日記を書くということ
日記。
それは私にとって、長い間、なにか心の枷のように存在してきた単語でした。
要するに、毎日毎日それを書くことへのしんどさ、重さの象徴のようなものでした。
昔、子供の頃から、親にも、テレビや新聞などで意見を述べるどこかの「偉いひと」にも、「日記を書きなさい」、「日記を書くことはいいよ」と命令されたり、勧められたりしつづけてきたような気がします。
曰く、「三年書き続けられた人は、これから何かを成し遂げられる人だ」とか、「十年書き続けられた人は、すでに何かを成し遂げた人だ」とか。
なにかどこかが説教臭くて押し付けがましく、どうも好きになれなかったことを覚えています。
しかし、実際「なにものでもない」のに「何ものかにはなりたい」と思わずには居られなかった若い頃、やっぱり私も何度もそれに挑戦しようとしました。
すなわち、近所の文具店に行き、お気に入りに出来そうな、でもまあまあ安価で子供の小遣いでも手の出せそうな日記帳を見つけてきては、「さあ書くぞ」「今度こそは続けて書くぞ」と、毎回意気込んで始めるわけです。
でもまあ、大抵はうまくいきませんでした。
書いている内容はといえば、もちろん日々の出来事やら、心の中に去来する若者らしい様々の悩み事、周囲の人々への不平不満、今後自分がどうなりたいか、そんな、ひどく暑苦しいことばかりでした。
大抵は夜に書くということもあって、内容は密度はありつつも客観性に欠けた、手前勝手なことばかりだったと思います。
「しかし」というのか「だから」というのか、やっぱりそれは続きませんでした。
けれども今、私は日記を書いています。
もう何年続いているのかよくわからないのですが、子供を産んでからのことですから、恐らくまだ五、六年だろうと思います。
若い頃と何が変わったのかといいますと、まず、変な「気負い」がなくなりました。
とりあえず、書くことで「何かを得よう」とはしなくなりました。
書く時間そのものも変えました。朝、その前日のことを書くことにしたのです。
内容も変わりました。昔のように感情を気持ちにまかせて書きなぐるようなものではなく、ただ淡々と、「朝、何時に起きた」「何を食べた」「どこに出かけた」「何時の電車に乗った」「何時に寝た」「どんなテレビを観た」「何を読んだ」、そんなことを、事実として書くようになったのです。
ちなみに「何を読んだ」に関しては、「読書ノート」のようなものも簡単に書くようにしているので、日記では本当にタイトルのみです。ああ、もちろんちょっとだけ、「すっごいよかった!」なんて書いていることもありますけども。
まあ、ともかくも。
だから今の私の日記は、人さまに読まれて恥ずかしいようなものではなくなりました。まあ、だからといってわざわざお見せしたりはしませんけどね。
で、そうすると、不思議と楽になりました。
今は幸い、朝に時間が取れるので、それが今の私には合っているようなのです。
むしろ今では、書かずにいると気持ちが悪くなるぐらいです。
それでようやく、最近になってその「効能」とでもいうようなものを実感し始めたような気がしています。
今、私はネット小説というものを書かせていただいておりますが、それを昨年六月から今日に至るまで、一日も欠かさずに更新し続けることができています。
それは勿論、理解のある家族であるとか、健康にもそれなりに恵まれているとか、さまざまの有難い条件が揃ってできていることだとは思いますし、感謝もしております。けれども、少なくとも「続けてこられた」ことの背後には、その日記があるのではないかと考えています。
小説を書き始める前の数年は、いくつかの資格を取るための勉強などもしていたのですが、そちらの方でも、毎日決まった時間、一定の作業を積み重ねてゆくという意味で、昔の自分ならとうに挫折していてもおかしくないものでした。けれど、それでも何とか目標を達成することができました。
これもよくよく考えてみると、やっぱり僅かな行数でも、「毎日日記を書き続けた」ことに由来しているように思われてならないのです。
勿論、日々の生活の中、たったの一行も文章の書けない境遇のかたもいらっしゃるとは思うので、特に強く勧めるわけではないのですが、
「いいですよ、日記。」
と、それだけは申し上げてもいいかなあと、思っているつづれなのでした。