85「セクシー田中さん」問題について 2
はいこんにちは。
前回はショックすぎて申し上げられなかったので、まずはあらためて。
今回のことでお亡くなりになった芦原妃名子先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また、今回突然の悲しみに見舞われたであろうご遺族のみなさまへは、心より哀悼の意を表したいと思います。
……さて。
ということで、今回もこの問題について、もう少し語ってみようと思います。
その後、信頼できるニュースサイトなども記事を出しはじめ、各テレビ局でもニュースとしてとりあげ、日本シナリオ協会の理事を含む数名の脚本家による動画などが配信されたり、個人の脚本家さんや漫画家さんなどもブログを通して個人の見解を述べはじめられました。
それぞれを読ませていただく中で、「なるほどそういうことか」という部分も出てきましたので、まずはそちらのご紹介から。
テレビ局が小説やマンガなどの「原作あり」ドラマをつぎつぎに作るようになった背景として、最近特に動画配信での収入が見過ごせないものとなってきたことが挙げられておりました。
昔とちがって、本放送や再放送や円盤でしか触れることのできなかったドラマは、近頃では様々な動画配信サイトで配信されることによって、本放送以外の機会に見られることが増えてきました。そこでの収入はかなり大きなものとなっていて、各テレビ局では次々に新しいコンテンツ、ドラマを生み出して配信したい……というのが思惑としてあるのだそうな。
だからこそ、「とにかく毎期、何本もの新作ドラマを作っては放送したい」ということになる。とにかくそれが「カネになるから」。この一点です。
脚本家というのは、もちろんオリジナル作品を書くことこそが本業ではあるものの、普通はそんなに素晴らしいアイデアが常に湯水のように湧いてくるはずもなく。
そんな事情もあって「原作あり」のドラマを作ることには、テレビ局としてはメリットがたくさんあるのだそうです。
まず、前述のとおり「毎回新しい(そして素晴らしい)アイデアを出さなくていい」ということ。
そして、すでに原作のファンである人たちが見てくれるという安心感があること。
最初から世界観が確立しているので、視聴者の期待を大きく外す危険性が少ない、つまり「大コケはしない」「安全パイだ」と思われること……などなど。
もちろんオリジナルのドラマも作らないことはないのですが、明らかに原作ありのほうがコケにくいし、たくさんの人に見てもらいやすい。つまり視聴率が稼げる。要はカネが稼げる! ……という背景がまずあります。
テレビ局というのは、結局は「会社」です。多くの人が協力して働く組織であり、なにより求めなくてはならないのは「全体としていかに利益をあげるのか」ということ。まあ、そのための組織ですもんね。資本主義社会なのだし。
だから「利益をあげる」ためにできることは、法にさえ触れない限り、ありとあらゆる努力と手段を使ってやる、そういうものだと考えておく必要がある。
今回はたまたま脚本家の人に注目が集まってしまったわけですが、脚本家といえどもその組織から発注された仕事を黙々とこなす人のひとりに過ぎない、と言うこともできます。
脚本家を雇っているのは原作者ではなく、あくまでもテレビ局のドラマ制作部でしょうし。
脚本家はテレビ局から言われたように、原作をかんがみつつドラマ版のシナリオを書いて、なるべく早く仕上げることが第一の仕事、ということになる。
その際には、たとえば出演者が所属している事務所の意向やら、主題歌アーティストの事務所の意向やら、スポンサーの意向やら、なんやらかんやらと多様な「要望」をうまいこと塩梅してバランスよく取り入れていく……という神業的な技術も必要になってくるんだとか。……大変なお仕事やね、そういわれると。
それを塩梅するんがプロデューサーってことになるのでしょう。今回はこのプロデューサーがどのように動いていたのかも気になるところ。
今回は、テレビ局のドラマ制作側と、マンガを出版していた出版社とがどういう内容の契約を結んでいたのかということも注目されています。
原作者である芦原妃名子先生のご意向としては「なるべく原作を変えないこと」という強い希望があったわけですが、それが契約にどこまで盛り込まれていたのか?
また、そのご意向を出版社はどれほどきちんとテレビ局側に伝えていたのか?
これらの点もかなり疑問に思われます。
このあたりの詳しいことについては後続のニュースが待たれます。
今回の件については、芸能界の裏側を端的に表現して紹介してくれていた素晴らしいマンガ作品がありましてね。
「推しの子」というマンガ、ご存じでしょうか。原作が赤坂アカ先生、作画が横槍メンゴ先生によるマンガ作品で、最近アニメ化もされたものです。
この中で、主人公たちが携わる「原作あり」の舞台化作品にまつわるエピソードが出てくるのですが、これが今回の状況と酷似している。
要するに、原作者が、脚本家のあげてくる脚本に不満だらけで大変なトラブルになり、スケジュールが押して現場にも影響が出、スタッフも出演者も非常に困る……といったエピソードがあるのです。
その中で、「原作者と脚本家の間には多くの人がはさまって、お互いの意見が完全に伝言ゲームのようになる」という一節がでてきます。
出版社もテレビ局も「会社」ですから、働いているのは基本的にサラリーマン。それぞれの立場の人たちが、原作者から聞いた話を誰かに伝え、その人がまたほかのだれかに伝え……としているうちに、脚本家のところへ来たときにはほとんど元の意味をなさない「伝言」になってしまっている……というもの。つまり、本来の意図がほぼ伝わらない。
これには「なるほどなあ」と唸らされたものです。
このマンガでは、本来リアルでは「禁じ手」とされている原作者と脚本家を直接話合わせる、というシーンが出てくるのですが、リアルでこれは基本的に行えないのだそうで。
たぶん、話がややこしくなるからでしょうね。
あるいは、脚本家、原作者双方を守るためでもあるかもしれない。
まあ今回、結果的に少なくとも原作者の先生は守られなかったわけなのですが……。
組織の中で、人が多くなればなるほど個人としての責任感はどうしても薄まっていってしまいます。「伝言ゲーム」の一員になった人も、そこまで責任感を持って「伝言」していたわけではなかったろうと思われます。けれどもそのシステムが、最終的には原作者である先生を疲弊させ、すさまじいストレスを与えて自死まで追い込んでしまった。
これはある意味、いわゆる「いじめ」の構造ともよく似ているように思います。
いじめを扱った有名な絵本
〇「わたしのせいじゃない ─せきにんについて」
レイフ・クリスチャンソン・作 / 二文字 理明・訳 / 岩崎書店(1996)
の中でも端的に描かれているのですが、クラスの中でひとりひとりは「小さな責任」しか負っていない。少なくとも本人は「この程度のこと、大したことじゃない」「小さな責任にすぎない」または「責任はない」と考えている。だから何かが起こっても「わたしのせいじゃない」となる。
でもみんなのその「小さな無責任」があつまると、いじめられている個人にとっては大いなる負担に変わる。
普段からよく気をつけていないと、会社組織の中でも同様のことが起こりうるのではないでしょうか。
両社間の契約の内容と、先生のご意向をどのようにお互いに伝えあっていたのか、今後の焦点はそのあたりになりそうですが、一点だけ気になることが。
今回はまず、ドラマの裏側を勝手に先に暴露して、原作者をうっすらと批判するようなコメントをインスタ〇ラムに書いてしまった脚本家さんの行動も大きな問題だったと思います。
脚本家さんとしては「言われた通りに期日を守って書いただけなのに、ここまで原作者から文句言われて書き直しを何度もさせられて、挙げ句に最後の2話は原作者が書くとまで言われて私はおろされた」ということなわけで、不満も相当だったのでしょう。
もしこれが「伝言ゲーム」の不備にすぎなかったのだとしたら、ある意味、脚本家も被害者と言えないこともないです。
しかし、少なくともそれがなければ、原作者の先生がSNSでほかの脚本家やモノカキのアカウントからひどい批判を受けることもなかったし、それに耐えかねてご自身のブログでさらに内情を暴露するような書き込みをすることも、ついには自死を選んでしまうようなことも起こらなかった。
できることなら、問題は出版社とテレビ局の中でしっかり話し合い、解決すべきものだったのだと思います。
そういう「自浄作用」が働かなかった中で、原作者の先生が単なる一個人として戦いぬくことは難しく、ついには悲しい結末となりました。
この件に関して、「海猿」の作者である佐藤秀峰先生も「死ぬほど嫌だった」とする、同作のドラマ化・映画化のときの経験をご自身のブログで語っておられましたが、それはそれは気の毒になるようなご経験でした。
トラブル後、同作の映像作品が一切見られなくなったことは記憶に新しいところです。
同様のことは、「東京タワー」のリリー・フランキーさんも述べておられるそうな。「貰った印税ぶんぐらい嫌な思いをした」(意訳)と。
他人の作った作品を、テレビ局や映画製作会社などが好き勝手に改変して大儲けしようとする体質そのものが、大いに問われているのだと思います。
この件は海外でも報道されはじめ、特にアメリカでは「日本の著作権は一体どうなっているんだ」「作者の権利がそこまで守られないなんて」と驚きをもって見られているそうな。改善するなら今、ということですね。
「セクシー田中さん」の問題を「一過性の悲劇」のような形で適当に「喉元すぎればナントヤラ」で対処するのではなく、テレビドラマ界全体にはびこる問題だととらえて、しっかりと改善・対策をしてもらいたいと切に願うものです。
今回もまた山ほどかいてしまった……お許しを。
ではでは。