過ぎる秋の火曜日
夏の余韻が残る日差しの中、やわらかく跳ねる波の音が響いている。風のない火曜日の午後。平原七海はベンチに座って海を眺めていた。観光施設の敷地内にある芝生広場。目の前には街の中央桟橋があり、フェリーを間近で見ることができる。普段は観光客で賑わうこの広場も、施設の休館日である火曜日だけは閑散としていた。時間通りにフェリーが着岸して乗客を吐き出しては取り込み、再び海へと出て行く。その繰り返しをぼんやり眺めるのが好きだった。
同じような時を過ごしにきたのだろう、老年の男がペットボトルと新聞を片手に向こうのベンチに腰を下ろした。彼は珍しそうにこちらへと視線を向ける。七海は高校の制服を着たままだ。何か言われるだろうかと警戒したが、彼はすぐに興味を失ったように新聞を広げた。少しホッとしながら桟橋へ視線を戻す。先端に立てられた旗が緩やかに舞っていた。そのとき、ポケットに入れていたスマホがメールの着信を告げた。
『いつ帰ったの?』
幼馴染の矢野智恵からだった。
『昼休憩。お先に』
七海はそれだけ送り返すとスマホの電源を切った。いつからだろうか、学校にはあまり行かなくなった。小学生の頃から学校は好きではなかった。それでも高校一年まではなんとか通っていたように思う。しかし二年に進級してからというもの、なんとなくサボることが多くなってしまった。これといったきっかけがあったわけではない。しいて言うならば、智恵とクラスが別れたことくらいだ。適当に登校して適当にサボる。それが今の七海の毎日だった。
「えー、今日休み? せっかく来たのに」
そんな声に振り返ってみると、若いカップルが観光施設の入り口で話していた。観光客なのだろう。
事前に休館日くらい調べておけばいいのに。心の中で思いながら空を見上げる。夏と秋の狭間。爽快な青色がそこに広がっていた。空を見上げたまま目を閉じ、ゆったりとした波の音に耳を傾けていると、近くでドサッという音と共に空気が動いた。目を開けると隣に見知らぬ男が座っていた。
「ここ、座ってもいいかな」
言って彼はニッと笑う。覗いた八重歯からやんちゃそうな印象を受ける。ナンパだろうか。絡まれる前に帰ろう。そう思って立ち上がろうとしたとき、彼の服に目が留まった。制服だ。
「同じ学校……?」
呟くと彼は笑顔のまま頷いた。
「うん。一緒だよね、平原さんも」
七海は眉を寄せる。見たことのない顔だった。同じ学年にいただろうか。そんな疑問が伝わってしまったのか、彼は憮然とした表情を浮かべた。
「俺のこと知らないんだな、やっぱり」
言ってから、仕方ないか、と深くため息をつく。そしてまた八重歯を覗かせて右手を差し出してきた。
「俺、四月に転校してきた三組の吉浦宗佑。よろしく、一組の平原七海さん」
ふわりと吹いた秋風が彼の髪を揺らす。七海が呆然としていると彼は無理矢理に右手を掴んで握手をした。
「なに、いきなりセクハラ?」
言ってから慌てて手を引く。彼は大げさに両手を挙げてみせた。
「なんでそうなるんだよ。ただの挨拶だろ?」
「普通、ただの挨拶で握手なんかしない」
「アメリカ人はするだろ」
「知らない」
答えながら七海は怪訝に思う。転校生ならば知らなくても仕方ない。そのうえ別のクラスだ。それなのになぜ彼は七海を知っているのだろうか。思ってからすぐに手元のスマホに目を向けた。そういえば智恵も三組だったと思い出す。
「智恵の友達?」
「ん? ああ、矢野さんね。そうだよ、席が前後。彼女がいつも君のこと言っててさ。二年になってから学校サボるようになって心配だって」
「あっそ。心配無用って伝えておいて」
「いやいや。やっぱ、友達なら心配でしょうよ。なんで学校来ないの?」
別に、と答えると彼は思いついたように指を一本立てた。
「あー、わかった。友達がいない、だ!」
七海は宗佑を睨みつけると勢いよく立ち上がった。その勢いに任せて彼の後頭部を鞄で殴りつける。
「いって! なに、図星?」
「もう帰るから」
軽く手を振って七海はその場を離れた。背中で何か声が聞こえたが、聞こえないふりをして帰宅した。
翌日の朝、バスを降りて学校へ向かっていると背中に声をかけられた。振り向くと智恵が小走りに駆けてきた。
「今日は帰っちゃダメだからね」
隣に並んで歩きながら彼女は言う。七海は適当に頷いてから、そうだ、と彼女を睨んだ。
「あんた、わたしのこと転校生に相談してるんだって?」
「え、なにそれ」
「転校生。なんだっけ、吉浦?」
すると智恵は、ああそれね、と肩をすくめた。
「相談ってほどのもんじゃないよ。ただ話のネタに」
「人のことネタにしないでよ」
智恵はごまかすように笑って、ふと不思議そうに首を傾げた。
「会ったの? 吉浦くんに」
「うん。昨日、広場でのんびりしてたら邪魔された。なんであそこに現れたのか謎なんだけど」
「広場って……。ああ、ミュージアムの裏か。ごめん、わたしが教えた。七海、火曜日はいつもあそこで学校サボってるって」
「やっぱりあんたか」
七海は深くため息をついた。智恵は悪びれた様子もなく笑みを浮かべる。
「ごめんって。で? なに話したの。初対面だったんでしょ」
「なにって。自己紹介されて、で、なんで学校来ないのかって聞かれた。よく考えてみたら、あいつだって学校サボってるじゃん」
言ってから疑問に思う。
「なんでわたしの顔知ってたんだろ」
するとなぜか智恵が面白そうに声をあげて笑った。
「そりゃ知ってるでしょ。七海ってサボるとき堂々と正門から帰るんだもん」
意味がわからず眉を寄せていると彼女は、だから、と続けた。
「教室にいたら丸見えなんだってば、帰る姿。吉浦くん、席が窓際だから見てたんじゃない?」
そうだったのかと納得して、今度からは裏門から帰ろうかと思案する。
「けどさ、ふつう面識もない相手にいきなり話しかけたりする?」
「んー。まあ、吉浦くんと七海って似てるところがあるからねえ。仲間意識みたいなの、持ってるんじゃないの」
「似てる? どこが」
「彼もけっこう学校サボったりするからさ。来たり来なかったり。あんたみたいに」
「……そんな奴に、なんで学校来ないのって聞かれるわたしってなによ」
七海が顔をしかめると智恵はまた声をあげて笑った。
それ以来、学校で宗佑と顔を合わせると挨拶を交わすようになった。もっとも七海が学校に行くのは週に二、三日程度。それも昼頃には帰ることがほとんどなので、校内で顔を合わせることは稀だ。だが、どういうわけか火曜日になると彼は芝生広場に現れた。ふらりと現れては当たり前のように七海の隣に座り、ダラダラとくだらない話をしながら時間を過ごすようになっていた。
「あそこのさ――」
今日という火曜もまた、なぜか隣には宗佑が座っていた。彼はベンチに手をついて身体を逸らし、後ろの建物へ視線を向ける。
「あのミュージアムってなに展示してんの?」
「ああ。この街、昔は軍港だったから、戦時中に作られた軍艦とかについて展示してあるらしいよ。入ったことないけど」
ふうん、とあまり興味なさそうに宗佑は頷く。そしてぼんやりと空を仰いだ。つられるように七海も空を見上げる。今日も穏やかな秋晴れだ。わずかしかないこの季節が、七海は一番好きだった。
「そういえばさ、もうすぐ学祭じゃん」
「うん」
「平原のクラスは何するの」
「映画館やるとか言ってたかな、たしか。そっちは?」
「あー、駄菓子屋」
「準備が楽なもの選んだね、やっぱり」
去年の学祭もあまり盛り上がったとは言えず、こんなものなのかとがっかりしたことを覚えている。開催日が平日ということが、その要因の一つかもしれない。
「あんまり盛り上がらないんだってな、学祭」
宗佑は空を眺めたまま言ったかと思うと、けどな、と続けた。
「俺、個人参加しようと思うんだ」
ニッと笑って彼はこちらに顔を向けた。七海は眉を寄せる。
「個人参加ってできるもんなの?」
「なんか、申請すればできるんだって」
それは初耳だったが、興味のある話題でもない。適当に頷きながら何をするのかと尋ねる。
「それは来週までのお楽しみ」
「なにそれ」
「まあまあ。来週の火曜日、発表してやるからさ」
彼はそう言って楽しそうに笑う。七海はそんな彼を横目で見てからため息をついた。
「なんで毎週ここであんたに会うのが習慣になっちゃってるわけ。ていうか、あんた学校行きなよ。わたしが言うのもなんだけどさ」
すると宗佑は心外だとばかりに頬を膨らませる。
「いや、ほんと。平原にだけは言われたくないわ」
だよね、と七海は苦笑した。
「ま、いいじゃん。俺、ここ気に入ったんだもん。人もいないし、海近いし、海は島だらけでなんか面白いし、船見れるし」
そう言って彼は桟橋を指差した。そのとき少し上がった腕の裾から包帯のようなものが見え、七海は首を傾げた。
「怪我してるの?」
宗佑は不思議そうな表情を見せたが、すぐに自分の腕を見て頷いた。
「ああ、これか。ちょっとぶつけてさ」
彼はそう言うと腕時計に目を向けながら立ち上がった。
「俺、もう行くわ。お前もほどほどに学校行けよ」
「はいはい」
適当に頷くと宗佑は「行く気なさそうな返事」と笑いながら去って行った。七海はなんとなく笑みを浮かべながら、ベンチに手をついて空を仰ぐ。乾いた風がさっと吹き、微かに潮の香りがした。
「お、感心、感心。今日は朝から来たんだ」
金曜の朝、バスを降りて学校へ向かっていると後ろから智恵が追いついてきた。七海は頷きながら「でも」と口を開く。
「最近はちゃんと朝から来てるよ」
「秋だから、ね」
彼女は七海がこの季節を好きだと知っている。七海は笑って頷いた。
「そういえば、あれからどう? 吉浦くんとは」
「どうって」
「どっかで会ってたりするのかなぁって」
七海は横目で智恵の顔を見た。彼女は何か期待しているような目をこちらに向けている。
「別に……。学校で会ったら挨拶する程度だけど」
なんとなく、広場で会っていることは話したくなかった。すると彼女は少しがっかりしたように肩を落とした。
「でも、学校でもそんなに会わないんじゃないの? とくに最近、吉浦くんあんまり来ないしさ」
「ふうん……。なんで来ないんだろうね。ああいう性格だと友達も多いだろうし。きっと学校楽しいとか言ってるタイプだよね」
七海の言葉に智恵は頷いてから、なんでだろうねと首を傾げた。結局、その日も宗佑は学校に来ていなかった。
火曜日。ぽかぽかと光を浴びながら海を眺める。少し風が強いのか、いつもより波が跳ねていた。遠くに視線を向けると、貨物船だろうか、大型の船がのんびりと浮いていた。
「おまたせー」
声と共に隣にドサリと人が座る。
「待ってないんだけど。せっかく気持ちよく日光浴してたのに」
邪魔しないでとばかりに言ってやると、宗佑は左手をヒラヒラさせて「まあまあ」と笑った。そして荷物をそっと膝の上に乗せる。黒く細長いそのケースには見覚えがあった。
「それ、ギター?」
「そう。今、リペアから上がってきてさ」
言いながら彼は嬉しそうにソフトケースのファスナーを開けた。中から茶色いボディのエレキギターを取り出す。
「ギブソンのレスポール。型は、ちょっとわかんないけど」
名前だけは聞いたことがあったが、それがどういうギターなのかはわからない。ギターにはあまり興味がなかった。
「買ったの?」
「まさか。高校生が買える代物じゃないよ。これは親父の。昔バンドやってたみたいでさ」
「もらったんだ」
すると彼は複雑な表情で頷いた。その表情を不思議に思いながら「で?」と尋ねた。
「学祭、これで何かするの?」
「何かって、ギターだぞ。弾き語らないでどうするよ」
彼はいつものように八重歯を見せて笑った。そしてケースのポケットからクリアファイルを取り出す。ファイルには手書きの楽譜が収められていた。
「曲、作ったの?」
「そう。作ったの。俺ってすごいでしょ」
彼は言いながら右手に持ったピックを軽く振った。ペランと音が鳴る。
「それやろうと思ってんだけど、まだ歌詞ができなくてさぁ」
「作ればいいじゃん。パパッと」
七海が言うと彼は深くため息をついた。
「平原ってば、冷たい」
「なんでよ」
「わたしが作詞しようか、とか言ってほしいのに」
「……なんでよ」
「俺が困ってるから」
「だから?」
なおも聞き返すと、彼はもう一度ため息をついてやれやれと首を振った。
「友達なら助けるでしょうよ、普通」
「え、吉浦って友達だったの?」
「えっ!」
本気で言ったわけではなかったのだが、彼はひどく傷ついたような表情を浮かべた。そして落ち込んだように視線をギターに落としてしまう。
「うそ。冗談だってば。歌詞ね、うん。別にいいよ」
慌てて言いながら、七海はファイルを手に取った。隣で堪えたような笑い声が聞こえる。見ると、宗佑が口に手をあてて面白そうに笑っていた。まんまとやられたと悟り、七海は思い切り睨みつけてやる。
「まあまあ、そう怒りなさんな。歌詞、作ってくれるんだよね?」
釈然としないまま、七海は渋々頷く。しかし楽譜を見ただけでは曲がわからない。そう言うと彼は待ってましたとばかりにCDを取り出した。
「録音したから、それ聴いて作ってよ」
「……最初からそのつもりだったでしょ」
すると彼は声をあげて笑った。
宗佑の曲は彼らしく、明るくアップテンポな曲だった。これにどんな歌詞をつけろというのか。もちろん七海には一度だって歌詞を書いた経験などない。どのように作ればいいのかもわからない。その日から一週間、学校に行くことすらせずに七海は歌詞作りに没頭していた。
「できた?」
隣でギターケースを抱えた宗佑が目を輝かせてこちらを見ている。七海はそんな彼から目を逸らして海を見つめた。
「今日も穏やかだねえ」
「……できてないんだな」
宗佑は目を細めて眉間に皺を寄せると、深くため息をつく。
「知ってる? 学祭、二週間後だぜ」
「知ってるよ。つうかさ、歌詞なんて素人がそんなすぐに作れるわけないじゃん」
七海は少し頬を膨らませる。それを聞いて宗佑は微笑った。
「別に適当でいいんだって。ただ学祭で歌うだけなんだから」
「考えすぎて、その適当っていうのがすでにわかんない」
すると宗佑は「そうだなぁ」と視線を海へと移した。ちょうどフェリーは出航したばかりで、向かいに見える島へとまっすぐ進んでいる。どこかで汽笛が響いた。
「ここで、こうしてぼんやりしてるときに思ったこととか、そんな感じでいいんじゃね? 思いついた言葉を並べるだけでもいいし。ま、適当だよ。テキトー」
「テキトー、ねえ」
七海がため息混じりに言うと宗佑はギターケースを担いで立ち上がった。
「そ。テキトーに考えてよ。俺、今日はもう帰るからさ」
「来たばっかなのに?」
思わずそう言ってしまってから七海は口をつぐんだ。宗佑が含みのある笑みを浮かべている。
「なに、もしかして寂しい?」
「別に。ただ、いつもはくだらない話していくのになって思っただけ」
ごまかすように言うと、彼は首を左右に曲げた。コキッと骨の音がする。
「今日はちょっと忙しくてさあ」
「いつも思ってたんだけど、学校サボって何してるの」
「……バイトだよ」
七海は少し驚いて目を丸くした。前に智恵が同じことを聞いたときには笑ってごまかされたと言っていた。しかしバイトなら隠すようなことではない。学校の規則では禁止されているものの、内緒でしている生徒は多いはずだ。
不思議に思っているうちに彼は、じゃあな、と手を振って行ってしまった。その後姿を見て七海は怪訝に思う。歩く宗佑は右足を引きずっているように見えたのだ。怪我でもしているのだろうか。しかし、遠くなった彼に声をかけることはしなかった。
翌週、七海はなんとなく緊張した面持ちでベンチに座っていた。じっと彼の向こうにある芝生を見つめる。その近くのベンチでは休憩中なのだろうか、スーツ姿の中年の男が疲れた顔で座っていた。
「ふうん」
息を吐くような宗佑の声がした。視線を戻すと、八重歯を覗かせた笑顔がそこにあった。彼はおもむろにケースからギターを取り出すとボディの下部にコードを取り付け、反対側の先を小さなスピーカーのようなものに取り付けた。
「なにそれ。ちょっとボロそう」
「アンプ。もらい物だからな」
「弾くの?」
「弾くよ。音量絞ってやれば、迷惑にもならないだろ」
言いながら彼はアンプのつまみを回した。そして軽く弦を弾く。前に聞いたときとは違う、太く重みのある音が響いた。妙に感動しているうちに、宗佑はピックを振り始めた。自宅で何度も聞いた宗佑の曲に、七海の詞が乗る。どこか気恥ずかしく、同時に嬉しい気持ちになる。彼の歌声は柔らかく、心地よかった。
「どう?」
「あ、うん。いいんじゃない」
言いながらギターを見つめる。宗佑は不思議そうに首を傾げた。
「……それ、難しいの?」
「ギター?」
七海は頷いた。宗佑は小さく唸ってから、どうかな、と答えた。
「まあ楽器だから、練習は必要だろ。俺も、もらったばっかの頃は毎日弾いてたし」
「いつからやってるの」
「中学に上がった頃……。弾いてみたいの?」
「うん」
思わず頷いていた。初めて間近でギターの演奏を見たからかもしれない。彼がギターを弾く姿はとても魅力的に思えた。宗佑はストラップを外して七海にギターを差し出す。
「いいの?」
「弾きたいんでしょ」
なんとなく緊張しながら七海はギターを受け取り、ストラップをかける。そして渡されたピックを見様見真似で構えた。
「上から下に、ピック振ってみ」
言われるままに手首を動かすと、応えるように小さなアンプから音が出る。七海は思わず笑みを浮かべた。
「よし。じゃあ、簡単なコード押さえてみるか」
なぜか宗佑は嬉しそうに七海の前に立つと一緒になって弦を押さえた。コードを押さえても、なかなかその通りの音がでない。変な音が出るたびに二人で声を出して笑う。その時間はとても楽しく過ぎていった。
「平原! ちょっと、帰るのストップ!」
木曜日。いつものように昼休憩に帰ろうと下駄箱で靴を履いていると後ろから声が飛んできた。そこには息を切らせた宗佑が、なぜかギターケースを肩に担いで片手を挙げていた。
「なに、どうしたの。早く行かなきゃ先生に見つかっちゃうんだけど」
「いやいや、あんな堂々と正門から帰っておきながらそんなこと気にしてるのかよ。つうか、留年するぞ」
「しないよ。テストだってちゃんと受けてるし。しない程度にこうして学校来てる」
「そっか」
彼は控えめに微笑った。いつもと少し様子が違う。不思議に思っていると、彼はギターケースを差し出してきた。
「これさ、預かっててくれないかなぁと思って」
「わたしが?」
「ちょっと家に置いておけなくてさ。頼むよ。な?」
両手を合わせて拝むようにされては断わるわけにもいかない。七海はため息をついてそれを受け取った。
「学祭に持ってくればいいんだよね。けど、それまで練習は?」
「いいの、いいの。預かってる間、弾いてもいいぞ。あ、ついでにメンテもしといて」
「なんでわたしが」
七海は眉を寄せながら、メンテの仕方も知らないのに、と呟く。
「まあまあ、メンテ方法なんてネットでいくらでも出てくるって。頼んだからな。壊すなよ」
彼はそう言って八重歯を見せて笑った。それはもう、いつもの彼の笑顔と同じに見えた。
「学祭、練習不足でミスっても知らないからね」
宗佑は大丈夫だというように頷くと、校内へ戻って行った。
学祭当日、ギターを担いだまま七海は三組の教室へ向かった。中を覗くとすぐに智恵が気づき、声をかけてきた。
「吉浦、探してるんだけど」
すると彼女は驚いたように目を丸くした。
「もういないよ。昨日、転校して」
「えっ……」
呆然とする七海に智恵は気の毒そうに眉を寄せた。
「わたしたちも昨日、先生に聞かされて知ったんだけど。家庭の事情が複雑だったらしいんだよね」
「事情って?」
「うん。先生がこっそり教えてくれた話によると、父親の暴力がひどかったんだって。父親って言っても、義理の父親だったらしいんだけど。お母さんはしょっちゅう怪我してて、その治療費も父親は出さないから吉浦くんがバイトしてたんだってさ。ようやく離婚が成立して、お母さんと一緒に引っ越したって」
わたしたちも会えず仕舞いだったんだよ、という彼女の声は耳からすり抜けていった。
そんな話、聞いたこともなかった。しかし、思い出した彼の姿はいつも怪我をしていたように思う。腕の包帯も、足を引きずっていたのも、もしかすると父親からの暴力だったのだろうか。どうして言ってくれなかったのか。そう思うと同時に、どうして自分は気づかなかったのか。どうして聞こうとしなかったのか。そんな後悔が一気に七海の胸に押し寄せていた。
「それ、どうしたの」
智恵の言葉にはっと我に返る。彼女の目は七海の肩に向けられていた。
「ギター。吉浦の」
その途端、彼女は寂しそうに笑みを浮かべた。
「そういえば、個人参加するとか言ってたよね」
「うん。これ、預かっててさ。大事そうにしてたのに……」
「ふうん。そういえば、吉浦ってケータイも持ってなかったんだよね……」
七海はギターに視線を向けながら頷いた。
「でも大事な物なら、取りにくるんじゃないかな。落ち着いたら」
「そうかな」
そうだよ、と頷いた智恵はクラスメイトに呼ばれて行ってしまった。三組の教室は机が一列に並べられ、小分けされた駄菓子が置かれてあった。生徒たちは楽しそうに最後の準備に追われている。いつもと違う学校の雰囲気。その中で七海だけが取り残されている気分だ。肩がひどく重い。ギターはこんなにも重かっただろうかと、七海は一人俯いた。
祭りが始まった学校。盛り上がらないなりにも賑やかな雰囲気から抜け出して、七海は広場へと向かう。
火曜日。穏やかな午後。観光客もいない芝生広場。海はやわらかく凪いで、光を反射させている。
七海はいつものようにベンチに座った。二人掛けのベンチはひどく広い。たいしたことではない。少し前に戻っただけだ。小さく息を吐きながらギターケースを隣に置くと、その膨らんだポケットを開ける。中にはボロボロに使い込まれた教則本と楽譜が入ったファイル。それと、おそらくメンテナンスに使うものだろう道具が入っていた。
七海はファイルをめくる。最初のページには何度も聞いたあの曲の楽譜と詞が入っている。そこから詞だけを取り出すと握るように丸めてポケットに入れた。
ぼんやりファイルを眺めながら宗佑と最後に会ったときの言葉を思い出す。彼はきっとあのとき、転校することを知っていたのだろう。それを知りながら、このギターを七海に預けた。父親からもらったと、大切そうにしていたこのギターを。
七海はギターを取り出すとストラップを肩にかける。そしてピックを手に、ボロボロになった教則本を開いた。
新しく歌詞を書こう。そして、いつかまた会ったときに聞かせてやるのだ。ここで過ごした彼との時間を詞に乗せて、彼の曲を、彼のギターで。それを聞いて彼は笑うだろう。やんちゃそうに、八重歯を覗かせて。
右手のピックを軽く振った。アンプを通さないギターの音は、細く、薄く、沖から届いた汽笛の音に消えていった。吹いた風は秋の終わりを告げていた。
(了)




