれど、明日も行こう、と思った。

 今日起きたのが昼過ぎだから、夜は眠れない。一晩中起きていて、明日は朝から学校に行こう。ジャージもちゃんと見つけてもらうのを待ってたみたいに見つかったことだし。

「お母さん」と恐る恐る、お母さんの部屋のドアを開けた。まだ僕のことを怒っているのかと心配だったのだ。

「あ、しまった」とお母さんは言った。「見つかってしまった」

 お母さんは、少年ジャンプの最新号を読んでいた。

「ジャンプ、買ったんか」

「もうちょっとやから、先に読ませてね。ね、ね」とお母さんは言った。

「なあ、何かカバンない?」

「何のカバン?」とお母さんはジャンプから目を離さない。

「なあ、ちょっとでいいから、オレの話、聞いて」

「後で」

「明日学校に行くのに、カバンがいるねん」

「学校のカバンがあったでしょう」とお母さんは、まだジャンプのページをめくっている。

「なあ、頼むから、オレの方、見てくれよ。オレとジャンプとどっちが大事やねん」

「ジャンプ」と言うのはわかっていた。

「オレ、カバンがないと、学校、行かへんからな」

「へえ。カバンが学校に行くん?」とお母さんはジャンプから目を離さずに言った。

「……そら、オレかてわかってるよ、カバンなんか、本当はどうでもいいことぐらい。けど、オレな、あんな、学校のカバンみたいなダサイもん持って行きたないねん。それに、学校のカバン、一杯ホコリかかってるし」

「もう、ジャンプぐらいゆっくり読まして欲しいわ」とお母さんは、やっとジャンプを裏返しにして置いた。

 僕は、内心ムカッとしながら、ジャンプを取って、お母さんが読んでいたページにしおりを挟んで、机の上のホコリの無い場所にジャンプを置いた。

「どこにでも置くなよ。それに、裏返しに置くな」

 僕は、自分でもイヤになるぐらい神経質で、色々なことが気になるのだった。

 二年の時の担任の先生と駅で待ち合わせる時でも、二時間ぐらいは待たせてしまう。

 身体中に髪の毛やホコリがついていたり、痰や唾がついていないかが物凄く気になる。服や身体中のホコリを払ったり髪の毛を取ったり、痰や唾がついていないか点検しているうちに、三十分や一時間はすぐに経ってしまう。ガスが消えているか、色々な戸が全部閉まっているか、鍵がかかっているか、自分が変な頭をしていないか、顔が変でないか、全部が気になる。

 そんなこと全部が、本当はどうでもいいことで、気にしても仕方がないことなのは、誰に言われなくても知っている、分かっている。自分が気にするほど、ヒトは僕のことなんか気にしてないことも知っている。けど、僕は気にすることを止めることができない。このことだけは、お母さんにも知られたくなかった。僕が、そんな詰まらないことを気にばかりしていて、毎日毎日を無駄に過ごしている情け無い人間だと知られたくなかった。

「ほら、ほら、ほら」とお母さんは、カバンを一杯出してきた。一体、どこからこんなに沢山のカバンが出てくるのか不思議なくらいだ。

 一つずつ点検してみたが、カッコ悪かったり、ホコリがついていたりして、気にいるのがなかった。

「あれ? おかしい。一番かっこいいリュックがない」

 お母さんはもう一度カバンを眺めて、「もしかすると……」と言って、大きなリュックのファスナーを開けた。中から、中学校のカバンと同じ青色のカバンが出て来た。

「オレ、これ気にいった」と僕は言った。

「これは新品のまましまってたから、汚れてないし」とお母さんは言った。それから辺りに散乱しているカバンを見回して、「ゲッ。これをまた片づけるのか……」と言った。

「片づけるの手伝って」と言われる前に、僕はカバンを部屋に持って行って、中にシャーペンとノートを入れた。教科書は、まだもらっていないし、時間割も知らない。

 電話のベルが鳴った。お母さんが電話で話している声が聞こえていた。

「飯田先生」とお母さんが僕に受話器を渡しに来た。

「はい」と僕は電話に出た。三年の担任の先生で、学校に来るのなら制服かジャージを着用して欲しいということを、もう一度言った。

「はい」と僕は答えた。

「何時間目から出て来てもいいから」と先生は言った。

「昼からでも、放課後でも、夜でもいいから」

「朝から行きます」と僕が言うと、少し沈黙があった。

「……朝から来れるんか? 本当に?」

「はい」

「……ええと、朝、友達が呼びに行った方がいいのかな? それとも、先生が迎えに行った方がいいかな?」と先生が言ったので、僕も、しばらく黙って考えた。

「……友達のほうが……」と答えた。

「……じゃあ、今からクラスの子に連絡するわ。明日……待ってるからね。別に、教室にいるのがイヤやったら、保健室にいてもいいから」

「はい」と言うと、電話が切れた。

 僕は、朝まで起きてるつもりだったから、お母さんと話がしたかったけれど、お母さんはジャンプを読み終わって、先週号のマガジンを読んでいた。

「お母さん、ごはん、何?」と僕は言った。

「カレー」とお母さんは答えた。

「昼も夜もカレーはイヤや」と思ったけれど、「それなら食べんとき」と言われるのがわかっていたから、食べる心の準備をした。

「ちょっと、一樹、自転車貸して」とお姉ちゃんが起きてきて言った。いつもなら、シャワーの温度を最高にして、シャワーを浴びてからバイトに行くのに、多分、起きるんが遅かったんや、と僕は思った。

「イヤや」と僕は言った。

 お姉ちゃんは、自転車の鍵を借りても、絶対に返しに来ない。自分の自転車をいつもいつも盗まれる。鍵もなくす。

「何でやのん、私、急いでるんよ」と起きるのが遅かったのを、僕の責任みたいに言う。

「鍵貸してよ!」

 僕は、目茶苦茶ムカツイてるのに、何でかお姉ちゃんに、自転車の鍵を渡してしまう。

「早くしてよ! バイトに遅れるでしょう!」

 クソブス、死ね、と僕は思う。

 バタバタバタ、ガッターンという音を立てて、お姉ちゃんは、外に出ていく。帰って来るのは、夜中か朝だというのを、時々一晩中起きている僕は知っている。

「アイツ、きっと今日も帰って来いへんで」とお母さんに言う。

「何で、アイツには、何にも言わへんねん」

「言ってるよ」

「アイツ、ちゃんと学校行ってるんか。全然学校行ってないみたいやで。そら、こんなこと、オレが言うことと違うかもしれへんけど、お金の無駄やと思う。それに、アイツ、また部屋に男連れ込んでるで。オレ、この前、外に男の靴があるの、見たもん。窓から男入れてんねんで。オレ、こんなこと言うの、告げ口してるみたいでイヤやけど、何で、アイツには何にも言わへんねん」

「言ってるよ」とお母さんは言った。

「三度言った」

 僕は、今度は、お姉ちゃんのことの方が心配になった。

「何て言ったん?」

「あんたには関係ないでしょ」

 僕は、頭の中で色々なことを一度に考えた。お母さんは、約束を破らない。僕には、それが一番怖い。僕の親父とか、僕の前の学校の友達のお母さんみたいな人間は、自分の思い通りにさせたいから、子供を脅す。

「学校に行かへんかったら、家に置いとかへんぞ!」と親父は怒鳴った。

「○○なことしたら、××するからね」

 ○○と××には、何を当てはめてもいい。けど、親父みたいな人間は、○○なことを何度しても、本気で××はしないし、できない。けど、僕のお母さんの場合だけは、○○したら、または、○○しなかったら、××する、または、××しない、という約束は、確実に実行される。そのことを、僕は知っていた。

「一樹、突然言ったら、きっと怒ると思うから」とお母さんは、僕が学校に行かなくなった時に言った。

「私が、あんたを養うのは、中学三年が終わるまで。つまり、三月三十一日までやね。そこから先は、学校に行かないあんたを養うつもりはない。昔で言ったら、元服といって、あんたはもう大人として扱っていい歳になってる。ここで放しても、一人で生きていける年齢になってる」

「オレはイヤや。オレはずっとお母さんと一緒に暮らしたい。お母さんに育てて欲しい」

「甘い」とお母さんは言った。

「中学三年が終わるまでというのも、かなり甘いと思っている。けど、一応の猶予期間は必要やと思う。中学三年が終わって、四月になったとたんに、さようなら、と言ったら、お前も困るやろ」

「それやったら、オレはお前を殺してやる」

「だから、今言ってるんやろ? 学校に行くか、働くか。そのどっちもできへんかったら、私は、あんたとは一緒に暮らさない」

「お姉ちゃんは、どうやねん。お姉ちゃんは、もう高校生やろ。何で養ってんねん」

「最後の年やと思ってるから」とお母さんは言った。

「大学受験の年を、ゆっくり過ごさせてやりたいから」

 お母さんやお父さんが、僕よりお姉ちゃんの方を気にいっているのは、小さい時から知っていた。お祖父ちゃんやお祖母ちゃんも、僕よりお姉ちゃんの方が好きだった。周囲の誰も彼もが、お姉ちゃんの方が好きだった。

 僕は、誰にも好かれず、誰からも愛されず、誰からも認めてもらえなかった。

 お姉ちゃんには沢山友達がいたけど、僕には、金を使って奢ってやるだけの友達しかいなかった。

 僕だって、友達が仲間が欲しかった。金を使っても、悪いことをしても、欲しかった。けど、今では、もうそんな友達はいらない、と思っている。そんなものは友達でも何でもないことを知っている。

 僕は、中学を卒業するまでは、お母さんに養ってもらえることを、その時に知った。それ以後の、僕の道は二つしかなかった。

 お母さんと一緒に暮らせるか、暮らせないか。

 僕は、お母さんと一緒に暮らしたい。

 けれど、お母さんと一緒に暮らしたい場合の道も二つしかなかった。

 高校に行くか、仕事をするか。

 僕は、高校にも行きたくなかったし、仕事もしたくなかった。

 僕は、永遠に、今と同じ生活をしたいと思っていた。

「私には、やりたいことしたいことが一杯あるのよ」とお母さんは言った。

「それに、あんたほど、人生に残りの時間がないのよ。悪いけど、したいこともやりたいこともない人間に、自分の時間を泥棒されるのは、イヤなのよ」

「お前は、オレの母親やろう!」と僕は思わず怒鳴った。

「母親やったら、自分の産んだ子供の面倒を見るんが、当たり前なんと違うんか」

「充分、面倒はみてきた」とお母さんは言う。

「オレは、もっともっと面倒みて欲しいんじゃ」もっともっと、お母さんに、愛して欲しいんじゃ。好かれたいんじゃ。大事にして欲しいんじゃ。オレがお母さんを大事に思ってるみたいに、面倒みて欲しいんじゃ。

「あんたは幸いに、自分の身体に何の障害もない。別に障害があってもよかった、とは思っていた」

 僕は、その時初めて、お母さんが、周囲の猛反対を押し切って、僕を産んだことを知った。僕は、もしかしたら、身体か心に重い重い障害を持って生まれてきても仕方がなかったことを知った。

「けど、私は、あんたを産むことに決めたんよ。一生おんぶしても、あんたを育てることに決めたんよ」

 そうか、と僕は思った。僕は、子供の頃、障害を持った人をすごくバカにしていた。

『ガイジ』と僕や友達は、障害を持った子供のことを差別していた。

 僕は、『ガイジ』が本当に嫌いだった。気持ち悪かったし、僕らと同じことができないことを、すっごくバカにしていた。

 僕が、『ガイジがなあ』と言う度に、お母さんは僕を怒った。お母さんは、大抵のことは笑ってすませる人だったけど、そういう時には、猛烈に怒った。お母さんを怒らせたくて、『ガイジ、ガイジ』と言ったことさえあるぐらいに、怒った。

 そうか、そうやったんか、と僕は思った。多分、僕のことがある前から、お母さんはそういう人やったかもしれへんけど、僕が、もしかしたら僕自身のことを、バカにしてたから、あれだけ怒ったんか。


 僕は、次の日、また学校に行った。

「行ってきます」とまだ寝ているお母さんに言った。

「うーん、行ってらっしゃい」とお母さんは言った。

 前の日と同じように、迎えに来たヤツラは、学校に着いたとたん、僕とは話をせず、他の友達と話していた。

 わかっている。僕は、夢を見ている。

 僕みたいなカッコイイ、何でもわかった素晴らしい人間が学校に行ったら……学校自体が変わるんと違うか、と思っていた。他のヤツラにも、凄いいい影響を与えるんと違うか、と思っていた。

 世界を変えるんは、このオレや、と思っていた。世界を変えられるオレなら、学校という空間の雰囲気も変えられるんと違うか、と思っていた。

 学校は全然変わらなかった。

 僕は、他の生徒と同じように、朝から自分のというものに座っていた。

 僕には、何の自由もなかった。

 学校には、しなければいけないこと、してはいけないこと、というのがあって、それをしていない僕は、学校にとっては、以前の僕にとっての『ガイジ』みたいなものだった。

 以前の自分の醜さ、恥ずかしさが、学校を通して、よく見えた。それと同じように、学校にしがみついている『友達』(学校では、同じ教室にいなければならない人間は、皆、『友達』という名前で呼ぶ習慣がある)と学校にしがみついている『先生』(学校では、どんなくだらない人間でも、教える立場に立つと、皆、『先生』と呼ぶ習慣もある)が、自分の人生にとって、凄く無駄なことをしているのも見えた。

「私には、やりたいことしたいことが一杯あるのよ」とお母さんは言っていた。「それに、あんたほど、人生に残りの時間がないのよ。悪いけど、したいこともやりたいこともない人間に、自分の時間を泥棒されるのは、イヤなのよ」

 僕にも、ようやく、お母さんが僕に言っていたことばの意味がわかってきた。

 オレにも、やりたいことしたいことが一杯ある。悪いけど、したいこともやりたいこともない人間に、自分の時間を泥棒されるのは、イヤなんや。

「これをシッカリ覚えとかへんと、高校入試の時、困るのは、お前らやねんぞ」

「ふーん」「あ、そう」「へえ」と言う、お母さんの気持ちが少しわかった。

 僕は、それでも、朝礼から始まって、午前の授業と午後の授業を受けた。

「弁当、持って来てないんか? パンでも買ってくるか?」と金を渡そうとする担任に、「僕、おなかすいてないんです」と言った。

「ほんまに、大丈夫?」とクラスメイトの女の子達がたずねた。

「うん」と僕は答える。今日だけは、とことん付き合うつもりでいた。

 気分が充分以上に悪いので、腹もすかないし、きっと、胃が縮んでいる。それに……僕はお母さん以外の人間とごはんを食べることができない。

 親切に、「ここ、こう書いたらいいのよ」と教えてくれた英語の先生だけは、感じがよくて美人やったから、うーん、学校も中々いいもんかもしれない、と思ってしまったりした。

 けど、「あんたは、美人やったら、誰でもいいの?」というお母さんの声も聞こえる。

 悪いけどな、お母さん、オレ、可愛かったり美人やったりしたら、誰でもいいねん、と答えている。

 僕は、晴々した気分で、学校を後にした。

「今度学校来る時は、制服着てきてな」と担任がいい、「はい」と僕は答える。

 今度学校に来る時なんて、二度とない、と思いながら。


 それから、何度か、同じクラスか別のクラスか知らないけれど、『学校に来い』襲撃事件があった。

 僕は、もう学校に行く気はなかった。それでも、クラスメイト、いわゆる『友達』が家に誘いに来るということはあった。

「オレは、もう、学校に行く気はないんや」と僕としては、自分の気持ちを精一杯『友達』に伝えたつもりだった。

 僕が、やっと寝入った朝方に、壁を蹴るガーン、という音がする。窓を叩くドンドンドン、という音がする。

「坂口、出て来ーい!」という怒鳴り声がする。

「何で、学校に来いへんねん!」という叫び声がする。

 僕の名前を連呼する声がする。

 もう、いい加減にしてくれ。オレは、きちんと礼をつくして、もう学校には行かへん、と言うたやろ。

「一樹」とお母さんが言った。

「凄い近所迷惑やと思う」

「うん」と僕も言った。

「あんたは、まだ、あの学校に行く気がある?」

「……ない」と僕は答えたけれど、「お母さん、何もせんといてくれる?」と言うのも忘れなかった。

 お母さんが、何を言ったのかわからないけれど、お母さんが外に出て一分も経たないうちに、一週間近く続いた喧騒は終わった。

「お母さん、皆に何を言うたん……」と僕は、お母さんが怖かった。

「え? 別に何も。『そんなに騒いだら、ご近所に迷惑やということぐらい、わかるでしょ?』て、言うただけ」

「ふーん」

 お母さんにはわからないだろうけど、僕にはわかる、彼らの恐怖感が。

 その証拠に、それ以来、誰一人として、我が家を訪れる『僕と同じクラス、同じ学校の友達』はいなくなった。


 その後、クラス写真の話を知った。それは、多分、卒業写真の件で、担任の先生が家に来た時だった、と思う。

「別に、放課後でもいいんです」と先生は、以前と同じ口調で言った。

「本当に、あの節は、ご迷惑かけました。あの時は、うちのクラスで、思い出の写真を撮ろうという時期やったんです。一人だけ知らない生徒さんがいたんで、多分、クラスの子が興味本位でご迷惑かけたと思うんです。本当に、申し訳ありませんでした」

「ああ、そうですか」とお母さんは、担任に対しても、いつもと全然変わりなく応対していた。

 僕は、担任の先生から、放課後でもいいからとか、その日にしか写真屋さんが来ないとか、もし、無理だったら、写真は写さなくてもいい、という話を聞いた。

「何時からですか?」と僕は尋ねた。担任は、またしばらく沈黙した。

「……朝から来れる? 別に、昼過ぎでも、放課後でも、夜でもいいんだけど」

「けど、写真屋さんが来るのは、午前中なんでしょう?」と僕は言った。

「それやったら、午前中、何時か言ってもらえたら、その時間に学校まで行きます」

 僕は、迷った末、ジャージ姿で学校に行った。

 写真屋さんは、一人ずつ、卒業写真を撮っていた。僕は、別に、ジャージで写ってもよかったけれど、先生が、他の生徒の制服を僕に着せようとした。

 イヤや! 他のヤツのホコリや毛のついた制服なんか! と思った。

 僕はその制服を着ていた男子を細かく点検して、こいつのなら、別にいいか、と思った。僕はその知らない生徒の制服を着て、写真を撮ってもらった。


「オレ、お母さんの子で、ほんまによかったわ」と僕は生まれて初めて言った。

「あらら」とお母さんは、僕の予想した通りの反応をした。

「オレな、別に、お母さんを喜ばせようとか、そんな気持ちで言うてへんねん。オレな、お母さんの子供に生まれて、ほんまによかったと思ってる。産んでくれて、本当に、ありがとう」

「ちょっと困る」とお母さんは言った。「私、自分の親にも、そんなこと言うたことないから」

「いいやん、別に」と僕は、以前のお母さんみたいに言った。

「オレは、今からどうなるか、自分でも、全然わからへん。お母さんに見捨てられて、一人で生きていくかもしれへんし、夜間に行くか仕事をして、一緒に暮らしていけるかもしれへん。けどな、一つだけ確かなことがある。オレ、ほんま、心の底から、お母さんの子供でよかった、と思う。お母さん、オレのこと、産んでくれて、本当にありがとう。それから、オレのこと育ててくれて、ありがとう。それからな、オレに自由な時間をくれて、本当にありがとう」

「……私の方こそ、生まれてくれて、ありがとう」

 僕は、お母さんの目から、涙がヨダレみたいに流れるのを、黙って見ていた。

 お母さん、オレがここまで育つとは、ほんまは思ってなかったやろう、と思いながら。

 クズみたいやったオレが、カスみたいやったオレが、今、こうやって生きている。

 そして、今生きていることを奇跡のように誇らしく思っている自分を、僕は、お母さんの涙の中で、再確認するのだった。

                       了


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