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壁を埋めるように本棚が並び、中央に一組のソファーとテーブルが置かれた一室。カーテンの隙間から薄く陽が射し込むだけの暗い部屋は、息をするにも空気が重い。
そのソファーに腰を下ろす、一人の少女がいた。歳は10代後半だろうか。軽くウェーブのかかったブロンドの奥に、少し幼さの残る可憐な顔があった。
目の前のテーブルには、まだ手の付けられていない料理がある。添えられたスープから、立ち上る湯気は見えない。どこか忌々しげに、少女はその水面を覗いていた。
時の流れが止まったかのようなその部屋に、素早いノックが2回鳴る。
「入りますよ」
返答を待たずにドアが開く。入ってきたのは、スーツに身を包んだ金髪の男だ。一切の手をつけられていない料理を見て、男は呆れたように鼻から息を吐く。
「外の料理は、上流階級様のお口に合いませんか?」
「そうね。無理に食べると反吐が出そう」
「ハルミントン家のご令嬢ともあろうお方が、そのような言葉遣いをしてはいけませんよ」
男はアメリアの横を通って、窓のそばまでやってくる。軽くカーテンをずらして見える景色は壮観だ。下にはコンクリートの灰色が敷き詰められていて、奥を見やれば、全てを拒絶する黒が遠くに聳えている。
外と中、天と地の獄を分けるあまりにも絶対的な壁。外に堕ちた人間は、どれ程の力があろうが、どれ程の城を建てようが、見上げることしか許されない。
ソファーに座る少女、ハルミントン・アメリアは中から追放された人間だ。
満足したのか、男はカーテンを閉め直してアメリアの対面に座る。
「ご気分はどうですか」
「お陰様で、最悪よ」
「そうですか。では、美味しい物を食べていただかないと。新しい物を持ってきますね」
冷えた皿を持って行こうとした男の手を、アメリアは止めようとして手を伸ばした。触れあう前に、男の手が引く。
「どうかしましたか」
「お父様に、食べ物を無駄にしてはいけないと教わったの。だから、このままでいいわ」
「それは、持ってきてもどうせ食べないと?」
黙りこくるアメリアに、男は露骨に苛立ったため息を漏らす。
「向こうではどうだったか知りませんが、ここでは温かいまともな飯にありつけることすら、貴重なことなのですよ。貴方でなければこのような扱いもしていません。鎖に繋がれたいのですか」
「それは……」
アメリアが言い淀んでいる隙に、男は皿を奪っていく。あっ、と声を上げたアメリアも、無理とわかって体を引く。その顔に一度申し訳なさそうな表情が浮かんだのを見て、男は眉をひそめた。
「すぐに新しいのを持ってきますから。何か用があれば呼んでください」
「いえ、食事はもういいわ。今夜もいただけるなら、それで」
「駄目です。貴方には健康に生きていて貰う必要がある」
男の言葉に、怒りとも悲しみともつかない憂いを見せて、アメリアは視線を床に落とす。男は笑顔を浮かべて、言った。
「大丈夫ですよ。私達には貴方を生かす力も、守る力もある」
男の言葉がアメリアの顔にはっきりとした絶望を刻ませた。それを確認して、勝ち誇ったように笑みを深くしてから、男はドアを引いた。
そうして生まれた隙間からヌルリと手が伸びて、今まさに前に進もうとしていた男の額へ、銃口を突きつける。
直後、一つの音と光が部屋を覆って、無数の赤が弾けた。
力の抜けた体は、倒れる前にドアごと蹴破られて吹き飛ぶ。弾け散った木片と死体は、奥の本棚ごと壁をぶち破って下に落ちた。
新しく射し込む光が、侵入者の存在を静かに照らす。
「誰が誰を守る力が、なんだって?」
「ひっ」
陽気な悪意に満ちた声と共に入ってきたのは、体の隅から隅まで血みどろの女性だった。高い位置で括られた一房と、顔の輪郭を右側だけ覆う髪の束が、頭の動きを追って揺れる。細めた眼の瞳孔は開き、口元は薄い三日月に歪んでいる。肌は部屋に溶け込むような褐色で、女性にしては背が高い。
「んー? さっきの奴、料理でも抱えてやがったのか。全く、食い物は無駄にするなってのは常識だろうに」
鉄臭さには慣れてるけどこれはなぁ、と愚痴りながら汚れを擦る手には、大きめのセミオートハンドガンが握られている。
余裕のある首の動きがゆっくりとアメリアを捉えた。
「やあ。こんにちは、お嬢さん。お名前は?」
「え、ええっと、私は、アメリアよ。ハルミントン・アメリア」
「そうか、貴方が。怪我は無さそうだね。良かった。ウェイン、目標を見つけた。さっき人がすっ飛んでいくのが見えただろう」
入ってきた女性は、そのままここにはいない誰かと通信を始める。
突然の出来事について行けず、素直にアメリアは自分の名前を答えた。迂闊に名前を答えて良かったのか、もしかすると助けに来てくれたかもしれない、と思考が雑然として上手く纏まらない。取り敢えず逃げるチャンスだと立ち上がろうとして、そこで初めて恐怖で足が竦んでいるのだと自覚した。
怯えた様子に、女性は危ない笑みを向けてから、入り口の方に向き直る。ややあって、外から何かが擦れる甲高い音が聞こえ始めた。
「レディ、目標は?」
そうして、焦りを滲んだ声と共に、崩れた壁の穴から一人の男性が飛び込んでくる。何処かに繋いでいるのだろう、腰のベルトからは太いワイヤーが伸びていた。黒を基調としたシンプルな服の上から、動きを阻害しない最低限のプロテクターが各所を守っている。
「遅いよ、ウェイン。そこにいる」
「よし、入口は任せるぞ」
既にやっている、早くいけとレディが手を振り、それにウェインと呼ばれた男性も頷いた。スタスタと機敏な動作でアメリアに歩み寄る。
「貴方のご家族の依頼で助けに来た。いきなりですまないが、ここを出よう」
そう言って差し出された左手は、動く度に硬質な音を立てる機械義手だった。鈍い光を放ち、所々に傷が見える。長い間使われているようだが、その動きに不自然さは一切ない。
未だ見慣れないそれに、アメリアは思わず一歩たじろいだ。
「不満かもしれないが、生憎と白馬は用意できていないんだ」
「え?」
ウェインの口調が、義務的なものから芝居がかったものに変わる。特徴的な低い声が嫌味なほどに似合っていた。うって変わって場違いな言葉に、アメリアが困惑混じりに見上げる。
「それとも、かぼちゃの馬車をご所望かな?」
「えと、その、わっ」
ウェインは相手の言葉を待たずに、伸ばした手から肩を手繰り寄せ、残った右手を膝の裏に回した。反応できないまま抱きかかえられる形になって、アメリアは目を白黒させる。
首だけを回すような形で、レディとウェインは目を合わせた。
「行ってらっしゃい、王子様」
「カエルの、だけどな。俺ではご不満らしい」
「キスがいるかい?」
「また今度でいい」
非常事態とは思えない、間の抜けたやり取りを経由して、ウェインは入ってきた窓から身を乗り出す。腰のワイヤーを確認してから、アメリアを抱きかかえたまま外に出た。
吹き抜ける風に、アメリアの髪が乱れる。自然と硬く冷たい腕を掴んでいた。
答えるように、ウェインは抱えた腕に力を込める。
「聞こえるか」
「え、ええ、大丈夫」
「しっかり掴まっておけ。下は見るなよ」
落ち着いた言葉に、腕の中で小さくなっているアメリアはこくんと頷く。あまり余裕はなさそうだった。
先程までとは違う反応に、ウェインはフッと笑みを浮かべる。そうして、両手が塞がったまま器用に壁を降り始めた。
「貴方達は」
かき消されない強い響きを持った言葉は、しかしそこで一度途切れた。
腕の中から聞こえる引き絞るような言葉を、ウェインは静かに待つ。
「誰なの?」
「あんたの味方だ。期限付きのな」
相変わらずの答えに、アメリアは声ともため息ともつかない震えを吐き出す。独特の間があってから、少し調子を取り戻した声で、ヤケクソ気味に言った。
「そう、よろしく」
それを、キザったらしい顔が受け止める。
「ああ、よろしく。その期限が来るまでは、死にたくなっても死なせねぇからな」