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症例2  作者: 綿乃木なお
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「時田先生、ちょっと、よろしいでしょうか」


 看護師長の三谷(みたに)芳江(よしえ)が、通路を歩いている時田の姿を見るなり素早く寄って来た。

 

「どうしたんですか、三谷師長」

 

 時田は三谷の表情を見て内心やれやれと思った。また、あの患者、小林一造の事だろう。

 

 案の定、三谷は怒った顔で「小林さんの事なんですけれど」と前置きして喋り出した。


「あのお爺さん、大人しくベッドに寝ていてくれないんですよ。少しでも目を離すと、すぐに点滴の針を抜いてしまうんです」


「またか」


 思わず溜息が出てしまった。小林一造が、この病院で一番長く看護師長を務める超ベテランの三谷ですら手を焼くモンスター患者(ペイシェント)だと知ったのは、彼が入院してから五日目だった。




 一造を入院させて喉の粘膜を調べると、やはりカビが検出された。


それも、喉から食道全体にかけて繁殖しているという結果だった。佐藤春江より重い症状だ。


 抗生剤を点滴するのが主な治療方法だが、時田は患部の表面に直接薬を塗布しようと考えた。その方がカビを早く取り除くことが出来ると思ったからだ。


「喉の中を軽く脱脂綿で拭くので、少し苦しいでしょうが我慢して下さいね」と、優しく声を掛けてから、時田は一造の口を開けさせて喉に薬品を塗り込もうとした。


 薬品を含ませた脱脂綿を摘んだピンセットを口に入れるや否や、一造は「ぎゃあ」と悲鳴を上げて首を振り、手足をばたつかせて暴れ出した。三谷と男性看護師が取り押さえなかったら、一造の喉を危うくピンセットで突いてしまうところだった。


「そんなに痛かったんでしょうか?」


 引き()った顔で尋ねる三谷に、時田は憤慨したように答えた。


「脱脂綿を口の中に入れただけで、まだ患部に触ってもいなかった。子供だって、あんな暴れ方はしないよ」


 次に麻酔を掛けて患部の治療に当たろうとしたが、どういう訳か麻酔が効かない。一造は前より暴れる始末だった。


 それで、点滴に抗生剤を入れての治療だけになったのだが、これが全くうまくいかなかった。三谷の言う通り、一造は自分の腕からすぐに点滴を抜いてしまうのだ。


 骨に皮が張り付いただけの一造の腕の静脈に、点滴針を入れる苦労を知っている時田だから、三谷の怒りも理解出来た。


「あの爺さん、ホントに手を焼かせるな。認知症でもないのに、どうしてあんなに激しく抵抗するのか分からない。ご家族の方にも了承を取って、点滴の間は両腕を拘束するしかないだろう」




「いくらモンペでも拘束はまずいんじゃないか」


 昼食が一緒になったので、早川に相談した答えがそれだった。


「だけど、全く治療にならないんだぜ。初見(しょけん)では爺さん、普通に見えたんだけどな。個室に移して、昼間はご家族の方に付き添ってもらっているんだが、やっぱり点滴を抜いてしまうんだよ。息子さんに了承を得て、腕だけ拘束している。本当はそんなことしたくないんだけれどね。息子さんも、親父さんが点滴を(むし)り取るのに手を焼いているから、二つ返事でOKだったよ」


「ふうん。それじゃ、治癒するまでに暫く掛かりそうだな」


 時田は定食のエビフライを頬張りながら頷いた。


「まあ、仕方がないよ。だけどさ、一か月間、何も食べていなくて骨と皮だけになっているのに、よくあんなに大暴れできるもんだ。看護師共々驚いているよ」


「長年農業に従事してきたから、体がとても頑健なんだろうな。それと、点滴で栄養が体に十分行き渡っているから、力も出るんだろう」


「確かにな。高栄養剤を直接血液に流し込むんだ。口から食べ物を入れるより栄養が体に行き届く。そのせいか、最近、爺さんの眉毛が黒くなっているよ」


 気心の知れた友人との束の間の談笑で、時田の気持ちが幾分和らいだ。




「時田先生、小林さんが、深夜になると病室を抜け出すそうなんです」


「抜け出すだと!どういうことだ?腕は拘束してあるんだぞ」


 困惑した顔で知らせに来た三谷に声を荒げてしまってから、時田は「すみません、つい」と謝った。時田が怒るのも無理はないので、三谷はそのまま話を続けた。


「どうやって解いているのか分かりませんが、午前二時から三時頃に、自分の部屋を抜け出して、他の患者さんの部屋に忍び込んでいるんだそうです。二階の内科病棟の二人部屋と、その隣の四人部屋の患者さんからクレームがありました」


「隣と、その隣?」


 どちらも男性患者の部屋だ。女性患者の部屋でないだけ良かったと胸を撫で下ろした時田だったが、三谷の言葉にぞっとした。


「患者さんが異様な気配に目を覚ますと、真っ暗な病室の中で、小林さんが瞬きもせずに覗き込んでいるんだそうです。それで」


 三谷は戸惑った表情をして、時田から目を逸らしながら困惑した口調で話した。


「なんか、その、唇と唇がくっつくほど、小林さんが顔を近づけてくるらしくて。びっくりして悲鳴を上げると、さっと身を(ひるがえ)して病室から逃げて行くらしいのですが、その動きが年寄りとは思えないくらい敏捷(びんしょう)なんだそうです。それが今日で三日続いているって。年寄のいたずらにしても程があるって、患者さん達が気味悪がって部屋を変えてくれと大騒ぎしています」


「…変な趣味でもあるのか?困った爺さんだ」


 時田は頭を抱えた。深夜にふと目を覚まして、骸骨のような老人の顔が目の前に迫ってきているのに気付いたら、屈強なプロレスラーだって肝を潰して悲鳴を上げるだろう。


 ましてや、ここは病院だ。驚きのあまり心臓が止まってもおかしくない重病人もいる。


「不本意だが、小林さんの足もベッドに縛り付けるしかないな。だけど、どうやって両手の拘束を解いたんだろう。三谷師長、見回りの回数を増やしてくれるように、夜勤の看護師さんに伝えて下さい」


 時田は三谷に指示を出した。



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