私のサンタさん
じっと見上げてくる目が、口をぱくぱくと間抜けに開閉する夏帆子を余すところなく映していた。
「俺、夏帆子ちゃんの王子様に、なれないかな」
笑みを含んだように口角があがった唇。
なのに、目はちっとも笑っていなくて。
夏帆子の動揺を、焦りを、ただじっと観察しているようで。
「私、私……」
「夏帆子ちゃん、俺さ……」
「な、何、望ちゃん?」
立ち上がった望は、いつの間にか夏帆子よりも目線が十センチほど高い。
夏帆子は我知らずと後ずさり、窓枠に腰が当たる。
それでも、目だけ笑わない望は、覆い被さるように夏帆子の両脇に腕をつく。
「の、望ちゃん……近いよ……」
「だって近くないと、見てもらえないじゃない」
「な、何を?」
夏帆子は開いている窓から背中だけのけぞらせて、近づいてくる一方の望から遠ざかる。
「だってさ……恥ずかしいじゃない……こんなの……」
望はそんなことを言っているが、無表情のまま。口元だけが笑っている。
怖い。
「あの……望ちゃん、教室で……こんなこと……」
「じゃぁ、二人っきりで確かめてくれる?」
「た、確かめるって! な、何を!」
夏帆子はもう、このまま窓から落ちそうな気がして、落ちて逃げた方がいいのか、それとも得体の知れない状況の望に捕獲された方がいいのか、分からないままに、条件反射で聞き返した。
すると、上から被さってきていた望は、初めて目に不穏な感情を乗せ、夏帆子の耳元で囁く。
「俺の……カボチャパンツ」
「カボチャパンツ!!!」
叫んだ瞬間、何か破裂したような音と、後頭部への鈍痛を感じる。
「何、やってんのさ。夏帆子ちゃん」
いきなり間近に望の声が聞こえて、夏帆子は慌てた。
目を開くと、望は何故か逆さまになっていて、夏帆子をのぞき込んでいる。
「カボチャパンツ!」
「は? なんのこと?」
「え? 望ちゃんがはくんじゃないの? カボチャパンツ?」
「意味わかんない。勘弁してよ。さっさと用意しないと、遅刻するよ。ほら、時計見て」
望はさらさらの髪を、似合わない乱暴さでがしがしと掻くと、ベッドサイドに置いてあった目覚まし時計を見せてくれた。
「な、な、なんですとぉぉぉ!」
「はいはい。いいから、さっさと着替えて。ねぇ、本当に俺が男だって、憶えてる? 夏帆子ちゃん、その格好を安易に見せられてたら、俺……」
望は顔を隠すようにうつむけ、慌てたように夏帆子の部屋を出ていく。
残された夏帆子は時計からゆるゆると視線をはがし、自分の姿を客観的に眺める。
ベッドから逆さまにずり落ちた上半身。
寝間着代わりのフリースはお腹までまくれあがっていて、なけなしの膨らみがわずか、ほんのわずか、そこからのぞいていた。
「う、うきゃぁぁぁぁぁ!」
「夏帆子ちゃん、うるさいって!」
外では、ゴミ捨てに出ていた近所のおばさんたちが、「今日も清水さんとこ、元気そうね」「夏帆子ちゃん、いつまでも夏帆子ちゃんのままでいてほしいわぁ」とのんびりと会話していた。
清水夏帆子とお隣に住んでいる小林望は正真正銘の幼なじみだった。
付き合いは産院から始まる。
たまたまそこで隣のベッド同士だったお互いの母が意気投合。
夏帆子の母がシングルマザーだったこともあり、望の母が夏帆子の面倒まで見てくれていた。
夏帆子の母は看護師をしていたので、夜勤がある。その分、給料がいい。
母子家庭だから、それくらい頑張らねばとても生活が立ちゆかなかったのだと思うが、それくらい頑張れたのは、小林家の協力があってこそだ。
その協力を十二分に生かすために、夏帆子の母は小林家の隣が空いた瞬間、引っ越しを決めた。
毎月の協力代を小林家に納め、自分は清水家の大黒柱としてバリバリに頑張る。
一方、小林家はその大黒柱たる父がリストラにあい、失業保険はあったものの、生活は少し苦しかった。
そのため、小林母のアルバイトは小林家にとっても助かるという、共存関係に発展した。
小林父の仕事も一年ほどで決まり、その内、夏帆子と望も二人で遊んで手が掛からなくなり、それでも夏帆子は小林家にご厄介になり続け、気がつくと「家族は五人」という感覚で生活するようになる。
気がつくと夏帆子は、小林母に料理の仕方や掃除洗濯を望とともに教わり、母の代わりに清水家の火事全般を行えるようにもなっていた。
ずっと、そんな生活が続くのだと思っていた矢先、小林母が交通事故で他界した。
小学校六年生になったばかりの頃だった。
じっと涙を堪える小林父と望の姿に、清水母と夏帆子の方が、蛇口が壊れたのではないかと思われるほど泣き続け、そして、二人で誓ったのだ。
清水家は、小林家に恩を返そう、と。
以来、夏帆子はできるだけ両家の家事を行い、清水母も休みの日にはそれを手伝った。
……のはずなのだが。
夏帆子はどうも朝が弱かったり、ちょっとぼーっとしていることがあるせいか、望に世話を焼かれることが多い。
母がいないときに起こしにきてくれるのも、当然のように合い鍵を持った望である。
ちなみに、朝食は前夜のうちに作っておくくらいの知恵は働くようになっていた。自分を知っている、ということでもある。
ぼさぼさ頭でお椀を傾けると、ちゃんと暖めてあるお味噌汁が口の中に流れ込んでくる。
夏帆子を起こす前に、望が暖めてくれたのだろう。
その望は、夏帆子の後ろで夏帆子の髪を整えてくれていた。
朝食だけはしっかりと。これは小林家と清水家、両家の鉄則でもある。
その分のしわ寄せが、すべて望にかかっているわけだが、今のところ、この幼なじみが異を唱えることはなさそうだ。
「ねぇ、夏帆子ちゃん」
「何、望ちゃん」
顔を洗って、簡単なスキンケアを終えると、鏡に映す代わりに望が全身検査をしてくれる。
今日も両手を広げて前も後ろも見せると、望は小さく頷いた後、少し考え込み、口を開いた。
「今日の夜、クリスマスイブでしょう?」
「うん」
例年なら、小林家清水家の合計四名でどちらかの家でパーティを開く。
しかし今年は、そのパーティは小林父の提案で、翌日の二十五に持ち越されていた。
理由は知らない。いや、……何となく知ってる。
「父さん、夕食前にそっちに行くって」
「……そっか」
「結構、頑張ったみたいなんだけどさ。笑わないでやってくれると、嬉しい」
「……笑うわけないじゃん。おじさんに、頑張れって言っておいて」
「ん」
望は短く答えて、望自身が整えた夏帆子の髪をわしゃわしゃとかき混ぜた。
冬休みということもあり、学校は人気が少ない。
夏帆子は吹奏楽部。望はサッカー部。
それぞれ活動を終えて、帰りはお互いバラバラに帰路に就く。
夏帆子は望よりも早くに終わるので、数日の食材などを購入しながら、ゆっくりと家に帰った。
帰ると、夜勤の終わった母がソファで爆睡していた。
夏帆子が帰宅しても気づく気配もなく、派手にいびきをかいている。
若くして一人で夏帆子を生んだ母は、夏帆子の同級生の親たちに比べるとかなり若い。
それでも、昔に比べると肌も張りを失っているし、疲れているせいか目の下に隈もできている。
指先で母の頬をそっと撫でる。母は締まりなくでへへ、と笑って、「かほちゃん、可愛い~」と寝ぼけた。
夏帆子は苦笑して、ブランケットを母に掛けてやった。
二人分の夕食と、明日のパーティ分の仕込みをしていると、あっという間に夕方になっていた。
夏帆子はエプロンで手を拭いて、ソファを見下ろす。
涎を垂らしている母をまた見下ろしている間に、呼び鈴が鳴った。
やばい、もうそんな時間?
ドアスコープを覗くと、何やら大きな真っ赤なものが見える。
「……おじさん?」
「あ、うん。そう……夏帆子ちゃん、お母さん、帰ってきてるかい?」
少し自信なさそうな、聞き慣れた低い声が聞こえ、夏帆子は慌ててドアを開けた。
そこで、言葉を失う。
望の父は照れたように俯き、何事かをぼそぼそと呟いていた。
夏帆子はその言葉を聞き取ろうとするような無駄な努力はせず、踵を返して室内に戻ると、ブランケットを取り上げて母をソファから蹴り落とした。
「母さん! 母さん! おじさん、おじさん来たよ!」
「んぁ? 小林さんがどうしたって? パーティは明日でしょ?」
寝ぼけたまま起きあがった母は、全く事態を把握していない。そりゃそうだろう。誰も母には言っていない。夏帆子だって、望から言われなければ全く知らないままだったはずだ。
「いいから、起きて、すぐに着替え! あぁ、その前にシャワー! シャワーを!」
「何、テンパってるのよ。小林さんがどうし……こ、小林さん?」
面倒くささのあまり、夏帆子は母を引っ張って玄関に連れて行く。
望の前ではあまり気負わない母も、さすがに小林父の前では違うだろうと思ったのだが、今日はちょっと勝手が違いすぎた。
「母さん?」
「こ、小林さん、あの、その……その格好は……?」
声をかける夏帆子を無視して、母は小林父に問いかける。
それもそうだろう。いつものグレーのスーツではなく、白いスーツに黒いコート、手には真っ赤なバラの花束、髪はぴったりと撫でつけられている。
普段から割と格好いい部類の望の父は、今は映画俳優かと見紛うほどだ。
それに対して、母はよれよれのフリースに頭はぼさぼさ。眠たさの余りに化粧も落としていなかった。
母の顔からおもしろいほどに血の気が引いている。
「おじさん……、本当に本気? これでいいの?」
夏帆子は言葉を失った母の代わりに、小林父に問う。小林父は、望によく似た目元を細めて、夏帆子の髪を柔らかく撫でてくれた。
「お母さん、貸してくれるかな?」
「……物好きだなぁ。居間で待っててくれる? さっさと用意させるね」
腰が抜けて動けない母をしばし玄関に放置し、小林父に居間のソファを勧める。
その後、廊下から風呂場に母を突っ込み、化粧道具と着替えも夏帆子が用意したものを脱衣所に置いておく。
クッキーと紅茶を出したところで、脱衣所から悲鳴が上がった。
駆けつけると、母が真っ赤な顔をして夏帆子をにらみつけている。
「こんな服! 着れないわよ! こ、こんな若作り!」
淡いローズピンクのノースリーブワンピースに、オフホワイトのボレロ。
唯一持っているパールのネックレスにあわせたコーディネートだが、実はこれは望と夏帆子、そして小林父からのクリスマスプレゼントだった。
「大丈夫、絶対似合うから。いつものグレーのスーツなんて、今日のおじさんに合うと思ってるの?」
「だ、だって……そんな……」
泣きそうになっている母をスツールに座らせ、化粧道具をその前に並べる。
「ほらほら。化粧は自分でして? 私にやらせると、狸になっちゃうよ。それでいいの?」
「……かほちゃんは、……いいの?」
「狸が母親だなんて、絶対やだ」
「そうじゃなくて……小林さんと……その……」
母の逡巡は分かる。ずっと、夏帆子への罪悪感が、母を止めていたのも知っている。
だからこそ、母の背を押すのは自分だと思っていた。
多分、小林父の背を望が押したように。
「私からのクリスマスプレゼント。安上がりでしょう? ……今日は帰ってこなくていいから」
「かほちゃん……」
茶化して言うと、母は少し涙ぐんで、夏帆子の頭をそっと抱きしめてくれた。
十分だ、と思った。
三十分で用意をさせて、小林父共々母を送り出す。
残された部屋でボーッとしていると、がちゃっと玄関の開く音がして、ソファの背もたれ越しに温かみを感じる。
背もたれに沿って仰向けになると、今朝見た同じ構図の望が夏帆子を見下ろしていた。
「お疲れ~」
「夏帆子ちゃんも。さ、ご飯食べちゃおう?」
夏帆子が作ったものを、望がさっさと暖めなおしてテーブルの上に並べていく。
食べ終わると、望がお皿を洗い、その間に夏帆子は明日のために部屋の飾り付けをしていく。
母子二人っきりの生活にはそぐわない大きなクリスマスツリーは、小林家との共同資産だ。
途中で望も飾り付けに合流し、二人とも満足いく出来映えになったところで、今日の作業を終えた。
「じゃぁ、俺、帰るね」
「うん。また明日ね。お疲れさま~」
玄関で送りだしても、望の家はすぐ隣だ。気をつけてね、と添えるほどでもない。
あっさりと別れた後、夏帆子は鍵をしっかりとかけて、風呂の用意をする。
湯の中に体を沈めると、自然と深いため息が落ちた。
何だろう、人生始まって以来、気分が一番沈むクリスマスだ。
置いて行かれた感じ?
除け者にされた感じ?
自分だけの母をとられた感じ?
いくつか理由を考えてみたが、どれもしっくりこない。
多分、あれだ。
記憶の中を分け入って、理由を探し出す。
父のいない夏帆子にとって、毎年照れもせずにサンタの格好をしてプレゼントを渡してくれる小林の父は、確かに夏帆子にとってのサンタクロースだった。
同時に、初恋だった気もする。意識したことなかったけど。
それが、今夜は母の、母のためだけのサンタになる。
母と、父と、サンタを同時に失った、というのが一番正解に近いだろうか。
いつの間にか瞼が下がってきて、風呂の中でおぼれかけたところで、我に返った。
気分が沈んだのだとしても、今日はクリスマスイブだ。お風呂で溺死なんて、冗談ではない。
パジャマを着て、髪をしっかりと乾かし、スマホを取り出す。
意味のないやりとりを友達と交わし時間をつぶす。
そろそろ日付が変わる時間だ。
自分で「帰ってこなくていいよ」と送り出しておいて、実際に帰ってこないとなると、妙にもやもやとしたものが湧いてくる。
風呂の中で中断した思考が復活し、気分はますます落ち込んでいく。
もはや、記憶の中の最低オブ最低なクリスマスイブと言えよう。
自分のベッドでごろごろしていると、窓辺から何やら音がした。
最初は気のせいかと思って無視していたが、コツコツと明らかに窓を外から叩く音に驚き、身を堅くする。
スマホで望を呼び出すが、応答がない。もう、寝てしまったのだろうか。
しつこく望を呼びながら、ドキドキしながら立ち上がり、カーテンをそっと持ち上げる。
窓には赤い人影が映っていた。
これは……。
「おじさん?」
小学生の頃は、この部屋で望と夏帆子二人が寝ていると、決まって小林父がサンタの格好でプレゼントを渡しに来てくれたものだった。
窓を開いたところで、小林父がここにいるはずがないことに思い至る。
「えと……誰?」
「それって、窓を開けてから言うことじゃないよね。俺が不審者だったら、どうするのさ」
「望ちゃん! だって、……望ちゃんに電話したけど、出てくれないし」
「……俺に最初に電話してくれたんなら、許してあげる。それより、入れてよ。ここ、寒すぎ」
当たり前のように望が言うから、夏帆子は新聞紙を窓の下に用意し、そこに望は長靴を下ろし、冷気が吹き込む窓を閉めた。
「夏帆子ちゃんの部屋、冷えすぎちゃったね。居間に行こうか」
自分の家のように望が先導する。
居間に行くと、先ほどしっかり閉めたはずのカーテンが開いていて、窓の鍵も開いている。
つまり、望は合い鍵でこの家に入った後、足音を忍ばせて居間からベランダに出たのだろう。
さすがに地上五階の隣家からベランダに渡ってくるのは憚られたらしい。
居間の電気をつけると、望の姿を改めてまじまじと見る。
サンタ帽子にサンタ服、サンタズボン、フェルトと綿で作った白い髭は小林母の苦心作だった。
小林父から望へ。まだ袖も裾も長さが余っている。でも、成長期の望は毎日見ている夏帆子の目にもにょきにょき伸びているように見えるから、来年にはぴったりのサイズになっているかもしれない。
白い袋は力なく垂れ下がっていて、中身がほとんど入っていないことがよくわかる。
「なぁに、どこかにプレゼントを配った帰り? サンタさん?」
にやにやと笑っていると、望サンタは白い袋の下の方に手を突っ込み、手のひら程度の細長い箱を一つ取り出した。
「最後のプレゼント、ほら、受け取って」
「私に?」
白いビロードの箱を開くと、中には銀色の指輪と、それをかけるための銀のチェーンが出てくる。
それと共に手紙も一枚ひらりと落ちる。
望が無言のままでいるから、夏帆子は胸がドキドキするまま、それを拾った。
母と、小林父と望の名前がそこには書かれていた。
胸にそれらをしっかりと抱きしめる。
「メリークリスマス、望ちゃん」
さっきまでの沈んでいた気持ちが、嘘のように浮き立った。
「それは父さんと俺と、おばさんから」
「うん。嬉しい」
涙がにじみそうになる。それをぐっとこらえていると、望が自分にポケットに手を突っ込み、
「あと……俺から……」
「ん? まだあるの?」
「うん。その……恥ずかしいから、目を閉じて」
「恥ずかしいって、何それ」
笑いながら、言われたとおりに目を閉じる。ついでに手を出しておく。
望のポケットに入っている程度なら、両手に乗るだろうと考えてのことだった。
両手の上に、冷えた望の両手が乗る。
どんだけ寒かったんだ、と考えながらその冷たい手をぎゅっと握りしめると、思わぬ力で引っ張られた。
体がガクン、と前のめりになる。
おっとっと、とトボケた台詞を口から出しそうになったところで、その口が何かにぶつかった。
柔らかくて温かい何か……何か……。
覚悟を決めておそるおそる目を開ける。
間近に望の優しげな顔があり、夏帆子の反応を待っているかのように期待に目を輝かせている。
「Nooooooooooooo!!!!」
突き飛ばされても、望は嬉しそうにへらへら笑っていた。
「あ、間違えた。俺へのプレゼントね」
「ば、バカ望~! 帰れ!」
自分の家に戻った望は、着替えるのも勿体なくて、そのまま床に転がると、自分の唇を触った。
まだ、柔らかくて甘い感触が残っている気がする。
「これで、夏帆子ちゃんのサンタクロース、上書きされたかな」
それからガッツポーズをしたまま床をごろごろ転がり、翌日、階下の住人から小学生以来の苦情をもたらされ、ある意味ブルーなクリスマスを過ごしたのであった。