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「次の方は転院して来た患者さんです。これが紹介状です」
看護師から手渡された茶色の封筒には、○○市民病院との名前があった。
時田雅也は封を開けて中から一枚の紙を取り出した。紙に書かれている病状と治療経過にさっと目を通してから、目の前に座っている患者を見た。
小林一造。七十五歳。
窪んだ眼窩に収まっている目玉が落ち着きなく動いている。
どうして生きているのか不思議なくらい、がりがりに痩せ細った老人だった。
「食事が喉を通らないと書かれていますが、今もそうですか?」
真っ新な電子カルテに書き込みをしようとパソコンのキーに指を落として、時田は問診を開始した。
「あ、はい。何も喉を通りません」
意外な程しっかりとした受け答えが返ってきた。
「何も飲み込めないの?ゼリー状のものとか、スープのような流動食はどうですか?」
「ええ。重湯すら喉から下に入って行きません。水だけは飲めますが」
「絶食状態ですか。そんな症状が出てから、どのくらいになりますか」
「うーん。一か月位は経ったかなあ」
「ええっ。そんなに前から?」
時田はカルテに記入する手を止めて、他人事のように首を傾げる一造を呆れ顔で見た。
時田の表情など構わずに、一造は淡々と喋り出した。一か月も食事を取っていない割には声は大きくて、滑舌も良かった。
「こんな事になったのは、キノコ採りに山に入ってからなんですよ。今年は暑かったし、それに山にはよく雨が降りましたから。それはもう、シメジやクリタケなんかのキノコがそこら中に出ましてね。そりゃあもう採り放題っていうわけで」
「で、山で採ったキノコを家で調理して食べてからそのような状態になった、と」
「いや、その…」
時田の言葉に、一造は困ったように頭を掻いた。
「山に生えているキノコをその場で生で食べただとぉ?!」
食堂で隣に座った早川翔馬が、時田の話を聞いて素っ頓狂な声を上げた。
「おい、声がでかいよ」
眉を顰めて思わず辺りを窺う時田に、早川は頭に手を当てて「すまん」と謝った。早川は時田と同じ年に、ここの国立大学の医学部に入学し、大学付属病院で内科医として働く医局の同期である。
「採取したのが食べられるキノコかどうか分らない時に、爺さん、ちょっと齧るんだそうだ。それで、舌がピリッとすれば毒があって、そうじゃないのは持って帰ってキノコ鍋とか炊き込みご飯にするんだってさ」
「は―――。よく今まで猛毒キノコに当たって死ななかったもんだなぁ」
遅い昼食を取る箸を止めて、早川は時田の顔をまじまじと見つめた。
「それで、生で齧ったキノコが原因で、何も食えんようになったっていうのか?」
「状況からすると、そう判断するしかないな」
時田は、まだ呆れた表情で自分の顔を眺めている早川に肩を竦めた。
北関東にあるこの大学病院には、山で採ったキノコを食べて中毒を起こして運ばれてくる患者が少なからずいる。
患者の多くはキノコ狩りを趣味とする地元の年配者か、彼らが採ってきたキノコを食べた家族や知人だ。キノコ採りの達人でも、たまに食用と毒キノコを間違えることがあるからだ。
しかし、生のキノコを口に入れて食用どうか判別していたなんて、聞いたことがない。
こんな話、普通は「何やってんだ、そのバカな爺さんは」で、終わりだ。だが、自分は医者だ。患者の治癒は勿論、症状の原因解明に努めなければならない。
付き添いで一緒に来院した家族の話だと、一造は限界集落になった山村で細々と農業を営みながら生計を立てているそうだ。長く連れ添った妻を二年前に亡くしてからも、たった一人で住んでいた。
月に一度、町に住む息子が年老いた父の様子を見に実家を訪ねた時に、風呂場にへたり込むようにして蹲っている一造を発見した。骸骨のように痩せこけた父親の姿に慌てた息子が救急車を呼んで、近くにある市民病院に入院させたのだった。
最初、消化器の癌を疑われた一造だったが、検査の結果は異常なしだった。
胃と腸、肺も心臓も血液も、年齢の割には健康体で、病気と呼べるものは見つからなかった。血圧は少し高めであるが、歳を考えれば病的というほどではない。
それにしたって、食事が一切喉を通らないまま痩せ細っていく老人が、病人でないとは誰も思わない。
市民病院で様々な検査が行われたが原因が掴めずに、こちらの国立大学付属病院に回されたのだ。
「市民病院では匙を投げたって話だな。奇病患者をこっちに押し付けてきやがった」
「それは仕方がないよ」
普通の病気ではないのは確かだ。それに、学術的にも価値があるかも知れない患者だ。
「それでさ、こんな症例、過去にあるのかと思って調べて見たら、あったんだ」
「えっ!あったの?」
早川が目を剥いた。それはそうだろう。小林一造の他に、山に生えている得体の知れないキノコを火を通さずに食べた人間が、もう一人いたのだから。
「うん。ちょうど十年前だ。佐藤春江、六十三歳。主婦。小林一造と同じく山で採ったキノコを生のまま口にした後、食事が喉を通らなくなった。検査の結果、食道に糸状菌が繁殖しているのは分かったんだ」
「糸状菌?」
「カビだよ」
時田の言葉に、早川が再び目を剥いた。
「食道にカビが生えていた、だって?!それはキノコのせいなのか?」
目を瞬く早川に時田は頷いた。
「そうだ。キノコに付いていたカビだったらしい。十分に加熱すれば死滅したのが生のまま口に入れたもんだから、食道の粘膜に付着して、そこで繁殖したんだ」
「それが原因で、飯が全く喉を通らなくなったのか。カビが原因の病気は色々あるけど、食道に繁殖したってのは初めて聞いたよ。それで、その主婦はどうなったんだ?」
「原因が分かるまでには少し時間が掛かったが、幸い、抗生剤が効いて完治している。治療を始めてから三か月で退院したと記録にはあったよ」
「なんだ。稀に見る奇病だけど、楽勝じゃないか」
「ああ」
時田は嬉しそうに昼飯の和食御膳に付いている小鉢の煮物を箸で突いた。
「次の学会で発表出来る稀な症例だ。治療方法も確立してある。あの患者に当たってラッキーだったよ」