起こりえるはずのない出来事 ーPrologueー
それは唐突なことだった。
前触れも兆候も予兆も何も無かった。
「…、ここ、どこだよ…」
小鳥遊冬也は目の前にある光景を目にしながら困惑気味に呟いた。
ついうっかり右手に持つ花柄の竹刀袋を落としてしまう。無理もない。そこは小鳥遊が十六年間生きてきた中で一度も目にしたことの無い光景だったのだから。
例えば――群衆。緑髪やら青髪やら現実には決してありえない特徴的な髪色を持っており、しかも、一部であるが『猫耳・犬耳』などの『獣耳』や『尾』を生やしていたり頭が『獣』で体が『人』であるいわゆる『獣人』が歩いていたりする。
例えば――建築物。煉瓦や石材、タイルを原料として洗練された優美で繊細なデザインを特徴とするジョージアン様式や外壁にきめ細かな彫刻やバルコニーが特徴的なモダン式のオスマニアン建築しかなくまるでヨーロッパにでも迷い込んだかのように錯覚してしまう。
例えば――道具。誰も携帯電話や自動車などの最新技術の搭載された器具を使っていない。
例えば――例えば――例えば――…。
例を挙げればキリがない。
ふと『異世界転移』という五文字が脳裏を横切った。非現実的で決してありえない言葉が。
そもそも、『異世界転移』や『異世界転生』といった言葉は人々が苦痛でしかない現代社会から逃避したい、楽しみも面白みもないつまらない日常を捨てて新たな刺激ある世界に行ってみたい、今ある現状から目を背けチートや特殊能力を駆使して敵を投げ倒し周囲からチヤホヤされて自身に酔いしれたい、――などと願い望んだ結果生まれた言葉だ。現実に起こるはずが無いし起こるわけが無い。だってそれは人々の願望の集合体であるから。ただの想像や妄想、夢物語の類いでしかないから。
だからこそ訳が分からなかった。どうしてこんな、いかにも『異世界』と感じさせてしまいそうな連想させてしまいそうな場所にいるのか。どうやってまるでアニメみたいな、フィクション漫画や小説に出てきそうな世界観溢れる所へ来たのか。
頭の中が混乱していた。
先に述べておくが小鳥遊冬也はどこにでもいる普通の高校生だ。勉学や運動神経が人一倍ずば抜けているわけでも、超絶イケメンというわけでもない。かといってひきこもりやニートであるわけでもないし、何かに対して他人より過剰なほど詳しいわけでもオタクっていうわけでもない。現実に絶望していたわけでも自殺願望者でもなかった。本当に平凡でありふれた普通の高校生なのだ。
そんな少年が『異世界転移』というフィクションの世界でしか存在しない出来事に巻き込まれてはたして何の意味があるのだろうか。もしも彼がニートや引きこもり、オタクや自殺願望者だったらまだ話は分かる。更正させるためだ、とか持てる知識を総動員して世界を救って欲しい、とかこの現代社会では生きづらいだろうから神様の恩恵として別の世界で新しく生きてみろ、とか無理やり理由を作り出せなくもない。けれど、残念ながらそうではない。彼は普通の高校生だ。異世界転移させる理由など一切無い。むしろ、させてどうする、どうしようもないのだ。
根本的な部分が定跡通りではない。
落ちた竹刀袋を拾い小鳥遊は深い溜息をつく。
信じられなかった。
信じられるはずがなかった。
ほんの数分前までは科学技術の発達した世界でいつも通りに生活していたのだから当たり前だ。はいそうですか、とすぐに納得できるわけが無い。
しかし現実は非情なものでそんな小鳥遊を無視してまるで嘲るかのように襲い掛かってくる。
どうしようもなかった。
どうすることもできなかった。
だからこそ残された選択は三つしかない。元の世界に戻る方法を模索するかこの世界で生涯生きてくか、それとも自ら命を絶つか。最後の選択肢は最終手段だと仮定しても普通の高校生にとっては双方とも過酷を極める道のりである。覚悟を決めて腹を括るしか他にない。
取り敢えず、『これから』のことは置いといて『いまから』のことを小鳥遊は考える。とはいえ、こんなことに巻き込まれるのは生まれて初めてのことだから良案などそうそう思い浮かぶはずがない。これに関しては仕方がないとしか言いようがないだろう。小鳥遊の今の状況を例えるなら、聞いたことも見たこともない国へ勝手に連れて行かれ何も持たされずに「後は好きに行動してください」と言われ放置されてしまうようなものだ。どこの番組のバラエティー企画だよ、とツッコみたくなる。
何はともあれこんな所に突っ立っていてもしょうがない。ここは情報集めを視野に入れて街を散策しつつ今後の方針を考えるのが妥当であろうか。あいにく時間だけなら腐るほどある。急ぐ必要などどこにも無い。
小鳥遊は目を瞑り何回か、深呼吸を繰り返す。
そして瞼を開けて一歩一歩、未知なる『世界』へと足を踏み込んだ。