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症例2  作者: 綿乃木なお
3/3

3


 一造の姿が病室から消えたと、当直室に夜勤の看護師が駆け込んできたのは、午前三時を回った頃だった。


「なんだって!一体どこに行ったんだ?!」


 両手両足をしっかりと拘束しているのにも関わらず、縄を解き点滴を抜いた一造は、またもや病室を抜け出していた。

 

 時田も大慌てで看護師達と一緒に一造を探し回った。


「出入口は全て内側から鍵が掛かっています。病院の建物内にいる筈です」


 トイレは勿論、閉まった売店や、喫茶室などを一つ一つ確かめながら時田達は一造を探した。が、どこにもいない。三十分ほど広い病院内を探し回った後、時田の携帯に連絡が入った。


「小林さんを発見しました。浴室に、浴槽の中にいました」


「浴槽だと?」


 時田が聞き返すと、若い女性看護師が狼狽えた声を出した。


「はい。浴槽に水を溜めて、その中に…」


「それは、水風呂に浸かっているってことか?」


「そ、そうです」


 病院には手術前の患者が体を洗う為に設けてある浴室がある。時田が駆け付けると、全裸になった一造が、たっぷりと水を張った浴槽に首まで浸かっていた。一造は口を尖らせてちゅうちゅうと音を立てながら、蛇口から流れ出る水を飲んでいた。


 看護師達はあんぐりと口を開けて一造の様子を見ていた。誰もが恐怖を顔に張り付かせている。


「何やっているんですか!小林さん!」


 時田は大声を張り上げた。白衣やその下の服が濡れるのも構わずに、一造を湯船から掴み出した。長い間、水に浸かっていたようだ。一造の体はふやけて死人のように冷たかった。


 水を飲み過ぎたせいだろう、全身が萎び切っているのに、腹だけが異様に膨らんでいる。時田と看護師に湯船から引っ張り出された一造は、体を九の字に折るとげえげえと水を吐き出した。


「げ、ど、く、してたん、です」


 苦し気に腹を波打たせて水を吐きながら、一造は言った。


「死なんように」


「解毒…?あんた、何を言っている?こんなことしてた方が死ぬだろうが!!」


 時田は看護師に言い付けて数枚のバスタオルで一造を包むと、車椅子に座らせて病室まで連れて行った。その間も、一造はげえげえと水を吐いて苦し気に呻いた。


 車椅子からずり落ちそうになる一造の身体を押さえて、時田は一造を集中治療室に運んだ。心音が弱くなっていて、このまま低体温症に陥って死んでしまうかも知れないと思ったからだ。


 まだ水を吐き続ける一造をベッドに横向きに寝せてから、時田は一造の冷え切った全身を看護師達と一緒に掌で擦り出した。

 心音と呼吸を確認しながら、時田は汗だくになって一造の容態を(うかが)った。

 

 一造の容態が安定して、当直室に戻ったのは明け方の五時を過ぎた頃だ。


 疲労困憊している看護師達に、別の人間と当直を入れ替えて一造の容態を見るように言ってから、時田は当直室に戻った。


 倒れ込むようにベッドに横たわると、時田はすぐに意識を失った。




 肩を揺り動かされて目が覚めた。ベッドの脇には小谷が立っていた。


「ああ、小谷師長。どうやら寝入ってしまったようだ。今、何時ですか」


 ベッドからゆっくりと上半身を起こすと、時田は目をしょぼしょぼさせながら小谷を見上げた。


「朝の八時少し前です。先生、小林さんの容態なんですが」


 小林と聞いて、時田はベッドから飛び起きた。数時間前の悪夢が頭の中を駆け巡った。


「容態が急変したんですか?」


「はい。心音がかなり弱っています」


 三谷も一造の失踪で時田と同じく病院内を駆けずり回っていた。目の下に隈が出来た顔は真っ青だ。それを見て、一造の心臓はもう止まってしまったのかも知れないと、時田は覚悟した。


 一か月も食事を取らない老人が、三十分以上水風呂に浸かりながら大量の水を飲んでいたのだ。点滴で栄養補給していたとはいえ、隙を見ては病室の外に度々脱走し、それも年寄りとは思えない素早さで動いていたという。体は限界だったろう。あれでは心臓が持つはずがない。


 三谷と共に急いで集中治療室に入ると、一造は目を閉じてベッドの上に横たわっていた。毛布を掛けた胸は上下していない。心電図のモニターも直線しか描いていなかった。


 一造の呼吸も心音も止まっていたが、時田は一造に心臓マッサージを施し始めた。

 勿論、蘇生する可能性はないと承知しての行為だ。


 医師としてのメンツか、それとも呼吸が止まった患者に心臓マッサージをするのを医学生の時に叩き込まれたからか。一造の胸に手の甲を当てて、人工的に規則正しく押したまでだ。


 一造が大きく目を見開いた時、時田は奇跡が起きたのだと思った。

 時田は思わず一造の顔を覗き込み、その頬を軽く叩いた。意識が戻っているのか確認したかったからだった。


「小林さん!時田です!私が分かりますか?」


 一造の目がゆっくりと瞬きした。眼球がぎょろぎょろと左右に動いてから、時田に向いた。


 視線が合った瞬間、瞳孔が開き切っているのが、はっきりと見えた。

 

 時田は慌てて心電図を見た。

 モニターにはさっきと同じく、真っ直ぐな線が流れているだけだった。


「死んでいる。死んでいるのに!」


 動いた。


 息を飲んで一造から顔を上げた瞬間、一造の両腕がバネ仕掛けのように跳ね上がって時田の髪を鷲掴みにした。


「ひっ」


 逃げようと必死でもがく時田を、一造は恐ろしい力で自分に引き寄せた。骨と皮の老人の顔が時田の目の前に迫って来る。


「三谷師長!た、助けて」


 叫んだ時田の両肩に三谷の手が置かれた。三谷の指が女性のものとは思えないほど強く時田の肩を掴んだ。それは、一造から時田を引き剥がそうとする救助の手ではなく、時田の体をしっかりと固定しようとする意志が現れていた。


「みたにさんっ、どうしてっ」


 三谷は(わめ)く時田に頬ずりするように顔を寄せると、恐怖に歪んだ時田の顔を横から覗き込んだ。下顎を下げて口を開く。舌よりも大きく赤い塊が顔を覗かせた。


 時田が視線を三谷の口に張り付かせていると、彼女の両方の鼻の穴から、ミミズのような色と形をした細長い管が現れた。

 管の先端が割れて五本の指になると、時田の頬にぺたりと張り付いた。


 悲鳴を上げようと、時田は口を開けた。


 時田が口を開けたのと同時に、目の前の一造が、くわっと口を開けた。


 一造の喉の奥から二本の小さな手が現れたのを見て、時田は慌てて口を閉じた。

 胎児のように小さいピンク色の指が時田の口まで伸びて、柔らかな指がナメクジのような動きで時田の唇を(まさぐ)った。


 時田は歯を食いしばり必死に抵抗した。指の先が無数に枝分かれして、糸のような触手となって、時田の唇を持ち上げて歯間に入り込んだ。


「うああああっ!」


 口の中で(うごめ)く触手のあまりに異様な感触に、時田はついに悲鳴を上げた。

 それを待っていたかのように、一造の口から大きな肉の塊が飛び出した。


 一造の唾液に(ぬめ)りながらぬるりと出てきたのは、薄桃色をした(いびつ)(さん)角錐(かくすい)の肉の塊だった。


 時田は充血した目を見開いて、肉塊を凝視した。


 一造が自分の内臓を吐き出たようにしか見えない肉塊は、薄い皮膚に覆われていて、その表面には細かい襞があった。


 茫然としている時田の隙を突くようにして、三角錐の下に生えた二本の長い触手が、時田の口の両端を押し広げるようにして入り込んだ。目も鼻も口もない肉塊は、ぶるんと大きく震えると、こじ開けた時田の口腔内に飛び込んだ。






「小林さん、亡くなったんだって?」


 食堂で早川と会った時田は「そうなんだ」と頷いた。


「カビの繁殖は喉の粘膜と食道だけかと思っていたんだが、肺にも広がっていた。肺胞にまでカビが入り込んで炎症を起こしてしまって、手の施しようがなかった。もう少し早く治療していれば、小林さんも佐藤さんと同じく助かっただろうに」


 気落ちしたように俯く時田の肩を、早川は慰めるようにポンポンと叩いた。


「今回ばかりは、仕方がないよ。奇病を発症して運ばれてくる患者は滅多にないからな。いくら最初に症例があったとしても、二例目なんだ。治療だって手さぐりになるさ。それで、学会では発表する予定なのか?」


「ああ」


 時田は笑顔を早川に向けた。


「東京ベイで開かれる感染症の大掛かりな学会だ。海外からも学者が沢山来日するよ。そこで小林さんの症例を発表しようと思う」


「こんな症例、滅多にないだろうから、みんなびっくりするんじゃないか?」


「そうだね。ご家族に頼んで、病理解剖した時に小林さんの病変のサンプルを大学に提供して頂いたんだよ。現物を学会で見せようと思っている」


「そうか。頑張れよ」


 励ましの言葉を掛けてから、早川は少しばかり怪訝な顔をして時田を見た。


 それに気が付いた時田が「どうした?」と早川に目をやった。


「いや、お前って、いつも昼飯ガッツリ食べるのに、今日はどうしたのかと思って」


 時田の前に置いてあるトレーの上を見ながら、早川が聞いてきた。


「今日はあまり食欲がないんだ」


 時田は明るい表情で早川に言った。 


「でも、水を飲んでいるから、大丈夫だよ」


                                             終

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