本当の父からの手紙1
巷の大衆小説に溢れているシンデレラストーリー。
貧しい環境でも健気にひたむきに生きているヒロインが、実は貴族の生まれであることが判明したり、もしくは金持ちの優しい青年に見初められて、新たな人生を歩む。
掃いて捨てるほどに溢れている物語だ。
昨今の印刷技術の向上により、大衆雑誌が1ペニー以下で手に入るようになり、庶民の中で娯楽小説が人気を博したせいではあるが、本当に嫌になるくらいによく見かける。
だがしかし、そんなものは物語の中だけのことである。
現実にそんなことが自分の身に起きると考えるのは、些か短慮というものではないだろうか。
「……えーと、シェリー。なぜそんな話になったんだったかな?」
この本屋の常連であり、男爵家の嫡男であるアーネストは困惑顔で相手を見つめた。
アーネストの目の前にいるのは、アッシュブロンドに空色の瞳をした本屋の看板娘シェリーだ。彼女はあまり表情豊かではなく、仕事中に客に向かって僅かに微笑むことはあっても、基本的に何を考えているのかわからない顔をしている。ミステリアスな美女として客の間では評判だ。アーネストの評価は少し違うが。
そんな彼女が今日は機嫌が悪いように見えて、何かあったのかと尋ねたアーネストに対するシェリーの返答が、なぜか大衆小説についての見解であったのだ。
一体どうした、という気持ちをアーネストは婉曲に伝えた。
シェリーは眉間に皺を寄せて数秒考えたのち、僅かに不安を覗かせた表情で、チラリと上目遣いにアーネストを見た。
アーネストにとってはなかなかの破壊力であったが、平常心を装いつつ反応を待つと、シェリーは諦めたように一通の手紙を取り出した。
「これ、読んでみてください」
上質な白い封筒、封蝋の上の細かな細工が施されている印璽。シェリーはアーネストが物問いたげな顔をしていることに気づいたが、かぶりを振った。
「ひとまず、読んでみてください」
アーネストは素直に封筒を開いた。すでに一度シェリーが開いているので封蝋は割れているが、封蝋印が見えるように綺麗に真っ二つになっている。それを崩さないように手紙を取り出して、アーネストは短い文章を読んだ。
『親愛なるシェリー
突然こんな手紙を渡されて、さぞ驚いたことだろう。
しかし私はそろそろ名乗りをあげなくてはいけない。どうか冷静にこれを読んでほしい。
君には高貴なる血が流れている。
この事実を受け入れられたなら、知らせてほしい。
待っている。
今の暮らしに満足している君にとって、この手紙が幸運を呼ぶものであることを、切に願う。
愛を込めて
君の本当の父より
追伸
この手紙のことはまだ誰にも言わないでくれ、絶対に』
読み終えたアーネストは呆気に取られた顔でシェリーを見た。
「違いますよ」
先手を打ってシェリーは否定した。
アーネストが手紙の内容を信じたとは思わないが、頭から否定はしないだろうし、その理由も予想できるからだ。
「わたしにはちゃんと父親も母親もいます。父親は小さな商人家で執事をしていて、母親は針子です。二人とももちろん庶民です。おまけにわたしは母にそっくりで、赤子の頃に拾われたなんてことは絶対にあり得ません」
「そ、そうか、そうだよな……。だが、悪戯にしては……」
「ええ、凝りすぎてますよね」
そこが問題であった。
こんな上質な封筒はそこらの雑貨店では売っていない。貴族や金持ちが使うものであり、彼らが買い物をするのは、高級な専門店か百貨店である。庶民には入店すらできない。
封蝋印も躍動感のある馬をメインに使っていて、こんなに細かな細工の印璽は、庶民には手が出せないほど値が張るだろう。
「アーネストさん、この封蝋印に見覚えありますか?」
「うーん、ないなぁ。これが本物だとすると、この印璽の持ち主は家系の紋章に馬がある人物ということになるけど、紋章に馬なんてよくあるデザインだしね」
封蝋印と家系の紋章は別物だが、紋章のデザインのメインに使われているものを封蝋印にも使うのが一般的だ。
しかし封蝋印はそのデザインが誰のものか知っている人に送られてこそ、差出人がわかるという意味を持つのだ。シェリーはこんな立派な印璽を見たことがない。貴族であるアーネストも知らないのなら、シェリーに知るすべはない。
アーネスト以外に見せて回って確認するのも気が引ける。
「しかもこれ、持ってきたのフットマンなんです」
「えぇ……」
アーネストは口元を引き攣らせると、眉間を指で押さえた。
「シェリー、言いにくいんだけど、悪戯で済ますわけにはいかないんじゃないかな?」
フットマンは使用人が少数の家では雇われない役職だ。そういう家は使い走りにまだ少年のページボーイを使うものだ。フットマンがいるのは上流階級である。
「じゃあ、どういうつもりなんでしょう? 気味が悪いです」
「うーん」
アーネストは再び真剣に手紙を見つめた。
「これ、君のことを知っているかのような書き方だね。まるで見守っていたかのような」
「やめてください」
シェリーは身を竦ませた。そんな気がしていたが、改めて言われると怖くなる。アーネストは慌てて手を振った。
「すまない。でも君のことを大切に思っているようだよ」
「ですから、わたしにはちゃんと父がいるんです」
抑えきれない怒気を滲ませて言うと、アーネストはとても気まずそうに顔を逸らしてから、横目でちらりと何か言いたげに見てくる。
シェリーはため息を吐きたくなった。
彼は貴族の子息なのに、誰にでも気さくに声を掛けて、顔も広い。身分違いのシェリーにも優しくて、ちょっと失礼なことを言ったとしても怒らない。
そんな彼の、ある意味で欠点と言えるところは、無類のミステリー好きというものだ。
庶民向けのペニー・ドレッドフルと呼ばれている猟奇的な内容が含まれることの多い雑誌の中で、数年前に絶大的な人気を誇るようになる探偵小説が登場し、それ以来ミステリー小説は需要も供給も爆発的に伸びた。
アーネストもそんなミステリー好きの一人で、この本屋にも、庶民向けのペニー・ドレッドフルを買い漁るためにやって来ている。彼によるとほとんどが屑小説だが、たまに本物に当たるらしい。
そんな謎やら事の真相やらが大好きなアーネストのことである。シェリーはこの話を彼にした時に、ある程度はあれこれ聞かれることを覚悟していた。と同時に彼ならば何かわかるかもしれないと期待もあったのだ。
だからシェリーのほうから水を向けてみた。
「何か言いたいことがあるのでしたら、どうぞ」
「いや、うん、ちょっと確認したいんだが」
「はい」
「もしかしての可能性の話というか、可能性を潰すための確認でしかないんだが」
「はい」
「気を悪くしないでほしい。本当にただの確認だから」
「はい」
しつこい。とは言えないのでシェリーはただ頷く。
それでもアーネストは葛藤しているらしく、間を空けてから恐る恐る口を開いた。
「君の母上が父上と結婚したのは、君が産まれた後という可能性は?」
「父だけが本当の父親ではないということですか?」
「まず可能性を潰していくことが大事なんだよ」
疑っているわけではないと言うように、アーネストは大きく首を振った。それでも罪悪感に苛まれた顔をしているが、適当な慰めを口にして、手紙のことをうやむやにされるよりかは、シェリーにとってはありがたい。
「それはないです。子供の頃の話なんですが」
「うん」
「近所の奥さんが不倫をして、その家の子供が、旦那の子供じゃないって判明したことがあったんです」
「うん?」
いきなりヘビィなゴシップ話が飛び出してきて、アーネストは困惑した。
「それを父さんが酒場で聞いて、色々と吹き込まれたらしくて、酔っ払って帰ってから、泣きながら『シェリーは俺の子供だよな!』って母さんにしがみついちゃったことがあるんですよ。母さんキレて、父さんをぶっ飛ばして『当たり前でしょーが! わたしがそんなことをする女に見えるの!』って怒鳴ったんです。わたしも恐かったのでよく覚えてます。父さん何度も謝ってましたけど、しばらく許してもらえなくて、ずっと泣いてました」
「そ、そうか……。強いな、母上」
「ええ、だからわたしの両親は父さんと母さんです。母さんが父さんを裏切るなんてことも、あるはずがないです」
「うん、素敵なご両親だな」
「父さんは母さんに弱すぎますけどね」
シェリーは苦笑した。惚れた弱味なのか、父は本当に母に弱い。ついでに母親そっくりの娘にも弱い。しかしそんな父がシェリーは好きだし、本当の父親ではないと疑ったことなどない。この手紙を読んだ直後でも、欠片も疑わなかった。
「しかし、そうなるとやはり悪戯かもしれないんだな。こんな手紙、金持ちしか用意できなさそうだが」
「わたしにお金持ちの知り合いなんて、アーネストさんしかいませんよ」
「僕じゃないぞ」
「わかってますよ」
いくらミステリー好きでも、こんなたちの悪い悪戯をする人でないことくらいは、シェリーもアーネストという人のことを知っている。
「いや、金持ちじゃなくても用意できるかもしれないな、雑貨店なら。注文があったといって仕入れれば、封筒くらいは用意できるだろう」
「印璽はどうするんですか? こんなの絶対に特注品ですよ」
「一度使ったくらいでは、新品かそうでないかわからないだろう、印璽なんて」
「その後に買い主に渡すんですか? リスクが高すぎる悪戯じゃないですか?」
「そうだよなぁ」
言っているうちに矛盾に気づいていたのか、アーネストはカウンターに寄り掛かって項垂れた。かと思えばすぐに顔を上げる。
「じゃあ、人違いというのは? シェリー、どんな風にこれを渡されたんだ?」
「えーと、店に入って来るなり、シェリー嬢はいらっしゃいますか?って聞かれたんです。わたしですって答えたら、この封筒を渡されて、確かに渡しましたよって言われて、すぐに走り去ってしまいました」
「じゃあ、ファミリーネームは言われなかったんだな。もしかしたら、彼はこの町の本屋のシェリーとだけ聞かされていたのかもしれない」
「他に本屋のシェリーがいるかもしれないということですか?」
「可能性として低いがアリだろう?」
「……そう、ですね。そうかもしれません」
それが正解だと安直に考えたわけではないが、シェリーにとって納得できる答えが一つでも見つかったことで、安心感が出てきた。
「よし、じゃあ今から確認してこよう」
「え、アーネストさんがですか?」
シェリーは仕事中だ。雇われ店員なので、もちろん動けない。
「暇人だからね」
おどけたようにアーネストは言う。
基本的に貴族は働かないので、子息であるアーネストもだいたい暇を持て余している。おまけに彼は貴族らしい娯楽をあまりしない。
「それに気になるし。人違いならそれでいいけど、もし悪戯なら何だか腹が立つし」
あまり負の感情を出さない彼が顔を歪めたので、シェリーは驚いた。
「僕が知りたいだけだから気にしないでくれ。まあ、行ってくるよ」
「え……はい」
止めるべきか感謝すべきか迷っている間に、アーネストは店を出てしまった。
いいのだろうか。まあ、彼の性分による行動なのだろうから、止めるほうが野暮かもしれないが。
「仲がいいんだねぇ」
声を掛けられて振り向くと、上品な壮年の紳士が立っていた。
名前は知らないが、この紳士も店によく来る常連だ。アーネストほどではないが。
彼が本を何冊か持っているのを見て、シェリーははっとした。
「申し訳ありません。待たせてしまいましたか?」
一応、カウンターに来る客がいないか注意しながら話していたが、彼は気を使って話が終わるまで待っていたのかもしれない。小声で話してはいたので、内容は聞こえていないだろうが。
「いや、物色していただけだよ。これをもらうよ」
「かしこまりました。いつものように、お持ち帰りですか?」
「ああ、この店は信用しているが、以前配送中に紛失したことがあるからね。やっぱり持って帰るよ」
高価な本を買う場合は、店が購入者の自宅まで配達するものなのだが、この紳士はどれだけ多くてもいつも持って帰る。
シェリーが持ちやすいように革紐で結ぶと、彼はにこりと笑った。
「君は本を丁寧に扱ってくれるから、ありがたいね」
「……こちらこそ、いつもありがとうございます」
急に褒められて、シェリーは少し恥ずかしくなって気の利かないことを言ってしまった。表情にはまったく出ていないが。
会計をして出ていく紳士の後ろ姿を複雑な思いで見送る。
彼は今日も現金で支払いをしていた。金持ちの常連なのに、宅配をさせないし、小切手も切らないから、名前も知らない。
今まで気にしていなかったことが、とても奇妙なことに見えてきていた。
「……まさかね」