本当の父からの手紙5
「……どういう意味ですか?」
アーネストは困った顔で微かに笑ったが、表情の固さは変わらない。
「どうって、そのままの意味だよ。あの手紙の差出人は、君のことを娘だと思っている。それなら余計なことは言わないで、話を合わせていれば、貴族の娘としての生活ができるんじゃないかって思わないかい?」
「そんなの無理ですよ。ボロが出るに決まっていますし、やりたくもありません」
「まあ……君はそうか」
納得しながらも、いつものように笑わないアーネストに、シェリーはどうすればいいのかわからなくなった。
「じゃあ、手紙のことは関係なく、もし貴族のような生活ができるようになったとしたらどうする?」
「そんなこと、ならないのでわかりませんよ」
シェリーは当惑しながら答える。
「いいから、考えてみてよ。毎日綺麗なドレスを着て、美味しいものが食べられるんだ。人付き合いは面倒だけどね。そんな暮らしなんてしたくない?」
もしこれが、アーネスト以外の友人に聞かれたことなら、シェリーは今の生活のほうがいいと答えていたはずだ。でもアーネストの前でそれは言いたくなかった。
「したい、というより、わたしは庶民として生きてきたので、そんな境遇になっても、上手くできないと思います」
「そうかな。シェリーはすぐに順応しそうだけど」
やけに食い下がる。この質問に何の意味があるのか。
「もしもの話だよ。聞いてみただけだ」
シェリーがじっと見つめていたからか、アーネストは何でもないというように首を振った。
彼はどんな答えを期待したのだろうか。しかし、シェリーはそんな自分をたとえ想像であっても、いや想像だからこそしたくない。シェリーが考えたくないことを、彼は考えてほしかったのだろうか。
黙ってしまったアーネストは、寂しそうに、自分の中に何かの感情を押し込んでいるように見える。
「アーネストさん」
気がついたら呼んでいた。真っ直ぐな目を向けられる。
なぜ呼んでしまったのか、シェリーは自分でもわからなかった。そんな顔をしないでほしいとでも言えばいいのか。
アーネストがふっと笑った。
「ごめん。僕は馬鹿だから」
自嘲するような言い方をして、それきり顔を外に向けてしまう。
シェリーはどうしようもなく、胸が痛んだ。
「そういえばクロックフォード男爵のことを話していなかったね」
しばらくしてアーネストが思い出したように言った。
「父に聞いてみたんだ。ほとんど社交もしなくて、屋敷にこもっている人らしい。結婚をしたという話も聞かないし、世継ぎがいないだろうから、彼の代で断絶するんじゃないかって」
「結婚されていないのですか」
てっきりシェリーは妻子があるのに、愛人に娘を産ませた人なんだと思っていた。もちろんその娘はシェリーではないが。
「ああ、まあ本人に会うことがないから正確かどうかはわからないけど、一度もないらしい。ただこんな風に聞くと世捨て人みたいな印象を受けるけど、土地の管理はしっかりやっているらしいよ。地代も良心的で、没落貴族が急増しているこのご時世で、その心配はないだろうってさ」
「人物像が掴めません……」
変わった人なのはわかるが、その情報では、いい人なのか嫌な人なのか判断できない。
「そうだな。でも父は直接会うことはないけど、交流は少しあるらしい。屋敷にこもっている割には、しっかりした実直な人だと言っていたよ。だからあまり恐がらなくてもいいんじゃないかな」
シェリーは首を傾げた。
「わたし恐がっているように見えますか?」
「いや、平然としているように見える。でも屋敷を見たら、緊張するかもしれないだろう?」
アーネストのその言葉があったからではないだろうが、クロックフォード男爵邸の正面に立ったシェリーは少しばかり怖じ気づいていた。
予想以上にでかかったという訳ではない。シェリーの町にある貴族の屋敷と比べると平均的な大きさだ。しかし外から眺めるのと、訪問するのとでは全然違う。
いくら用があるとはいっても、庶民が貴族邸に正面から訪ねるのは非常識なのではないかと思えてくる。アーネストがいてくれて本当に助かった。
「どうすればいいのでしょうか」
作法がわからないシェリーは門前で立ちつくす。
「普通に入っていって、呼び鈴を引けばいいんだよ」
アーネストは堂々と門をくぐって玄関前まで行くと、呼び鈴を引いた。
しばらくして出てきたフットマンを見て、シェリーはあっと声を上げる。最初に手紙を届けに来たフットマンだったのだ。向こうも驚いた顔をしている。
振り返ったアーネストが問い掛ける視線をよこしたので、シェリーはこくこくと頷いた。
「アーネスト・ブロウとシェリー・ホールデンだ。クロックフォード男爵にお会いしたいんだが」
「申し訳ありませんがしばしお待ちを……いえ、お入りください」
フットマンは予想外のことにどうすべきか悩んで、招き入れる結論を出したようだった。
屋敷の中に入った二人は応接間に通される。
そこで待つように言われて、シェリーはついつい室内を見渡した。写真や美術館でしか目にしたことのない豪華な調度品だ。あの細い脚で立っているチェスト一つで、いくらするのだろうかと、庶民的な考えが浮かんでしまう。
「やっぱりクロックフォード男爵で間違いないみたいだね」
落ち着いた態度で、ゆったりとソファに座っているアーネストが言った。
「はい。人違いで訪問することにならなくてよかったです」
シェリーもほっと息を吐く。
これならクロックフォード男爵に勘違いであることを告げて、プレゼントを返せばそれで終わりそうだ。
扉がノックされて、アーネストがどうぞと応える。
シェリーとアーネストが若い男女だからだろうが、扉は半開きになっていたが、訪れた人間はちゃんと中が見えない位置に立ってノックしていたようだった。
「失礼します」
そう言って入って来たのは、シェリーの知っている人物だった。
あの月に一度訪れる、本を必ず自分で持ち帰る紳士である。
シェリーは立ち上がった。
「やっぱり、あなただったんですね」
「……いや、待て」
なぜあんなことをしたのか尋ねようとしたシェリーを、アーネストが止めた。
「どういうことだ?」
訝しげに言う彼に、この人が話していた常連の紳士だと教えようとする。しかしアーネストが聞きたかったのは、そんなことではなかった。
「あなたは執事だね?」
シェリーは驚いて扉の前に立っている人を見た。
燕尾服を着た執事は、雇い主である紳士とほとんど変わらない格好をしているが、よく見れば違いがある。
貴族であるアーネストはすぐにわかったが、シェリーは言われてようやく気がついた。
「左様でございます。シェリー様、旦那様が書斎でお待ちしております」
普段は店員として、こちらが謙った態度を取っている人に、敬称で呼ばれてシェリーは落ち着かない気分になった。しかし本屋で会う時は、堂々とした立派な紳士に見えたが、今は物静かで一歩引いたような空気を纏っている。
「僕も一緒に行かせてもらうよ」
アーネストが宣言すると、彼はすぐには答えなかった。表情は変わらないが、恐らく迷っているのだろ。
「あの、アーネストさんが一緒では駄目ですか?」
一人で行くのは心許なくてお願いしてみる。
「かしこまりました。お越しください」
執事の彼が手で廊下に出るように促す。シェリーとアーネストは黙って後に続いた。尋ねたいことはあったが、きっとクロックフォード男爵に会ってからの方がいいのだろう。
書斎らしき部屋の前で止まると、執事は少し待ってほしいと言い、一人で部屋へ入った。アーネストがいることを伝えているのだろう。
すぐに出てきた彼は、扉を押さえて二人を中へ招き、自身は外へ出る。
圧倒されるような高さの本棚と本に迎えられた。たくさんの本なら見慣れているが、本屋とでは荘厳さがまるで違う。
そして中央にある大きな書物机の奥に、背中を向けて立っている人がいた。
その人が振り返る。
シェリーは目を見開いた。
それはシェリーがよく知っている人だったのだ。