彼女の年越しごと
「ねえ、先輩」
正面に座る彼女から声がかかる。鈴を鳴らすような綺麗な声。だがしかし俺と彼女が今いるのは炬燵の中。今にも眠ってしまいそうな心地よさの中にいるからか、その声もいつもより柔らかみを帯びているように感じた。
俺自身も若干の眠気はある。両手もコタツの中に突っ込んで顎を机につけるような体勢のまま、「……ん?」とだけ口にした。自分でもわかるような、なんとも間の抜けた返事。俺と違い普通に座っている彼女はクスクスとおかしそうに笑う。
彼女は俺の恋人ではあるが、後輩でもある。なんだか先輩の威厳もクソもないような気がして――といってもほぼ俺のせいなんだが――、彼女の視線から逃げるように横を向いた。頬に冷たい感触がした。
「もうすぐ今年が終わってしまいますね」
「そうだな。今は……ああ、もう一〇時半なのか。なあ、お前帰らなくて大丈夫なのか?」
「つまり早く帰れ、と。帰ってほしい、と。悲しいですね、先輩。彼女の私にそんなことを言うなんて」
「違うから。門限とかあるだろ。それに年末は家族で過ごすとか」
「後者はともかく、前者は特にないですよ。それに先輩のご両親もぜひと勧めてくれましたし」
「ああ……そうだったな……」
最初彼女は夜に帰るつもりだったらしい。だが帰ろうとした彼女に俺の両親が言ったのだ。
『別に帰らなくていい。年越しは二人で過ごしたらどうだ』
当の本人たちはと言えばどこに行ったのかわからない。正直唖然とした。別にうちの家族は年越しを家族で過ごすことにこだわっていたわけでもないが。俺と彼女を家に残しどこかに出かけてしまうのはどうなんだ。
「いや、ほんとにすまん」
彼女がここにいるのは俺の両親に言われたからじゃないのか。断りずらかっただけで、俺の家とは違い家族と過ごすつもりだったんじゃないか。そんなことを考えてし まって。
上半身を起こし、頭を下げる。炬燵に入ったままというのは少し格好つかないが。
しかし頭上から帰ってきたのは、何とも深いため息だった。なんなんだと、つい顔を上げれば、彼女はやはり呆れたような顔をしていた。
「……やっぱり先輩は馬鹿野郎ですね」
「馬鹿野郎って……」
「私は好きでここにいるんです。嫌なら帰りますよ。いちいち考えすぎなんですよ、先輩は」
彼女はもう一度息を吐き俺と同じように顎を机に乗せてみせる。まあ考えすぎなのも否定できない。
ふと視線を戻してみると正面に彼女はいなかった。首をかしげるも、炬燵の中にもぐりこんだのだとすぐに気がつく。まあそれ以外にないだろう。なにをするつもりなのか、炬燵の布団をめくろうとした時。
「――ん?」
トントンと、右足に何かが触れた。俺は足を動かしてないし、ということは彼女だろう。当たってしまったのかとも思ったが、何かを訴えるように何度も右足をポンポン叩いてくる。
どいてほしいとか?
ふとそう思いつき少し右にずれる。その瞬間、隣の布団がもぞもぞうごめいた。そして大した時間もかからず黒い頭が顔を出す。
「……ん」
黒い髪、白いうなじ、上半身とそこまで出てから彼女は体を回転させようとした。だが所詮炬燵。そこまでの大きさもなく、反対側の机の脚や俺にぶつかってしまっているようだった。
「ん、っしょ……狭いですね……」
「いや、狭いならこっち来るなよ」
「うるさいですね」
ようやく彼女は半回転し終え、体を起こす。ふぅと小さく息を吐きながら、少し乱れた黒髪のショートカットを手ぐしで直している。やはり熱かったのか、横顔がほのかに赤くて。それがなんだか色っぽく、ついつい視線を逸らした。
「あまり正論ばかり言うものじゃないですよ。普通の女子にとってそれはマイナスポイントですからねー」
「……お前もそうなのか?」
「あいにく、私は普通じゃないと自覚してますから。先輩がいくら男子としてダメダメでも、嫌いにはなりませんよ」
横目で盗み見た彼女の横顔はいつものニヤニヤ顔かと思えばそんなこともなく。思った以上に穏やかな笑みで、こちらが驚いた。
そのとき不意に右肩に感触。反射的にそちらを向けば、彼女のきれいな絹のような黒髪が目の前にあった。肩に暖かな感触。鼻腔をくすぐる心地いい香り。つまるところ、彼女が俺の肩にもたれかかってきていた。
ついつい俺は肩をはねさせた。すると彼女は居心地悪そうに「んん……」と漏らし、こすりつけるように頭を動かす。
右にいるのは彼女だけなんだから、右からの感触は彼女のもの。だからそれについては驚かないが、別のことで俺は驚いていた。
「お前、今日どうしたんだ……?」
「どうしたって、なんですか?いつもどおりですよ、私は」
「いやいや。いつもだったらこんなに……」
こんなに甘えてくることないだろ。
なんとなく恥ずかしくてそれは口にできなかったけど。だがさすが彼女は何となく察したようで、クスクスと小さく笑う。
「まあ、普段ならこんなことはきっとしないかもしれませんけど」
「だろ? だから、今日はどうしたんだ、なんて思って」
「……これといってたいそうな理由はありませんよ。ただ――」
そこまで口にして、頭を少し動かしこちらを向いた。
彼女は俺の右肩にもたれかかっていた。だから顔と顔の距離はかなり近くて。きめ細かくて白い、しかし少し熱めの炬燵のせいかほんのり朱に染まり潤った肌。黒真珠のような大きな瞳。彼女のかわいさを近距離で見て改めて感じ、鼓動が速くなるのを感じた。いつもより熱く感じるのは、きっと炬燵や暖房のせいじゃない。
そして彼女は小さく笑みを浮かべながら、言葉を紡ぐ。
「そういう気分なだけです。なんとなく、こうしたいななんて思っただけです」
「――っ!」
「たまには自分がしたいことをしてもいいでしょう? こういう時くらい、素直になってもいいかななんて、そう思ったんですよ」
なんだかもう、たまらない。この感情をなんというのだろうか。なんだか彼女がどうしようもなく愛おしく感じて。もう抱きしめてしまいたいなんて俺らしくもないことを考えたりして。ついそれを行動に起こそうとした時、肩から温度が消えた。
「あ……」
ついそんな声を漏らしてしまう。なんだ今のは。自分でもわかるくらいに寂しそうな声で、それを俺が出したかと思うと顔が赤くなる。俺から離れた彼女は隣でおかしそうに笑っていた。
「なんですか? 先輩。今の声」
「いや……」
「ふふふ、先輩は馬鹿野郎ですけど、かわいいですね」
今度こそ俺は顔を逸らした。逃げるようにそうしたが、それでさえも彼女の機嫌をよくさせるだけ。隣でさらに笑う彼女を感じて気まずい心地になってしまう。
しみじみと感じた。俺はきっと彼女にはかなわない。彼女より本当の意味で上になることは、今後ないかもしれない。
その時、遠くのほうでゴォンと鐘の鳴る音がした。
「あ」
「除夜の鐘、ですね」
ポツリと。俺、そして彼女が口にして、そこから俺たちはなぜか何も話さなくなった。
テレビもついていない、会話もない静かな空間。そこにあるのは触れ合った方に感じる彼女の体温だけ。小さく響くその鐘がやけに寂しく感じた。
そこから五分くらい。
ついにその時が来た。
最後の鐘が鳴り、長針と短針が一二で重なった。
「新年、だな」
「新年、ですね」
お互い正面を見たままそう零す。そのまま特に示し合わせたわけでもないが、同時に向き合う。俺と彼女の視線が交差し、なんとなく体もそちらに向けた。そしてお互いに向かい合ったまま、見つめあう。
少し経ち、なんだかおかしくなって笑いあった。
「ま、今年もよろしくな」
彼女との一年は退屈することはない。ほぼいつもからかってきて、もちろん大変に思うこともあった。
「こちらこそです。今年もよろしくお願いしますね――先輩」
だがいつも以上にきれいな笑みを浮かべてそう口にする彼女を見ると。
彼女との一年も。彼女と年を越すのも。年を越して初めて会うのが彼女であるということも。
まあ、悪くはないかな、なんて。
がらにもなく、そう思ってしまうのだ。
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